山中の男
十月の可児は、山が色づき始める。
御嵩の稜線に赤と黄が混じり、朝の空気が冷たくなる。
夏の重さが消えて、澄んだ光が町に戻ってくる。根古はこの季節が、一年で一番好きだった。
その朝、根古の携帯に電話が入ったのは、七時過ぎだった。
山本彩織からだ。
「根古さん、少し来ていただけますか。御嵩の山中です。妙な人が見つかりまして」
「怪我は」
「ありません。ただ??自分の名前が言えないんです」
御嵩の登山道の入口から少し入ったところに、パトカーが一台止まっていた。
山本と若い制服警官が、男の前にいた。
男は岩に腰かけていた。五十代、スーツ姿だ。ネクタイが少し緩んでいる。
靴が泥だらけだ。顔に擦り傷がある。夜通し山の中にいたのかもしれない。
根古が近づくと、山本が小声で言った。「朝の六時ごろ、登山者が発見しました。
話せますが、名前が言えない。どこから来たかも分からないと言っています。
財布も携帯も何もない。スーツのポケットにこれだけがありました」
山本が小さな紙を差し出した。
白い紙に、数字が書いてある。
47・19・83・06・112
「手書きですか」
「印刷です。誰かが渡したのか、本人が印刷したのか分かりません」
根古は男の前にしゃがんだ。
「根古といいます。探偵をやっています」根古は静かに言った。「名前は言えますか」
男は根古を見た。疲れた目だが、焦点は合っている。
「……分かりません」男は言った。「自分の名前が、どこかへ行ってしまった感じがします」
「どこから来たか分かりますか」
「分かりません」男は手を見た。
「でも??ここに来なければならないと思った。この山に来なければならないと思った。なぜかは分かりません」
「この山に、心当たりがあったんですね」
「そうだと思います」男は根古を見た。「あなたは誰ですか」
「根古といいます」
「根古さん」男は繰り返した。「その名前、なぜか安心します」
男を可児署に連れて行った。
雨月が待っていた。平が医療チェックを手配した。
医師の診察の結果、外傷は軽微。記憶障害の可能性があるため、精密検査を勧められた。
「解離性健忘の可能性があります」医師は言った。
「強いストレスや衝撃で、一時的に記憶が失われることがあります。脳に器質的な問題はなさそうです」
「戻りますか」雨月が聞いた。
「時間が経てば戻る場合が多いです。ただ??何がきっかけで失われたかによります」
根古は署の応接室で男と向き合った。
男は温かいお茶を両手で持って、少し落ち着いている。
「何か思い出しますか。断片でも」
「断片はあります」男は言った。
「東京にいた気がします。会議室のような場所。たくさんの人がいた。でも顔が見えない」
「仕事の場面ですか」
「そう思います。でも何の仕事か分からない」男は少し間を置いた。
「一つだけ、はっきり覚えていることがあります」
「何ですか」
「誰かに言われました。根古を探せ、と」
根古は静かに聞いた。
「それだけですか」
「それだけです。根古を探せ。可児に行け。それだけが、頭の中に残っています」
根古が応接室を出ると、雨月が待っていた。
「スーツのブランドを調べました」雨月は言った。
「高級品です。オーダーメイドに近い。一般的なサラリーマンが着るものではありません」
「靴も高かった」根古は言った。「泥だらけだったが、元は良い靴だ」
「指紋を照会しています。ただ??」雨月は声を低くした。
「照会したところで、データベースに登録がなければ分かりません」
「登録がない可能性があるか」
「政府関係者や特定の職種は、照会できないケースがあります」雨月は根古を見た。
「根古さん、あのポケットの数字??何だと思いますか」
「まだ分からない」根古は言った。「でも誰かが渡した数字だとすれば、意味がある」
昼前に、澪から連絡が入った。
「根古さん、事務所に女の人が来ています。根古さんを探していると言っています」
「名前は」
「有村沙織と言っています。内閣府から来たと言っています」
根古は少し止まった。
「待たせておいてくれ。今行く」
事務所に戻ると、有村沙織がソファに座っていた。
三十四歳。黒いスーツ、短く切った髪。背筋が伸びている。
ヤマトが足元にいるが、有村は視線だけ向けて、触ろうとしない。
根古が入ると、有村は立ち上がった。
「根古親司さんですか」
「そうです」
「有村沙織です」有村は名刺を出した。内閣府の名刺だ。肩書きは「特命担当調査官」とある。
「桐生隆一という人物を探しています。今朝、御嵩の山中で発見されたと聞きました」
「どこで聞きましたか」
「それは申し上げられません」有村は根古を見た。目が鋭い。感情が見えない。
