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金庫を開ける日

 翌朝、根古は早起きした。

 六時前に事務所を出て、一人で廃工場に向かった。

 夏の朝は明るいが、空気がまだ柔らかい。一時間もすれば容赦ない暑さになる。

 廃工場の周囲を一周した。

 昨夜、誰かが来た痕跡があった。工場の裏手の雑草が踏まれている。足跡が複数。三人以上だ。

 金庫の扉を確認した。触られた形跡がある。ハンドル周辺の錆が、昨日より少し崩れている。誰かが試みた。でも開けられなかった。

 根古は煙草を一本吸って、事務所に戻った。


 朝八時、ラクカに全員が集まった。

 工藤、秋月、澪、レヴィ、雨月、平。鳴海も来た。太田がモーニングコーヒーを黙々と出した。

「昨夜、氷室側が廃工場に入ろうとした」根古は言った。「開けられなかったが、今日また来る可能性がある。明後日を待てない。今日開ける」

「準備は」レヴィが言った。

「金庫の専門家に心当たりがあります」工藤が言った。「横浜の知り合いで、古い金庫の解錠ができる人間がいます。昨夜のうちに連絡しました。今朝の新幹線で来ます。名古屋で拾えます」

「よくやった」根古は言った。「雨月、立会人として来てもらえますか」

「もちろんです」雨月は頷いた。「平も連れて行きます」

「氷室の動きを誰かが見ていなければならない」

「私が見ます」鳴海が言った。「昨夜の写真もあります。動きがあればすぐ連絡します」

「気をつけてくれ。昨夜の連中は本物だ」

「分かっています」鳴海はスマートフォンを握った。「でも、行きます」


 午前中、根古は虎之助に電話した。

「今日開けます。来られますか」

 虎之助は少し間を置いてから言った。「行きます。奈緒も連れて行っていいですか」

「どうぞ」

「根古さん」虎之助は静かに言った。「昨夜、夢を見ました」

「どんな夢ですか」

「父のエルンストが出てきました。何も言わなかった。ただ笑っていました」虎之助は言った。「良い夢だったと思います」


 昼前に工藤が名古屋から戻ってきた。

 連れてきたのは五十代の小柄な男だった。

「桑田といいます」男は言った。工具の入った鞄を持っている。職人の手をしている。「古い金庫は得意です。戦時中のものなら、だいたい構造が分かります」

「お願いします」根古は言った。


 午後一時、廃工場に全員が集まった。

 根古、工藤、秋月、澪、レヴィ、雨月、平、桑田、虎之助、奈緒。

 十人が廃工場の薄暗い中に入った。

 夏の熱気が建物の中に籠っている。天井の崩落部分から光が差し込んでいる。

 虎之助は奈緒に支えられて歩いた。金庫の扉の前に来ると、立ち止まった。

 しばらく扉を見た。

「七十年ぶりです」虎之助は静かに言った。「父と最後にここに来たのが、終戦の年でした。私は五歳でした。父に手を引かれて、この扉の前に来た。父が鍵をかけて、私に言いました。この場所を覚えておけ、と」

 奈緒が虎之助の手を握った。

「開けましょう」根古は桑田に言った。


 桑田は鞄から道具を出した。

 金庫の扉を丁寧に調べた。ハンドルの周囲、鍵穴、蝶番の位置。

「戦時中の国産金庫です」桑田は言った。「構造は分かります。鍵がなければ、少し時間がかかりますが??」

「お願いします」

 桑田は作業を始めた。

 全員が黙って見ていた。

 廃工場の中が静まり返った。外から蝉の声が聞こえる。

 二十分ほどかかった。

 かちり、と音がした。

 ハンドルが動いた。

 桑田がゆっくりハンドルを回した。重い音を立てて、扉が開いた。


 中は暗かった。

 雨月がライトを当てた。

 奥行き三メートルほどの空間だ。壁に棚が作られている。棚の上に、木箱が並んでいる。大小様々、十数個。どれも丁寧に梱包されている。

 埃が積もっているが、保存状態は良さそうだ。温度管理された空間だったからだ。

「開けていいですか」レヴィが虎之助を見た。

 虎之助は頷いた。

 レヴィが一番手前の木箱に近づいた。慎重に蓋を外した。

 中に、布に包まれた平たいものが入っていた。

 レヴィは布を丁寧に開いた。

 絵画が現れた。

 縦六十センチ、横四十センチほどの油絵だ。ヨーロッパの風景が描かれている。川沿いの町、夕暮れの空、橋の上に人影。

 レヴィは絵を見た。しばらく動かなかった。

「根古さん」レヴィは静かに言った。「これはフランスの画家の作品です。十九世紀末のものです。本物であれば??」

「本物です」虎之助が言った。「父が大切にしていた絵です。ユダヤ系フランス人の収集家から預かったものです。その人はパリで死にました。でも娘が生きているはずです。返してやってください」

