白猫ミルク
木綿子が戻ってきたのは二時間後だった。
キャリーケースを持っていた。
小さいケースだった。中から声はしなかった。
太田の茶店ではなく、親司の家に来た。
木綿子が太田に住所を聞いていた。太田が教えていた。
玄関の引き戸をノックした。
「開いています」と親司は言った。
「鍵かけてください」と木綿子は言った。
初対面の家でそれを言うか、と親司は思った。
木綿子が上がった。キャリーケースを丁寧に持っていた。
揺らさないように持っていた。
縁側に来た。
「ここでいいですか」と木綿子は言った。
「そこで構いません」
木綿子がキャリーケースを縁側に置いた。
チャックをゆっくり開けた。
中から白い猫が出てきた。
小さかった。
三キロあるかどうかだった。白い毛が少し乱れていた。
目が大きかった。きょろきょろしていた。
ヤマトが縁側から動かなかった。
白い猫がヤマトを見た。ヤマトが白い猫を見た。
しばらく見合っていた。
どちらも動かなかった。
どちらも鳴かなかった。
それから白い猫がヤマトから目を離した。
部屋の中をゆっくり歩いた。匂いを嗅いだ。柱を嗅いだ。畳を嗅いだ。
親司の足元に来た。
足を嗅いだ。
親司はしゃがんだ。左膝が痛んだ。構わなかった。
白い猫が親司の手に鼻を近づけた。
嗅いだ。
それからもう一度嗅いだ。
「ミルク」と木綿子が小声で言った。
ミルクは木綿子を見なかった。
親司の手を嗅いでいた。
親司は右手をそっと差し出した。
触れた。
流れ込んできた。
速かった。
待っていたように流れ込んできた。
暗い場所ではなかった。
光があった。
山の光だった。木の間から差し込む光だった。
走っていた。誰かが走っていた。速かった。息が上がっていた。楽しそうだった。
それから急に止まった。
別の光だった。
人工的な光だった。建物の中だった。狭い場所だった。暗くはなかった。
ただ、出られない場所だった。
声がした。
女の声だった。若い声だった。
怖がっていなかった。
怒っていた。
誰かに向かって怒鳴っていた。
言葉は聞き取れなかった。ただ、怒っていた。負けていなかった。
それから途切れた。
親司は手を引いた。
立ち上がった。左膝が笑った。
木綿子が親司の顔を見ていた。
「何か分かりましたか」と木綿子は言った。声が震えていた。
親司はミルクを見た。
白い猫が親司を見上げていた。
伝えた、という顔だった。
「生きています」と親司は言った。
木綿子が息を飲んだ。
「確かですか」と木綿子は言った。
「確かです」と親司は言った。
木綿子のハンカチを握る手が白くなった。
泣くかと思った。泣かなかった。唇を噛んだ。目を閉じた。それだけだった。
強い人だと思った。
娘に似ているかもしれないと思った。
「場所は」と木綿子は言った。
「山の近くです」と親司は言った。「建物の中にいます。閉じ込められています。ただ」
「ただ」
「怒鳴っていました」と親司は言った。「元気に怒鳴っていました」
木綿子が少し目を丸くした。
「澪らしいです」と木綿子は言った。小さく笑った。泣きそうな笑いだった。
ヤマトがミルクに近づいた。
ミルクがヤマトを見た。
今度はヤマトが先に鼻を近づけた。
ミルクが受け入れた。
二匹がしばらく匂いを嗅ぎ合った。
それからミルクが縁側に出た。
庭を見た。
ヤマトが隣に来た。
二匹で庭を見た。
「根古さん」と木綿子が言った。
「何ですか」
「娘を、見つけてもらえますか」
親司は右手を見た。まだ少しざわついていた。
山の光が残っていた。怒鳴っている若い声が残っていた。
負けていない声だった。
「山の近くです」と親司はもう一度言った。
「可児か美濃加茂か、その辺りだと思います。建物があります。人がいます。一人ではありません」
「一人ではない」
「澪さん以外に、誰かいます」と親司は言った。「それが味方かどうかは、まだ分かりません」
木綿子は頷いた。
「探します」と親司は言った。
「お願いします」と木綿子は言った。
深く頭を下げた。
親司は受けなかった。
「ミルクが教えてくれました」と親司は言った。
「儂に頭を下げるより、ミルクに礼を言ってください」
木綿子が顔を上げた。
縁側のミルクを見た。
「ミルク」と木綿子は呼んだ。
白い猫が振り返った。
木綿子が歩み寄った。しゃがんだ。ミルクを抱き上げた。
顔を埋めた。
声を殺していた。
ヤマトが一歩だけ離れた。
邪魔をしなかった。
親司はスマートフォンを手に取った。
電話をかけた。
榊原だった。
「根古さん」
「新しい話です」と親司は言った。
「若い女性の行方不明です。三週間前から。自分の意志ではないと思います」
「根拠は」
「猫が教えてくれました」
榊原は少し間を置いた。
「猫ですか」
「猫です」
また間があった。
「詳しく聞かせてください」と榊原は言った。
「山の近くの建物です。可児か美濃加茂の辺りだと思います。本人は元気に怒鳴っているそうです」
「そうですか」榊原の声が少し変わった。「その女性の名前は」
「柊澪です」と親司は言った。
「柊」榊原が繰り返した。「二十二歳の」
「ご存知ですか」と親司は言った。
「少し聞いたことがあります」と榊原は言った。「あなたの周辺の人物として」
「会ったことはありません」と親司は言った。「会う前にいなくなりました」
「そうですか」榊原は少し間を置いた。
「安藤に動かせます。ただ、可児と美濃加茂では範囲が広い」
「もう少し絞れるか、やってみます」と親司は言った。
「無理はしないでください」
「足が笑っています」
「湿布は」
「貼っています」
「根古さん」
「何ですか」
「猫から情報を得たというのは」榊原は慎重に言った。「報告書には書けません」
「書かなくていいです」と親司は言った。
「見つければいい」
榊原は短く息を吐いた。
「連絡します」と言った。
電話が切れた。
縁側で木綿子がミルクを抱いていた。
ヤマトが親司の足元に来た。
「また始まりましたよ」と親司はヤマトに言った。
ヤマトは何も言わなかった。
尻尾だけがゆっくり動いた。
蝉が鳴いていた。
夏はまだ終わっていなかった。
木綿子がミルクをキャリーケースに戻した。
戻すのに少し時間がかかった。ミルクが出たがった。木綿子が困った顔をした。
「ここに置いていっていいですか」と木綿子は言った。
親司はヤマトを見た。
ヤマトは知らん顔をしていた。
「構いません」と親司は言った。「ケースから出してやってください」
木綿子がチャックを開けた。ミルクが出てきた。縁側に直行した。ヤマトの隣に座った。
二匹で庭を見た。
「ありがとうございます」と木綿子は言った。
「猫が二匹になっただけです」と親司は言った。
木綿子は少し頭を下げた。連絡先を交換した。それから帰った。
今度は振り返らなかった。
早く帰って待ちたいのだろうと思った。
待つ場所がある人間は強いと思った。
引き戸が閉まってすぐだった。
スマートフォンが鳴った。
ミーコだった。
「おじさん」
「はい」
「新しい依頼が来たと太田さんから聞きました」
「早いですね」と親司は言った。
「太田さんが私に連絡するのと、木綿子さんがおじさんの家に向かうのが同時だったそうです」
「太田さんはよく喋りますね」
「心配しているんです」とミーコは言った。「私もです」
親司は縁側を見た。
ミルクとヤマトが並んでいた。
白と黒だった。
「柊澪さんのことは知っていましたか」と親司は言った。
ミーコが少し間を置いた。
「名前だけは」とミーコは言った。「おじさんの周辺にいる子だと聞いていました。格闘技が得意で、心霊が好きで、おじさんに会いたがっていると」
「会う前にいなくなりました」
「知っています」ミーコの声が低くなった。「三週間です。長い」
「長いです」
「猫から何か分かりましたか」
「山の近くの建物です。閉じ込められています。ただ元気に怒鳴っているそうです」
「そうですか」ミーコは少し間を置いた。「元気なら動けます。動ける間に見つけなければなりません」
「そうです」
「私に何かできることはありますか」と親司は言った。
「今すぐ事務所に来てください」とミーコは言った。
「足が」
「車で迎えに行きます」
「幸恵さんには」
「今電話します」とミーコは言った。「三人で話しましょう。榊原さんには」
「もう連絡しました」
「さすがです」ミーコの声が少し緩んだ。「ヤマトはどうしますか」
「ミルクという猫が来ています。二匹で留守番させます」
「ミルク」
「澪さんの猫です」
ミーコは少し黙った。
「そうですか」と言った。静かな声だった。「分かりました。十分後に迎えに行きます」
電話が切れた。
親司はヤマトを見た。
「留守番頼みます」と親司は言った。
ヤマトは庭を見たまま動かなかった。
ミルクが振り返った。大きな目で親司を見た。
「頼みます」と親司はミルクにも言った。
ミルクが短く鳴いた。
分かった、とも、早く行け、とも取れる声だった。
ミーコの車が来たのは十二分後だった。
黒いコンパクトカーだった。助手席に幸恵がいた。
後部座席に乗った。
「足は」と幸恵が振り返った。
「まだ笑っています」
「湿布は」
「貼っています」
「見せてください」
「走っている車の中で見せられません」
「信号で止まったら見せてください」
親司は何も言わなかった。
ミーコが車を出した。
「整理します」とミーコが言った。
走りながら話す声だった。仕事の声だった。
「柊澪、二十二歳。三週間前から行方不明。警察は自主的な失踪の可能性ありと判断。ただし」
「猫を置いていった」と親司は言った。
