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火傷の老人

 十一月の初めに、根古はようやく三峰温泉へ行った。 第一章の事件が片付いてから二週間、楓幸恵に「絶対安静」と言われ続けた結果だった。

布団の中でヤマトを抱き、温かい茶を飲み、本を読み、眠る。

それだけの二週間。

それはそれで悪くなかった。

でも右手の熱が完全に引いたのは十日目で、体がまともに動くと感じたのは十二日目だった。

「ようやくか」と太田に言われ、「遅い」とミーコに言われ、

「師匠、やっと顔色が戻りましたね」と澪に言われた。

根古は何も言わずに軽自動車に乗り込み、三峰温泉へ向かった。

ヤマトは留守番だ。

今日だけは、誰も連れない。

一人で湯に浸かって、何も考えない。

それだけが目的だった。

受付で入浴料を払い、脱衣所へ向かった。

内湯に誰もいないことを確認して、根古はゆっくりと湯に入った。

お湯が肩まで来た。左足の古傷がほぐれていく。右手の最後の強張りが、じわじわと溶けていく。

「ええな」

声に出して言った。誰もいないから。

天井を見上げた。湯気が白く立ち上っている。音がない。静かだ。

根古は目を閉じた。


十分ほどして、引き戸が開く音がした。

入ってきたのは老人だった。七十代後半、あるいは八十代か。

背が曲がっていて、動きが遅い。

でも目は澄んでいた。

老人はゆっくりと湯に入り、根古の斜め向かいに落ち着いた。

根古は目を逸らした。

温泉では見ない、が鉄則だ。

でも右手が、わずかに熱くなった。

老人から何かが出ている。

長い年月をかけて積み重なった、重いものだ。

根古は右手をお湯の中に沈めた。感じないようにした。今日は休みだ。

しかし五分後、老人が静かに言った。

「根古親司さん、ですか」

「そうやが、誰や」

「垣内といいます。垣内徳三郎」老人は軽く頭を下げた。

「あなたに、頼みたいことがある」

根古はため息をついた。

温泉で頼まれるのは、これで三度目だった。


湯から上がって、休憩室の隅で向かい合った。

垣内徳三郎の右手を、根古は初めてまともに見た。

深い火傷の跡だった。

手の甲から指にかけて、皮膚が引きつれている。古い傷だ。

何十年も前のものに見える。

「五十年前のことです」垣内は右手を見た。「私が三十のときに、山で火事があった。

仲間を助けようとして、こうなった」

「仲間は」

「助けられなかった」

短い言葉だった。でもその短さの中に、五十年分が詰まっていた。

「仲間の名前は、浜崎幸雄といいました。当時二十八歳。最近、夢に来る。夜中に部屋の気配が変わる。でも確かに、そこにいる」

「私はもう七十八です。死ぬ前に、浜崎に何かを伝えたい。あるいは浜崎が私に何かを伝えたいのか。あなたなら、わかるかもしれないと聞いた」

「誰から聞いた」

「松平さんです。神社の神主の」


「一つ聞かせてください。浜崎さんが出てくるのは、最近になってからですか」

「そうです。ひと月ほど前から」

「何か変わったことはありましたか」

「……山へ行きました。五十年ぶりに。

足が動くうちに、一度だけ行っておきたかった。

息子に車で連れて行ってもらった。

浜崎が倒れた場所に手を合わせました。それだけです」

「その場所へ、もう一度行けますか」

老人の目が、わずかに揺れた。

怖いのではない。覚悟を決めようとしている顔だった。

「行けます。行かなければならないと、思っていました」

根古は窓の外を見た。十一月の空は低く、灰色だった。

「わかりました。一度、話を整理させてください」

垣内は懐から折りたたんだ紙を出した。

手書きの地図だった。

来る前から準備していたのだ。

根古はそれを受け取った。紙から何かが伝わってきた。

老人の長い年月の重さと、浜崎幸雄という名前への、静かな哀しみだった。



根古は地図を持ったまま、しばらく休憩室の窓を見ていた。


十一月の空が、低く垂れ込めていた。


「山の名前は」


「板取の奥です。今は林道も整備されていないと聞きました。車では途中までしか行けない」


「五十年前の火事は、記録に残っとりますか」


「残っていないと思います」垣内は静かに言った。「小さな山火事でした。二人しかいなかった。私が麓まで下りて助けを呼んだ時には、もう手遅れでした。浜崎の遺体は、その日のうちに収容されました」