 レヴィは絵を持ったまま、目を閉じた。


 木箱を一つずつ開けていった。

 絵画が七点。彫刻が三点。装飾品が数点。古い書類の束。

 レヴィはすべてを確認しながら、タブレットに記録を取っていった。

「全部で十四点です」レヴィは言った。「来歴の確認が必要ですが??おそらくすべて、戦時中にナチスに奪われるおそれのあった美術品です。正当な所有者の遺族を探して、返還手続きを踏みます」

「時間がかかりますか」根古は言った。

「数年かかるものもあります。でも必ず返します」レヴィは虎之助を見た。「桐島さん、エルンストさんの遺言を、七十年越しに果たせます」

 虎之助は絵を一枚、手に取った。川沿いの町の絵だ。

「父が一番好きだった絵です」虎之助は言った。「何度も見せてくれました。この橋の上で、所有者のフェルドマンさんと写真を撮ったと言っていました。戦争が終わったら、一緒にパリに行こうと約束したそうです」

「行けなかった」奈緒が静かに言った。

「行けなかった」虎之助は繰り返した。「でも絵は帰れる。それで良い」


 そのとき、根古の携帯が鳴った。

 鳴海からだ。

「根古さん、氷室が動きました。車三台、廃工場に向かっています。あと十分もしないうちに着きます」

「分かった」根古は電話を切って、雨月を見た。

「聞こえました」雨月はすでに平に目配せしていた。「対処します」

「俺も外に出る」根古は言った。

「根古さん」秋月が言った。「中は俺と工藤で守ります」

「頼む」根古は澪を見た。「お前は虎之助さんと奈緒さんのそばにいろ」

「分かりました」澪は頷いた。今日は素直だ。


 根古と雨月と平が外に出た。

 廃工場の前の雑木林の入り口に、車が三台止まった。

 氷室が降りてきた。その後ろに、体格の良い男が四人。外国人だ。

 氷室は根古を見て、一瞬止まった。

「根古さん、もう開けたんですか」氷室は笑顔を作った。「早い。私も立ち会いたかった」

「立会人は揃っています」根古は言った。「あなたの出る幕はない」

「そう言わずに」氷室は一歩踏み出した。後ろの四人も動いた。

「氷室達也さん」雨月が前に出た。警察手帳を出した。「可児署の雨月です。少し話を聞かせてください。昨夜、不法侵入の疑いがあります」

 氷室の表情が変わった。

「不法侵入とは人聞きが悪い」

「昨夜この廃工場に入りましたね」雨月は静かに言った。「土地の所有者は桐島虎之助さんです。許可を取りましたか」

 氷室は黙った。

「後ろの方々も、少し話を聞かせてください」雨月は四人の外国人を見た。「入国の目的と、滞在先を確認したい」

 四人が顔を見合わせた。

 氷室が何か言おうとした。

 そのとき、もう一台の車が来た。

 パトカーだ。

 平が無線で呼んでいた。

 氷室は状況を見た。警察が二台、雨月と平が正面にいる。廃工場の中に根古たちがいる。

 観念したように、氷室は肩を落とした。

「分かりました」氷室は静かに言った。「話します」


 廃工場の外で、氷室が話した。

 雨月が記録を取った。

 氷室の話は、根古が把握していた内容とほぼ一致していた。ただ一つ、根古が知らなかったことがあった。

「ロシア側の窓口になっていた男は」氷室は言った。「ウクライナ戦争が始まってから、急に連絡が増えました。美術品の話は以前からありましたが、今年に入って本格的に動くよう指示が来た」

「その男の名前は」根古は言った。

「スラフ・コワレンコといいます。ウクライナ出身ですが、今はロシア側についている男です」

 根古はレヴィを見た。レヴィは静かに頷いた。知っている名前だ、という顔だった。

「コワレンコは今どこにいますか」根古は言った。

「名古屋のホテルにいます」氷室は言った。「私を通じて情報を得ていた。今日の動きも、コワレンコの指示です」


 雨月が氷室と外国人四人を署に連行した後、根古はレヴィに聞いた。

「スラフ・コワレンコ。知っているか」

「知っています」レヴィは静かに言った。「ウクライナ出身の美術ブローカーです。戦争が始まってから、ロシア側の資金調達に関わっています。美術品の闇取引が、その一つです」

