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堤防の人物

 翌朝六時五十分、根古は木曽川沿いの堤防に着いた。

 七月の朝は、すでに暑い。川面に朝靄が薄く漂っている。堤防の草が露で光っている。

 人影はなかった。

 根古は堤防の上を歩いた。ヤマトは事務所に置いてきた。澪には今朝は来なくていいと言った。珍しく素直に頷いた。代わりに「携帯を切らないでください」と言った。

 七時になった。

 まだ誰も来ない。

 根古は川を見た。木曽川の水が、夏の光を受けてゆっくり流れている。

「根古さん」

 背後から声がした。

 振り返ると、六十歳くらいの男が立っていた。中肉中背、白髪混じりの短髪。メッセージを送った人物にしては、穏やかな顔をしている。

「レヴィ・中村ですか」根古は言った。

 男は少し目を見開いた。「なぜ分かりましたか」

「モーシェ・吉田から話を聞いた。来るとすればあなただと思った」

 レヴィ・中村は根古の隣に並んで、川を見た。

「モーシェさんと繋がっているとは思いませんでした」レヴィは言った。「この町は、思ったより複雑ですね」

「毎回そう言われる」


 二人は堤防の草の上に並んで座った。

 レヴィは鞄から薄いファイルを取り出した。

「桐島虎之助の本名です」レヴィはファイルを根古に渡した。「正確には??本名だったかもしれない名前です」

 根古はファイルを開いた。

 古い書類のコピーが入っている。ドイツ語と日本語が混在している。

「ヴァルター・キリシマ」根古は読んだ。「ドイツ語の名前か」

「父親がドイツ系ユダヤ人でした」レヴィは言った。「母親が日本人。桐島という苗字は、母親の苗字です。本名はヴァルター・桐島。昭和十五年生まれ」

「戸籍の記録と生年が一致する」

「そうです。ただし??戦時中、ユダヤ系であることを隠す必要があった。ドイツと日本は同盟国でしたが、国内でユダヤ系であることは危険でした。母親の一族が、ヴァルターの記録を戸籍から消した。戦後、改めて虎之助という日本名で戸籍を作り直した」

「では桐島虎之助は実在の人物だ。成りすましではなく、自分の出自を隠していた」

「そうです」レヴィは川を見た。「ただし??もう一つ事情があります」


 レヴィは続けた。

「ヴァルターの父親、つまり桐島虎之助の父親は、ドイツ系ユダヤ人の美術商でした。戦前に日本に渡ってきた。名前はエルンスト・キリシマ。この男が、戦時中に複数のユダヤ系収集家の美術品を預かっていました」

「ナチスから守るために」

「そうです。ヨーロッパからアジアに逃げてきたユダヤ人の中には、財産として美術品を持ち出してきた人々がいました。エルンストはその美術品を、知人の軍関係者と交渉して、御嵩の廃工場に隠しました。場所を知っているのはエルンストと、その軍関係者だけでした」

「その軍関係者が、本物の桐島家の人間だった」

「御嵩の廃工場を管理していた一族です」レヴィは根古を見た。「エルンストは終戦直後に亡くなりました。病死です。美術品の在り処を知っているのは、幼いヴァルターだけになった」

「八十二歳の老人が、七十年以上秘密を守ってきた」根古は静かに言った。

「そうです。おそらく虎之助さん自身、どうすれば良いか分からなかった。父から引き継いだ秘密を、誰に話せばいいか分からないまま、画家として生きてきた」レヴィは言った。「そして三週間前、廃工場に入った。何かが彼を動かした」

「何が動かしたと思いますか」

「氷室達也です」レヴィは静かに言った。


 根古は少し目を細めた。

「氷室が動いたから、虎之助が廃工場に行った」

「そうだと思います」レヴィは言った。「氷室は半年前から、戦時中の美術品の行方を調べていました。エルンスト・キリシマの記録を辿って、可児に辿り着いた。虎之助さんにも接触しようとした痕跡があります」

「虎之助はそれを知って、自分で確認しに行った」根古は言った。「まだそこにあるかどうかを」

「あって、固まった」レヴィは言った。「七十年以上、抱えてきた秘密が、まだそこにあった。それが虎之助さんを止めた」

 根古は川を見た。

「氷室の依頼人は誰ですか」

「表向きは美術品の返還を求めるユダヤ系の遺族です。ただ??」レヴィは少し間を置いた。「本当の依頼人は別にいます」

「誰ですか」

「ロシアの美術ブローカーです」レヴィは静かに言った。「ウクライナ戦争の混乱の中で、美術品の闇取引が増えています。正式な返還手続きを踏まず、闇に流したい人間が動いています。氷室はその橋渡し役です」