「家族は」


「両親はもう亡くなっています。兄弟はいなかった。結婚もしていなかった」


根古は地図に目を落とした。


手書きの線が丁寧に引かれていた。老人が時間をかけて書いたことがわかる線だった。


「浜崎さんは、お前に何かを伝えたいんやなくて」根古はゆっくり言った。「お前が浜崎さんに何かを伝えたいんやないか」


垣内の目が、わずかに動いた。


「……どちらかは、わかりません」


「正直に言えば」


老人は右手の火傷の跡を、左手でそっと触れた。


長い間があった。


「私は、逃げたのかもしれない」


根古は何も言わなかった。


「助けようとした。本当に助けようとした。でも火が強くなった時、私は手を放した。浜崎の手を、放した」垣内の声は揺れなかった。揺れないように、長い年月をかけて練習してきた声だった。「あの時、放さなければよかったのか。一緒に死ねばよかったのか。今でもわからない。七十八になっても、わからない」


根古は地図を折りたたんだ。


「いつ行けますか」


「いつでも」


「明後日、朝八時にここへ来てください。車で迎えに行きます」


垣内は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


根古は立ち上がった。


「礼はまだ早い。何もわからんかもしれん」


「それでも構いません」垣内は顔を上げた。「あなたに話しただけで、少し楽になった」


根古は答えなかった。


休憩室を出た。


駐車場に戻ると、軽自動車が冷えていた。


エンジンをかけて、暖機運転をした。


楓幸恵に怒られるな、と思った。絶対安静と言われた翌日から動き回っていたのがバレたら、また説教だ。


でも右手の熱は、今日は穏やかだった。


危ういものではなかった。


垣内徳三郎という老人から来るものは、悪意でも怨念でもなかった。ただ重かった。五十年分の重さだった。


根古はカーラジオをつけた。


演歌が流れた。


音量を少し上げて、国道へ出た。


翌日、根古は太田の茶店に寄った。


太田豊。五十八歳。根古の先輩だ。何の先輩かは説明が難しい。ただ、こういう話をできる人間が、根古の周りには太田しかいなかった。


茶店は国道沿いにある小さな店で、コーヒーと紅茶と、たまに羊羹が出る。客は少ない。太田はそれで構わないと言っている。


根古がドアを開けると、太田はカウンターで本を読んでいた。


「珍しい。温泉から直接来たんか」


「昨日な」根古はカウンターに座った。「コーヒーくれ」


太田はコーヒーを淹れながら言った。「顔色はましになったな。楓さんが心配しとったぞ」


「余計なことを言うな」


コーヒーが来た。


根古は一口飲んだ。


太田のコーヒーはうまい。缶コーヒーとは別の種類のうまさがある。根古はそれを認めているが、太田には言わない。


「板取の山火事、五十年前の話、知っとるか」根古は言った。


太田は少し考えた。「板取の奥か。あの辺は昔、炭焼きをしとった集落があったな。火事の話は……聞いたことがあるような気もするが、詳しくは知らん」


「浜崎幸雄という人間を知っとるか」


「知らんな」太田はコーヒーカップを磨きながら言った。「でも調べる方法はある。板取の古い記録なら、関市の図書館にあるかもしれん。あるいは地元の古老に聞く方が早い」


「古老か」


「ムハンマドさんに聞いてみたらどうや。あの人、ああ見えて人脈が広い」


根古はコーヒーを飲んだ。


「もう一つ聞く」根古はカップを置いた。「山で仲間を助けようとして、手を放した人間がいたとする。その人間は、逃げたんか」


太田は手を止めた。


しばらく根古を見た。


「お前が聞くんか、それを」


「聞いとる」


太田はカウンターに肘をついた。「火の中で、生きている人間が判断できることには限界がある。手を放したのが逃げたことになるかどうかは、その人間にしかわからん。でも」


「でも」


「七十八まで生きて、まだそれを抱えとる人間は、逃げた人間やないと思う」太田は静かに言った。「逃げた人間は、途中で下ろす。ずっと持ち続けるのは、真剣に向き合い続けた人間だけや」


