消えた記録
翌朝、工藤と秋月が可児に戻ってきた。
ラクカで根古と合流した。澪がお茶を運ぶのを、太田が黙って見ている。
「早かったな」根古は言った。
「昨夜のうちに出ました」工藤は鞄から資料を出した。「秋月さんが急げと言って」
「気になったら動く」秋月は涼しい顔で言った。「それだけだ」
根古は資料を見た。工藤が横浜で集めた桐島虎之助の調査結果だ。
「戸籍の件、もう少し詳しく話せ」
「はい」工藤は手帳を開いた。「桐島虎之助、昭和十五年生まれ、可児市内出身となっています。でも国民学校の入学記録がない。昭和二十一年に入学のはずですが、どこにも記録がありません。昭和三十年に可児市内の住民票が作られていますが、それ以前の記録が県内のどこにもない」
「戸籍を作った」根古は言った。
「そう思います。戦後の混乱期は、戸籍の記録が失われたケースが多い。その隙間に紛れ込むことができた時代です」工藤は続けた。
「ただ??完全に別人というわけでもないかもしれません。桐島という苗字が、実際に可児にあった一族の名前と一致している。その一族の記録を調べると、戦時中に御嵩の廃工場の管理に関わっていた」
「本物の桐島一族と、何らかの繋がりがある」秋月が言った。
「可能性があります」工藤は根古を見た。「根古さん、桐島虎之助本人に会いましたか」
「まだだ。今日会いに行くつもりだ」
午前中、根古は奈緒に電話した。
「父に会わせてもらえますか。探偵として、ではなく??ただの近所の人間として」
「どういうことですか」
「正直に行くより、まず人間を見たい。構えさせたくない」
奈緒は少し考えてから言った。
「分かりました。今日の昼過ぎに、父はアトリエにいます。私が連れて行きます」
桐島虎之助のアトリエは、自宅の離れにあった。
木造の小さな建物。窓が大きく、光がよく入る。
壁に絵が何枚か立てかけてある。可児の山の風景、木曽川の流れ、御嵩の森。どれも丁寧に描かれた、穏やかな絵だ。
老人は椅子に座って、窓の外を見ていた。
八十二歳。小柄で、白髪をきちんと撫でつけている。顔の皺が深い。穏やかな顔だ。でも根古は最初に目を見た。
目が、顔と少し合っていない。
穏やかな顔の奥に、別の何かがある。長年かけて穏やかな顔を作ってきた人間の目だ。
「桐島さん、根古といいます」根古は言った。「近所の者です」
「ああ」虎之助は根古を見た。「探偵の根古さんですか」
根古は少し止まった。
「知っていますか」
「奈緒から聞きました」虎之助は静かに笑った。
「隠しても仕方がない。娘が心配して探偵を頼んだ。それは分かっていました」
根古は椅子を引いて座った。奈緒は入口で待っている。
「絵を描かなくなったと聞きました」
「そうですね」虎之助は壁の絵を見た。
「描けなくなった、というより??何を描けばいいか分からなくなった」
「廃工場に行ってから」
虎之助は根古を見た。目が少し動いた。
「娘から聞きましたか」
「金庫の扉の前に立っていたと」
虎之助は長い間、黙っていた。窓の外で蝉が鳴いている。
「根古さん」虎之助はやがて言った。「あなたのお父さんは昌也さんですか」
根古は静かに答えた。「そうですが」
「知っていました」虎之助は言った。
「根古昌也さんの息子が探偵をやっていると、前から聞いていました」虎之助は根古を真っ直ぐ見た。「昌也さんとは、若い頃に少し縁がありました」
根古は表情を変えなかった。
また父の名前が出た。この町で何かを調べるたびに、昌也という名前が出てくる。
「どんな縁ですか」
「直接の知り合いではありません。昌也さんの兄の知り合いでした」虎之助は言った。
「父に兄はいません。一人っ子でした」
虎之助は少し止まった。
「そうでしたか」虎之助は静かに言った。「失礼しました。人違いかもしれません」
根古は黙って虎之助を見た。
嘘をついた。虎之助は今、嘘をついた。根古には分かった。嘘をつくとき、人は一瞬だけ目の焦点が変わる。虎之助の目が、ほんの一瞬だけ変わった。
「廃工場の金庫の扉を見て、何を思いましたか」根古は話を戻した。
虎之助は少し考えてから言った。「昔のことを思い出しました」
「昔というのは」
「戦争中のことです」虎之助は窓の外を見た。「私は子供でしたが、あの頃のことはよく覚えている。この辺りでも、いろいろなことがありました」
「廃工場に、何かあると知っていましたか」
虎之助は答えなかった。
沈黙が続いた。
蝉の声がひときわ大きくなった。
「根古さん」虎之助はやがて口を開いた。「あの金庫を開けようとしていますか」
「依頼によっては動きます」
「開けないほうがいい」虎之助は静かに言った。怒っているのでも、脅しているのでもない。ただ静かに言った。「開けると、困る人間がいます」
「あなたですか」
虎之助は根古を見た。
「私だけではありません」虎之助は言った。
アトリエを出ると、澪が外で待っていた。
「どうでしたか」澪は言った。
「面白い老人だ」根古は煙草に火をつけた。
「嘘をついた。でも脅しはしなかった。開けないほうがいいと言った」
「なぜ開けないほうがいいんですかね」
「それが分かれば話が早い」根古は空を見た。入道雲が湧いている。「父の兄の知り合いだと言った」
「根古さんのお父さんに兄はいないんですよね」
「いない。でも虎之助は知っていて言った。昌也という名前を出してから、慌てて軌道修正した」根古は煙草を吸った。「父と虎之助の間に、何か繋がりがある」