「溺愛していた猫を餌もやらずに置いていった」とミーコは続けた。「自主的な失踪ではない可能性が高い」
「根拠としては弱いですね」と親司は言った。
「弱いです」とミーコは言った。「ただ、おじさんのサイコメトリーが加わります」
「証拠にはなりません」
「方向を示します」幸恵が前を向いたまま言った。「おじさんがそう言っていました。前の事件の時に」
親司は少し黙った。
「山の近くです」と親司は言った。
「可児か美濃加茂の辺りの建物だと思います。複数人います。澪さんは怒鳴っていました。負けていない声でした」
「格闘技が得意な子ですから」とミーコが言った。
「そうです」
「心霊が好きな子でもあります」と幸恵が言った。「何か霊的なものと関係がありますか」
親司は右手を見た。
山の光を思った。
建物の中を思った。
「分かりません」と親司は言った。「まだ」
「まだ、ということはもう少し分かりますか」
「ミルクにもう一度触れれば」と親司は言った。「ただ今日はもう疲れました」
「無理しないでください」と幸恵が言った。
「しません」
信号が赤になった。
幸恵が振り返った。
「足、見せてください」
親司は諦めてズボンの裾をまくった。
幸恵が湿布を確認した。
「ちゃんと貼れています」と幸恵は言った。少し驚いた声だった。
「いつもちゃんと貼っています」と親司は言った。
「本当ですか」
「本当です」
信号が青になった。
ミーコが車を出した。
「おじさん」とミーコが言った。
「何ですか」
「澪ちゃんのこと、どう思いますか」
どう思う、という問いが少し広かった。
「会ったことがありません」と親司は言った。
「会う前にいなくなりました」とミーコは言った。「でも」
「でも」
「ミルクが教えてくれました」とミーコは言った。
「それはつまり、澪ちゃんがミルクを通じておじさんに頼んだということだと思います」
親司は窓の外を見た。
夏の景色が流れていった。
可児の山が見えた。
鳩吹山が見えた。
「そうかもしれません」と親司は言った。
「見つけてやってください」とミーコは言った。
いつもの強引な声ではなかった。
静かな声だった。
「三週間、一人で怒鳴り続けてきた子です」と幸恵が言った。
親司は右手を見た。
若い怒鳴り声が、まだ残っていた。
負けていない声だった。
「見つけます」と親司は言った。
山が窓の外を流れていった。
夏の光の中だった。
蝉が鳴いていた。
暗くはなかった。
窓があった。
小さい窓だった。高い位置にあった。曇りガラスだった。
外の光だけが入ってきた。
夏の光だった。朝なのか昼なのか、それだけでは分からなかった。
古い建物だった。
コンクリートの壁だった。湿っていた。黴の匂いがした。
倉庫か、工場の隅か、そういう場所だった。
柊澪は壁に背をつけて座っていた。
足を伸ばしていた。
両手首に結束バンドがかかっていた。
きつくはなかった。緩くもなかった。
三週間で慣れていた。
慣れたくはなかったが、慣れていた。
隣に人がいた。
女だった。
四十代だった。痩せていた。髪が乱れていた。目が虚ろだった。
三週間、ずっとそういう目だった。
「水、飲みますか」と澪は言った。
女は返事をしなかった。
澪はペットボトルを女の口元に近づけた。女が少し飲んだ。
澪も飲んだ。
残りを確認した。
半分以下だった。
次に持ってくるのがいつかは分からなかった。
男が一人、定期的に来た。
食料と水を置いていった。何も言わなかった。
澪が怒鳴っても無視した。最初の三日間は怒鳴り続けた。
それから怒鳴るのをやめた。体力が勿体なかった。
怒鳴るのをやめてから、考えることにした。
考えることの方が、ずっと有益だった。
壁の厚さ。窓の位置。男が来る頻度。食料の量。
全部頭に入れた。
壁は厚かった。
窓は届かなかった。
男は二日に一度来た。
食料は二日分だった。
計算が合っていた。
つまり計画的だった。
場当たりではなかった。
それが少し怖かった。
怖いと思うことも、頭に入れた。
怖さを無視すると判断が鈍ると思った。
怖さを認めた上で、考えた。
「大丈夫ですか」と澪は女に言った。
女が澪を見た。
焦点が合った。
合わないことの方が多かった。今日は合っていた。
「大丈夫ではないですね」と女は言った。
「そうですね」と澪は言った。「私もです」
女が少し笑った。
三週間で初めて笑った顔だった。
澪は女の名前を知っていた。
三日目に聞いた。
答えてくれなかった。
七日目にまた聞いた。
「安西」と女は言った。それだけ言った。
安西。
澪はその名前を頭に入れた。
何か意味があるかもしれなかった。
何か意味があるはずだった。
こんな場所に二人が閉じ込められているのに、意味がないわけがなかった。
澪はまだ意味が分からなかった。
「安西さん」と澪は言った。
「何」と女は言った。
「誰かが探しています」と澪は言った。
「誰が」
「私のことを探している人がいます」と澪は言った。「必ず来ます」
「なぜ分かるの」と女は言った。
澪は少し考えた。
「ミルクが教えてくれると思うから」と澪は言った。
「ミルク」
「うちの猫です」と澪は言った。「白くて小さくて、頭がいい猫です」
女は澪を見た。
虚ろな目ではなかった。
不思議そうな目だった。
「猫が教えてくれる」と女は言った。
「そういう人を知っています」と澪は言った。
「猫の言葉が分かる人を。根古親司というおじさんです」
女は黙った。
しばらく黙っていた。
「変なおじさんね」と女は言った。
「変なおじさんです」と澪は言った。「でも信用できます。まだ会ったことはないですけど」
「会ったことがないのに信用できるの」
「評判を聞いています」と澪は言った。
「太田さんの茶店で噂になっていました。
木下先生にも聞きました。鳩吹山でヤバいものを見つけた話も聞きました」
女が少し黙った。
「鳩吹山」と女は言った。
「知っていますか」と澪は言った。
女は答えなかった。
窓から光が入っていた。
午後の光に変わっていた。
時間が経っていた。
澪は結束バンドの感触を確かめた。
三週間でだいぶ馴染んでいた。
馴染みたくはなかったが、馴染んでいた。
「来ますよ」と澪はもう一度言った。
女に言っているのか、自分に言っているのか、どちらとも取れた。
「根古さんが来ます」と澪は言った。
「ヤマトという黒猫を連れているかもしれません。弁護士のミーコさんも来るかもしれません。
お医者さんの幸恵さんも来るかもしれません」
女が澪を見た。
「随分詳しいのね」と女は言った。
「ずっと会いたかったから」と澪は言った。
「調べていました。おじさんのことを」
「なぜ会いたかったの」
澪は少し間を置いた。
「師匠にしたかったから」と澪は言った。
女がまた笑った。
今度はさっきより長く笑った。
三週間分の笑いが少し出てきたような笑い方だった。
「変な子ね」と女は言った。
「よく言われます」と澪は言った。
窓から光が入っていた。
外では蝉が鳴いているはずだった。
ここからは聞こえなかった。
澪は壁に背をつけたまま天井を見た。
「絶対来ます」と澪は言った。
誰にも聞こえない声で言った。
ミルクに向かって言った。
白い猫は今頃どこにいるだろうと思った。
母親の家だろうと思った。
泣いているだろうと思った。
いや、泣いていないかもしれないと思った。
ミルクは賢い猫だった。
泣く代わりに、誰かに伝えに行くような猫だった。
そういう猫だった。
「ミルク」と澪は小声で言った。
頼んだ、と思った。
光が窓から入り続けていた。
夏の光だった。
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安藤修は美濃加茂署の駐車場に車を停めた。
助手席に平巡査がいた。
「どこから当たりますか」と平が言った。
「山の近くの建物だ」と安藤は言った。「可児と美濃加茂の境あたりから始める」
「範囲が広いですね」
「広い」と安藤は言った。「ただ」
「ただ」
「根古さんの言うことは外れない」と安藤は言った。
平が少し黙った。
「猫から情報を得たと榊原警部から聞きました」と平は言った。
「聞いた」
「猫ですか」
「猫だ」と安藤は言った。「根古さんが言うなら猫だ」
平は少し考えた。
「分かりました」と言った。
「地図を出してくれ」と安藤は言った。
平がタブレットを開いた。可児市と美濃加茂市の境界あたりを表示した。
山が多かった。
建物も点在していた。
廃工場、古い倉庫、資材置き場、農業用の施設。
数えれば相当な数だった。
「絞れますか」と平が言った。
「絞る」と安藤は言った。「条件がある」
「何ですか」
安藤は指を立てた。
「一つ。山の近く。ただし山の中ではない。建物がある場所だ」
平がタブレットを操作した。
「二つ。人が定期的に出入りしている。三週間、食料を運んでいる人間がいる」
「車が必要ですね」と平が言った。「山道でも入れる車」
「そうだ。軽トラか四駆だ」
「三つ目は」
「二人分の生活ができる場所だ」と安藤は言った。
「水がある。電気があるかどうかは分からないが、最低限の広さがある」
平がタブレットに条件を入れ始めた。
「廃工場と古い倉庫に絞ります」と平が言った。「山沿いで、車が入れる場所」
「何件出る」
平が少し操作した。
「可児と美濃加茂合わせて、十四件です」
「多いな」
「地道に当たるしかないですね」と平は言った。
安藤はエンジンをかけた。
「北から始める」と安藤は言った。「山が近い順だ」
「根古さんに絞ってもらえませんか」と平が言った。
「根古さんは今ミーコさんの事務所にいる」と安藤は言った。
