施設のベッド
朝の七時、根古は自宅の台所で革のケースを開けた。
中には黄ばんだ書類の写しが十数枚。ロシア語と日本語が混在し、ところどころ手書きの注釈がある。
根古はコーヒーを淹れる手も止めて、一枚ずつ読み進めた。
最初の数枚は、昭和四十年代の安藤家と鷺田義雄の間で交わされた連絡記録だった。
暗号めいた言い回しが多いが、片桐が余白に日本語で解説を書き加えている。
――「北の客」は安藤家を経由したソ連側の連絡員。「南の客」は当時の右派政治家、名前は伏せられているが「Y代議士」とだけある。
さらに数枚めくると、金銭のやり取りを記録した帳簿らしきものが出てきた。
数字と日付が並び、片桐の注釈には「義雄が両方から受け取っていた分配金の記録。ボリスが入手し、俺に見せた」とあった。
根古はコーヒーを一口飲んで、最後の一枚を見た。 それは短い手紙だった。
差出人の署名はない。だが文字の癖に見覚えがあった。
――昌也へ ――お前が調べていることは、俺にも分かっている。
俺の兄のことだ。俺は兄を止められなかった。だが、これ以上お前が近づけば、兄はお前を消す。頼むから、もう調べるな。
――俺にできることは、これだけだ。
根古は手紙をしばらく見つめた。 「鷺田義一……」根古は呟いた。
この手紙は、義一が根古昌也に宛てて書いたものだ。兄の義雄を止められないと知りながら、それでも息子の命を守ろうとした父親の言葉だった。
義一は、根古の父を助けようとしていた。それでも昌也は死んだ。
携帯が鳴った。雨月からだった。 「根古さん、鷺田美也子さんに連絡が取れました。今日の午前中なら会えるそうです」 「行く。場所は」
「可児市内の喫茶店です。それと??」雨月は少し声を落とした。
「昨夜、御嵩方面で動いていた見張りの一人が、身元不明のまま姿を消しました。一石さんの部下が確認しようとした矢先に」 「消されたか」 「分かりません。ただの逃走かもしれない」雨月は言った。
「気をつけてください」
*
同じ朝、鷺田康介はホテルの部屋で、パソコンの画面を見ていた。 星野由紀子という名前を、可能な限り調べていた。だが、公的な記録にはほとんど出てこない。ただ一つ、五年前の週刊誌の記事に、名前だけが小さく載っていた。
――「政財界の裏面史に詳しいフリーの調査員」
それ以上の情報はなかった。まるで、意図的に消されているようだった。
康介は画面を閉じ、煙草に火をつけた。
携帯が鳴った。ロシア側の連絡員からだった。
「星野由紀子について、少し分かった」連絡員は言った。
「表の記録はほとんどないが、裏では有名だ。かつて公安に籍を置いていたが、十年前に退職している。退職の理由は不明。以来、フリーで裏の調査を請け負っている。政治家の醜聞、企業の不正、そういう案件を専門にしているらしい」 「公安上がりか」 「厄介な相手だ」連絡員は言った。
「彼女が本気であれば、お前のロシアとの繋がりを表に出すことは可能だろう」 「取引に応じろということか」 「お前が決めることだ」連絡員は言った。
「ただし、こちらとしては、お前が捕まることは望まない。ネットワークが露見すれば、我々も困る」
電話を切ると、康介はしばらく黙って窓の外を見ていた。
祖父義雄の作ったネットワーク。継いだ意味。父義一が守ろうとしたもの。
康介は施設にいる義雄のことを思い出した。
九十二歳、認知症を患い、もう会話らしい会話もできない。それでも康介は月に一度、面会に行っていた。義雄が誰かも分からなくなっても、康介だけは覚えているような気がしたからだ。
康介はコートを着た。 施設に行こう、と思った。
*
可児市内の老人ホームは、川沿いの静かな場所にあった。
根古は美也子との約束の前に、施設の前を車で通り過ぎた。
雨月から聞いた住所だ。窓越しに、車寄せに黒いセダンが停まっているのが見えた。
根古は少し離れた場所に車を停め、様子を窺った。
セダンから降りてきたのは、康介だった。 根古はダニロに電話をかけた。
「康介が老人ホームに来ている。義雄に会いに来たようだ」 「確認しますか」ダニロの声が聞こえた。 「いや、まだ動くな。美也子さんとの約束が先だ。だが康介の動きは見ておきたい」
根古は施設のロビーが見える位置に車を停め直した。
康介が受付で何か言い、奥へ通されていくのが見えた。
*
施設の一室、義雄はベッドに座り、窓の外を見ていた。
九十二歳、白髪も薄くなり、頬がこけている。目は開いているが、焦点がどこにあるのか分からない。 「おじいさん」康介はベッドの脇に座った。
「康介です。分かりますか」 義雄はゆっくりと康介を見た。
しばらく、何も反応がなかった。
それから、掠れた声で言った。 「……昌也か」 康介の背中に、冷たいものが走った。
「違います。康介です。あなたの孫です」 義雄は少し首を傾げた。
「昌也……すまなかった……」 義雄の目に、涙が浮かんだ。 「兄さんを、止められなかった……」
康介は動けなかった。 義雄は自分を「義一」だと思っているのか。
認知症の混濁の中で、時間の感覚が失われている。
義雄は今、五十年前のどこかにいる。
「兄さん……もう、誰も傷つけないでくれ……」義雄は涙を流しながら、宙を見つめていた。「片桐さんも、モーシェさんも、もう、いいだろう……」
康介はしばらく、何も言えずにいた。
自分の血の中に流れているものの正体を、初めて実感として理解した気がした。
義雄は加害者であり、同時に、兄を止められなかった弱い人間でもあった。
義一の側から見た記憶と、義雄の側から見た記憶が、認知症で混ざり合っている。どちらが本当の義雄なのか、康介にはもう分からなかった。
康介は義雄の手を握った。 「もう、大丈夫です」康介は静かに言った。「おじいさん、もう十分です」
病室を出ると、康介は廊下でしばらく壁にもたれていた。
携帯を取り出し、星野由紀子にかけた。 呼び出し音のあと、由紀子が出た。
「鷺田さんですね」 「取引に応じる」康介は言った。
「ロシアとの関係を切る。だが、条件がある」 「聞きましょう」 「祖父の名前を、これ以上表に出さないでほしい。もう、九十二歳の老人だ。裁く意味がない」 由紀子は少し間を置いた。
「それは、あなたが決めることではありません」由紀子は静かに言った。
「根古さんと、片桐さんと、モーシェさんが決めることです」 「……分かった」康介は言った。
「せめて、伝えてくれ。義雄はもう、自分が誰かも分からない」
由紀子は電話の向こうで、少し沈黙した。 「伝えます」
*
根古は美也子との待ち合わせの喫茶店に向かいながら、施設から出てくる康介の姿を見た。
康介の表情は、来たときとは違っていた。 根古はその変化に気づいたが、何も声をかけずに車を出した。




