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神域の穢れ

五月の昼下がり。


根古親司は縁側で缶コーヒーを飲んでいた。


ヤマトが膝の上で丸くなっている。風が気持ちいい。明日は下呂だ。予約も入れてある。

硫黄の匂いを思い浮かべながら、根古は二口目を飲んだ。


インターホンが鳴った。


ヤマトが耳をぴくりと動かした。根古は動かなかった。


もう一度鳴った。


「……」


三度目が鳴る前に、根古は重い腰を上げた。ヤマトが迷惑そうに目を細めた。


玄関を開けると、松平秀麿が立っていた。


普段は神主の装束か、せめてきちんとしたシャツを着ているはずの男が、よれよれのポロシャツ姿で立っている。

目の下に隈がある。頬がこけていた。


「……親司さん」


「見りゃわかる」と根古は言った。「上がれ」


台所でインスタントコーヒーを二つ作った。松平の前に置いて、向かいに座る。


しばらく、二人とも黙っていた。


ヤマトが部屋に入ってきて、松平の足元を一度嗅いで、興味をなくして去った。


「本殿の裏に」と松平がようやく口を開いた。「骨が出た」


「警察は」


「古いものやろ、で終わった。捜査はされとらん」


根古はコーヒーを一口飲んだ。「それだけか」


松平は首を振った。「夜中に人影が出る。御神体の前に、知らん供物が置かれとる。

巫女のバイトの子が……声が聞こえると言って辞めた」


「何日前や」


「供物は、三週間前から。人影は……もっと前から、氏子の何人かが見とる。骨が出たのは先週や」


根古は天井を見た。


「ワシ、明日下呂の予約しとったんやけど」


松平が深く頭を下げた。「わかっとる。すまん」


「キャンセル料、お前払えよ」


松平は顔を上げなかった。「……払う」


根古は缶コーヒーの残りを飲み干した。空き缶をテーブルに置いて、立ち上がった。


「今から行くで」


可児市の外れ、山裾に寄り添うように建つ神社だった。


参道の石畳は苔むしていて、鳥居の朱が少し褪せている。古い神社だ。大きくはない。

地元の氏神様、という風情で、観光客が来るような場所でもない。


根古は鳥居の前で立ち止まった。


松平が隣に並ぼうとしたのを、手で制した。


「一人で入る。お前はここで待っとれ」


「しかし??」


「お前がおると、ごちゃごちゃする」


松平は口をつぐんだ。


根古は鳥居をくぐった。


参道を歩いた三歩目で、右手が熱を持ち始めた。


じわり、と。じんわりと。まるで湯に浸けたように。


根古は手を見なかった。ただ歩いた。砂利を踏む音が静かに響く。


拝殿の前に立つ。

供物台の上に、小さな包みがあった。白い紙に包まれた何か。松平が言っていたものだろう。


根古はゆっくりと手を伸ばした。


指先が白紙に触れた瞬間??