「疲れている。足も笑っている」
「そうですか」
「俺たちでやれることをやる」と安藤は言った。「根古さんに頼るのは最後だ」
平は頷いた。
タブレットをダッシュボードに固定した。
最初の場所に経路を設定した。
車が動き出した。
最初の場所は可児市の北のはずれだった。
古い資材置き場だった。
フェンスが錆びていた。鍵がかかっていた。鍵が錆びていた。
長い間、人が来ていない場所だった。
「違いますね」と平が言った。
「次」と安藤は言った。
二件目は美濃加茂との境界近くだった。
農業用の倉庫だった。
現役だった。農家の老人が出てきた。
「何もないよ」と老人は言った。
「失礼しました」と安藤は言った。
「次」と平が言った。
三件目だった。
山沿いの道を少し入った場所だった。
古い工場だった。
シャッターが下りていた。
駐車場の砂利に、タイヤの跡があった。
新しかった。
安藤が車を停めた。
降りた。
タイヤの跡を見た。
しゃがんだ。
「最近です」と平が言った。隣でしゃがんでいた。
「雨上がりの跡もあります。三日前の雨の後に来ています」
安藤は建物を見た。
シャッターが下りていた。
隙間から中を見ようとした。
見えなかった。
建物の横に回った。
窓があった。
高い位置にあった。
曇りガラスだった。
安藤は建物の周囲を一周した。
裏に回った。
裏にも扉があった。
鍵がかかっていた。
新しい鍵だった。
建物の古さに合っていない鍵だった。
安藤は平を見た。
平が頷いた。
安藤はスマートフォンを出した。
榊原に電話した。
「三件目です」と安藤は言った。
「可児市の北、山沿いの古い工場です。タイヤの跡が新しい。裏扉の鍵が新しい。建物の状態と合っていません」
「中は確認しましたか」と榊原が言った。
「できていません。令状が必要です」
「任意での確認は」
「持ち主を当たります」と安藤は言った。「ただ、時間がかかります」
榊原は少し間を置いた。
「根古さんに確認してもらえますか」と榊原は言った。
「根古さんは疲れています」
「聞いてみてください」
安藤は電話を持ち替えた。
「場所の住所を送ります」と安藤は言った。
「根古さんに聞いてみます」
電話を切った。
住所を調べた。
親司に送った。
平が建物を見ていた。
「ここだと思いますか」と平が言った。
安藤は裏扉の鍵を見た。
新しい鍵だった。
理由のある新しさだった。
「分からない」と安藤は言った。「ただ」
「ただ」
「気になる」と安藤は言った。
平が頷いた。
二人は建物の前に立ったまま、スマートフォンを見た。
返事を待った。
蝉が鳴いていた。
山が近かった。
木の間から風が来た。
夏の風だった。
三分後だった。
親司から返信が来た。
短かった。
「そこだと思います。ただ確信ではありません。もう一度ミルクに触れてから確認します。それまで待てますか」
安藤は平を見た。
「待ちます」と平が言った。
安藤は返信した。
「待ちます。ただし急いでください。中に人がいるなら、限界があります」
送った。
建物を見た。
曇りガラスの窓から光が入っているはずだった。
中に誰かがいるとしたら、今日の光も見えているはずだった。
安藤は建物の前に立ったまま動かなかった。
平が隣にいた。
蝉が鳴き続けていた。
続きを書きます。
音がした。
小さい音だった。
車のエンジン音だった。
止まった。
澪は壁から背を離した。
男が来る音とは違った。
男はいつも夜か早朝だった。今は昼過ぎだった。時間が違った。
車の音がした後、足音がした。
一人ではなかった。
二人だった。
澪は立ち上がった。結束バンドのまま立ち上がった。
安西が顔を上げた。
「何」と安西が言った。
「誰か来ました」と澪は小声で言った。
「あの男じゃないの」
「時間が違います。足音も違います」
安西が聞き耳を立てた。
足音が建物の周りを歩いていた。
一周した。
止まった。
裏扉の前で止まった。
澪は裏扉を見た。
鍵がかかっていた。
内側からは開かない鍵だった。
それでも澪は裏扉に近づいた。
結束バンドの手で扉を叩いた。
「いますよ」と澪は叫んだ。「中にいます」
安西が立ち上がった。
「大丈夫なの」と安西は言った。
「大丈夫かどうか分かりません」と澪は言った。「でも男じゃない」
扉の外が静かになった。
澪は息を止めた。
足音が遠ざかった。
建物の横に移動した。
止まった。
スマートフォンで電話をしているような気配がした。
声は聞こえなかった。
壁が厚かった。
澪は扉に耳をつけた。
何も聞こえなかった。
それでも耳をつけていた。
安西が澪の隣に来た。
二人で扉に耳をつけた。
しばらく何も聞こえなかった。
それから足音がまた来た。
扉の前に来た。
止まった。
澪は扉を叩いた。
「聞こえますか」と澪は叫んだ。「中にいます。二人います。鍵がかかっています」
外が静かだった。
それから声がした。
低い男の声だった。
「聞こえますか」と外の声が言った。
くぐもっていた。壁越しだった。はっきりは聞こえなかった。
それでも聞こえた。
「聞こえます」と澪は叫んだ。「警察ですか」
外の声が何か言った。
聞き取れなかった。
「もっと大きい声で言ってください」と澪は叫んだ。
外の声が少し大きくなった。
「警察です。今から令状を取ります。もう少し待てますか」
澪は息を吐いた。
長い息だった。
三週間分の息だった。
「待てます」と澪は叫んだ。「二人います。怪我はありません。水が少ないです」
外の声が何か言った。
「了解しました」と聞こえた。
足音が遠ざかった。
澪は扉から離れた。
壁にもたれた。
安西が澪を見ていた。
「来ましたよ」と澪は言った。
安西は何も言わなかった。
目に光が戻っていた。
三週間ぶりの光だった。
澪は天井を見た。
小さい窓から光が入っていた。
夏の光だった。
「ミルク」と澪は小声で言った。「ありがとう」
返事はなかった。
当然だった。
でも聞こえているような気がした。
どこか遠くで、白い猫が短く鳴いたような気がした。
安西がゆっくり壁に沿って座り込んだ。
力が抜けたような座り方だった。
「終わるのね」と安西は言った。独り言のような声だった。
「終わります」と澪は言った。
「怖かった」と安西は言った。
三週間、一度も言わなかった言葉だった。
「私もです」と澪は言った。
安西が澪を見た。
「あなたも怖かったの」と安西は言った。
「ずっと怖かったです」と澪は言った。「ただ怖がっている場合じゃなかったので」
安西がまた笑った。
今度は声が出た。
小さい笑い声だった。
三週間ぶりの笑い声だった。
澪も少し笑った。
おかしくて笑ったわけではなかった。
それでも笑えた。
笑えるだけの余裕が、少し戻ってきた。
窓から光が入り続けていた。
外で蝉が鳴いていた。
今度は聞こえた。
壁越しにかすかに聞こえた。
夏の音だった。
「根古さんが来ますか」と安西が言った。
澪は少し考えた。
「足が笑っているかもしれません」と澪は言った。「来ないかもしれません」
「足が笑っている」と安西は言った。
「左足が悪いんです」と澪は言った。「でも令状が取れたら警察が来ます。
ミーコさんも来るかもしれません。幸恵さんも来るかもしれません」
「根古さんの仲間ね」
「そうです」と澪は言った。
「会ったことはないですけど、みんな信用できます」
安西は頷いた。
壁に背をつけた。
目を閉じた。
待てる顔だった。
もう少しだけ待てる顔だった。
澪は結束バンドを見た。
もう少しで外れる。
そう思った。
外れるまでの時間を、今度は怒鳴らずに待てそうだった。
続きを書きます。
令状の手続きに時間がかかっていた。
安藤は建物の前に車を停めたまま動かなかった。
平が水を二本買ってきた。どこで買ってきたのか聞かなかった。受け取って飲んだ。
「令状、時間がかかりますね」と平が言った。
「かかる」と安藤は言った。
「建物の持ち主を当たっている。登記簿を調べている。時間がかかる」
「中の人は大丈夫ですかね」
「大丈夫と言っていた」と安藤は言った。「水が少ないと言っていた」
平が建物を見た。
曇りガラスの窓が見えた。
「二人いると言っていました」と平が言った。
「柊澪さん以外に誰がいるんですかね」
安藤は水を飲んだ。
そこへスマートフォンが鳴った。
榊原だった。
「安藤」
「はい」
「建物の登記簿が出ました」と榊原は言った。「持ち主は法人です。休眠状態の会社です。実質的な管理者を当たっています」
「時間がかかりますか」
「もう少しです」榊原は少し間を置いた。「それより、中にいるもう一人の人物についてです」
安藤は姿勢を正した。
「柊澪さん以外に女性が一人いると報告しましたが」
「はい」
「根古さんから連絡が来ました」と榊原は言った。
「根古さんから」
「ミルクにもう一度触れたそうです」榊原の声が少し変わった。
「中にいるもう一人の女性について、根古さんが言っています」
「何と言っていますか」
「安西、という名前だそうです」
安藤は動かなかった。
「安西」と安藤は繰り返した。
「はい」
「安西郡司の」
「関係者だと思われます」と榊原は言った。
「根古さんは安西郡司の裁判が始まる前に関係者が消された可能性があると言っています」
安藤は建物を見た。
古い工場だった。
シャッターが下りていた。
曇りガラスの窓があった。
「証人ですか」と安藤は言った。
「可能性があります」と榊原は言った。
「安西郡司の裁判に関わる人物が閉じ込められているとすれば、動機が見えてきます」
安藤はタイヤの跡を見た。
二日に一度来る男。
食料を運ぶ男。
計画的だった。
