節子の沈黙
モーシェと節子の家は、可児市内の静かな住宅街にあった。
根古が西野と共に訪れると、節子が茶の準備をして待っていた。
八十歳近いが、背筋の伸びた、穏やかな顔立ちの女性だった。
「根古さん」節子は湯呑みを差し出した。
「主人から聞いています。色々、大変な思いをさせてしまって」 「いえ」根古は湯呑みを受け取った。「今日は、節子さんご自身に伺いたいことがあって来ました」
節子の表情がわずかに変わった。
「私にですか」 「木下清一さんという方をご存知ですか」
節子の手が、一瞬止まった。
湯呑みを置く動作が、ほんの少し遅れた。 「……ご存知だったんですね」根古は静かに言った。
節子は長い間、黙っていた。 やがて、小さく息を吐いた。
「六十年以上、誰にも言わずにきました」節子は言った。「主人にも」 「モーシェさんも、知らないんですか」 「知りません」節子は根古を見た。
「これから話すことは、主人にも??いえ、いつかは話すつもりでいました。でも、今日、根古さんが来たということは、もう避けられないということですね」
節子は湯呑みを両手で包み、話し始めた。
「私は安藤家の娘として生まれました。安藤家がソ連と繋がっていたことは、子供の頃は知りませんでした。知ったのは、清一さんと出会ってからです」
「木下清一さんとは、どのように出会われたんですか」 「木曽川沿いの祭りでした。昭和二十九年のことです」節子は懐かしそうに目を細めた。
「清一さんは木下家の次男で、長男の跡取りである兄??昌也さんのお祖父様にあたる方の下で、家業を手伝っていました。優しい人でした。私の家の事情を知っても、態度を変えなかった」
「お二人の関係を、安藤家は知っていたんですか」 「最初は、隠していました」節子は言った。
「でも、いずれ知られることになりました。私の兄??安藤家の跡取りが、清一さんとの関係に気づいたんです」 「その兄というのが」 「後に、鷺田家に嫁いだ女性の父にあたる人です」節子は言った。
「つまり、鷺田義雄さんの、義理の??いえ、少し複雑な繋がりですが、安藤家と鷺田家は、義雄さんの代よりも前から、繋がりがありました」
根古は息を呑んだ。
「安藤家と鷺田家の繋がりは、義雄が作ったものじゃなかったのか」 「義雄さんは、その繋がりを引き継いで、拡大しただけです」節子は静かに言った。
「本当の始まりは、私の兄の代??昭和二十年代からです」
節子は続けた。 「私の兄は、清一さんとの関係を知って、激怒しました。
木下家という地元の名家の人間が、ソ連と繋がりのある安藤家の娘と関係を持つことは、木下家にとっても、安藤家にとっても、都合が悪かった。
当時、安藤家はソ連側の情報網の一部として動き始めていて、木下家のような地元の有力者との関係が、こじれることを恐れていました」 「それで、清一さんは……」 「兄が、手を回しました」節子の声が、初めて震えた。
「事故に見せかけて。私は、後になってそれを知りました。でも、証拠は何もなかった。ただ、兄の様子から、確信しました」
根古は湯呑みを置いた。 「なぜ、そのことを誰にも言わなかったんですか」 「言えば、私自身が安藤家の人間として、疑われることになる」節子は言った。
「それに??清一さんが亡くなったあと、私は木下家からも、安藤家からも、遠ざけられました。行き場がなくなって、それから何年も後に、モーシェと出会いました」
「モーシェさんは、このことを?」 「知りません」節子は根古を見た。「主人と出会ったとき、私はもう、安藤家とも木下家とも、縁を切ったつもりでいました。過去のことは、話さないまま、ここまで来ました」
根古はしばらく黙っていた。 やがて、静かに聞いた。 「親父は、このことを知っていたんでしょうか」 「昌也さんは……」節子は目を伏せた。「亡くなる少し前に、私のところに来ました。
木下家の古い書類を見つけて、清一さんという名前が出てきたと。私は、その時も、話しませんでした」 「なぜ」 「怖かったからです」節子は言った。
「本当のことを話せば、木下家??根古家の、遠い過去の傷を、開くことになる。安藤家の娘が、木下家の次男を死なせる原因になった。それを、昌也さんに知られるのが、怖かった」
根古は目を閉じた。 五十年前の火事、鷺田義雄の裏切り、片桐とモーシェの因縁。
そのすべての根っこに、さらに古い、七十年前の悲劇があった。
「昌也さんは、それを知ったまま、亡くなったんでしょうか」根古は聞いた。
「分かりません」節子は静かに首を振った。「あの火事の夜、昌也さんが何を追っていたのか、本当のところは、私にも分からないんです」
西野が静かに口を開いた。 「節子さん、これから、あなたはどうしたいですか」 節子はしばらく考えてから、答えた。 「主人に話します」節子は言った。
「もう、隠す理由がない。片桐さんとも和解できた主人なら、きっと分かってくれる。それに??清一さんのことを、これ以上、誰にも知られないまま終わらせたくない。あの人は、確かに生きていた。ただ、時代に殺された」
根古は頷いた。 「ありがとうございます、節子さん」 「いいえ」節子は静かに笑った。
「ようやく、話せてよかった。六十年、重かった」
根古は西野と共に、節子の家を出た。 夕闇が、木曽川の方角から広がってきていた。
「これで、全部見えたか」西野が聞いた。 「まだだ」根古は空を見上げた。「親父が、あの夜、なぜ死んだのか。それだけが、まだ分からない」




