数字の意味
翌朝、根古は可児署に向かった。
桐生隆一は署の一室に泊まっていた。雨月が手配した。ホテルに一人では危険だという判断だ。
血液検査の結果が出ていた。
雨月が根古に渡した。
「睡眠薬の成分が検出されました」雨月は言った。「市販のものではありません。医療用の強い薬です。大量に投与されれば、記憶の混乱を引き起こします」
「やはり」根古は言った。「誰かが飲ませた」
「そうなります」雨月は声を低くした。「根古さん、これは可児署だけで扱える案件ではなくなってきました。警察庁に報告する必要があります」
「報告する前に、一つだけ確認させてください」根古は言った。「桐生さんに会わせてもらえますか」
桐生は簡素な部屋で、窓の外を見ていた。
根古が入ると振り返った。昨日より顔色がいい。
「根古さん」桐生は言った。「また来てくれましたか」
「少し話しましょう」根古は椅子を引いた。「何か思い出しましたか」
「断片的に」桐生は言った。「東京の映像が少し戻ってきました。会議室、書類、パソコンの画面。でもまだ、つながらない」
「名前は」
「桐生という苗字は、なんとなく自分のものだと思います。下の名前は??まだはっきりしない」
「隆一さんです」
「隆一」桐生は繰り返した。「そうですか。しっくりくる気がします」
根古はポケットから数字の紙のコピーを出した。
「この数字を覚えていますか」
47・19・83・06・112
桐生は紙を見た。
しばらく動かなかった。
根古は待った。
「見たことがあります」桐生はやがて言った。「この数字、私が書いたわけではない。でも??誰かに渡されました。大事にしろと言われました」
「誰に渡されましたか」
「顔が見えない。でも??女の人だったと思います」
「有村沙織さんですか」
桐生は首を振った。「違います。知らない女の人です」
根古は署を出て、フェルナンド村田に電話した。
大阪にいるはずだが、フェルナンドはすぐ出た。
「根古さん、また可児で何かありましたか」フェルナンドは言った。
「数字の羅列を解読してほしい。47・19・83・06・112だ」
「そのまま読んでも意味がありそうにないですね」フェルナンドは少し間を置いた。「日付ですか。座標ですか。コードですか」
「分からない。内閣府の職員が持っていた」
「内閣府」フェルナンドの声が少し変わった。「CABINとして調べましょうか」
「頼めますか」
「もちろんです。ただ根古さん、内閣府絡みとなると??CABINも関係する可能性があります。慎重に動きます」フェルナンドは言った。「一時間ほどいただけますか」
「待ちます」
根古がラクカでコーヒーを飲みながら待っていると、工藤と秋月が来た。
二人は先週から可児に来ている。今回は宿を取った。腰を据えた様子だ。
「また始まりましたね」工藤は言った。
「始まった」
「内容は」
「内閣府の職員が記憶を失って可児に現れた」
工藤が手帳を出した。秋月が腕を組んだ。
「薬で記憶を混乱させられた可能性があります」根古は続けた。「血液検査で医療用の睡眠薬が出た。誰かが意図的にやった」
「誰がやったか見当はつきますか」秋月が言った。
「黒田省吾という男が浮かんでいる。元通産省官僚、現在はシンクタンク代表。桐生さんが調べていた人物だ」
「シンクタンクの名前は」工藤が書きながら言った。
「まだ聞いていない」根古は有村に電話した。
有村はすぐ出た。
「黒田省吾のシンクタンクの名前を教えてください」
「日本政策未来研究所です」有村は言った。「港区に事務所があります」
「分かりました」根古は電話を切った。工藤に伝えた。
工藤がすぐに調べ始めた。
三十分後、工藤が顔を上げた。
「日本政策未来研究所、調べました」工藤は手帳を見た。「設立は七年前。代表は黒田省吾、六十一歳。理事に元官僚や学者が名前を連ねています。表向きは経済政策の研究機関です」
「裏向きは」
「資金の流れが不透明です。海外からの寄付が多い。具体的な出所は分かりませんが??香港経由の資金が入っているという話をネットで見つけました。ただし信頼性は不明です」
「香港経由」秋月が言った。「中国系の資金が香港を通じて入ってくるのは、よくある経路だ」
「黒田本人の経歴は」根古は言った。
「通産省出身、エネルギー政策の専門家です。退官後、いくつかの企業の顧問を経て、シンクタンクを設立しました。海外との繋がりが多い人物です。中国、韓国、東南アジアの政府関係者との会合に頻繁に出席しています」
一時間後、フェルナンドから連絡が入った。
「根古さん、数字の件ですが??一つ可能性が出てきました」フェルナンドは言った。「47・19・83・06・112、これをそのまま読むのではなく、別の角度から見ると」
「どういうことですか」
「47と19は、それぞれ日本の法律の条番号かもしれません。83と06は年号です。昭和八十三年は存在しませんが、平成六年は一九九四年です。そして112は??」
「何ですか」
「内部文書の管理番号です」フェルナンドは言った。「平成六年に作成された、特定の政府文書の番号です。CABINのデータベースに照合しました。該当する文書が一件あります」
「どんな文書ですか」
「通産省が平成六年に作成した、エネルギー政策に関する極秘文書です」フェルナンドは少し声を落とした。「ただし??その文書、現在は存在しないことになっています」
「存在しないことになっている」
「記録から消えています。でも作成された記録だけが残っている。誰かが意図的に消したと思われます」フェルナンドは言った。「根古さん、平成六年の通産省といえば??黒田省吾が在籍していた時期です」
根古はラクカを出た。
工藤と秋月もついてきた。
外の空気が冷たい。十月の可児の朝は、もう冬に近い。