「桐生は今、可児署にいますか」
「なぜ俺に聞くんですか。署に直接行けばいい」
「署に行く前に、あなたと話したかった」有村は言った。
「桐生がここに来た理由は、あなたを探すためだと思っています」
「なぜそう思うんですか」
「桐生がここに来る前に、根古という名前を何度か口にしていた、という情報があります」
有村は根古を真っ直ぐ見た。「根古さん、桐生隆一という人物をご存知ですか」
「知りません。今朝初めて会いました」
「そうですか」有村は少し間を置いた。「桐生は内閣府の職員です。私の同僚です。三日前から行方不明でした」
「内閣府の職員が、なぜ可児の山中にいたんですか」
「それを調べています」有村は言った。「根古さん、一つお願いがあります」
「何ですか」
「桐生の記憶が戻るまで、彼のそばにいていただけますか」有村は根古を見た。
「桐生は根古という名前に反応しています。あなたのそばなら、記憶が戻りやすいかもしれない」
「俺は探偵でもないし。護衛でも医者でもありません」
「分かっています」有村は言った。
「でも??桐生はあなたを探してここに来た。
何か理由があるはずです。その理由を知りたいのは、根古さんも同じではないですか」
根古はヤマトを見た。ヤマトは有村を見ていた。
有村には近づかない。珍しい。
「条件があります」根古は言った。
「何ですか」
「あなたが知っていることを、全部話してもらう。
内閣府の職員が可児の山中で記憶を失った理由を、知っている限り話してもらう」
有村は少し間を置いた。
「話せる範囲で」有村は言った。
「全部です」根古は言った。「話せる範囲なら、俺は動きません」
有村は根古を見た。長い沈黙があった。
それからゆっくり頷いた。
「分かりました」有村は言った。「全部話します」
有村が話し始める前に、根古は澪に目配せした。
澪は静かにお茶を持ってきて、そのまま奥の部屋に引っ込んだ。
根古は有村と向き合った。
「桐生隆一は内閣府の中でも、特定の調査を担当していました」有村は言った。
「公にはなっていない調査です」
「どんな調査ですか」
「日本国内における外国資本の浸透調査です」有村は静かに言った。
「特定の政治家や官僚が、外国の利益のために動いているかどうかを、内部から調べていました」
「スパイの調査か」
「そう言ってもいい」有村は頷いた。
「桐生は三ヶ月前から、ある人物に注目していました。黒田省吾という男です」
「名前は聞いたことがない」
「元通産省の官僚です。現在は民間のシンクタンクを運営しています。
表向きは政策研究の組織ですが??実際には特定の外国資本と繋がっている疑いがありました」
「どこの資本ですか」
「中国系です」有村は言った。
「ただし??中国だけではなかった。複数の国の資本が、黒田を通じて日本の政策決定に影響を与えようとしていた」
「桐生はそれを掴んだ」
「掴みかけていた」有村は言った。「三日前、桐生から私に連絡がありました。
決定的な証拠を手に入れた、と。でもその後、連絡が途絶えました」
「記憶を失った状態で、可児に現れた」
「はい」有村は根古を見た。「ポケットの数字は見ましたか」
「見ました」
「あの数字が何を意味するか、私には分かりません。
でも??桐生がわざわざあの数字を持っていたということは、重要な意味があるはずです」
有村の話が終わったとき、根古は少し考えた。
ヤマトが有村から離れて、根古の足元に来た。
「桐生さんは自分で記憶を消したんですか」根古は言った。
「それとも誰かに消されたんですか」
有村は少し目を細めた。「どういう意味ですか」
「解離性健忘は強いストレスで起きると医師が言った。
でも強いストレスだけでは、ここまで完全に記憶が消えることは珍しい。薬物を使えば、記憶を一時的に混乱させることができます」
有村は黙っていた。
「桐生さんの血液検査はしましたか」根古は言った。
「……していません」有村は静かに言った。
「今すぐしてください。雨月警部補に話を通します」根古は立ち上がった。
「有村さん、あなたは桐生さんの記憶が戻ることを望んでいますか」
「当然です」
「本当に当然ですか」根古は有村を見た。
「桐生さんが証拠を持っていた。その証拠が、誰かにとって都合が悪い。
記憶が戻れば、桐生さんは再び動き始める。それを止めたい人間が、あなたの周囲にいる可能性があります」
有村の表情が、かすかに変わった。
「……考えていませんでした」有村は静かに言った。
「考えておいてください」根古は言った。
「俺が動くのは、桐生さんのためです。内閣府のためではない」