裁判が始まるまで黙らせる。
そういう計画だった。
「郡司の関係者が動いていますか」と安藤は言った。
「当たっています」と榊原は言った。
「郡司には弟がいます。可児市在住です。自動車関係の仕事をしています」
軽トラか四駆。
自動車関係。
安藤は平を見た。
平が頷いた。聞こえていた。
「令状を急いでください」と安藤は言った。
「急いでいます」と榊原は言った。「もう少しです」
電話が切れた。
安藤は水を飲んだ。
「安西さんって」と平が言った。
「郡司の関係者だ」と安藤は言った。「裁判の証人になる可能性がある人物だ」
「証人を消すために閉じ込めた」
「おそらく」
平は建物を見た。
「柊澪さんは」と平が言った。「なぜ巻き込まれたんですかね」
安藤は少し考えた。
「タイミングが悪かったんだろう」と安藤は言った。
「安西さんを連れ去るところを見てしまったか、近くにいたか」
「運が悪かった」
「運が悪かった」と安藤は言った。「ただ」
「ただ」
「根古さんの猫が知っていた」と安藤は言った。「運が悪くても、猫が知っていた」
平が少し黙った。
「ヤマトじゃなくてミルクですよね」と平が言った。
「ミルクだ」
「白い猫ですか」
「知らない」と安藤は言った。「根古さんに聞いてくれ」
平がスマートフォンを出した。
「今ですか」
「暇だろう」と安藤は言った。「令状を待っている間だ」
平が親司に電話をかけた。
三回で出た。
「根古さん、ミルクは白い猫ですか」と平は言った。
少し間があった。
「白いです」と親司の声がした。「小さくて白い猫です」と言った。
「今ヤマトと並んで縁側にいます」
「仲良いですか」
「まあまあです」
「そうですか」平が少し笑った。「令状をもう少し待ちます」
「急いでください」と親司の声が言った。「水が少ないそうです」
「根古さんが中の状況を知っているのはなぜですか」と平が言った。
間があった。
「ミルクが教えてくれます」と親司の声が言った。
「猫がですか」
「猫がです」
平は安藤を見た。
安藤は水を飲んでいた。
「根古さんは今どこにいますか」と平は言った。
「ミーコさんの事務所にいます」と親司の声が言った。
「足が笑っています」
「湿布は貼っていますか」
「貼っています」
「幸恵さんはいますか」
「隣にいます。うるさいです」
幸恵さんの声が遠くからした。「うるさいじゃないです」と言っていた。
平がまた笑った。
「令状が取れたら連絡します」と平は言った。
「来れるかどうか分かりません」と親司の声が言った。「足が」
「無理しないでください」と平は言った。「私たちでやります」
「澪さんをよろしくお願いします」と親司の声が言った。「まだ会ったことがないので」
「会えますよ」と平は言った。
「そうですね」と親司の声が言った。
電話が切れた。
安藤が平を見た。
「何が分かった」
「ミルクは白くて小さい猫です」と平は言った。「ヤマトと仲がまあまあいいそうです」
安藤は少し黙った。
「それだけか」
「根古さんは湿布を貼っています」と平は言った。「幸恵さんがいます」
「それだけか」
「令状を待ちましょう」と平は言った。
安藤は水を飲み干した。
建物を見た。
曇りガラスの窓から光が入っているはずだった。
中に二人がいた。
三週間いた。
水が少なかった。
「急いでくれ」と安藤は小声で言った。
誰にでもなく言った。
蝉が鳴いていた。
山が近かった。
風が来た。
夏の風だった。
そこへスマートフォンが鳴った。
榊原だった。
「安藤」
「はい」
「令状が出ました」と榊原は言った。
安藤は車のドアを開けた。
「向かいます」と言った。
電話を切った。
平が立ち上がった。
「行きますか」と平が言った。
「行く」と安藤は言った。
二人は建物に向かった。
蝉が鳴いていた。
夏の午後だった。
続きを書きます。
安藤が裏扉の前に立った。
令状を持っていた。
もう一人、制服の警官が来ていた。美濃加茂署から応援を頼んでいた。三人だった。
平が扉を確認した。
「新しい鍵です」と平が言った。「ただ、扉自体は古い。蝶番が錆びています」
「壊せますか」と安藤が言った。
「壊せます」と応援の警官が言った。大柄な男だった。道具を持っていた。
安藤は扉に近づいた。
拳で叩いた。
「警察です」と安藤は言った。「令状があります。今から入ります」
中から声がした。
若い女の声だった。
「待ってました」と声が言った。
安藤は応援の警官を見た。
応援の警官が道具を構えた。
蝶番に当てた。
二回だった。
錆びた金属が外れる音がした。
扉が傾いた。
安藤が肩で押した。
開いた。
中は薄暗かった。
高い窓から光が入っていた。
目が慣れるまで少し時間がかかった。
「警察です」と安藤は言った。「安全ですか」
「安全です」と声がした。
奥にいた。
二人いた。
一人は若い女だった。
細かった。三週間でだいぶ細くなっていたのだろうと思った。それでも背筋が真っ直ぐだった。結束バンドが両手首にかかっていた。
もう一人は中年の女だった。
四十代だった。痩せていた。髪が乱れていた。壁にもたれて座っていた。
平が前に出た。
救急の道具を持っていた。
「怪我はありますか」と平が言った。
「ありません」と若い女が言った。「水が少し足りなかっただけです」
「脱水の症状は」
「私は大丈夫です。安西さんは少し」
平が中年の女に近づいた。
「安西さん、聞こえますか」と平が言った。
安西が平を見た。
「聞こえます」と安西は言った。声が掠れていた。「警察ですか」
「警察です。救急を呼んでいます。もう少し待ってください」
安西が頷いた。
目を閉じた。
安藤が若い女に近づいた。
結束バンドを切った。
若い女が手首を擦った。
赤くなっていた。三週間の跡だった。
「柊澪さんですか」と安藤は言った。
「そうです」と澪は言った。
安藤を見た。
真っ直ぐな目だった。
三週間、閉じ込められていた目ではなかった。
「根古さんを知っていますか」と澪は言った。
安藤は少し驚いた。
「知っています」と安藤は言った。
「猫のいるおじさんですね」と澪は言った。
「そうです」と安藤は言った。
「ミルクが伝えましたか」と澪は言った。
「伝えました」と安藤は言った。
澪が少し笑った。
薄暗い建物の中だった。
三週間ぶりの外の風が入ってきた。
夏の風だった。
澪が目を閉じた。
一秒だけ閉じた。
それから開けた。
「安西さんを先に出してください」と澪は言った。「私は歩けます」
安藤は頷いた。
平と応援の警官が安西を支えた。
ゆっくり立ち上がった。
足がふらついていた。
三週間、ろくに動いていなかった足だった。
扉のほうへ向かった。
光が入ってきた。
外の光だった。
安西が光の中に出た。
目を細めた。
眩しそうだった。
三週間ぶりの外の光だった。
澪が後ろからついて行った。
扉をくぐった。
外に出た。
夏の空だった。
青かった。
雲が少しあった。
山が見えた。
木の間から光が差していた。
澪は空を見た。
しばらく見た。
動かなかった。
安藤が隣に来た。
「大丈夫ですか」と安藤は言った。
「大丈夫です」と澪は言った。
「救急が来ます。念のため診てもらってください」
「はい」
澪はまだ空を見ていた。
「蝉が鳴いていますね」と澪は言った。
「鳴いています」と安藤は言った。
「中からは聞こえなかったです」と澪は言った。「壁が厚くて」
「そうですか」
「でも今聞こえます」と澪は言った。
蝉が鳴いていた。
山から来る風があった。
夏の匂いがした。
腐葉土と、どこかの花の甘い残り香と、岩の湿った冷たさが混じった匂いだった。
澪が深く息を吸った。
長い息だった。
三週間分の息だった。
それから吐いた。
平が水を差し出した。
「どうぞ」と平が言った。
澪は受け取った。
一口飲んだ。
冷たかった。
「ありがとうございます」と澪は言った。
平が頷いた。
少し離れた場所で安西が座り込んでいた。
応援の警官が支えていた。
救急の音が遠くから聞こえてきた。
近づいてきた。
澪はスマートフォンを出した。
なかった。
「スマートフォンを取り上げられています」と澪は言った。
安藤がスマートフォンを差し出した。
「使ってください」と安藤は言った。
澪は受け取った。
番号を押した。
電話をかけた。
三回で出た。
「はい」と女の声が言った。
「お母さん」と澪は言った。
声が少し揺れた。
三週間で初めて揺れた声だった。
「澪」と木綿子の声がした。
それだけだった。
それだけで十分だった。
澪は空を見たまま電話を持っていた。
母親の声が聞こえていた。
泣いているのか笑っているのか、どちらとも取れる声だった。
澪は泣かなかった。
笑った。
小さく笑った。
「大丈夫です」と澪は言った。「怒鳴り続けました」
木綿子が何か言った。
聞き取れなかった。
泣いていた。
澪はもう一度笑った。
救急車が来た。
サイレンが止まった。
白い車が砂利の上に停まった。
夏の光の中だった。
安西が担架に乗せられた。
目が開いていた。
空を見ていた。
澪と同じ空を見ていた。
青い空だった。
雲が流れていた。
山の木が風に揺れていた。
蝉が鳴いていた。
夏はまだ続いていた。
安藤はスマートフォンを出した。
榊原に電話した。
「確保しました」と安藤は言った。「二人とも無事です」
「そうですか」と榊原は言った。
「柊澪さんは元気です」と安藤は言った。「安西さんは脱水気味ですが意識はあります」
「根古さんに伝えます」と榊原は言った。
「はい」安藤は澪を見た。救急隊員に何か話していた。真っ直ぐな目だった。「一つ報告があります」
「何ですか」
