星野由紀子
教会での集まりから三日後、根古は雨月と一石を伴って、多治見市内の小さな事務所を訪ねた。
由紀子が指定した場所だった。看板もない雑居ビルの二階、ドアには「星野リサーチ」とだけ書かれたプレートがある。
中に入ると、由紀子は窓際の机で書類を整理していた。
「来ましたね」由紀子は顔を上げた。「座ってください」
根古、雨月、一石が並んで座った。 由紀子は三人を見渡し、静かに話し始めた。
「まず、名乗ります。星野由紀子というのは、今使っている名前です。
十二年前まで、公安に籍を置いていました」 「一石さんの調べと一致するな」根古が言った。
「当時、私が担当していた案件の一つが、鷺田義雄のネットワークでした」由紀子は言った。
「昭和の終わりから平成にかけて、公安は義雄の存在を把握していました。ただ、証拠が薄く、義雄自身が高齢で表舞台から退いていたため、優先順位が低い案件として、事実上、棚上げにされていた」
「なぜ棚上げに」雨月が聞いた。 「政治的な事情です」由紀子は言葉を選ぶように言った。「片桐さんが言っていた『Y代議士』??その血筋は、今も政界に残っています。義雄の裏切りの記録を掘り返せば、その血筋にも火の粉が飛ぶ。だから、公安の上層部は、この件に深入りすることを避けました」 「それで、あんたは辞めたのか」根古が聞いた。
由紀子は小さく頷いた。
「棚上げにされた案件を、個人的に追い続けることにしました。組織にいては、これ以上調べられない。だから、外に出ました」由紀子は根古を見た。
「五年前、根古昌也さんが動き始めたことを知りました。私は接触しようとしましたが、その前に昌也さんは亡くなった」 「親父が死んだことに、あんたは関わっていないのか」 「関わっていません」由紀子はまっすぐ根古を見た。
「もし関わっていれば、今夜あなたの前に、こうして姿を見せることはなかったでしょう」
根古はしばらく由紀子を見つめた。 嘘をついている目ではなかった。
「なぜ今になって、康介に接触した」根古が聞いた。
「ロシア側のネットワーク再構築の動きを、去年から追っていました」由紀子は言った。
「ウクライナ戦争が始まってから、日本国内の古い情報ルートを掘り起こそうとする動きが活発になった。
義雄の作ったネットワークも、その一つでした。康介がそれを継いでいることも、早くから把握していました」 「なぜ、公安として動かない」一石が聞いた。
「公安として動けば、また政治的な理由で握り潰されます」由紀子は言った。
「だから、個人として動きました。根古さんが動いていることを知って、便乗させてもらった、というのが正直なところです」
雨月が身を乗り出した。 「昨夜、御嵩方面で見張っていた男を雇っていたのは、あなたですね」 「はい」由紀子は認めた。
「皆さんの動きも、康介の動きも、両方把握しておく必要がありました。すみませんでした」 「謝罪はいらない」根古は言った。
「ただ、これからは、隠し事なしでやってほしい」 「約束します」
根古はしばらく黙っていたが、やがて聞いた。
「これから、あんたはどうする」 「康介から受け取ったUSBの記録を、しかるべきところに渡します」由紀子は言った。
「政界の血筋にまで届くよう、慎重にルートを選びますが??必ず届けます。義雄個人を裁くことより、ネットワークそのものを終わらせることが目的です」 「それには賛成だ」根古は言った。
*
事務所を出ると、外は夕暮れだった。 一石が根古の隣に並んだ。
「星野由紀子については、今後も見張らせてもらう」一石は言った。
「悪気はなさそうだが、単独で動く人間は、いずれ組織と衝突する」 「好きにしろ」根古は言った。「ただ、敵には回すな」 「分かっている」
雨月が伸びをした。 「これで、一区切りですね」 「一区切りだ」根古は空を見上げた。
夕焼けが川面を染めていた。「だが、まだ終わっていない。義一さんの手紙、義雄の証言、片桐とモーシェの再会??全部が揃って、ようやく親父が何を追っていたか分かった。
だが、なぜ親父があの夜、あの場所で死んだのか??本当の意味での最後のピースが、まだ足りない」
根古は木曽川を見た。 五十年前、同じ川を見ていた人間たちがいた。
義一、義雄、片桐、モーシェ、ボリス。 そして、根古昌也。
「木下邸の焼け跡に、まだ何かが埋まっている気がする」根古は静かに言った。
「行くのか」雨月が聞いた。 「行く」根古は車に向かって歩き出した。「今度こそ、最後まで」