暗転。


土の匂い。


夜だ。


懐中電灯の光が地面を照らしている。男の手が見える。スコップを持っている。

土を掘っている。必死に。荒い息をしながら。

掘っている。


掘っている。


掘り終えて、男は立ち上がった。後ろ姿しか見えない。中肉中背。年齢は五十前後か。


男は長い時間、その場に立っていた。


やがて手を合わせた。


合わせた手が、小刻みに震えていた。


罪悪感ではない、と根古は思った。


安堵だ。


何かから、解放されたような。


映像が消えた。


根古は拝殿の前に立っていた。右手が少し痺れている。


「……十五年、いや、もう少し前か」


頭の中で声がした。山伏のものだ。根古の守護霊の一体。

普段はほとんど喋らない、無口な存在だが、こういう時だけ口を開く。


『此処には、もう一人おる』


「わかっとる」と根古は小声で返した。「まだ、ここにおるんやな」


返事はなかった。


根古は本殿の裏へと歩いた。

白骨が出たという場所には、規制線も何もなかった。


警察がそれほど重視していないということだろう。

根古はしゃがんで地面を見た。土が少し盛り上がっている。雨で形が崩れかけているが、掘り返した跡だとわかる。


右手を地面に近づけた。

触れなかった。

触れなくてもわかった。

ここに、誰かが長い時間いた。

待っていた。


誰かに、何かを、伝えようとしながら。

根古は立ち上がった。腰が少し痛い。膝も痛い。

五十八歳の体というのは、しゃがむだけでこういうことになる。


「……帰りにムハンマドのカレー食っていくか」


誰にともなく呟いた。

守護霊たちは何も言わなかった。

鳥居の外で待っていた松平は、根古の顔を見て何か言いかけた。


根古は「飯食ってから話す」とだけ言った。

国道沿いのファミレスに入った。根古はハンバーグ定食を頼んだ。

松平はコーヒーだけ頼んで、食欲がないと言った。


根古はハンバーグを黙って食った。

食い終わったところで、スマホが震えた。


LINEだった。

アイコンは日系ブラジル人風の顔写真に「RODRIGUES」と書いた名刺を持った男。

ロドリゲス斎藤。

「おっさん、今どこ?」

根古は無視した。


「例の神社やろ」

根古は顔を上げた。松平を見た。松平は首を傾げた。


「俺、先月動画撮っとったわそこ」

「コメント欄やばいことなっとるで」


根古は舌打ちをした。小さく、しかし確実に。

「誰や」と松平が聞いた。


「ほっとけばええ奴や」と根古は言った。「ほっといても来る奴でもある」

三十分後、ファミレスの入口からロドリゲス斎藤が入ってきた。


五十二歳。がっしりした体格。日系ブラジル人の父と日本人の母を持つ顔立ち。

派手ではないが目立つ。首からカメラを下げていて、肩には大きなバッグ。

バイヤーの仕事をしながらYouTubeチャンネルを運営している男だ。


チャンネル名は「ロドリゲスの岐阜穴場さんぽ」。登録者は二万三千人。

「おっさん、連絡返せや」

「お前に返す義理はない」

斎藤は根古の向かいに、松平の隣に、断りもなく座った。松平が少し身を引いた。


「神主さんやろ、あんた。俺、動画撮らせてもろたことある」斎藤は松平に軽く頭を下げた。

「ロドリゲス斎藤です。バイヤーとYouTubeやっとります」


松平が戸惑いながら会釈した。

根古はコーヒーを飲んだ。「それで、コメント欄がどうした」

斎藤はバッグからタブレットを取り出した。画面を開いて、二人の前に置いた。

先月アップした動画??「【岐阜穴場】地元民も知らない?可児の隠れた鎮守さまを歩く」??のコメント欄だった。


再生数は八千ほど。コメントは百二十件。

その中に、明らかに異質なものが混じっていた。

「あそこの裏、昔ひどいことがあったのに誰も言わんのやね」

「供養されてない人がいるって昔から言われてたのに」

「神主は知ってる。先代から引き継いどるはずや」

「名前も呼んでもらえんまま、ずっとそこにおるんやで」


根古は画面を見た。

松平の顔が、白くなっていくのがわかった。

「このアカウント、今は」

「削除されとる」と斎藤は言った。「コメントついた翌日には消えとった。

でも俺、全部スクショ撮っといた」


根古が斎藤を見た。

「なんで撮った」

「バイヤーやもん」斎藤は当然のように言った。

「情報は財産や。消えそうなもんは保存する。体に染み付いとる」


根古は少し間を置いた。

「……ご苦労さん」

「褒めてくれるんや」

「褒めてへん」


