絵筆と星空
八月に入る前の週、可児は最後の猛暑を迎えていた。
根古の事務所のエアコンが、唸りを上げて回っている。ヤマトは今日も床に腹をつけて伸びていた。
澪が冷たい麦茶を持ってきた。
「根古さん、虎之助さんのテルアビブ行き、決まりましたか」
「レヴィが手配している。来月になりそうだ」
「奈緒さんも一緒ですか」
「ああ。奈緒さんが喜んで、というより張り切って動いているらしい」
「良かったです」澪は麦茶を一口飲んだ。「フェルドマンさんの女性、どんな人なんでしょうね。八十歳で、祖父の絵をずっと探していた」
「会えば分かる」
「根古さんも行けばいいのに」
「俺が行く理由がない」
「あります」澪は真顔で言った。「根古さんのお父さんも、あの廃工場の話に間接的に関わっていたかもしれません。昌也さんとエルンストさんが知り合いだった可能性があります」
根古は少し考えた。
「それは虎之助から聞いていない」
「でも虎之助さんが最初に根古という名前を出したのは、お父さんのことを知っていたからじゃないですか」
根古は麦茶を飲んだ。
「行かない」
「なぜですか」
「俺がいなくなったら、この町で何か起きたときに困る」
澪は少し黙ってから言った。「それは確かにそうですね」
その日の午後、雨月から連絡が入った。
「氷室達也の件、検察に送致しました。不法侵入と恐喝の疑いです。ロシア側との関係についても、公安が動いています」雨月は言った。「コワレンコの件は、愛知県警とNSAが共同で処理します。日本での立件は難しいですが、国際的な情報共有という形で動きます」
「コワレンコの家族は」
「北村さんから聞きました。移動が始まっています。時間がかかりますが、動いているようです」
「よかった」根古は言った。
「根古さん」雨月は少し間を置いた。「今回の件、可児署としても関われた部分があって??良かったと思っています」
「雨月は動きが早い。助かった」
「褒められると困ります」雨月は言った。「平が調子に乗りますから」
「平巡査長は調子に乗らない人間だ」
「そうなんですよ」雨月は苦笑した。「あの人、何を言っても動じなくて??正直、頼りにしています」
夕方、ラクカに温泉仲間が集まった。
今日は根古が呼んだ。
長曾我部、松平、加藤、ロドリゲス、ムハンマド、織田、西野。それに太田。
根古は今回の件を、話せる範囲で話した。
廃工場の金庫、エルンスト・キリシマ、美術品の返還。桐島虎之助が七十年間抱えてきた秘密。
全員が黙って聞いた。
話し終えると、松平が言った。「俺の神社の石灯籠の下にボリスが証拠を隠して、廃工場の金庫にエルンストが美術品を隠して??この町の地面の下には、いったい何が埋まっているんだ」
「まだあるかもしれないな」加藤が言った。
「縁起でもない」長曾我部が言った。
「でも出てきたものは、ちゃんと届いた」西野が静かに言った。「それが大事だ」
全員が頷いた。
太田がコーヒーをおかわりしながら言った。「桐島さんという人、一度会ってみたいな。四十年可児で絵を描いてきた人だろ。どんな人か」
「穏やかな老人です」根古は言った。「でも目が少し違う」
「どう違う」
「長い時間を生きてきた人間の目です」
太田は少し考えてから頷いた。「今度、店に招待していいか」
「聞いてみます」
翌日の朝、根古は虎之助のアトリエを訪ねた。
今日は奈緒もいた。テーブルに書類が広がっている。パスポートの申請書類や、航空券の確認書類だ。
「準備が進んでいますね」根古は言った。
「奈緒が全部やってくれています」虎之助は嬉しそうに言った。「私は言われた通りにサインするだけです」
「お父さんが自分でやると言って聞かないんです」奈緒は笑った。「パスポートの申請、ご自分で窓口に行くと言って」
「八十二歳で初めてパスポートを作る」虎之助は言った。「それくらい自分でやりたい」
「止めませんでした」奈緒は言った。「一緒に行ってきます」
根古はアトリエの壁を見た。
裏返しになっていた絵が、元に戻っていた。
「絵を戻したんですね」根古は言った。
「戻しました」虎之助は壁を見た。「これは私が四十年かけて描いてきたものです。隠し事をしながら描いたのは確かですが??この風景は本物です。可児の山も、木曽川も、本物です。それは恥じることではないと思いました」
「そうですね」根古は言った。
「根古さん」虎之助は根古を見た。「一枚、差し上げたいものがあります」
「いただけません」
「遠慮しないでください」虎之助は立ち上がり、壁の絵を一枚取った。「昨夜描き直しました。廃工場の絵です。今回の件を、形に残しておきたかった」
根古は絵を受け取った。
廃工場の内部が描かれていた。差し込む光、金庫の扉、その前に立つ小さな老人の後ろ姿。老人の手に、小さな光が描かれている。
「あなたの後ろ姿です」虎之助は言った。「あの日、扉の前に立ったとき、こう見えました」
「俺はすぐ後から入りました。先にいたのは虎之助さんです」
「でも、光はあなたが持ってきた」虎之助は静かに言った。「そう思っています」
根古は絵を見た。
何も言えなかった。
その夜、根古は事務所に絵を飾った。
壁に一枚。廃工場の絵。
ヤマトが絵の前に座って、じっと見た。
「気に入ったか」根古は言った。
ヤマトは返事をしなかった。ただ見続けた。