「ダニロに連絡すべきだ」

「そうですね」レヴィは言った。「でも??ダニロが動けるかどうか」

「動けなくても、情報は届けるべきだ」根古は携帯を取り出した。

 ダニロの番号を呼び出した。

 しばらく呼び出し音が続いた。

 出た。

「根古さん」ダニロの声は、先月より少し疲れていた。「何かありましたか」

「スラフ・コワレンコという名前を知っているか」

 沈黙があった。

「知っています」ダニロは低い声で言った。「今、私たちが追っている人物の一人です」

「名古屋にいる」

 また沈黙があった。今度は少し長かった。

「根古さん」ダニロはやがて言った。「詳しく話してもらえますか」


 廃工場の中では、虎之助が一枚一枚の絵を手に取って見ていた。

 奈緒が隣に座っている。

 秋月と工藤は少し離れて立っていた。澪が虎之助のそばにいた。

「この絵はウィーンの画家の作品です」虎之助は一枚の絵を見ながら言った。「オーストリアのユダヤ人家族が所有していた。一家は全員、収容所で死にました。でも絵は残った」

「誰に返すんですか」澪は言った。

「子孫を探します。いれば返す。いなければ、美術館に寄贈する」虎之助は絵を戻した。「父はそう言っていました。持ち主に返せなければ、多くの人に見てもらえる場所に置け、と」

「エルンストさんは良い人でしたね」澪は静かに言った。

「良い人でした」虎之助は言った。「でも悲しい人でもありました。ユダヤ人として生まれたことで、いつも追われていた。日本に来ても、戦争中は隠れなければならなかった。それでも人の大切なものを守ろうとした」

 澪は黙って聞いていた。

「父が死んだとき、私は十歳でした」虎之助は続けた。「泣きながら父に言いました。一人にしないでくれと。父は言いました。お前は一人じゃない。絵の中に、たくさんの人がいる。その人たちと一緒にいろ、と」

 虎之助は壁の棚を見渡した。

「七十年間、そうしてきました」虎之助は言った。「でもそろそろ、絵を本当の場所に返さなければならない」


 夕方、廃工場の前に一台の車が来た。

 レヴィが手配した美術品輸送の専門業者だ。美術品を安全に保管・輸送するための特殊な車両だ。

 木箱が一つずつ、丁寧に運び出された。

 虎之助は全部が運び出されるまで、廃工場の前に立っていた。

 奈緒がそばにいた。

 最後の木箱が車に積まれたとき、虎之助は廃工場を見た。

 崩れかけた建物、錆びたトタン屋根。七十年間、秘密を守ってきた場所。

「父が選んだ場所です」虎之助は言った。「良い場所でした」

 車が走り去った。

 虎之助は廃工場に向かって、深く頭を下げた。

 長い礼だった。


 夜、ラクカに集まった。

 今夜は温泉仲間も来ていた。長曾我部、松平、加藤、ロドリゲス、ムハンマド、織田。西野薫も来た。木下千恵も顔を出した。

 太田がカウンターでコーヒーを淹れ続けた。

 虎之助と奈緒も来た。

 根古が虎之助を紹介すると、温泉仲間たちが口々に挨拶した。

「桐島さんの絵、画廊で見たことありますよ」ロドリゲスが言った。「木曽川の絵でしたか。きれいな絵でした」

「ありがとうございます」虎之助は穏やかに言った。

「また描けそうですか」根古は言った。

 虎之助は少し考えた。

「描けると思います」虎之助は言った。「今夜、久しぶりに描きたいと思いました。荷物が下りた気がします」

「良かったです」奈緒は目を細めた。

「何を描きますか」澪が聞いた。

「廃工場を描こうと思います」虎之助は言った。「誰も描かないうちに」

 笑いが起きた。

 太田がコーヒーを配りながら、静かに笑った。


 夜遅く、根古は一人で事務所に戻った。

 ヤマトが机の上で待っていた。

 根古はダニロからの返信を確認した。

スラフ・コワレンコの情報、受け取りました。関係機関に共有します。根古さん、ありがとうございます。祖父が眠る星の下から、感謝を送ります。ダニロ

 根古は携帯を置いた。

 ヤマトが根古の手に頭を押しつけた。

「また星の話だ」根古は黒猫に言った。

 ヤマトは答えない。

 根古は窓を開けた。

 夏の夜、可児の空に星が出ていた。

 ボリスが好きだった星と、同じ星だ。

 根古は少しの間、空を見ていた。



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