「柊澪さんが最初に聞いたのは、根古さんのことでした」と安藤は言った。
榊原が少し間を置いた。
「そうですか」
「猫のいるおじさんですね、と言いました」と安藤は言った。
榊原はまた間を置いた。
「そうですか」ともう一度言った。
それだけだった。
電話が切れた。
安藤はスマートフォンをしまった。
平が隣に来た。
「終わりましたね」と平が言った。
「終わっていない」と安藤は言った。「閉じ込めた人間がいる」
「そうですね」と平が言った。「でも」
「でも」
「二人は出てきました」と平が言った。
安藤は空を見た。
青かった。
「そうだな」と安藤は言った。
蝉が鳴いていた。
山の木が風に揺れていた。
夏の午後だった。
続きを書きます。
ミーコの事務所だった。
古いビルの二階だった。窓から可児の町が見えた。山も見えた。鳩吹山が見えた。
親司はソファに座っていた。
左足を伸ばしていた。
ミルクが膝の上にいた。
事務所に連れてきていた。木綿子が許可した。ミルクは知らない場所でも動じなかった。賢い猫だった。
ミーコがデスクで書類を見ていた。
幸恵がソファの端で親司の膝の様子を時々確認していた。
三人と一匹だった。
ヤマトは家にいた。
留守番だった。
スマートフォンが鳴ったのは午後三時過ぎだった。
榊原だった。
出た。
「根古さん」
「はい」
「確保しました」と榊原は言った。「二人とも無事です」
親司は動かなかった。
ミルクが親司の膝の上で短く鳴いた。
「そうですか」と親司は言った。
声が少し出なかった。
「柊澪さんは元気だそうです」と榊原は言った。「安藤が言っていました。真っ直ぐな目をしていたと」
「そうですか」
「安西さんは脱水気味ですが意識があります。救急で運ばれています」
「二人とも」と親司は言った。
「二人とも無事です」と榊原は言った。
親司は窓の外を見た。
鳩吹山が見えた。
夏の光の中にあった。
「ありがとうございます」と親司は言った。
「こちらこそです」と榊原は言った。「根古さんがいなければ、もっと時間がかかりました」
「ミルクがいなければ、儂には何も分かりませんでした」
「そうですか」と榊原は言った。「猫に感謝ですね」
「そうです」
榊原は少し間を置いた。
「柊澪さんが最初に根古さんのことを聞いたそうです」と榊原は言った。
「安藤さんから聞きましたか」
「はい」榊原の声が少し和らいだ。「猫のいるおじさんですね、と言ったそうです」
親司は膝のミルクを見た。
白い猫だった。
小さかった。
三週間、澪が溺愛していた猫だった。
「そうですか」と親司は言った。
「会いに来ると思います」と榊原は言った。「柊澪さんが」
「そうですね」
「その時は」榊原は少し止まった。「よろしくお願いします」
珍しい言い方だった。
榊原が誰かのことをよろしくお願いします、と言うのは珍しかった。
「分かりました」と親司は言った。
電話が切れた。
ミーコが立ち上がった。
デスクから来た。
ソファの前に立った。
「聞こえました」とミーコは言った。
「そうですか」
「無事ですね」
「無事です」
ミーコは少し目を閉じた。
一秒だけ閉じた。
それから開けた。
目が少し赤かった。
泣かなかった。
ミーコはそういう人だった。
幸恵が親司の隣に来た。
何も言わなかった。
ただ隣にいた。
しばらく三人とも何も言わなかった。
ミルクがごろごろと鳴いた。
静かな音だった。
事務所に満ちた。
「よかった」と幸恵が言った。
小さい声だった。
独り言のような声だった。
「よかったです」と親司は言った。
ミーコが窓の外を見た。
「鳩吹山が見えます」とミーコは言った。
「見えますね」と親司は言った。
「マタタビを取りに行った山ですね」
「そうです」
「そこから始まりました」とミーコは言った。
「始まりましたね」と親司は言った。
三人で窓の外を見た。
-----------------------
鳩吹山が夏の光の中にあった。
動かなかった。
ずっとそこにあった山だった。
これからもそこにある山だった。
「おじさん」とミーコが言った。
「何ですか」
「三峰温泉、いつ行きますか」
親司はミルクを見た。
白い猫が膝の上にいた。
「澪さんが退院したら」と親司は言った。
「連れて行くんですか」とミーコが言った。
「師匠と呼ぶつもりらしいので」と親司は言った。「一度くらい連れて行ってもいいかと思います」
幸恵が笑った。
小さい笑い声だった。
ミーコも少し笑った。
「私たちも行きます」とミーコは言った。
「女湯と男湯は別です」と親司は言った。
「知っています」とミーコは言った。「毎回同じことを言いますね」
「毎回同じことを言うから言います」
幸恵がまた笑った。
ミルクが伸びをした。
小さい体が少し大きくなった。
また丸くなった。
目を閉じた。
眠そうだった。
ずっと伝え続けていた猫だった。
疲れているのかもしれなかった。
疲れていいと親司は思った。
よく伝えてくれたと思った。
「ミルク」と親司は小声で言った。
白い猫の耳が少し動いた。
「ありがとう」と親司は言った。
ミルクは目を開けなかった。
ごろごろという音が続いた。
窓の外で鳩吹山が光を受けていた。
蝉が鳴いていた。
夏の午後だった。
穏やかだった。
続きを書きます。
翌日だった。
榊原から電話が来たのは朝の九時過ぎだった。
親司は縁側にいた。
ヤマトが膝にいた。
ミルクは木綿子が引き取っていた。
昨夜遅くに来た。ミルクを抱き上げた時の木綿子の顔を親司は見なかった。
見なくてよかった。そういう顔だった。
「根古さん」と榊原が言った。
「はい」
「安西さんのことが分かりました」
「そうですか」
「聞けますか」
「聞けます」
榊原は少し間を置いた。
「安西郡司の弟に内縁の妻がいました」と榊原は言った。「安西文子、四十四歳です」
親司は動かなかった。
「郡司の弟の名前は安西隆二、四十九歳です」と榊原は続けた。「可児市在住。自動車関係の仕事をしています」
タイヤの跡。
軽トラか四駆。
自動車関係。
「隆二が閉じ込めたんですか」と親司は言った。
「そう見ています」と榊原は言った。「隆二は郡司の逮捕後から様子がおかしかったと近所の人間が言っています。兄が逮捕されてから、文子さんとの関係が変わったようです」
「文子さんが何かを知っていたんですか」
「知っていました」と榊原は言った。「十一年前のことを」
親司はヤマトを見た。
黒猫は庭を見ていた。
「文子さんは当時から隆二と付き合っていましたか」と親司は言った。
「付き合っていました」と榊原は言った。「当時三十三歳でした。郡司の家に出入りしていました。佳代さんとも顔見知りでした」
佳代さん。
花屋に勤めていた人だった。
鳩吹山が好きだった人だった。
「文子さんは見ていたんですか」と親司は言った。
「見ていたかどうかは分かりません」と榊原は言った。「ただ、知っていた。何かを知っていた。郡司の逮捕後に文子さんが警察に話をしようとしたと、隆二が察したようです」
「それで閉じ込めた」
「そう見ています」
親司は右手を見た。
建物の中で流れ込んできたものを思った。
暗い場所ではなかった。
光があった。
山の光だった。
怒鳴っていた若い声があった。
負けていない声だった。
それから途切れていた。
途切れた先に文子がいた。
「文子さんは今どうしていますか」と親司は言った。
「入院しています」と榊原は言った。「脱水と衰弱です。ただ、意識はある。昨夜から話せています」
「話していますか」
「話しています」と榊原は言った。「止まらないそうです。十一年間、黙っていたものが出てきているようです」
十一年間。
郡司が十一年間黙っていたように、文子も十一年間黙っていた。
重さが違った。
郡司の沈黙は罪の沈黙だった。
文子の沈黙は恐怖の沈黙だった。
「何を話していますか」と親司は言った。
「十一年前の夜のことです」と榊原は言った。
声が低くなった。「郡司の家に隆二と一緒にいました。
夜遅くでした。郡司と佳代さんが激しく言い合っていました。
文子さんと隆二は別の部屋にいました。それから」
「それから」
「音がしなくなったそうです」と榊原は言った。
「突然、静かになった。隆二が文子さんに、聞かなかったことにしろと言いました。
見なかったことにしろと言いました」
親司は目を閉じた。
音がしなくなった夜を思った。
その夜に九歳の圭介が眠っていた。
同じ屋根の下にいた。
「文子さんは従いましたか」と親司は言った。
「従いました」と榊原は言った。
「隆二が怖かったからだと言っています。それから十一年間、黙っていました。
郡司が逮捕されて、初めて話そうと思いました」
「隆二がそれを察した」
「そうです」
親司はヤマトを見た。
黒猫はまだ庭を見ていた。
「圭介くんには」と親司は言った。
「まだ伝えていません」と榊原は言った。「ミーコさんと相談しながら進めます」
「そうですね」
「根古さん」と榊原が言った。
「何ですか」
「文子さんが一つ聞いたそうです」
「何を」
「根古さんのことを聞いたそうです」と榊原は言った。「鳩吹山で見つけたのはどんな人かと」
親司は少し間を置いた。
「何と答えましたか」と親司は言った。
「猫のいるおじさんだと答えました」と榊原は言った。
猫のいるおじさん。
澪も同じことを言っていた。
安藤から聞いていた。
「文子さんはなんと言いましたか」と親司は言った。
「会いたいと言いました」と榊原は言った。「退院したら会いに行ってもいいかと」
親司はヤマトを見た。
ヤマトが振り返った。
親司を見た。