九月の初め、虎之助と奈緒がテルアビブに飛んだ。
空港に見送りに行ったのは、根古と澪とレヴィだった。
出発ゲートの前で、虎之助は根古に言った。「根古さん、あなたのお父さんのこと、一つだけ話しておきます」
「聞かせてください」
「エルンストが死ぬ少し前に、昌也さんと二人で話したことがあります。私は子供で、隅で聞いていた」虎之助は根古を見た。「エルンストが昌也さんに言いました。もしヴァルターが大人になって困ったことがあれば、助けてやってくれと。昌也さんは頷いて、言いました。任せてくれ、と」
「父が」
「でも私はその約束を使わずに生きてきた。誰にも頼らずに七十年過ごした。でも結局??昌也さんの息子に助けてもらいました」虎之助は微笑んだ。「約束は守られましたね。七十年越しに」
根古は何も言えなかった。
虎之助が根古の手を両手で握った。老いた、温かい手だった。
「ありがとうございます」虎之助は言った。「昌也さんにも、よろしく伝えてください」
飛行機が飛び立った後、澪が言った。
「根古さん、泣いていますか」
「泣いていない」
「目が赤いです」
「暑いんだ」
「空港の中は涼しいです」
「黙れ」
澪は少し笑った。
レヴィが根古の隣に立った。「根古さん、今回の件、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、こうはならなかった」
「動いただけです」
「それが大事なんです」レヴィは言った。
根古は空を見た。飛行機はもう見えない。
終章 夏の終わり
九月の可児は、急に涼しくなった。
朝晩に風が出て、虫の声が変わった。夏が終わる気配が、空気の中にある。
木下千恵の動物病院に、ヤマトの定期健診で行った。
「問題なしです」千恵は言った。「この猫、本当に健康ですね」
「丈夫な猫だ」
「根古さんに似ています」千恵は笑った。「どちらもタフで、どちらも強がりで」
「千恵さん、俺は強がっていない」
「そうですか」千恵は笑い続けた。
ラクカで工藤から電話が入った。
「根古さん、横浜に戻っていますが??また可児に行っていいですか」
「何故だ」
「秋月さんが行くと言って聞かないんです。一人で行かせると心配なので」
「秋月に電話してくれ。俺から話す」
工藤が替わった。
「秋月さん、何の用ですか」
「用はない」秋月は言った。「ただあの町の空気が、たまに吸いたくなる」
根古は少し黙った。
「来い」根古は言った。「ラクカで待っている」
「ああ」秋月は言った。「工藤も連れて行く」
「分かった」
鳴海美佑がブログに記事を書いた。
廃工場の件ではない。可児の夏の風景を書いた記事だ。木曽川の流れ、御嵩の山、夕暮れの色。
記事の最後にこう書いた。
この町には、見えないところに何かが眠っている。それは怖いものじゃなくて、むしろ温かいものだと最近思う。誰かが大切に守ってきた何かが、眠っている。そしてたまに、それが目を覚ます。
根古はその記事を偶然読んで、少し考えてから閉じた。
うまいことを書く、と思った。
江戸川勉が事務所に来た。
二十五歳の若い私立探偵は、少し日焼けしていた。
「根古さん、一つ相談があります」江戸川は言った。
「何だ」
「私、可児に事務所を開こうと思っています」
根古は江戸川を見た。
「なぜだ」
「横浜より、面白いことが起きるからです」江戸川は真剣な顔で言った。「この夏で確信しました。可児という町は、深い」
「深さと面白さは別物だ」
「根古さんにとっては同じじゃないですか」
根古は少し黙った。
「好きにしろ」根古は言った。
「ありがとうございます」江戸川は頭を下げた。「根古さんのそばで、学ばせてください」
「俺は師匠じゃない」
「澪さんも弟子じゃないと言いながら弟子ですよね」
「澪は弟子じゃない」
「でも毎日来ています」
「……好きにしろ」根古は言った。
夕方、根古は実家の仏間に寄った。
線香を立てた。
「虎之助さんから聞いた」根古は静かに言った。「エルンストと約束したんだな。任せてくれ、と言ったんだな」
線香の煙が細く上がった。
「七十年越しだが、届いた」根古は続けた。「お前の約束を、俺が果たした。正確に言えば、俺と澪と工藤と秋月と雨月と、たくさんの人間が動いて果たした」根古は少し間を置いた。「一人ではなかった。そういう意味では、お前も一人ではなかった。最初から」
ヤマトが根古の隣に来て座った。
「お前が言いそうなことは分かっている」根古はヤマトに言った。「当たり前だ、とでも言いたそうな顔をしている」
ヤマトは根古を見た。
それから小さく一声、鳴いた。
今日は珍しく声を出した。
根古は線香が燃え尽きるまで、そこにいた。
秋月と工藤が可児に来たのは、九月の中頃だった。
ラクカで四人で座った。根古、秋月、工藤、澪。
太田がコーヒーを出した。
「また来ました」工藤は言った。
「分かっている」根古は言った。
「また何か起きそうですか」
「さあ」根古は窓の外を見た。秋の可児の空が高い。「起きたら動く」
「それだけですか」秋月が言った。
「それだけだ」
澪が言った。「でも必ず起きますよね、この町では」
「必ず起きる」太田がカウンターから言った。
「縁起でもない」根古は言った。
全員が笑った。
太田が笑いながらコーヒーをおかわりした。
可児の秋の空が、窓の外に広がっていた。