斎藤はけらけら笑った。松平はまだ青い顔をしていた。

「このコメント書いた人間に心当たりはあるか」と根古は松平に聞いた。

松平は首を振った。


速すぎる首の振り方だった。

根古はそれ以上聞かなかった。

代わりに斎藤に言った。「この件、動画にするなよ」

「わかっとる」斎藤は珍しく真顔になった。「俺、そういう趣味ないわ」


根古は立ち上がった。財布を出して、ハンバーグ定食の分だけ置いた。

「松平、お前の分はお前が払え」

「あ、俺は」と斎藤が言いかけた。

「お前も自分で払え」

斎藤はまたけらけら笑った。


外に出ると、五月の風が吹いていた。

根古はスマホを取り出して、一件の番号を呼び出した。

イエンガー・ムハンマド。


「飯食いに行っていいか」と根古は言った。

電話の向こうで、少し間があった。

「根古さん、来ると思ってたよ」

根古は何も言わずに電話を切った。


カレー屋「スパイスと祈り」は、国道から一本入った路地にある。

看板は手書きで、色褪せている。窓に貼られたメニューの紙も年季が入っている。

外から見ると何の店かわからないと言う人間もいるが、昼時には行列ができる。十五年、この場所で営業している。


根古は暖簾をくぐった。

カウンター五席、テーブルが二つ。小さな店だ。昼のピークは過ぎていて、客は一人だけだった。

イエンガー・ムハンマドがカウンターの中に立っていた。


五十五歳。南インド系の顔立ち。白髪交じりの髪。穏やかな目をしている。

この男と話すと、なぜか人は余計なことまで喋ってしまう。根古はそれを経験則で知っていた。自分も例外ではない。


「チキンカレーでいいですか」とムハンマドは聞いた。

「ああ」と根古は言って、カウンターに座った。

「辛さは」

「いつも通りで」


ムハンマドは鍋に向かった。スパイスの香りが立ち上がる。根古は黙って待った。

カレーが出てきた。


チキンが大きい。ナンが厚い。根古はひと口食べた。

うまい。


いつ来てもうまい。これが腹立たしい。うまいと認めると、また来てしまうから。

「神社の件ですね」とムハンマドが言った。


根古はナンをちぎる手を止めなかった。「なんで知っとる」

「松平さん、先週ここに来ましたよ。カレー食べて、何も言わずに帰った」

「……そうか」


「顔を見ればわかります」ムハンマドはカウンターを拭きながら言った。

「あの人、ずっと重いものを持っとる顔してる。私がここに来て最初の年から、そういう顔してた」


根古はカレーを食べた。

「十五年前に、この辺で女が失踪した話、知っとるか」

ムハンマドは手を止めなかった。ただ少し、間があった。

「知ってます」

「話せるか」

「話せることだけ」とムハンマドは言った。「でも根古さんには、それで足りると思う」


ムハンマドはナンをもう一枚持ってきて、カウンターに座った。

営業中に座ることは滅多にない。根古はそれだけで、この話の重さを測った。


「私がここに店を開けた年です。

まだ地元に馴染めなくて、いろんな人に挨拶して回ってた」ムハンマドは静かに話した。

「氏子の集まりにも顔を出した。そこで聞いた話です」


「氏子の有力者がいた。地元の建設業者で、神社にも多額の寄付をしていた男だった」

「その男が」

「女性と揉めた、と聞きました。

詳しいことは誰も言わなかった。ただ……その後、女性の姿が見えなくなった。

家族は県外に引っ越したと言っていたけど、誰も見送っていない」


根古はナンをちぎった。

「その建設業者は」

「八年前に亡くなってます。病気で」ムハンマドは少し目を伏せた。

「亡くなる前に、神社に大きな寄付をした。先代の神主??松平さんのお父さんが受け取った」

「……」


「地元では、それを『口止め料だ』と言う人もいた。私は何も知らないから、何も言えなかった。でも」

ムハンマドは根古を見た。


「その女性の名前は、タブーになってます。誰も口にしない。

家族も、もうここにはいない。誰も、名前を呼んでいない」


根古はしばらく黙っていた。

カレーの皿が空になっていた。

「その女性の名前は」

「私は聞いてません」とムハンマドは言った。「本当に。誰も、私には教えてくれなかった」


根古は立ち上がった。財布を出した。

「いくらや」

「今日はいいです」


「受け取れ」根古は千円札を二枚、カウンターに置いた。

「お前の話はいつも値打ちがある。タダで聞く気にならん」

ムハンマドは少し笑った。


「またカレー食べに来てください」

「……来たる」