「構いません」と親司は言った。「鍵はかけていないので」
榊原が短く息を吐いた。
「鍵をかけてください」と榊原は言った。
「ミーコさんと同じことを言いますね」と親司は言った。
「当然のことを言っています」
「そうですか」
「根古さん」と榊原が言った。
「何ですか」
「隆二の行方を追っています」と榊原は言った。
「昨日から姿が見えません。ただ、遠くへは逃げられません。時間の問題です」
「そうですか」
「根古さんは何か分かりますか」
親司は右手を見た。
少し考えた。
「今日は分かりません」と親司は言った。「疲れています」
「そうですか」
「足も笑っています」
「湿布は」
「貼っています」
「幸恵さんに診てもらってください」
「また来るつもりだと思います」
「そうですか」榊原は少し間を置いた。「根古さん」
「何ですか」
「今回は本当に複雑になりました」と榊原は言った。
「郡司の件、文子さんの件、澪さんの件、隆二の件」
「そうですね」
「全部繋がっていました」
「マタタビから始まりましたね」と親司は言った。
榊原は少し黙った。
「そうですね」と言った。「マタタビから始まりました」
誰も予想しなかった、という言い方だった。
「根古さん」と榊原が言った。
「何ですか」
「次に鳩吹山へ行く時は、一人で行かないでください」
「太田さんと行きます」
「太田さん以外にも」
「ミーコさんと幸恵さんがついてきます。黙っていても来ます」
「そうですか」榊原は少し笑ったような声を出した。声には出さなかった。
「それならいいです」
電話が切れた。
親司はスマートフォンを置いた。
ヤマトが膝に乗ってきた。
「文子さんていうんやて」と親司はヤマトに言った。「四十四歳やて。十一年間、黙っとったんやて」
ヤマトは何も言わなかった。
「隆二が怖かったんやて」
ヤマトが短く鳴いた。
「そうやな」と親司は言った。「怖かったんやろな。ずっと」
庭の夏草が風に揺れた。
白い花がまだ咲いていた。
昨日と同じ花だった。
雨に濡れても、風に揺れても、まだそこにあった。
佳代さんが好きだった花かどうか、やっぱり分からなかった。
分からなくてもいいと思った。
咲いていればいいと思った。
「なあ」と親司はヤマトに言った。
ヤマトは庭を見た。
「色々あるな」と親司は言った。
ヤマトが一度だけ、短く鳴いた。
そうやな、と言っているような声だった。
蝉が鳴いていた。
夏はまだ続いていた。
続きを書きます。
安西隆二は車を走らせていた。
あてはなかった。
昨日から走り続けていた。
美濃加茂を出た。可児を避けた。山の方へ入った。それだけだった。
軽トラだった。荷台に何も積んでいなかった。
いつもは何か積んでいた。
食料だった。水だった。
もう積む必要がなかった。
警察が来たのは昨日の昼過ぎだった。
古い工場に警察の車が来たのを遠くから見た。
終わったと思った。
その瞬間に終わったと分かった。
逃げた。
どこへ逃げるかは考えなかった。
ただ走った。
山道に入っていた。
舗装が途切れた。
砂利道になった。
木が両側から迫ってきた。
夏の木だった。
葉が茂っていた。
光が遮られていた。
薄暗かった。
隆二は車を停めた。
エンジンを切った。
静かになった。
蝉が鳴いていた。
遠くで水の音がした。
沢だった。
隆二はハンドルに額をつけた。
疲れていた。
昨日から眠っていなかった。
食べていなかった。
水だけ飲んでいた。
兄のことを思った。
郡司が逮捕されたのは十日前だった。
分かっていた。
いつかこうなると分かっていた。
十一年間、分かっていた。
だから文子を黙らせ続けた。
だから三週間前に閉じ込めた。
全部兄のためだった。
兄を守るためだった。
兄が守れなかったものを、自分が守ろうとした。
間違っていたと思わなかった。
間違っていたと思いたくなかった。
ハンドルから額を離した。
窓の外を見た。
木だった。
夏の木だった。
その向こうに空があった。
青かった。
雲が流れていた。
隆二はドアを開けた。
外に出た。
砂利を踏んだ。
沢の音がした。
近づいた。
木の間を抜けた。
沢があった。
小さい沢だった。
水が透明だった。
石の上を流れていた。
隆二はしゃがんだ。
水に手を入れた。
冷たかった。
夏なのに冷たかった。
山の水だった。
顔を洗った。
目を閉じた。
冷たさが額に広がった。
目を開けた。
水の中に自分の顔が映った。
四十九歳の顔だった。
疲れた顔だった。
十一年間、疲れ続けた顔だった。
足音がした。
沢の向こうからではなかった。
後ろからだった。
隆二は振り返らなかった。
「安西隆二さんですか」
男の声だった。
若い声ではなかった。
落ち着いた声だった。
隆二は立ち上がった。
振り返った。
男が一人いた。
スーツだった。
夏物だった。
暑そうに見えない顔だった。
白髪交じりの短髪だった。
「榊原警部ですか」と隆二は言った。
男が少し目を細めた。
「そうです」と榊原は言った。
「名前を知っていますか」
「文子から聞きました」と隆二は言った。
「兄が逮捕された時に担当した警部だと」
榊原は動かなかった。
「ここが分かりましたか」と隆二は言った。
「タイヤの跡を追いました」と榊原は言った。
「あなたはよくここへ来ていたようですね」
隆二は沢を見た。
「子供の頃から来ていました」と隆二は言った。
「兄と二人で来ていました」
「そうですか」
「兄が釣りが好きでした」と隆二は言った。「下手でしたが」
榊原は何も言わなかった。
「一匹も釣れなくても、ここに来るのが好きでした」と隆二は言った。「兄は」
水の音がした。
蝉が鳴いていた。
「文子は」と隆二は言った。
「病院にいます」と榊原は言った。「話しています」
「そうですか」
「柊澪さんは元気です」と榊原は言った。
隆二は少し目を閉じた。
「あの子は関係なかった」と隆二は言った。「ただ、見てしまった」
「見てしまった」
「文子を連れて行くところを」と隆二は言った。「偶然通りかかって、見てしまった。だから」
「だから一緒に閉じ込めた」
「傷つけてはいない」と隆二は言った。「食料も水も運んだ。傷つけるつもりはなかった」
榊原は動かなかった。
「それが言い訳にならないことは分かっています」と隆二は言った。
「分かっているなら」と榊原は言った。
「分かっていても」と隆二は言った。「兄を守りたかった」
沢の水が流れていた。
冷たい水だった。
石の上を流れていた。
「兄は」と隆二は言った。「悪い人間ではなかった。ただ、あの夜だけ」
「あの夜だけ」と榊原は繰り返した。
隆二は答えなかった。
水を見た。
透明な水だった。
「守れませんでしたね」と隆二は言った。独り言のような声だった。
「兄を。佳代さんを。文子を。あの子を。誰も守れなかった」
「そうですね」と榊原は言った。
静かな言い方だった。
責めていなかった。
ただ事実として言った。
隆二は榊原を見た。
疲れた目だった。
「行きます」と隆二は言った。
「はい」と榊原は言った。
隆二は沢に背を向けた。
砂利を踏んだ。
榊原が隣に来た。
二人で歩いた。
木の間を抜けた。
軽トラが停まっていた。
その後ろに黒いセダンが停まっていた。
安藤が立っていた。
平巡査が立っていた。
隆二は止まらなかった。
歩き続けた。
安藤の前で止まった。
両手を出した。
何も言わなかった。
安藤が手錠をかけた。
金属の音がした。
夏の山の中だった。
蝉が鳴いていた。
水の音がした。
沢はまだそこで流れていた。
子供の頃から流れていた沢だった。
これからも流れ続ける沢だった。
隆二は空を見た。
青かった。
雲が流れていた。
「兄に」と隆二は言った。
安藤を見た。
「伝えてもらえますか」と隆二は言った。「もう終わりにしろと」
安藤は少し間を置いた。
「伝えます」と安藤は言った。
隆二は頷いた。
それだけだった。
セダンの後部座席に乗った。
ドアが閉まった。
窓の外に木が見えた。
夏の木だった。
走り出した。
木が流れていった。
山道を下りていった。
舗装道路に出た。
可児の町が見えた。
鳩吹山が見えた。
夏の光の中にあった。
ずっとそこにある山だった。
隆二は目を閉じた。
蝉の声が遠くなった。
町の音が近くなった。
夏はまだ続いていた。
安藤は軽トラの前に立っていた。
平が隣にいた。
セダンが山道を下りていくのを見ていた。
見えなくなった。
「終わりましたね」と平が言った。
「終わっていない」と安藤は言った。
「裁判がある。文子さんの証言がある。圭介の時間がある」
「そうですね」と平が言った。「でも」
「でも」
「捕まえました」と平が言った。
安藤は空を見た。
青かった。
「そうだな」と安藤は言った。
スマートフォンを出した。
榊原に電話した。
「確保しました」と安藤は言った。
「そうですか」と榊原は言った。「根古さんに伝えます」
「はい」と安藤は言った。
電話を切った。
平が軽トラを見た。
「根古さんは今どこにいますか」と平が言った。
「家にいると思う」と安藤は言った。「ヤマトと縁側にいると思う」
「ミルクは」
「木綿子さんが引き取った」
「そうですか」と平は言った。「ヤマトは寂しくないですかね」
安藤は少し考えた。
「根古さんがいる」と安藤は言った。
平が頷いた。
「そうですね」と言った。
二人は車に乗った。
山道を下り始めた。
木が流れていった。
鳩吹山が見えてきた。
夏の光の中にあった。
蝉が鳴いていた。
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五日後だった。