「整理します」工藤は歩きながら言った。「黒田は平成六年、通産省在籍中に極秘文書を作った。その文書が記録から消えている。桐生さんはその文書の存在を掴んだ。だから黒田側に消された」
「消されかけた、が正確だ」根古は言った。「桐生さんは生きている。ただ記憶を奪われた」
「なぜ殺さなかったんでしょう」秋月が言った。
「内閣府の職員を殺せば、大事になる」根古は言った。「記憶を奪って放置すれば、自然に処理される。本人も何があったか分からない。証言もできない」
「でも桐生さんはここに来た」工藤は言った。「根古を探せという言葉だけを持って」
「誰かが桐生さんに教えた」根古は言った。「薬を飲まされる前に、誰かが桐生さんに言った。もし何かあったら、可児の根古を頼れ、と」
「その誰かが、知らない女の人だと桐生さんは言っていました」工藤は言った。「有村さんではない女性」
三人は少し黙って歩いた。
紅葉が始まった山が、朝の光を受けている。
「根古さん」秋月が静かに言った。「その女性が、この件のキーパーソンかもしれません」
「そう思う」根古は言った。「桐生さんの記憶が戻れば、顔が分かる。戻らなくても??別のルートで探せるかもしれない」
昼前に、有村が根古の事務所に来た。
今日は昨日より表情が固い。
「根古さん、一つ報告があります」有村は言った。「警察庁に報告したところ、上から待てと言われました」
「待て、というのは」
「調査を止めろということです」有村は根古を見た。「桐生の件は内部で処理する、外部の人間を関わらせるな、と言われました」
「上というのは誰ですか」
「直接の上司ではありません。もう一つ上からの指示です」有村は言った。「根古さん、私は今、自分の組織を信用できるか分からなくなっています」
「黒田の影響が、内閣府の中にまで入っているということですか」
「可能性があります」有村は根古を見た。「だから??私は個人として動こうと思っています。組織の指示に関係なく」
「リスクがあります」
「分かっています」有村は言った。「でも桐生は私の同僚です。三年間、一緒に働いてきました。放っておけない」
根古はヤマトを見た。
ヤマトは有村を見ていた。今日は少し近づいている。昨日より警戒が薄い。
「一つ聞かせてください」根古は有村に言った。「桐生さんに根古を頼れと言った女性、心当たりはありますか」
有村は少し考えた。
「一人だけ、可能性がある人がいます」有村は言った。「桐生と以前から個人的に繋がっていた女性です。名前は??神崎綾乃といいます」
「どんな人物ですか」
「元公安の人間です。三年前に退職しています」有村は根古を見た。「退職後の行方は、誰も知りません」
夕方、澪が事務所で調べ物をしていた。
根古が戻ると、澪は顔を上げた。
「根古さん、神崎綾乃という人物、調べました」
「早いな」
「有村さんが来たとき、名前が気になって」澪はメモを見た。「公安出身、三年前退職、それ以降の記録はほぼありません。でも一つだけ出てきたことがあります」
「何だ」
「退職前の最後の案件が、日本政策未来研究所の調査でした」澪は根古を見た。「黒田省吾の組織です。神崎さんは三年前、黒田を調べていた。でも調査は突然打ち切られました。理由は不明です。そして神崎さんは退職しました」
「調査を潰された」根古は言った。「そして退職して、独自に動き始めた」
「そう思います」澪は言った。「根古さん、神崎さんは今も黒田を追っているんじゃないですか。三年間、一人で」
根古は煙草を取り出した。
「桐生さんに根古を頼れと言ったのは、神崎さんだ」根古は言った。「なぜ俺の名前を知っていたかは分からないが??俺に繋げようとした。つまり」
「つまり」澪は続きを促した。
「神崎さんは今、根古さんのことを見ている可能性があります」澪は自分で続けた。「近くにいるかもしれない」
根古は窓の外を見た。
可児の夕暮れが、山を赤く染めている。
「出てきてくれるといいが」根古は静かに言った。
その夜、根古の携帯に非通知の電話が入った。
夜の十一時過ぎだ。
「根古さんですか」
女の声だ。低く、落ち着いている。
「そうです」
「神崎です」女は言った。「桐生が可児に着いたと聞きました。無事ですか」
「記憶を失っていますが、体は無事です」
「そうですか」女は少し息を吐いた。「よかった。私の判断が正しかった」
「あなたが桐生さんに俺を頼れと言ったんですか」
「はい」神崎は言った。「根古さんのことは、以前から調べていました。信用できる人間だと判断しました」
「なぜ俺だったんですか」
「可児という町で、根古さんが動いてきた案件を調べました」神崎は言った。「五十年前の炎、雨と暗号、金庫と絵筆。どれも根こそぎ動いている。そして??あなたは権力に媚びない」
「それだけですか」
「あなたのお父さんの話も聞きました」神崎は静かに言った。「昌也さんは誰かに頼まれたら、黙って動く人だったそうです。息子も同じだと思いました」
根古は少し間を置いた。
「会えますか」根古は言った。
「会います」神崎は言った。「ただ??今夜は無理です。私を探している人間がいます。明日の朝、場所を指定します」
「分かりました」
「根古さん」神崎は言った。「桐生が持っていた数字の意味は分かりましたか」
「平成六年の極秘文書の管理番号だと聞きました」
「そうです」神崎は言った。「その文書を、私は持っています」
電話が切れた。
ヤマトが根古の膝に乗ってきた。
「神崎綾乃」根古は黒猫に言った。「三年間、一人で黒田を追ってきた女だ。公安出身で、退職して、それでも止まらなかった」
ヤマトは根古の顔を見た。
「明日、会う」根古は言った。「どんな人間か、見てみる」
外の風が、窓を揺らした。
十月の可児の夜は、もう冬の匂いがした。