 根古は煙草を取り出した。

 また、ロシアか。

「ダニロに連絡すべきかもしれませんね」根古は独り言のように言った。

「ダニロ・クラフチェンコをご存知ですか」レヴィが言った。

「先月会った」

「そうですか」レヴィは少し考えた。「ダニロが動けるかどうかは分かりません。ウクライナは今、余裕がない。でも??情報は共有すべきかもしれません」


 堤防を離れる前に、根古はレヴィに聞いた。

「あなたの立場は何ですか。誰の依頼で動いていますか」

「国際ホロコースト美術品返還委員会という組織です」レヴィは言った。「営利目的ではありません。戦時中に失われた美術品を、正当な所有者の遺族に返すことが目的です」

「その組織が可児の金庫を把握していたのですか」

「エルンスト・キリシマの記録を追っていました。可児に何かあると分かったのは、最近のことです」レヴィは根古を見た。「根古さん、お願いがあります」

「何ですか」

「虎之助さんを説得してほしい。金庫を開けることに同意してほしい。正式な手続きを踏めば、美術品は適切に返還されます。闇に流されることはない」

「虎之助が簡単に頷くとは思えません」

「そうですね」レヴィは立ち上がった。「でも??あの方は七十年以上、一人で抱えてきた。そろそろ下ろしていい荷物だと思います」


 事務所に戻ると、工藤と秋月がいた。澪も来ていた。

 根古はレヴィから聞いた話をまとめて話した。

 工藤が手帳に書きながら聞いた。秋月が腕を組んで聞いた。澪がメモを取りながら聞いた。

「整理すると」工藤が言った。「桐島虎之助の本名はヴァルター・桐島。ドイツ系ユダヤ人と日本人のハーフ。父親のエルンストが戦時中に美術品を廃工場に隠した。虎之助はその場所を知っていて、七十年以上秘密を守ってきた」

「氷室達也は美術商を装っているが、実際はロシアの美術ブローカーの代理人」秋月が言った。「美術品を闇に流したい」

「レヴィ・中村は正規の返還委員会の人間で、適切な手続きを踏みたい」澪が言った。「根古さんは虎之助さんを説得する役割ですか」

「そうなる」根古は言った。

「虎之助さんは何を恐れているんでしょう」澪は言った。「開けないほうがいいと言った。困る人間がいると言った。その困る人間というのは誰ですか」

 根古は少し考えた。

「虎之助本人だと思っていたが??違うかもしれない」根古は言った。「エルンストから美術品の隠し場所を聞いた人間が、もう一人いたとしたら」

「本物の桐島家の人間ですか」工藤が言った。「廃工場を管理していた一族の」

「廃工場の土地の名義が、虎之助になっているのはなぜか」根古は言った。「本物の桐島家から、何らかの事情で虎之助に移った。その経緯に、何か秘密がある」


 昼過ぎ、鳴海美佑から連絡が入った。

「根古さん、廃工場の件、ブログで書いていいですか」鳴海は言った。

「待ってくれ」根古は言った。「今は書かないほうがいい」

「どうしてですか」

「動いている最中だ。書かれると、困る人間が動く」

「氷室達也という男のことですか。昨日から可児をうろついています。私のブログのコメント欄に、廃工場の情報を求める書き込みが来ていました」

「それは消しておいてくれ」

「消しました」鳴海は言った。「でも根古さん、その書き込み、東京のIPアドレスからです。氷室さんが自分で書いたのかもしれません」

「情報収集をしている」根古は言った。「鳴海さん、一つ頼みがある」

「何ですか」

「氷室の動きを見ていてくれますか。どこに行くか、誰と会うか。ただし??近づきすぎるな。あの男は危ない」

「分かりました」鳴海は少し間を置いた。「根古さん、こういうの、ちょっと探偵の助手みたいで嬉しいです」

「ブロガーだ。勘違いするな」


 夕方、根古は一人で桐島虎之助のアトリエを再度訪ねた。

 今日は奈緒に連絡せずに来た。

 アトリエのドアをノックすると、虎之助が開けた。根古を見て、少し驚いた顔をしたが、中に招き入れた。

 アトリエは昨日と同じだ。でも一つ変わっている。

 壁に立てかけてあった絵が、すべて裏返しになっていた。

「絵を裏返したんですか」根古は言った。

「見たくなくなりました」虎之助は椅子に座った。「昨日根古さんと話してから、見たくなくなった」

「なぜですか」

「この風景を四十年描いてきた」虎之助は裏返しの絵を見た。「でも本当のことを隠したまま描いていた。それが嫌になった」

 根古は対面に座った。

「ヴァルター・桐島さん」根古は静かに言った。

 虎之助の体が、小さく震えた。

 しばらく動かなかった。

 それからゆっくり根古を見た。

「誰から聞きましたか」

「レヴィ・中村という人物から。今朝会いました」

 虎之助は長い息を吐いた。「レヴィが来たか。そうですか」虎之助は目を閉じた。「もう終わりですね」

「終わりではありません」根古は言った。「始まりかもしれない」


 虎之助は目を開けた。

「根古さん、一つ話していいですか」

「どうぞ」

「父のエルンストは、美術品を隠したとき、こう言いました」虎之助は静かに言った。「いつか戦争が終わる。そのときに、本当の持ち主に返してほしい。お前が生きていれば返せる。お前が死んでいれば、誰か信頼できる人間に頼め、と」虎之助は根古を見た。「私は戦争が終わっても返せなかった。どうすれば良いか分からなかった。誰を信頼すればいいか分からなかった。そのまま七十年経ってしまいました」

