もう一人の老人
義雄が入所している老人ホームに、根古と由紀子が再び足を運んだのは、その二日後だった。
施設長は、康介の事件のこともあり、根古たちに対して協力的だった。
「木下清一という名前の入所者は、うちにはいません」施設長はパソコンを確認しながら言った。
「では、似た年代の、身元がはっきりしない方はいませんか」由紀子が聞いた。
「昭和初期の生まれで、家族の面会がほとんどない方、というような」
施設長はしばらく考え、画面をスクロールした。
「一人、該当するかもしれない方がいます」施設長は言った。
「三年前に、当施設に転居してきた方です。名前は『木村誠一』となっていますが、それ以前の記録が、あまりはっきりしません。前にいた施設が、経営破綻で記録が散逸したとかで」 「木村誠一……」根古は呟いた。
「年齢は九十歳、認知症の症状もありますが、義雄さんほど進行はしていません」施設長は続けた。「時々、義雄さんの部屋を訪ねて、二人で話しているのを見かけたことがあります」 「義雄と面識が?」 「はい。職員の間では、古い友人同士なのだろう、と話していました」
根古と由紀子は顔を見合わせた。
「会わせてもらえますか」根古は言った。
*
木村誠一と名乗る老人は、窓際の椅子に座っていた。
白髪だが、義雄よりも姿勢がしっかりしている。目に、まだ力があった。
「はじめまして」根古は静かに声をかけた。「根古と申します」 老人は根古を見た。
その瞬間、老人の表情が、わずかに動いた。
「根古……」老人は呟いた。「木下の……昌也の、息子か」 根古は息を呑んだ。
「親父を、ご存知なんですか」 老人はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「儂は、木下清一だ」老人は静かに言った。「もう長い間、その名前を捨てて生きてきたが」
根古は言葉を失った。 由紀子も、静かに息を整えていた。
「なぜ、名前を変えて生きてこられたんですか」根古は聞いた。
「話せば長い」清一は窓の外を見た。「昭和三十一年、儂は死んだことになった。実際には、死んでいなかった」 「何があったんですか」 「節子の兄??安藤家の跡取りが、儂と節子の関係を知って、激怒した」清一は言った。
「儂を殺すつもりで、川に突き落とした。だが、儂は生き延びた。流された先で、漁師に助けられた」
「なぜ、生きていることを、名乗り出なかったんですか」 「名乗り出れば、また狙われる」清一は言った。
「それに、家族に累が及ぶと思った。だから、死んだままでいることにした。名前を捨て、遠くの土地で、別人として生きた」
「義雄さんとは、どういう関係だったんですか」
清一は根古を見た。目に、複雑な色があった。
「義雄は、儂の甥だ」清一は言った。
「いや、正確には??儂の弟の、義一の、腹違いの兄にあたる」 根古は混乱した。
「待ってください。義雄は、義一の兄だと聞いています」 「その通りだ。だが義一は、儂の弟でもある」清一は静かに言った。
「儂と義一の父は、同じ人間だ。木下家の当主が、外に作った子供が、義一だった」
根古は目を見開いた。
「木下家と鷺田家は、義雄の代よりも前、義一の父の代から、繋がっていたということですか」根古は言った。 「そうだ」清一は頷いた。
「儂の父は、木下家の当主でありながら、外に鷺田家の女性との間に、義一を作った。義一は、鷺田家の跡取りとして育てられたが、実の父は木下家の人間だった」 「では、義雄は……」 「義雄は、義一の異母兄だ。鷺田家の正妻の子だ」清一は言った。
「義一と義雄は、父は同じでも、片方は木下家の血、片方は鷺田家の血ということになる」
根古は頭を抱えた。 木下家と鷺田家は、想像以上に深く、複雑に絡み合っていた。
「なぜ、義雄さんと、ここで再会したんですか」 「三年前、儂がこの施設に来たとき、義雄がいた」清一は言った。
「向こうも、儂に気づいた。互いに、もう長くない歳だ。今さら、恨み言を言い合っても仕方がない。ただ、昔話をするだけの仲になった」 「義雄さんは、あなたが生きていたことを、誰かに話しましたか」 「話していないはずだ」清一は言った。
「儂が生きていることが公になれば、義雄自身の過去の??戸籍の改竄のことも、明るみに出る。義雄にとっても、都合が悪かったのだろう」
根古は清一を見つめた。 「文吉という人物を、覚えていますか」 清一の表情が、初めて曇った。 「文吉……ああ、覚えている」清一は言った。
「儂が生きていることに気づいた、真面目な役人だった。儂のところに、一度会いに来たことがある」 「文吉さんに、会ったんですか」 「会った」清一は言った。
「儂は、正直に話した。生きていることを、誰にも言わないでくれと頼んだ。文吉は、約束してくれた」 「でも、文吉さんは消えました」根古は言った。
清一の顔が、初めて痛みに歪んだ。 「それは、儂も、後になって知った」清一は言った。「文吉が消えたと聞いたとき、儂は義雄を疑った。だが、確かめる術がなかった」
根古は由紀子と目を合わせた。
「木村さん、いえ、清一さん」根古は言った。
「節子さんが、今も生きていることを、ご存知ですか」 清一の目に、初めて涙が浮かんだ。 「生きているのか」清一は掠れた声で言った。
「六十年以上、聞いたことがなかった」 「モーシェ・吉田という人の妻として、今も可児市内に暮らしています」根古は言った。「会いたいですか」
清一は長い間、答えなかった。 やがて、震える声で言った。 「会って、いいものだろうか」




