五十年後の対話
教会の中は薄暗かった。 西野が点けたのはろうそくが一本と、隅の小さなランプだけだ。
ステンドグラスの向こうで、雨上がりの雲が月を隠したり見せたりしている。
片桐レナードとモーシェ・吉田は、木の長椅子に並んで座った。
二人とも、しばらく前を向いたまま動かなかった。
ダニロは扉の脇に立ち、根古は少し離れた柱の陰から二人を見ていた。
西野は祭壇の前で祈るふりをしながら、実際には二人の様子を静かに窺っていた。
「歳を取ったな、片桐さん」モーシェが先に言った。 「お互いにな」片桐の声は掠れていた。
「あんたは杖をつくようになった。俺は右目が見えん」 「昭和四十九年、木下邸の裏で最後に会ったとき」モーシェは目を細めた。
「あんたは俺を撃つつもりだった」 「撃たなかった」 「撃たなかった」モーシェは繰り返した。
「なぜだ。あの時、ずっと聞きたかった」
片桐は長い沈黙のあと、ぽつりと答えた。
「あんたが、逃げなかったからだ」 モーシェは片桐を見た。
「銃を向けられて、逃げも隠れもせず、俺の目を見ていた」片桐は続けた。
「ソ連の工作員に、そんな人間を撃つ理由がなかった。あんたは俺の敵じゃなかった。俺の敵は、俺を使っていた連中だった」 「安藤家か」 「安藤家の後ろにいる男だ」
片桐の言葉に、根古が柱の陰から一歩出た。 「鷺田義雄」根古は言った。
片桐が根古を見た。「モーシェから聞いたか」 「聞いた」根古は二人の前に立った。
「義雄は義一の腹違いの兄で、ユダヤ系である義一を憎んでいた。戦後、ソ連の工作員になり、安藤家を使って片桐さんを監視させた。木下邸に火をつけたのは安藤家だが、命令したのは義雄だ。そういう話だった」 「その通りだ」片桐は頷いた。「だが、それだけじゃない」
片桐は膝の上で手を組んだ。
「義雄は、俺がソ連から離脱しようとしているのを知っていた。それだけなら、俺を消せばいい。だが義雄はそうしなかった。俺を泳がせた」 「なぜだ」 「俺を通して、モーシェの動きを探るためだ」片桐はモーシェを見た。
「あんたが片桐という男を通じて、義雄のネットワークにどこまで近づいているか。義雄はそれを知りたかった。俺は知らずに、義雄の目になっていた」
モーシェの顔が強張った。
「つまり??」 「あんたが木下邸に近づく度に、俺経由で義雄に伝わっていた」片桐は静かに言った。「木下昌也が死んだあの夜も、俺は義雄に報告していた。昌也が何かを掴んで、動こうとしていると」 教会の中が静まり返った。 根古の背中に冷たいものが走った。
「親父の死は、あんたが義雄に伝えた情報のせいだということか」根古は低い声で聞いた。
「直接手を下したわけじゃない」片桐は根古を見た。
「だが、間接的には、そうだ。俺が義雄に伝えなければ、昌也さんはもう少し長く生きられたかもしれない。すまないと思っている。ずっと思っていた」
根古は何も言わなかった。 拳を握った手が、震えていた。 ダニロが一歩前に出ようとしたが、モーシェが手で制した。
「根古さん」モーシェが静かに言った。
「怒りをぶつける相手が違う。片桐さんもまた、義雄に利用された一人です。本当に許せない相手は、まだ生きている」 「分かっている」根古は息を吐いた。
「分かっているが、時間がかかる」 「時間はかけていい」モーシェは言った。「ただ、今夜だけは、前に進んでください」
根古は目を閉じ、開けた。 片桐に向き直った。
「ボリス・クラフチェンコの死について、あんたは何を知っている」
片桐は少し間を置いてから答えた。
「ボリスは、義雄が安藤家を使ってソ連の情報網を動かしていることを、独自に掴んでいた。それだけじゃない。義雄が二重にソ連と繋がりながら、実は自分の利益のために情報を売っていたことも掴んでいた」 「二重売り」 「義雄はソ連にも情報を渡し、同時に別のルート??当時の右派の政治家筋にも情報を流していた」片桐は言った。
「両方から金を取っていた。ボリスはその証拠を掴んで、ソ連本国に報告しようとしていた。義雄にとっては、自分の裏切りが露見する寸前だった」 「だからボリスを消した」 「そうだ。事故に見せかけて」
