廃工場の発見
七月に入った最初の週、可児は一気に夏になった。
気温が三十六度を超えた日の午後、根古の事務所にエアコンの風が虚しく回っていた。ヤマトは冷たい床に腹をつけて伸びている。澪は窓の外の入道雲を眺めてぼんやりしている。
根古は依頼の書類を整理していた。先月からの分だ。犬の迷子は三日で解決した。
隣人トラブルの聞き込みが一件。行方不明の自転車が一件。
平和だ、と根古は思った。
平和というのは、長続きしない。
そう思った五分後に、ドアがノックされた。
入ってきたのは四十八歳の女性だった。
落ち着いた服装だが、顔色が悪い。暑さのせいだけではなさそうだ。目の下に隈がある。
「桐島奈緒と申します」女性は名刺を出した。可児市内の住所だ。「父のことで相談があります」
ヤマトが起き上がり、奈緒の足元に歩いて行った。座った。
「どうぞ」根古は椅子を勧めた。
奈緒が話した内容は、こうだった。
父の桐島虎之助は八十二歳。可児市内で四十年以上、画家として暮らしている。
山の風景画を専門とし、地元では知られた存在だ。
個展も何度か開いている。穏やかで、近所の評判も良い。
その父が三週間前、御嵩の外れにある廃工場に一人で入り込んだ。
「廃工場というのは」根古は言った。
「戦時中に軍の物資を保管していた建物だと聞いています。今は誰も使っていない。立入禁止の看板が出ています」奈緒は続けた。
「父はスケッチに出かけると言って出ていきました。でも帰りが遅いので迎えに行ったら??廃工場の中にいて、壁の前でじっと立っていました」
「怪我は」
「ありませんでした。でも様子がおかしかった。声をかけても返事をしない。まるで固まったようでした」奈緒は手を組んだ。
「連れて帰ると、家に着いた途端に元に戻りました。ケロッとして、晩ご飯を食べて、いつも通りに寝ました」
「医者には」
「翌日かかりつけに連れて行きました。特に問題なしと言われました。認知症の検査もしましたが、異常なしでした」
「廃工場の何を見ていたんですか」
奈緒は少し間を置いた。
「壁の前に、古い金属の扉がありました。金庫のような扉です。父はその前に立っていました」奈緒は根古を見た。「それだけなら、ただの出来事です。でも??」
「でも」
「その夜から父が変わりました」奈緒は静かに言った。
「絵を描かなくなりました。四十年以上、毎日筆を持っていた父が、三週間一度も描いていません。食欲もない。夜中に起きて、何かをぶつぶつ言っている」奈緒は根古を見た。
「昨夜、父の部屋を覗いたら??父がアルバムを見ていました。古いアルバムです。私は見たことのないものでした。閉じるのが早くて中身は見えませんでした」奈緒は少し声を落とした。
「根古さん、父が何かを隠していると思います。あの廃工場で何かを見た。それが父を変えた」
根古はその日の夕方、御嵩の外れに向かった。
澪がついてきた。止める気力が暑さで失われていた。
廃工場は雑木林の中に建っていた。赤茶けたトタン屋根、崩れかけたコンクリートの壁。立入禁止の看板が傾いている。
「古いですね」澪が言った。「戦時中というと、昭和十年代ですか」
「そのくらいだろう」
根古は立入禁止の看板を一瞥して、中に入った。澪がすぐ後に続いた。
中は薄暗い。天井の一部が崩落して、夏の光が差し込んでいる。埃と錆の匂い。
コンクリートの床に、長年の落ち葉が積もっている。
「広いですね」澪が言った。「何を保管していたんでしょう」
「軍の物資だと奈緒さんは言っていたが??」根古は壁を見ながら歩いた。
「それにしては、造りが丁寧すぎる」
「どういうことですか」
「壁が厚い。天井も高い。物資の倉庫なら、こんな造りにする必要はない」根古は壁を叩いた。
しっかりした音がした。「温度管理を考えた造りだ」
澪が首を傾げた。
根古は奥に進んだ。
奥の壁に、金属の扉があった。
縦一メートル、横八十センチほど。重厚な鉄製で、中央に円形のハンドルがついている。
金庫の扉だ。錆が浮いているが、扉そのものはしっかりしている。
「これが父親を固まらせた」根古は扉の前に立った。
ハンドルに手をかけた。回してみた。動かない。鍵がかかっている。
扉の周囲を確認した。隙間がある。密閉はされていない。
根古は扉に耳を当てた。
かすかに、空気が動く音がした。
「中に空間がある」根古は言った。「それなりの広さだ」
「何が入っているんでしょう」澪は扉を見た。
「それが問題だ」根古は立ち上がった。
「桐島虎之助という男が、この扉を見て固まった。四十年筆を離さなかった男が絵を描かなくなった。この扉が、その理由だ」
事務所に戻ると、工藤俊一から電話が入っていた。
先月横浜に帰ったはずの工藤だ。
「根古さん、また可児に来てもいいですか」工藤は言った。
「何故だ」
「実は??桐島虎之助という画家について、横浜で少し調べたんです」
根古は少し間を置いた。「なぜ桐島を調べた」
「秋月さんが気になると言ったんです。可児を離れる前に、地元の画廊で桐島さんの絵を見ました。秋月さんが絵を見て、妙な顔をしたんです。元刑事の勘だと言って、横浜に帰ってから調べ始めて??少し分かったことがあります」
「話せ」
「電話では言いにくい内容です」工藤は少し声を低くした。
「根古さん、桐島虎之助という人物、戸籍を調べると??昭和三十年以前の記録がありません」
根古は煙草を取り出した。
「生まれは」
「昭和十五年生まれとなっています。でも昭和三十年以前の記録がない。学校の記録も、住民票の記録も、何もない」工藤は言った。
「昭和三十年に突然、可児市内に現れたような人物です」
「成りすましか」
「可能性があります。それと??」工藤は一息ついた。
「桐島という苗字を調べたら、戦時中に可児で軍の物資管理をしていた一族の名前と一致しました」
根古は窓の外の夏空を見た。
「来い」根古は言った。「秋月も連れて来い」
その夜、桐島虎之助の家の前を、一台の車がゆっくり通った。
東京ナンバーだ。
車の中で、氷室達也は桐島の家を確認した。五十五歳の美術商、銀縁眼鏡に高そうなスーツ。
助手席に書類が積まれている。
「やはりここにいたか」氷室は独り言のように言った。「七十年越しに、ようやく」
携帯を取り出し、どこかに電話した。
「見つけました」氷室は静かに言った。
「廃工場も確認しました。金庫はまだあります」氷室は少し間を置いた。
「桐島が気づいているかどうかは、まだ分かりません。でも娘が探偵を雇ったようです。根古という男です」
電話の向こうで何か言った。
「根古」氷室は繰り返した。
「可児の探偵です。ただの地方探偵だと思いますが??注意は必要かもしれません」
電話を切り、氷室は車を走らせた。
可児の夜が、また動き始めていた。




