義雄の告白
翌朝、根古と由紀子は、老人ホームを訪れた。
施設長に断りを入れ、義雄の部屋に向かった。
義雄はベッドに座り、窓の外を見ていた。
以前会ったときよりも、さらに小さく、弱々しく見えた。
「義雄さん」根古は静かに声をかけた。「根古です。木下昌也の息子です」
義雄はゆっくりと根古を見た。
その目に、以前のような混濁はなく、この日は、珍しくはっきりとしているようだった。
「昌也の……息子か」義雄は言った。「大きくなったな」 「義雄さん、今日は、はっきりしていますね」根古は言った。
「日によって、波がある」義雄は言った。「今日は、調子がいい方だ」
根古は、義雄の目を見つめた。 「文吉さんのことを、覚えていますか」
義雄の表情が、静かに変わった。 長い沈黙のあと、義雄は小さく頷いた。
「覚えている」義雄は言った。
「忘れたことは、一日もない」 「何があったんですか」 「文吉は、清一が生きていることに気づいた」義雄は、ゆっくりと語り始めた。
「儂が戸籍を改竄したことにも、気づいてしまった。文吉は、真面目な男だった。役所の記録の不正を、見過ごせない性分だった」 「それで、消したんですか」 「儂が、直接手を下したわけじゃない」義雄は言った。
「だが、儂が、当時の協力者に頼んだ。文吉を、黙らせるように、と」 「それが、殺すという意味だったんですか」 「そこまでは、言わなかった」義雄は言った。
「だが、結果として、そうなった。儂は、報告を受けて、初めて知った。文吉が死んだ、と」
義雄の目に、涙が浮かんだ。
「後悔していますか」根古は聞いた。 「毎日、後悔している」義雄は言った。
「儂は、多くの人間の人生を、狂わせてきた。片桐、ボリス、昌也、文吉、そして??儂自身の弟である義一も」 「義一さんを?」 「義一は、儂のやり方に、ずっと反対していた」義雄は言った。
「だが、血の繋がりゆえに、儂を止められなかった。儂を庇い、儂の罪を隠すために、自分の手を汚した」 「木下家との血縁のことは、知っていますか」根古は聞いた。
「清一さんと義一さんが、異母兄弟だということを」 「知っている」義雄は言った。
「儂だけが、鷺田家の正妻の子だった。義一は、木下家の血を引きながら、鷺田家の跡取りとして育てられた。儂はそれを、ずっと妬んでいた」 「妬んでいた?」 「義一は、木下家の血を引いていることで、地元では一目置かれていた」義雄は言った。
「儂は、鷺田家の正当な跡取りでありながら、義一ほどには、誰からも尊重されなかった。その妬みが、儂を、ソ連の工作員という道に走らせた一因だったのかもしれない」
根古は、義雄の言葉を、静かに聞いていた。 憎むべき相手だと思っていた。
だが、目の前にいるのは、老いさらばえ、後悔に押しつぶされた、一人の弱い人間だった。
「義雄さん」根古は言った。「文吉さんの遺体が、見つかりました」 義雄の目が、大きく見開かれた。 「見つかった、のか」 「御嵩の、古い炭焼き窯の跡です」根古は言った。
「娘さんに、報告しました」
義雄は、しばらく黙っていた。 やがて、涙を流しながら、震える声で言った。
「すまなかった」義雄は言った。
「文吉に、そして、その家族に、すまないことをした」 「その言葉は、俺にじゃなく、文吉さんの娘さんに伝えるべきです」根古は言った。
「会いに行くことができますか」
義雄は、車椅子の生活で、体力も限られている。
「難しいかもしれない」義雄は言った。「だが、手紙なら、書ける」 「書いてください」根古は言った。「それが、あなたにできる、最後のことです」
義雄は、静かに頷いた。
*
根古は施設を出て、由紀子と共に、駐車場に向かった。
「これで、本当に終わりですね」由紀子は言った。 「終わりだ」根古は言った。
「義雄の告白があれば、文吉さんの件も、公式に決着がつく。加代さんも、これで、少しは救われるだろう」
由紀子は、根古を見た。 「根古さん、これから、どうしますか」 「どうする、というのは」 「もう、この町に、大きな謎は残っていないと思います」由紀子は言った。
「あなたは、これからも、ここで生きていきますか」 根古は、少し考えた。
「ここが、俺の生まれた町だ」根古は言った。「親父が死んだ場所であり、多くの人間の人生が、絡み合った場所でもある。今さら、離れる理由はない」
「私は、また別の案件を追うことになると思います」由紀子は言った。
「でも、この町に、また何かあれば、連絡してもいいですか」 「いつでも」根古は言った。
「あんたのおかげで、色々なことが分かった」 「あなたの方こそ」由紀子は、少し笑った。「一人では、ここまで辿り着けませんでした」
根古は車に乗り込み、木曽川の方角へ、車を走らせた。
夕暮れの空に、一番星が、静かに輝き始めていた。




