あの夜
根古は自宅の書斎で、集めた資料を壁一面に貼り出していた。
義雄の裏切りの記録、義一の手紙、清一と節子の関係、木下家の古い戸籍。
そして、五年前??根古昌也が死んだ夜の、警察の調書の写しだった。
雨月から借りたその調書には、こう記されていた。
――木曽川沿いの土手にて、根古昌也氏(当時六十八歳)を発見。転落による溺死と推定。事件性なしと判断。
「事件性なし、か」根古は呟いた。
五年前、根古は東京にいた。父の死を聞いたとき、警察の説明をそのまま受け入れた。年老いた父が、夜の散歩中に足を滑らせた。そう思っていた。
携帯が鳴った。一石からだった。 「根古さん、例の見張りの男が見つかった」一石は言った。
「岐阜市内の安宿に潜んでいた。事情を話したら、意外とあっさり口を割った」 「何を知っていた」 「五年前の話だ」一石は言った。
「あの男は元々、鷺田家??義雄の代からのネットワークで、雑用をしていた人間だ。当時、康介の父、義一さんの指示で動いていたこともあるらしい」 「義一の指示?」
「詳しいことは、直接会って聞いた方がいい」一石は言った。
「今、こっちに連れてきている。教会に来られるか」
*
教会に着くと、見張りの男??名前は坂上といった??が、緊張した面持ちで長椅子に座っていた。
四十代半ば、疲れた顔をしている。 西野が奥からお茶を運んできた。
「大丈夫だ」西野は静かに言った。「ここでは、誰もお前を傷つけない」
坂上は湯呑みに手を伸ばさず、根古を見た。
「五年前のことを、話せばいいんですね」 「聞かせてくれ」根古は言った。
坂上は深く息を吸った。 「俺は当時、鷺田義一さんに雇われていました。
表向きは地元の不動産関係の仕事でしたが、実際には、義一さんの指示で、木下昌也さんの動きを見張っていました」 「親父を見張っていた?」 「はい」坂上は頷いた。
「義一さんは、昌也さんが五十年前の火事のことを調べ始めていると知って、心配していました。義雄さんのことが表に出れば、鷺田家全体が終わる。義一さんは、それを恐れていました」 「だから、親父を消したのか」 「違います」坂上は首を振った。
「義一さんは、昌也さんを止めたかっただけです。傷つけるつもりはなかった。俺の役目は、昌也さんがどこまで調べているか、義一さんに報告することだけでした」
「では、あの夜、何があった」
坂上はしばらく黙っていた。 「あの夜、昌也さんは木曽川の土手で、誰かと会っていました」坂上は言った。
「俺は少し離れた場所から見ていました。相手の顔は、暗くてよく見えませんでしたが??体格からして、若い男でした」 「若い男?」 「話し声は聞こえませんでしたが、揉めているようでした」坂上は続けた。「そして、昌也さんが土手から足を滑らせるのが見えました。相手の男が、突き飛ばしたのか、それとも本当に事故だったのか??俺の位置からは、はっきり分かりませんでした」 「その男は、逃げたのか」 「はい。すぐに立ち去りました」坂上は言った。
「俺は義一さんに報告しました。義一さんは、ひどく動揺していました。『そんなことを頼んでいない』と、何度も言っていました」
根古は拳を握った。 「義一は、誰にその『若い男』を差し向けたか、心当たりがあったのか」 坂上は根古を見て、静かに頷いた。
「義一さんは、その後すぐに、義雄さんの見舞いに行きました。そして戻ってきたとき、青ざめた顔で言ったんです。『兄さんが、まだ人を動かせるとは思わなかった』と」
教会の中が、静まり返った。
「義雄が、まだ人を動かしていたということか」根古は言った。「認知症が進む前の話か」 「五年前ならば、義雄さんはまだ、ある程度はっきりしていました」坂上は言った。
「認知症が進んだのは、ここ二、三年のことだと聞いています」 「その若い男が誰か、義一は突き止めたのか」 「突き止めたと思います」坂上は言った。「ただ、俺には教えてくれませんでした。
ただ一度だけ、義一さんが呟いたのを覚えています。『あの子には、罪を負わせたくない』と」
根古は坂上を見た。 「『あの子』とは、誰のことだ」
坂上は答えなかった。 だが、その沈黙が、答えだった。
教会の扉が開いた。 康介が立っていた。
いつからそこにいたのか、根古には分からなかった。だが、康介の顔は、真っ白だった。
「俺です」康介は震える声で言った。「五年前のあの夜、木下昌也さんと会っていたのは、俺です」
全員が康介を見た。
「祖父から、昌也さんが調べていることを聞かされました」康介は続けた。「祖父は、俺に頼みました。『昌也に会って、これ以上調べるなと伝えてくれ』と。
俺は、ただ話をするだけのつもりでした。本当です」
「何があった」根古は低い声で聞いた。
「昌也さんは、俺の話を聞いて、笑ったんです」康介は言った。
「『鷺田の家は、いつまで人を使って揉み消すつもりだ』と。俺は、それに腹を立てました。祖父のことを、父のことを、馬鹿にされた気がして。突き飛ばすつもりは??本当になかった。ただ、腕を掴んだら、昌也さんがよろけて、土手を滑り落ちて……」
康介の声が途切れた。
「なぜ、今まで黙っていた」根古は聞いた。 「怖かったからです」康介は言った。
「誰にも言えなかった。事故として処理されて、俺はそのまま、何もなかったように生きてきました。
でも??祖父の記録を見つけて、義一の??父の血を、自分の中に感じるようになってから、ずっと苦しかった。俺は、あなたの父親を殺した人間です」
根古は康介の前に立った。 長い沈黙があった。
根古は拳を握りしめた。 だが、殴らなかった。
「五年間、黙っていたことは、許せない」根古は静かに言った。
「だが、あんたが今、自分の口で話したことは、認める」 「根古さん……」 「これから、あんたがどうするかは、あんた次第だ」根古は言った。
「警察に行くか、行かないか。俺は止めない。だが、俺は雨月に、今夜聞いたことを全部話す」
康介は頷いた。 「分かっています」康介は言った。「明日、自分から出頭します」
教会の外で、根古は一人、木曽川の方角を見つめていた。
五年前のあの夜、父はここで死んだ。 事故と、殺意の境目にあるような、曖昧な死だった。 だが、真相は分かった。
根古は空を見上げた。 星が一つ、雲間から見えていた。