昼過ぎ、根古がラクカに戻ると、見知らぬ男が入口の前に立っていた。
五十五歳、銀縁眼鏡、高そうなスーツ。この暑さでネクタイを締めている。
「根古親司さんですか」男は言った。
「氷室達也と申します。東京から来ました。美術商をしております」
根古は男を見た。昨夜、桐島の家の前を通った車の運転手だと、根古はまだ知らない。
「何の用ですか」
「桐島虎之助さんについて、お話しがあります」氷室は名刺を差し出した。
東京の画廊の名刺だ。「根古さんが桐島さんの件を調べていると聞きました」
「どこで聞きましたか」
「この町は狭い」氷室は笑った。愛想のいい笑顔だが、目が笑っていない。「少しお時間をいただけますか」
ラクカの奥のテーブルで、根古と氷室が向き合った。
太田がアイスコーヒーを二つ持ってきて、さりげなく近くの棚を整理し始めた。
根古は太田がそこにいることを確認した。
「廃工場の金庫のことをご存知ですか」氷室は単刀直入に言った。
「知っています」
「中に何が入っているか、ご存知ですか」
「知りません。あなたは知っているんですか」
氷室はアイスコーヒーを一口飲んだ。
「美術品が入っています。戦時中に隠されたものです」
「どんな美術品ですか」
「ヨーロッパの絵画です」氷室は根古を見た。
「主にユダヤ系の収集家が所有していたものです。戦時中、ナチスに接収される前に、一部が日本に流出しました。その一部が??あの金庫に眠っています」
根古は黙って聞いた。
「価値は」
「分かっているものだけで、数十億円です」氷室は静かに言った。
「分からないものを含めれば、もっとかもしれません」
「なぜ可児の廃工場に」
「当時の軍の関係者が、保管を引き受けたのだと思われます。終戦で混乱し、そのまま忘れられた」氷室は少し身を乗り出した。
「根古さん、私はその美術品の正当な返還を求める依頼人を持っています。元の所有者の遺族です。金庫を開けて、中身を確認し、返還の手続きを踏みたい」
「桐島虎之助が邪魔をしているということですか」
「邪魔というか??桐島さんが何か知っている。でも話してくれない」氷室は根古を見た。
「根古さんに桐島さんと話をつけていただきたい。金庫を開ける許可を取ってほしい」
「なぜ桐島に許可を取る必要があるんですか。あの廃工場は誰の所有物ですか」
氷室は少し止まった。
「それが??複雑な事情がありまして」
「複雑な事情を話してください」根古は静かに言った。「全部話してもらわないと、動けません」
氷室はしばらく根古を見た。それから観念したように、少し背もたれに体を預けた。
「廃工場の土地の所有者は、戸籍上、桐島虎之助になっています」
根古は少し目を細めた。
「桐島が所有者か」
「名義上は。ただし??」氷室は声を低くした。
「桐島虎之助という人物が、本当に桐島家の人間かどうか、疑わしいと私は思っています」
氷室が帰った後、太田がカウンターから出てきた。
「聞いとったぞ」太田は言った。
「知っている」根古は言った。「どう思う」
「あの男、全部話してないな」太田は腕を組んだ。
「美術品の返還とか言っとるが??金の匂いがする。返還より、自分が欲しいんじゃないか」
「俺もそう思う」根古はアイスコーヒーを飲んだ。
「ただ??廃工場に美術品があるという話は、本当かもしれない」
「どうする」
「桐島虎之助をもう少し調べる」根古は立ち上がった。
「太田さん、レヴィ・中村という人間を知っているか。美術品の来歴を調べる専門家だと聞いたことがある」
「知らんな」太田は首を振った。「でも??」太田は少し考えた。
「モーシェさんなら知っとるかもしれんぞ。その手の話は、あっちの繋がりがあるだろう」
根古は頷いた。
夕方、根古はモーシェに電話した。
節子が出て、すぐにモーシェに替わった。
「根古さん」モーシェは穏やかな声で言った。「また何かありましたか」
「レヴィ・中村という人物を知っていますか。美術品の来歴調査の専門家です」
モーシェは少し間を置いた。
「知っています」モーシェは静かに言った。
「ユダヤ系日本人で、ホロコーストで失われた美術品の追跡を専門にしている。信用できる人物です」根古は少し間を置いた。「ただ??」
「ただ」
「その人物が動いているということは、可児に本物の絵画があるということです」モーシェは静かに言った。
「根古さん、戦時中にヨーロッパからアジアに流出した美術品の話は、私も少し知っています。可児にそれがあるとしたら??放っておけない人間が、複数いるはずです」
「すでに美術商が来ました」
「美術商だけではないかもしれません」モーシェは言った。「根古さん、気をつけてください。美術品の争奪は、時に命がけになります」
夜、根古の事務所に一通のメッセージが届いた。
差出人の名前はない。メールアドレスも使い捨てのものだ。
文面はこうだった。
根古親司様。桐島虎之助の本名を知りたければ、明日の朝七時、木曽川沿いの堤防に来てください。一人で。
根古はメッセージを三度読んだ。
ヤマトが机に乗ってきて、画面を覗き込んだ。
「お前は来るな」根古は言った。
ヤマトは根古の顔を見た。それから画面をひと叩きして、机から降りた。
根古は煙草に火をつけた。
夏の夜、可児に虫の声が満ちていた。
第三話へ続く
氷室の思惑、虎之助の隠された正体、そして謎のメッセージと、第三章も複雑に絡み合ってきました。