根古は暖簾をくぐった。

外に出ると、日が傾いていた。

空が橙色になっている。

根古はしばらく立ったまま、その色を見ていた。


「名前か」と小さく呟いた。

誰も答えなかった。


風だけが、少し強く吹いた。


夜の十一時過ぎ。

根古は軽自動車を神社の手前の路地に停めた。

エンジンを切ると、虫の声だけが残った。五月の夜は、まだ少し肌寒い。

助手席に置いた缶コーヒーを一口飲んだ。

ぬるくなっていた。

「……行くか」

誰にともなく言って、車を降りた。


懐中電灯は使わなかった。

月が出ていた。それで十分だった。

鳥居をくぐる。昼間と同じ砂利を踏む音が、夜は妙に大きく聞こえた。

根古は歩調を変えなかった。参道を歩いて、拝殿の前を通り過ぎて、本殿の裏へ回った。

土が盛り上がっている場所は、月明かりでも見つかった。

根古はその前にしゃがんだ。

右手を地面に近づけた。

触れた。


夜だった。

同じ場所だった。ただし今よりずっと前の夜だ。木が若い。鳥居の朱が鮮やかだ。

二人の人間がいた。

男と、女だった。

言い争っている。声は聞こえない。映像だけだ。でも激しいことはわかった。

女が何かを訴えている。男が首を振っている。女が男の腕を掴んだ。男が振り払った。

女が、よろめいた。

段差があった。本殿裏の古い石段だ。

女が倒れた。

男が固まった。

長い時間、男は動かなかった。

やがて男はしゃがんだ。女の首に手を当てた。


立ち上がった。

辺りを見回した。

スコップを取りに行った。


根古は目を開けた。

右手が強く痺れていた。額に汗をかいていた。膝が震えていた。これは寒さではない。

立ち上がろうとして、少しよろけた。石段に手をついた。

「……事故やったんか、殺しやったんか」

答えは出なかった。映像だけでは、そこまでわからない。

守護霊の気配が集まってくるのを感じた。山伏、巫女、戦国武将、猫又。

四体が根古の周りに静かに集まっている。

巫女が口を開いた。

『神主さん、知ってはったんやろか』

「……さあな」

根古は石段に腰を下ろした。立っていられなかった。体が重い。リモートビューイングの後はいつもこうなる。

月を見上げた。

その時。


空気が変わった。

じわり、と。

昼間とは違う。もっと濃い。もっと近い。

根古の右手が、今度は自分の意思とは関係なく、熱を持ち始めた。

「……来るんか」

静かに言った。構えなかった。右手を握りしめなかった。

ただ、待った。


それは怒りではなかった。

殺意でも、恨みでも、呪いでもなかった。

もっと静かな何かだった。

長い時間、ここで待っていた何かが、ゆっくりと根古の方へ近づいてきた。

根古は目を閉じた。

右手の熱が、肩まで上がってきた。

「……わかった」

根古は言った。

「ワシが聞いたる。しゃべってみい」


声は聞こえなかった。

映像もなかった。

ただ、何かが根古の中に流れ込んできた。

悲しみではなかった。

疲れだった。

長い、長い疲れだった。

ここで待ち続けることの疲れ。誰にも気づかれないことの疲れ。

名前を呼ばれないことの疲れ。

そして最後に、一つだけ。

はっきりとしたものが来た。

名前だった。

自分の名前を、呼んでほしいという、それだけだった。


根古は目を開けた。

月が雲に隠れていた。

右手の熱が、すうっと引いていった。

根古はしばらく動かなかった。石段の冷たさが、ズボン越しに伝わってきた。

「……名前か」

小さく言った。

猫又がそっと根古の隣に来た気がした。何も言わなかった。ただそこにいた。

根古は立ち上がった。今度はよろけなかった。

懐中電灯もつけずに、参道を歩いた。砂利を踏む音が、来た時よりも静かに聞こえた。

鳥居をくぐって、車に戻った。

助手席のぬるい缶コーヒーを飲んだ。

最後の一口だった。

「……松平に電話するか」

時計を見た。夜中の一時をとっくに過ぎていた。

「……明日でええわ」

根古はシートを少し倒して、目を閉じた。

五分後には寝ていた。


翌朝、根古は車の中で目を覚ました。

首が痛かった。腰も痛かった。五十八歳の体で車中泊をするものではない。

缶コーヒーは空だった。


スマホを見ると、松平から三件の着信があった。夜中の二時、三時、四時。

根古は電話をかけた。

二コール目で出た。


「親司さん」

「今から行く」と根古は言った。「飯食ってからな」


コンビニでおにぎりを二つ買って、駐車場で食べた。

梅と、鮭。どちらも普通の味がした。