朝から晴れていた。
夏の終わりに近い晴れだった。
光が少し変わっていた。
真夏の強さではなかった。
少しだけ、秋の予感があった。
親司は縁側にいた。
ヤマトが膝にいた。
麦茶を飲んでいた。
何も考えていなかった。
何も考えない時間が好きだった。
玄関の引き戸が鳴った。
ノックだった。
遠慮がちなノックではなかった。
三回、はっきり叩いた。
「開いています」と親司は言った。
引き戸が開いた。
足音が入ってきた。
軽い足音だった。
躊躇いがなかった。
「失礼します」
若い女の声だった。
元気な声だった。
三週間、建物の中で怒鳴り続けた声だった。
親司は縁側から動かなかった。
土間に女が立っていた。
細かった。
五日で少し戻っていたが、まだ細かった。
髪が短かった。
目が大きかった。
よく動く目だった。
部屋を見た。
天井を見た。
ヤマトを見た。
親司を見た。
「根古親司さんですか」と澪は言った。
「そうです」と親司は言った。
澪は少し間を置いた。
それから深く頭を下げた。
「柊澪です」と言った。「ミルクがお世話になりました」
「ミルクが助けてくれました」と親司は言った。
「儂はミルクの言葉を聞いただけです」
澪が顔を上げた。
目が光っていた。
泣いているのではなかった。
そういう目だった。
感情がそのまま出る目だった。
「座りなさい」と親司は言った。
「そこの座布団でいい」
澪が縁側の手前に座った。
正座だった。
背筋が真っ直ぐだった。
ヤマトが親司の膝から降りた。
澪に近づいた。
匂いを嗅いだ。
一周した。
それから澪の膝に乗った。
澪が目を丸くした。
「乗っていいですか」と澪は言った。
「ヤマトが決めることです」と親司は言った。
「そうですか」澪はヤマトを見た。「ヤマトさん」と言った。
ヤマトは動かなかった。
乗ったまま丸くなった。
澪がそっと背中を撫でた。
ぎこちなかった。
ミルクとは違う撫で方だった。
ヤマトは気にしなかった。
「ミルクとは違いますね」と澪は言った。
「ヤマトはヤマトです」と親司は言った。
「そうですね」澪はヤマトを撫でながら親司を見た。「根古さん」
「何ですか」
「三週間、信じていました」と澪は言った。
「何を信じていましたか」
「根古さんが来ると」と澪は言った。「ミルクが伝えに行くと。根古さんが見つけてくれると」
「会ったことがなかったのに」と親司は言った。
「会ったことがなくても」と澪は言った。
「太田さんの茶店で聞いていました。木下先生にも聞いていました。鳩吹山の話も聞いていました」
「噂が先行していましたね」と親司は言った。
「根古さんはどんな人だろうと思っていました」と澪は言った。
「どんな人でしたか」
澪は親司を見た。
じっと見た。
遠慮のない目だった。
「思っていた通りでした」と澪は言った。
「どんなことを思っていましたか」
「風采が上がらないおじさんだと思っていました」と澪は言った。
親司は麦茶を飲んだ。
「そうですか」と言った。
「でも」と澪は言った。
「でも」
「ヤマトが膝に乗るおじさんです」と澪は言った。「それで十分です」
ヤマトがごろごろと鳴いた。
澪の膝の上で鳴いた。
親司の膝でもなく、澪の膝で鳴いた。
「珍しいですね」と親司は言った。
「何がですか」
「ヤマトが初対面でごろごろ言うのは珍しいです」
澪がヤマトを見た。
嬉しそうな顔だった。
隠さない顔だった。
「根古さん」と澪は言った。
「何ですか」
「師匠と呼んでいいですか」と澪は言った。
親司は少し間を置いた。
「断ります」と親司は言った。
「なぜですか」
「儂には教えられることがありません」と親司は言った。「能力は教えられない。体で覚えるものでもない。ただそういうものが見える人間がいる、それだけです」
「そうですか」と澪は言った。
「そうです」
澪は少し考えた。
「根古さんと呼びます」と澪は言った。
「それでいいです」
「でも」と澪は言った。
「でも」
「いつかは師匠と呼ばせてください」と澪は言った。「根古さんが認めるまで待ちます」
親司は麦茶を飲んだ。
「待っていても無駄です」と親司は言った。
「待ちます」と澪は言った。
迷わなかった。
三週間、建物の中で待ち続けた子だった。
待つことには慣れているのかもしれなかった。
「麦茶でいいですか」と親司は言った。
「いただきます」と澪は言った。
「冷蔵庫にしかないので」と親司は言った。「取ってきてください。自分の分だけでいい」
澪が立ち上がった。
ヤマトが膝から降りた。
不満そうな顔だった。
澪が台所に向かった。
迷わなかった。
初めての台所だったが迷わなかった。
冷蔵庫を開ける音がした。
「麦茶しかないですね」と台所から声がした。
「麦茶があれば十分です」と親司は言った。
「そうですね」と声がした。
戻ってきた。
麦茶を持っていた。
縁側に座った。
飲んだ。
「おいしいです」と澪は言った。
「麦茶です」と親司は言った。
「麦茶がおいしいです」と澪は言った。「三週間、麦茶を飲みたかったです」
「そうでしたか」
「水しかなかったので」と澪は言った。
しばらく二人とも黙った。
ヤマトが戻ってきた。
澪の膝ではなく親司の膝に乗った。
澪が少し笑った。
「さっきは私の膝に乗りましたよ」と澪は言った。
「気まぐれです」と親司は言った。
「猫はそういうものですね」と澪は言った。
庭の夏草が風に揺れた。
白い花がまだ咲いていた。
「根古さん」と澪は言った。
「何ですか」
「安西さんは」と澪は言った。「どうしていますか」
「退院しました。一昨日」と親司は言った。「ミーコさんが支援しています」
「そうですか」澪は庭を見た。「三週間一緒にいました。名前しか知りません。でも」
「でも」
「強い人でした」と澪は言った。「最初は目が虚ろでした。でも最後は待てる顔になっていました」
「そうですか」
「根古さんが来ると言いました」と澪は言った。「そうしたら待てる顔になりました」
親司は右手を見た。
何も言わなかった。
「根古さん」と澪はもう一度言った。
「何ですか」
「これから」と澪は言った。「また何かあった時に、一緒に来ていいですか」
「来ていい、とは言えません」と親司は言った。
「なぜですか」
「危ないことがあります」と親司は言った。「儂は足が笑います。あなたを守れません」
「私が根古さんを守ります」と澪は言った。「格闘技ができます」
「知っています」
「合気道と空手です」と澪は言った。「どちらも三段です」
「知りませんでした」と親司は言った。
「太田さんに聞きませんでしたか」
「太田さんは格闘技の話はしませんでした」
澪が少し笑った。
「私が根古さんの左足をカバーします」と澪は言った。「霊的なことは根古さんに任せます。物理的なことは私が対処します」
「都合のいい話ですね」と親司は言った。
「そうです」と澪は言った。「都合がいいですが、理にかなっています」
親司はヤマトを見た。
ヤマトは目を細めていた。
気持ちよさそうだった。
何も言わなかった。
「ミーコさんと幸恵さんに怒られます」と親司は言った。
「二人にはもう挨拶しました」と澪は言った。
「いつですか」
「昨日です」と澪は言った。「退院した日に事務所に行きました」
「それは」と親司は言った。「余計なことをしましたね」
「余計ではありません」と澪は言った。「ミーコさんに言われました。おじさんが余計なことをしないように見張っていてほしいと」
親司は麦茶を飲んだ。
「ミーコさんはよく喋りますね」と親司は言った。
「幸恵さんにも言われました」と澪は言った。「根古さんが無理をしたら止めてほしいと」
「二人して言いましたか」
「声が揃っていました」と澪は言った。
親司は庭を見た。
白い花が風に揺れていた。
「分かりました」と親司は言った。
澪が少し目を丸くした。
「来ていいですか」と澪は言った。
「来ていいとは言っていません」と親司は言った。「ただ、ミーコさんと幸恵さんが決めたことに儂は逆らえません」
澪が笑った。
声が出た。
明るい笑い声だった。
三週間、建物の中では出せなかった笑い声だった。
ヤマトが少し顔を上げた。
それから目を閉じた。
気にしなかった。
「根古さん」と澪は言った。笑いが収まってから言った。
「何ですか」
「ありがとうございます」と澪は言った。
「ミルクに言ってください」と親司は言った。
「ミルクには昨日言いました」と澪は言った。「根古さんにはまだ言っていなかったので」
「そうですか」
「ありがとうございました」と澪はもう一度言った。
今度は頭を下げた。
深く下げた。
しばらく上げなかった。
親司は何も言わなかった。
庭を見た。
白い花が揺れていた。
夏の終わりに近い風だった。
少し涼しかった。
「麦茶、おかわりしていいですか」と澪は言った。顔を上げて言った。
「どうぞ」と親司は言った。「自分で取ってきてください」
「分かりました」と澪は言った。
立ち上がった。
台所に向かった。
迷わなかった。
二回目だから迷わなかった。
もうこの台所を知っている歩き方だった。
冷蔵庫を開ける音がした。
ヤマトが親司を見た。
「来るつもりですよ」と親司はヤマトに小声で言った。「また来ます。何度でも来ます」
ヤマトは何も言わなかった。
目を細めた。
知っている、という顔だった。
澪が麦茶を持って戻ってきた。
縁側に座った。
飲んだ。
「やっぱりおいしいです」と澪は言った。
「麦茶です」と親司は言った。
「根古さんの家の麦茶です」と澪は言った。
親司は何も言わなかった。
庭の白い花が揺れていた。
蝉が鳴いていた。
夏の終わりだった。