ダニロが拳を握りしめるのが、根古の目に入った。
モーシェがダニロの肩に手を置いた。
「ダニロ、今夜は堪えなさい。義雄は九十二で、施設のベッドにいる。逃げも隠れもしない。急ぐ必要はない」
片桐が続けた。 「証拠の一部は、俺が今も持っている」 全員が片桐を見た。
「西野の教会に来てから、ずっと保管していた。義雄と安藤家、当時の右派政治家の名前を記した書類。写しだが、義雄の裏切りを示すには十分だ」 「なぜ今まで出さなかった」根古が聞いた。
「出す相手がいなかった」片桐は静かに言った。
「昌也さんは死んだ。俺は日本人社会から姿を消していた。西野以外、誰も信用できなかった。だが、今は違う」 片桐は根古を見た。 「昌也さんの息子が、ここにいる」
西野が祭壇の脇から、古い革のケースを取り出してきた。 「片桐が来た日から、俺が預かっていたものだ」西野は根古に手渡した。「開けるかどうかは、お前が決めろ」
根古はケースを受け取った。 重みが手に伝わる。 五十年分の重みだった。
*
同じ頃、可児市内のビジネスホテルの一室で、鷺田康介は窓辺に立っていた。
星野由紀子との会話が、頭の中で繰り返されていた。 ――取引しましょう。
今夜モーシェさんに手を出さない。ロシアとの関係を静かに切る。
そうすれば、あなたの名前は表に出さないようにします。 康介はテーブルの上のロシア語の文書を見た。
祖父義雄が作ったネットワーク。父義一が知らなかった、あるいは知らないふりをしていた裏の家系の遺産。
康介はそれを継いだ。継ぐことでしか、自分の存在価値を感じられなかった。父は表向き穏やかで人望のある地元の名士だったが、康介はいつも、父の影で生きているような気がしていた。義雄というもう一人の血筋。裏切り者で、ソ連の工作員で、それでも??何かを成し遂げた男。康介はどこかで、その血に惹かれていた。
携帯が鳴った。 ロシア側の連絡員だった。 「状況は」低い声が聞いた。
「モーシェを取り逃がした」康介は正直に言った。「それと、妨害が入った」 「妨害?」 「星野由紀子と名乗る女が接触してきた。取引を持ちかけられた」 電話の向こうで、しばらく沈黙があった。 「その名前に覚えがある」連絡員は言った。
「調べておく。お前はどうするつもりだ」 康介は窓の外を見た。 夜明けが近い。空が薄く白み始めている。
「祖父の代からの仕事だ」康介は言った。
「今さら降りられない」 「賢明な判断だ」 「だが」康介は続けた。
「星野という女の脅しが、はったりかどうか確かめる必要がある」 「どうする」 「明日の朝までに返事をしろと言われた」康介は言った。
「その前に、彼女が誰なのか調べる」
電話を切ると、康介はもう一度テーブルの文書を見た。
それから、コートを羽織った。 夜のラクカで見た星野由紀子の目を、康介は思い出していた。 脅しではなかった。あれは、確信を持った目だった。
*
教会の外で、根古は革のケースを開けずに、車の座席に置いた。
東の空が白み始めていた。 ダニロが助手席に乗り込んできた。
「開けないんですか」ダニロが聞いた。 「今は開けない」根古は言った。
「疲れている頭で読んでも、大事なところを見落とす」 「モーシェさんと片桐さんは」 「西野が朝まで見ている。心配ない」
根古はハンドルに手を置いたまま、しばらく動かなかった。
「ダニロ」 「なんですか」 「お前の祖父さんは、正しいことをしようとして死んだ」根古は前を見たまま言った。
「俺の親父も、多分そうだ。片桐は道具にされて、モーシェは五十年逃げ続けた。全員、鷺田義雄という男に人生を狂わされた」 「そうですね」 「その義雄が、まだ生きている。九十二歳、認知症で、施設のベッドの上だ」根古は続けた。「殺しても、もう何も変わらない。だが、真実を明らかにすることはできる」 ダニロは根古を見た。
「それで、満足ですか」 「満足かどうかは、明らかにしてから考える」
根古はエンジンをかけた。 雨上がりの空に、朝の光が差し始めていた。