「今からでも返せます」

「そうでしょうか」虎之助は老いた手を見た。「八十二歳です。遅すぎませんか」

「遅くない」根古は言った。「父のエルンストが最初に動いた。それが七十年越しに今ここに繋がっている。遅いことはない」

 虎之助は根古を見た。

 長い沈黙があった。

「廃工場の土地が私の名義になっているのは」虎之助はやがて言った。「本物の桐島家の最後の一人が、戦後まもなく亡くなるとき、私に渡してくれたからです。エルンストと約束した、と言って」

「本物の桐島家の人間も、エルンストとの約束を守っていた」

「ええ」虎之助は頷いた。「でもその子孫が今、困る人間になっています」

「桐島家の子孫が今もいるんですか」

「一人います」虎之助は静かに言った。「氷室達也という男の母親が、桐島家の出身です」


 根古は少し止まった。

 氷室達也の母親が、本物の桐島家の出身。

 氷室は美術商として現れたが、実は桐島家の血を引く人間だった。

「氷室は自分でそれを知っているか」根古は言った。

「知っています」虎之助は言った。「氷室は半年前に私を訪ねてきました。桐島家の子孫だと名乗って、金庫の中身を渡せと言いました。そうでなければ、あなたの正体を公にすると言いました」

「脅しだ」

「ええ」虎之助は静かに言った。「でも私は断りました。エルンストの遺言は、正当な所有者に返すことです。氷室に渡すことではない」

「それで氷室は別の手を打った。ロシアのブローカーと組んで、強引に金庫を開けようとしている」

「そうだと思います」虎之助は根古を見た。「根古さん、私は一人では戦えません。八十二歳では無理です。でも??レヴィが来て、根古さんが来た。父が言っていた信頼できる人間というのは、こういう人たちのことかもしれないと思いました」

 根古は煙草を取り出した。アトリエの中なので、手の中で転がすだけにした。

「金庫を開けることに同意しますか」根古は言った。

「はい」虎之助は静かに言った。「根古さんが立ち会ってくれるなら」


 アトリエを出ると、夕暮れが迫っていた。

 西の空が赤く染まっている。

 根古は歩きながら携帯を取り出した。レヴィに電話した。

「虎之助さんが同意しました」

「本当ですか」レヴィの声に安堵が滲んだ。「いつ開けますか」

「明後日の朝にしましょう。準備がいる」根古は言った。「ただし??氷室には知らせるな。当日まで動きを悟られないほうがいい」

「分かりました」

「それと??雨月警部補にも話を通す。正式な立会人が必要だ」

「助かります」レヴィは言った。「根古さん、ありがとうございます」

「礼は後でいい」根古は電話を切った。


 その夜、氷室達也のホテルの部屋に電話が入った。

 ロシア語で話す男の声だった。

「明日中に動け」男は言った。「根古という探偵が、レヴィと接触した。手続きを踏まれると面倒になる」

「分かっています」氷室は言った。「でも廃工場の金庫は、虎之助の同意がないと??」

「同意は要らない」男は静かに言った。「金庫を開けて、中身を出せ。それだけだ。難しいことではない」

 氷室は少し黙った。

「根古が邪魔をしたら」

「根古を止めろ」男は言った。「方法は任せる」

 電話が切れた。

 氷室は窓の外の可児の夜を見た。

 ??美術商として来るはずだったのに、気がつけばずいぶん深いところに来てしまった。

 氷室は静かにため息をついた。

 もう後には退けない。


 同じ夜、根古の事務所に澪から連絡が入った。

「根古さん、鳴海さんから連絡がありました。氷室が今夜、誰かと会いました」

「誰と」

「可児市内の古い倉庫で、三人の男と会っています。鳴海さんが遠くから確認しました。全員、外国人のようだと言っています」

「ロシア側が動いてきた」根古は立ち上がった。「鳴海さんに、すぐその場所を離れるよう言ってくれ。近づくな」

「もう離れています。写真も撮っています」

「写真は??後で見る。今夜は動くな。全員、明日の朝まで待て」

 根古は電話を切った。

 ヤマトが根古の顔を見上げた。

「明日は忙しくなる」根古は黒猫に言った。「お前は事務所にいろ」

 ヤマトは返事をせずに、根古の足元に座った。

 離れない、という意思表示だと、根古は知っていた。


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