食べながら、昨夜のことを整理した。


男の顔。映像の中で見た男の顔。中肉中背、五十前後。建設業者。八年前に死んでいる。

女が倒れた場面。段差。男が固まった時間。

事故か、殺しか。


どちらにせよ、男は埋めた。隠した。そして安堵した。

先代神主は金を受け取った。


松平は、どこまで知っているのか。

根古はおにぎりの袋を丸めて、コンビニのゴミ箱に捨てた。


神社の社務所に松平がいた。

顔色は昨日より悪かった。夜通し眠れなかったのだろう。

根古を見た瞬間、何かを察したような顔になった。


「わかったんやな」と松平は言った。

「座れ」と根古は言った。

二人は社務所の畳の上に向かい合って座った。


根古はしばらく黙っていた。

松平も黙っていた。

先に口を開いたのは根古だった。


「名前を教えてくれ」

松平の目が揺れた。

「……何の」

「わかっとるやろ」


松平は膝の上で手を組んだ。組んだ手が、白くなるほど強く握られた。

「……親父から、聞いた」


根古は何も言わなかった。


「俺が神主を継いだ年や。親父が死ぬ前に、打ち明けてきた」松平の声は低く、平坦だった。

感情を抑えているのではなく、もう何度も自分の中で繰り返してきた言葉のように聞こえた。

「十五年前に、氏子の河合という男が、女性ともめた。境内で。夜中に。揉み合いになって、女性が石段から落ちた」


「河合は」

「パニックになって……埋めた。親父に連絡してきた。親父は……止めなかった」


根古は畳の目を見た。

「止めなかっただけか」

松平は答えなかった。

「手伝ったんか」

「……片付けを、手伝った、と言っとった」


根古はゆっくりと息を吐いた。

「お前は」


「俺は何も知らんかった。本当に」松平の声が、初めて揺れた。

「継いだ時に聞かされて……でも河合はもう死んどった。親父も翌年に死んだ。

警察に言おうとしたら、何もかも終わりになる。神社も、氏子も、親父の名前も」


「それで黙っとったんか」

「……ずっと、毎朝、本殿の前で手を合わせながら」松平は目を伏せた。

「その人に、すまんと思いながら。名前も知らんまま」


根古は立ち上がった。

社務所の窓から、本殿の屋根が見えた。朝の光の中で、古い瓦が静かに光っていた。


「名前を教えてくれと言うたんは、お前にやない」

松平が顔を上げた。

「その人が、名前を呼んでほしいと言っとった」根古は窓の外を見たまま言った。

「怒っとらんかった。呪っとらんかった。ただ……ずっと待っとったんや。

誰かに、自分がここにおったと、知ってほしかっただけや」


松平の目から、涙が落ちた。

声は出なかった。ただ、涙だけが落ちた。

「名前は」と根古は言った。

「……三輪、礼子さん」と松平は言った。「河合の、遠縁の女性やったと聞いた。三十二歳やったと」

根古は目を閉じた。


三輪礼子。

三十二歳。


「礼子さん」と根古は静かに言った。

社務所の空気が、わずかに動いた気がした。

窓の外で、木の葉が揺れた。

風は吹いていなかった。


しばらく、二人とも動かなかった。

やがて根古は松平に向き直った。

「あとは警察に任せい」

松平は涙を拭いて、根古を見た。

「……全部、話すか」


「お前が判断することやない」根古は言った。

「礼子さんが、ここにおったことを、ちゃんとした形で残してやれ。それがお前のできる、唯一のことや」


松平はゆっくりと頷いた。

深く、頭を下げた。

「……ありがとう」

根古は返事をしなかった。


社務所を出た。

参道を歩いた。

砂利を踏む音が聞こえた。


鳥居の手前で、根古は立ち止まった。

振り返った。

本殿の屋根。古い瓦。朝の光。

何もいなかった。


ただ、朝の空気があった。

静かで、清潔な空気が。

根古は鳥居をくぐった。

「……たまたまや」


誰もいない参道に向かって、小さく言った。

守護霊たちは、今回は何も言わなかった。


下呂温泉に着いたのは、昼過ぎだった。

一日遅れだった。宿は松平が電話して、キャンセルではなく一泊延長に変えておいてくれた。

キャンセル料は松平が払った。延長料金も松平が払った。根古は当然のように受け取った。


宿は古い旅館だった。飛騨川沿いに建っていて、部屋から川が見える。

根古が気に入っている宿だ。名前は覚えていないが、場所は体が覚えている。

チェックインして、荷物を置いて、そのまま大浴場へ向かった。

湯船に沈んだ。

熱い。

ちょうどいい。


根古は目を閉じた。

