五十年前の星
モーシェが指定した場所は、木曽川沿いの小さな公園だった。
雨上がりの夜、川面が月明かりを反射している。
根古が車を止めると、ベンチに二人の人影が見えた。
老人と、背の高い男だ。
根古が近づくと、老人が立ち上がろうとした。
ダニロが素早く支えた。八十二歳の体は、夜の冷気の中で小さく見えた。
「根古さん」モーシェは日本語で言った。皺の深い顔に、穏やかな目がある。
「昌也さんに似ている。やはり」
「そう言われます」根古はベンチの前にしゃがんだ。老人と目線を合わせた。
「体は大丈夫ですか」
「足が言うことを聞かないだけです。頭はまだ動く」モーシェは隣のダニロを見た。
「この子がダニロです。ボリスの孫です」
ダニロは根古を見た。三十八歳、無駄のない体格。目が鋭いが、敵意はない。
「根古親司」ダニロは短く言った。日本語が堪能だ。「モーシェさんから聞いている。信用していい人間だと」
「買いかぶりだ」根古は立ち上がった。「話は車の中で聞かせてもらえますか。モーシェさん、体が冷える」
根古の車の中で、モーシェが話し始めた。
ダニロが後部座席で黙って聞いている。
「一週間前、手紙が届きました」モーシェは膝に手を置いた。
「差出人の名前はなかった。でも内容を読んで、誰が書いたか分かった」
「鷺田康介か」
モーシェは根古を見た。「調べましたね」
「繋がりが見えてきた」
「そうですか」モーシェは小さく頷いた。
「手紙にはこう書いてありました。五十年前のことを誰かに話すなら、その前に私に連絡しろ、と。連絡しなければどうなるか??書いてありませんでしたが、分かりました」
「脅しだ」
「ええ。だから節子には見せなかった。心配させたくなかった」モーシェは窓の外の川を見た。「私は鷺田義一のことをよく知っていた。昭和四十九年、私が可児に来たのは鷺田家との連絡のためでもあった。義一さんは良い人でした。息子の康介が、こういう男になるとは思わなかった」
「康介は今、ロシアと繋がっているという話を聞いた」
モーシェは静かに頷いた。
「康介の母親が安藤家の出身です。安藤家はかつてソ連と繋がりがあった。その流れが、今のロシアまで続いている」
「安藤家とソ連の繋がり」根古は言った。
「片桐レナードを追っていたのは公安だけじゃなかった。安藤家も片桐を追っていた。ソ連の命令で」
「そうです」モーシェは根古を見た。
「片桐はソ連の工作員でしたが、離脱しようとしていた。ソ連は安藤家を使って片桐を監視させていた。木下邸に火をつけたのは安藤家ですが??命令したのはソ連側の人間です」
「その人間が誰か、分かるか」
「分かります」モーシェは静かに言った。
「それがボリスの死と繋がっている」
川の向こうで犬の遠吠えが聞こえた。
ダニロが口を開いた。
「祖父ボリスは、昭和五十年の春に死にました。私は生まれていないが、父から話を聞いた。祖父は事故で死んだと言われていたが、父は信じていなかった。死ぬ前に祖父が父に手紙を送っていた。何かを掴んだ、もうすぐ明らかにできると書いてあった。その三日後に死んだ」
「ボリスが掴んだのは何だったのか」根古は言った。
「木下邸の火事の真相です」モーシェが答えた。
「ボリスは私と別のルートで調べていた。そして安藤家の背後に誰がいるか、突き止めた。その人間に消された」
「その人間が今も生きていると、片桐が言っていた」
モーシェの目が少し揺れた。「片桐さんと連絡が取れているんですか」
「西野薫の教会にいる」
モーシェは長い間、黙っていた。それから静かに言った。
「片桐さんが生きていたか。会いたいですね。敵同士でしたが??あの頃、この町で生き延びた者同士です」
「会わせます。でも先に聞かせてくれ。ボリスを殺した人間の名前を」
モーシェは深く息を吸った。
「鷺田義一の兄です」モーシェはゆっくり言った。
「鷺田義一には兄がいました。鷺田義雄。二人は腹違いの兄弟で、父親が同じでも母親が違った。義一の母はユダヤ系ドイツ人でしたが、義雄の母は日本人です。義雄はユダヤ系であることを憎んでいた。戦後の混乱の中で、義雄はソ連の工作員になった。安藤家との繋がりも義雄が作った」
「鷺田義雄は今どこにいるか」根古は静かに言った。
「九十二歳です」モーシェは根古を見た。
「可児市内の老人ホームにいます。認知症を患っていると聞いていますが??最近、面会者が増えたという話を節子が聞いてきた」
「面会者は誰だ」
「鷺田康介です」
根古は携帯を取り出し、雨月に電話した。
深夜だったが、雨月はすぐ出た。
「可児市内の老人ホームで、鷺田義雄という九十二歳の男を確認してほしい。面会記録を調べられるか」
「令状なしでは難しいですが??家族からの要請という形なら動けます」雨月は少し間を置いた。
「鷺田義一の息子の鷺田康介に、妹がいます。康介とは仲が悪く、今は別々に暮らしている。その妹から要請という形なら」
「妹の名前は」