根古は何も言わなかった。


コーヒーを飲み干した。


「……ご馳走さん」


「金は」


「払う」根古は小銭を置いた。「明後日、板取に行く」


「気をつけろよ」太田は本に目を戻した。「楓さんに言うなよ、とは言わんが、無理するなよ」


根古は返事をしなかった。


ドアを開けて、外に出た。


十一月の風が冷たかった。


約束の朝、垣内徳三郎は時間通りに来た。


厚手のコートを着て、杖を持っていた。息子が送ってきたらしく、見送る車が一台あった。息子は根古に深く頭を下げた。


「父をよろしくお願いします」


根古は何も言わずに頷いた。


軽自動車に乗り込む。垣内は助手席に静かに収まった。


「寒くないですか」


「大丈夫です」


「暖房上げます」


走り出した。


板取川沿いの道を北へ向かった。


山が近づくにつれて、木が濃くなった。紅葉はもう終わりかけていた。茶色くなった葉が、道に落ちている。


二人はほとんど喋らなかった。


根古は運転した。垣内は窓の外を見ていた。


美濃市を過ぎたあたりで、垣内が口を開いた。


「浜崎は、明るい男でした」


根古は前を見たまま聞いた。


「山が好きで。私を山に連れて行ったのも浜崎です。私はもともと、山が得意ではなかった」


「なんで行ったんですか、その日」


「浜崎に誘われたからです」垣内は静かに言った。「断れなかった。浜崎が誘うと、断れなかった。そういう男でした」


根古は何も言わなかった。


「あの日も、天気が崩れると言ったのに、大丈夫やと言って」垣内は少し笑った。かすかな笑いだったが、確かに笑った。「結局、大丈夫やなかった」


「火の原因は」


「落雷だと思います。確認はできませんでしたが」


林道に入った。舗装が荒くなった。軽自動車が揺れた。


根古は速度を落とした。


垣内の杖が助手席のドアに当たって、小さな音を立てた。


林道が終わった場所に車を停めた。


ここから先は歩きだ。


根古は車を降りて、空を見た。曇っていた。雨にはならないと思うが、わからない。


垣内がゆっくりと降りてきた。


杖をついて、山を見上げた。


「……変わっていない」


根古は黙って歩き出した。垣内がその後ろをついてきた。


木の間を縫う細い道だった。人が歩かなくなって久しい道だ。落ち葉が厚く積もっている。


右手が熱くなり始めた。


じわり、と。


でも急ではなかった。穏やかな熱だった。


何かがいる。


でも、待っている。


根古は歩調を変えなかった。


十五分ほど歩いて、開けた場所に出た。


岩が露出していて、木が少ない。眺めがいい。板取川が遠くに光って見えた。


垣内が足を止めた。


「ここです」


根古は岩の前に立った。


右手の熱が、強くなった。


でもやはり、穏やかだった。


根古はゆっくりと右手を岩に近づけた。


触れた。


暗転。


煙だった。


木が燃えている。炎ではなく、煙が先に来ていた。白い煙が、風に流されて広がっていた。


二人の男が走っていた。


若い。二十代だ。


一人が転んだ。


もう一人が引き起こそうとした。


煙が濃くなった。


引き起こそうとした男が、転んだ男の手を掴んだ。引いた。でも倒れた男は動かなかった。足を痛めていた。


煙がさらに濃くなった。


掴んだ手が、震えていた。


放した。


男は走った。


振り返りながら、走った。


映像が消えた。


根古は岩の前に立っていた。


右手が強く痺れていた。


振り返ると、垣内が岩から少し離れた場所に立っていた。


目を閉じていた。


根古はしばらく待った。