肩まで浸かって、天井を見た。古い木の天井だ。湯気が立ち上って、木目がぼんやりと霞んでいる。

右手の痺れが、ゆっくりと溶けていくのがわかった。

膝の痛みも。腰の痛みも。首の痛みも。

全部、湯の中に溶けていく。

「……ええな」


誰もいない大浴場で、根古は小さく言った。

守護霊たちの気配があった。


山伏が湯船の縁に腰掛けているような気がした。巫女が遠くで笑っているような気がした。

戦国武将が腕を組んで仁王立ちしているような気がした。猫又が湯気の中をするりと泳いでいるような気がした。


『お前、また温泉で事件を拾ったのか』

「拾っとらん」と根古は言った。「持ち込まれたんや」

『毎回そう言う』

「毎回そうやから仕方ないやろ」

守護霊たちが笑った気がした。声はなかった。ただ、笑った気がした。


根古は湯に顎まで沈んだ。

礼子さんのことを思った。

十五年。

十五年、あの神社の裏にいた。誰にも気づかれないまま。名前も呼ばれないまま。

怒っていなかった。

それが根古には、怒りよりも重かった。


怒っていれば、まだ燃料がある。

怒りは力だ。恨みも呪いも、生きているうちに似ている。

でも礼子さんのものは、そうじゃなかった。

ただ疲れていた。

ただ待っていた。


名前を呼んでもらっただけで、静かに消えた。

「……ええ人やったんやろな」

根古は湯の中で、そっと言った。

返事はなかった。


でも、なんとなく、そう思った。

一時間湯に浸かって、部屋に戻った。

浴衣に着替えて、縁側に出た。


飛騨川が見えた。夕方の光の中で、川面が橙色に光っていた。

自販機で缶コーヒーを買ってきて、縁側に座った。

一口飲んだ。

うまかった。


温泉の後の缶コーヒーは、なぜかうまい。

根古にはその理由がわからないが、毎回うまいから、きっとうまいのだろう。

スマホが震えた。


ロドリゲス斎藤からLINEだった。

「動画、どこまで使っていいん?」

「神社の件、続報あったら教えてや」

「おっさん今どこ?」

根古は画面を見た。

既読にした。

返信はしなかった。


ムハンマドからもメッセージが来ていた。

「どうなりましたか」

「またカレー食べに来てください」

根古は少し考えて、一言だけ返した。

「行ったる」


すぐに既読がついた。

返信は来なかった。

それでよかった。


夕飯は部屋食だった。

飛騨牛の朴葉味噌。鮎の塩焼き。山菜の煮物。冷酒が一本。

根古は黙って食べた。

うまかった。

全部うまかった。


食べながら、特に何も考えなかった。川の音を聞いて、飯を食って、酒を飲んだ。それだけだった。

それだけでよかった。


翌朝、チェックアウトの前にもう一度湯に入った。

朝の湯は夜より少し温度が低い。それがまた気持ちよかった。

誰もいない大浴場で、根古は湯船の縁に頭を預けた。

天井を見た。


木目がある。湯気がある。静かだ。

「礼子さん」

小さく呼んでみた。

返事はなかった。


もういない。

根古はそれを確かめて、目を閉じた。

ちゃんと消えた。

ちゃんと、逝った。

「……ええかった」


帰り道、高速を使わずに国道を走った。

山の中の道だ。新緑が眩しい。五月の山は、やたらと緑が濃い。

カーラジオからJAZZが流れていた。根古は音量を少し上げた。演歌は嫌いではない。


可児市に入ったところで、ペットショップに寄った。

ヤマトのための高級猫缶を三つ買った。まぐろ、かつお、鯛。全部違う種類にした。

レジで千二百円払った。

「……高いな」


呟いたが、棚に戻しはしなかった。

家に帰ったのは、夕方だった。

玄関を開けると、廊下の奥にヤマトがいた。

座っていた。

こちらを見ていた。


根古が荷物を置いて、しゃがんだ。

「ただいま」

ヤマトは立ち上がった。

近づいてきた。


根古の手に頭を押し付けた。

一回だけ。

それだけで、また踵を返して、奥に歩いて行った。

根古はその背中を見た。


「……そうか」

立ち上がった。

台所に行って、缶コーヒーを冷蔵庫から出した。

縁側に出た。


座った。

一口飲んだ。

庭の木に、鳥が一羽来て、また飛んでいった。

夕方の光が、庭に長い影を作っていた。


根古は何も考えなかった。

ただ、缶コーヒーを飲んだ。

ヤマトが縁側に来て、根古の隣に座った。

二人で、庭を見た。


何も言わなかった。

何も言わなくてよかった。


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