まだ終わっていなかったが、終わりに近かった。
二人と一匹で縁側に座っていた。
静かな朝だった。
続きを書きます。
一週間後だった。
朝から晴れていた。
夏の終わりの晴れだった。
空が少し高かった。
光が少し柔らかかった。
真夏ではなかった。
まだ秋でもなかった。
その間の、短い時間だった。
三峰温泉の駐車場に車が三台停まった。
ミーコの黒いコンパクトカーが先に来た。
太田の古いワゴンが次に来た。
親司の軽自動車が最後に来た。
一番遅かった。
左足をかばいながら運転していた。
澪が助手席にいた。
「着きましたね」と澪は言った。
「着きました」と親司は言った。
「遠かったですね」
「遠くないです」と親司は言った。「ここは近いほうです」
「そうですか」澪は窓の外を見た。「いい場所ですね」
山が見えた。
木が茂っていた。
空気が違った。
町とは違う空気だった。
駐車場に全員が集まった。
ミーコがいた。
幸恵がいた。
太田がいた。
澪がいた。
親司がいた。
五人だった。
「全員揃いましたね」とミーコが言った。
「初めてですね」と幸恵が言った。「こんなに揃ったのは」
「澪ちゃんは初めてですね」とミーコが言った。
「よろしくお願いします」と澪は言った。深く頭を下げた。
「よろしく」と太田が言った。「根古のことを頼みます」
「頼まれました」と澪は言った。
「儂を頼む必要はありません」と親司は言った。
「足が笑うでしょう」と太田が言った。
「今日は笑っていません」と親司は言った。「湿布を貼っています」
「何枚ですか」と幸恵が言った。
「一枚です」
「足りません」と幸恵が言った。鞄から湿布を出した。「もう一枚貼ってください」
「温泉に入ったら剥がれます」と親司は言った。
「入る前に貼り替えます」と幸恵は言った。
澪が小さく笑った。
ミーコが苦笑した。
太田が空を見た。
「ええ天気やな」と太田が言った。
「そうですね」とミーコが言った。
五人で空を見た。
青かった。
雲が少しあった。
高い雲だった。
秋に近い雲だった。
温泉に入った。
男湯と女湯に分かれた。
当然だった。
男湯は親司と太田だった。
二人だった。
平日の朝だった。
他に客はいなかった。
湯船に入った。
広かった。
露天だった。
山が見えた。
木の間から空が見えた。
お湯が体に広がった。
親司は目を閉じた。
左膝に湯をあてた。
じんじんしていたものが、ゆっくりほぐれていった。
「ええな」と太田が言った。
「ええですね」と親司は言った。
しばらく何も言わなかった。
湯の音だけがした。
鳥の声がした。
遠くで沢の音がした。
「色々あったな」と太田が言った。
「色々ありましたね」と親司は言った。
「佳代さんが見つかって」と太田が言った。
「はい」
「文子さんが話して」
「はい」
「澪ちゃんが出てきて」
「はい」
「隆二が捕まって」
「はい」
「圭介くんは」と太田が言った。
「ミーコさんが支援しています」と親司は言った。「少しずつ、自分の時間を作っているそうです」
「そうか」
「会いに来ると言っていました」と親司は言った。「またヤマトに会いに来ると」
「ヤマトが好きなんやな」と太田が言った。
「そうみたいです」
太田が湯に体を沈めた。
首まで浸かった。
気持ちよさそうな顔だった。
「おじさん」と太田が言った。
「何ですか」
「次はいつマタタビ取りに行くんや」
親司は目を開けた。
空を見た。
高い空だった。
「秋になったら」と親司は言った。
「秋のマタタビか」
「ヤマトがまだ欲しがっています」と親司は言った。
「また何か見つけるんやないか」と太田が言った。
「そうかもしれません」と親司は言った。
「そうでないかもしれません」
「そうでないかもしれません」
太田がまた空を見た。
「どっちでもええな」と太田が言った。
「どっちでもいいです」と親司は言った。
「行くこと自体がええんや」と太田が言った。
「そうですね」
湯の音がした。
鳥の声がした。
山が静かだった。
女湯のほうだった。
ミーコと幸恵と澪が入っていた。
三人だった。
露天だった。
同じ山が見えた。
同じ空が見えた。
「気持ちいいですね」と澪は言った。
「来てよかったでしょう」とミーコが言った。
「よかったです」と澪は言った。「三週間ぶりにちゃんと湯船に入りました」
「そうですね」と幸恵が言った。「建物の中ではお風呂がなかったから」
「シャワーもなかったです」と澪は言った。「体を拭くだけでした」
「辛かったですね」と幸恵が言った。
「慣れました」と澪は言った。
「慣れてはいけません」とミーコが言った。
「そうですね」と澪は言った。笑いながら言った。
三人で湯に浸かった。
しばらく黙った。
「根古さん、どうですか」と澪は言った。
「何が」とミーコが言った。
「人として、どうですか」と澪は言った。「私は一週間しか知らないので」
ミーコと幸恵が顔を見合わせた。
「どこから話せばいいですかね」とミーコが言った。
「引きこもりで」と幸恵が言った。
「温泉好きで」とミーコが言った。
「麦茶しか冷蔵庫にない」と幸恵が言った。
「鍵をかけない」とミーコが言った。
「無理をする」と幸恵が言った。
「止められない」とミーコが言った。
「でも」と幸恵が言った。
「でも」とミーコが繰り返した。
二人が少し間を置いた。
「放っておけない人です」と幸恵が言った。
「そうですね」とミーコが言った。「私たちが放っておけないし、根古さんも人を放っておけない」
澪は湯に浸かったまま空を見た。
「そうですね」と澪は言った。「一週間で分かりました」
「どこで分かりましたか」と幸恵が言った。
「台所に麦茶しかないのに」と澪は言った。「おかわりを取ってきていいと言いました。初対面なのに」
ミーコが少し笑った。
「それが根古さんです」とミーコは言った。
「師匠と呼びたいです」と澪は言った。
「断られましたね」と幸恵が言った。
「断られました」と澪は言った。「でも待ちます」
「諦めないんですね」とミーコが言った。
「三週間待てました」と澪は言った。「これくらい待てます」
三人で笑った。
湯の音がした。
山が静かだった。
空が高かった。
上がって、休憩室に集まった。
五人が揃った。
広い部屋だった。
畳だった。
縁側から山が見えた。
太田が麦茶を頼んだ。
五人分来た。
澪が受け取った。
一口飲んだ。
「根古さんの家の麦茶と同じ味ですね」と澪は言った。
「麦茶は麦茶です」と親司は言った。
「そうですね」と澪は言った。「でも同じ味がします」
幸恵が笑った。
ミーコも笑った。
太田が空を見た。
親司は縁側から山を見た。
夏の終わりの山だった。
木が少し色を変え始めていた。
ほんのわずかだった。
気づかなければ気づかない程度だった。
「根古さん」と澪が言った。
「何ですか」
「秋になったら鳩吹山へ行きますか」と澪は言った。
「マタタビを取りに行きます」と親司は言った。
「連れて行ってください」と澪は言った。
「危ないことはありません」と親司は言った。「ただのマタタビです」
「それでも」と澪は言った。「行きたいです」
親司は山を見た。
鳩吹山ではなかった。
別の山だった。
それでも山は山だった。
「考えます」と親司は言った。
「考えてください」と澪は言った。
迷わなかった。
待てる子だった。
「おじさん」とミーコが言った。
「何ですか」
「今日は何も考えないでください」とミーコは言った。「事件のことも、能力のことも、足のことも」
「足は考えていません」と親司は言った。
「ヤマトのことは考えていいです」と幸恵が言った。
「ヤマトは今頃何をしていますかね」と澪が言った。
「縁側で寝ています」と親司は言った。
「確かですか」と太田が言った。
「確かです」と親司は言った。
「なんで分かるんですか」と澪が言った。
「いつもそうです」と親司は言った。「今日も同じです」
澪が笑った。
ミーコが笑った。
幸恵が笑った。
太田が空を見た。
笑わなかった。
ただ空を見た。
目が細くなっていた。
満足そうな目だった。
五人で縁側から山を見た。
夏の終わりだった。
空が高かった。
光が柔らかかった。
鳥の声がした。
風が来た。
山の風だった。
温泉の匂いがまだ残っていた。
「また来ましょうね」とミーコが言った。
誰かに言ったのではなかった。
全員に言った。
「来ます」と幸恵が言った。
「来ます」と澪が言った。
「来ますよ」と太田が言った。
親司は何も言わなかった。
麦茶を飲んだ。
ぬるくなりかけていた。
それでもうまかった。
山が見えた。
空が見えた。
風が来た。
夏の終わりの風だった。
もう少しで秋になる風だった。
秋になったら鳩吹山へ行こうと思った。
マタタビを取りに行こうと思った。
ヤマトが喜ぶと思った。
また何か見つけるかもしれなかった。
見つけないかもしれなかった。
どちらでもいいと思った。
行くことが大事だと思った。
太田がさっき言った通りだった。
「根古さん」と澪が言った。
「何ですか」
「秋になったら絶対連れて行ってください」と澪は言った。
「考えます」と親司は言った。
「考えてください」と澪は言った。
笑いながら言った。
知っている笑い方だった。
一週間で覚えた笑い方だった。
考えます、が連れて行くと同じ意味だということを、もう知っていた。
親司は何も言わなかった。
麦茶を飲んだ。
山が見えた。
ヤマトが縁側で寝ているはずだった。
黒い猫が丸くなっているはずだった。
帰ったら撫でてやろうと思った。
それだけだった。
それで十分だった。
夏の終わりだった。