やがて垣内が目を開けた。


「何か、見えましたか」


根古は少し考えた。


「見えました」


「浜崎は」


「おります」根古は静かに言った。「ここに。ずっとここにおる」


垣内の体が、わずかに震えた。


「何か……言っていますか」


根古は右手の痺れに集中した。


岩から伝わってくるものを、もう一度探った。


怒りはなかった。


恨みもなかった。


ただ、一つだけ。


はっきりとしたものがあった。


「……お前のせいやない、言いたそうにしとります」


垣内の目から、涙が落ちた。


声は出なかった。


根古は岩から手を離した。


「放したのは正しかったんや。浜崎さんはそれをわかっとる。お前が生きたから、浜崎さんのことを覚えている人間が、五十年間おったんや」


垣内は泣いた。


七十八の老人が、声も出さずに泣いた。


根古は黙って立っていた。


十一月の山は静かだった。


風が一度だけ、強く吹いた。


木の葉が舞い上がった。


それだけだった。


山を下りた。


垣内は杖をつきながら、来た時より足取りが軽かった。


根古はそれを見なかった。


車に戻って、エンジンをかけた。


暖房を入れた。


しばらく二人とも黙っていた。


やがて垣内が言った。


「ありがとうございました」


「たまたまです」と根古は言った。


垣内は小さく笑った。


「松平さんから聞きましたよ。あなたはいつも、そう言うと」


根古は何も言わなかった。


アクセルを踏んだ。


板取川沿いの道を南へ走った。


来た道を戻る。


山が遠ざかっていく。


垣内は助手席で目を閉じていた。眠っているのかもしれなかった。


根古はカーラジオをつけなかった。


静かなままでよかった。


右手の痺れが、走るうちに少しずつ引いていった。


今日は軽い。


第一章の後のような、体が鉛になる感覚はなかった。


浜崎幸雄という男が、怒っていなかったからだろう。


待っていただけだった。


五十年間、ただ待っていただけだった。


根古は前を見た。


十一月の国道は空いていた。


エピローグ

可児市に入ったところで、垣内が目を開けた。


「一つだけ聞いていいですか」


「どうぞ」


「浜崎は、今も山におりますか」


根古は少し考えた。


「おらんと思います」


「どこへ」


「どこかへ行った」根古はハンドルを握ったまま言った。「行けたんやと思います。お前が来たから」


垣内はしばらく黙っていた。


「……よかった」


それだけ言って、また黙った。


垣内を自宅まで送った。


玄関先で息子が待っていた。


父親の顔を見て、息子は何も聞かなかった。


ただ、肩に手を置いた。


根古は軽自動車に乗り込んだ。


家に帰ると、ヤマトが玄関で待っていた。


珍しい。


根古がしゃがむと、ヤマトが頭を押し付けてきた。


一回だけではなかった。


二回、押し付けてきた。


「……なんや、今日は」


ヤマトは答えなかった。


ただ、しばらくそこにいた。


根古は黒い頭を、そっと撫でた。


縁側に出た。


缶コーヒーを一口飲んだ。


十一月の庭は、葉が落ちて少し寂しかった。


でも空は高かった。


雲の切れ間から、青が見えた。


根古は缶コーヒーを持ったまま、その青を見た。


守護霊たちの気配があった。


何も言わなかった。


ただ、そこにいた。


根古も何も言わなかった。


缶コーヒーを飲んだ。


空を見た。


それだけだった。



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