「鷺田美也子、六十四歳。可児市内在住です」
「明日の朝、その人に会いに行く」
「根古さん」雨月の声が少し変わった。
「今夜、可児市内で不審な動きがあります。御嵩方面で、見張りのような人間が複数確認されています。一石さんの大使館車両も動いている」
「鷺田康介が動き始めた」
「そう思います。根古さん、今夜は気をつけてください」
電話を切ると、ダニロが後部座席から言った。
「根古さん、一つ確認したい」
「何だ」
「鷺田康介は今夜、モーシェさんを見つけようとしている。見つければ??黙らせようとするはずだ」ダニロは根古を見た。
「私はモーシェさんを守ることができる。でも根古さんを守る余裕はない。それでも動きますか」
「俺の心配より、モーシェさんを安全な場所に移すことを考えろ」
「どこに移しますか」
根古は少し考えた。
「西野の教会だ。片桐もいる。西野は信用できる」根古はモーシェを見た。
「片桐と再会することになりますが」
「構いません」モーシェは静かに言った。「むしろ??会わなければならないと思っていた。五十年越しに」
根古が西野の教会に電話すると、西野はすぐに承諾した。
「片桐さんに話しておきます」西野は言った。「根古、気をつけて来い」
根古は車を走らせた。雨上がりの道が光っている。
教会の前に着くと、玄関の灯りがついていた。
西野が扉を開けて待っていた。その後ろに、片桐レナードがいた。
モーシェが車から降りた。ダニロが支えた。
片桐とモーシェは、暗い玄関先で向き合った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
五十年という時間が、二人の間に静かに横たわっていた。
片桐が先に口を開いた。日本語で言った。
「生きていたか」
「生きていました」モーシェも日本語で答えた。「あなたも」
「お互い、しぶとい」
モーシェが少し笑った。片桐も少し笑った。
西野が二人を中に促した。
根古は教会の外で煙草を一本吸った。
ダニロが隣に立った。
「モーシェさんは安全ですか、ここは」
「西野は信用できる。一石には連絡したか」
「今送った」ダニロは夜空を見た。雲が切れて星が出ている。
「根古さん、一つ聞いていいか」
「何だ」
「なぜそんなに動くんですか。あなたには関係のない話だ。五十年前のことも、モーシェさんのことも」
根古は煙草の煙を吐いた。
「親父が関わっていた」根古は静かに言った。「それだけだ」
「それだけで、ここまで動くか」
「お前はなぜここまで来た。ウクライナから日本まで」
ダニロは少し黙った。「祖父のことを知りたかった。父が一生気にしていたから」
「同じだ」根古は煙草を消した。「親の話の続きを聞きたいだけだ」
ダニロは根古を見た。それから短く言った。「分かった」
深夜、鷺田康介の携帯に連絡が入った。
康介は可児市内のビジネスホテルの一室で、電話を受けた。
五十八歳、父義一に似た端正な顔立ちだが、目が冷たい。
「見失ったか」康介は低い声で言った。
「申し訳ありません。木曽川沿いで確認したが、その後??」
「いい」康介は電話を切った。
窓の外の夜を見た。
モーシェ・吉田が根古に接触したことは、もう分かっている。根古が動いている。
康介はテーブルの上の封筒を見た。中にはロシア語の文書が入っている。
五十年前に祖父義雄が作ったネットワークの記録。
それが今、ロシアにとって再び価値を持ち始めている。ウクライナ戦争の中で、日本国内の情報ルートの再構築が求められていた。
モーシェが話せば、そのネットワークの根幹が崩れる。
康介は立ち上がった。
直接動くしかない。
そのとき康介の携帯がもう一度鳴った。
知らない番号だ。
出ると、女の声だった。
「鷺田康介さんですね」落ち着いた声だ。「星野由紀子と申します。少しお話しできますか」
「誰だ」
「あなたが今夜やろうとしていることを、止めに来ました」星野は静かに言った。
「モーシェ・吉田さんに手を出せば、あなたが困ることになります。詳しい話は直接。今夜、会えますか」
康介は少し間を置いた。
「どこで会う」
「ラクカという茶店をご存知ですか。今から三十分後に」
深夜のラクカで、太田豊は電気をつけたまま椅子に座っていた。
根古から電話があって、今夜は開けておいてくれと言われた。
理由は聞かなかった。根古に頼まれたら断らない。それが太田の流儀だ。
三十分後、ドアが開いた。
星野由紀子と鷺田康介が入ってきた。
二人はカウンターの端に座った。太田はコーヒーを二つ出して、何も聞かずにカウンターの奥に引っ込んだ。
由紀子は康介を見た。
「単刀直入に言います」由紀子は静かに言った。
「あなたの祖父、鷺田義雄が五十年前にやったことの証拠が揃いつつあります。片桐レナード、モーシェ・吉田、そして昌也さんの残した小箱の中身。三つが揃えば、ボリス・クラフチェンコの死の真相が明らかになる」
「それが俺に何の関係がある」康介は静かに言った。「祖父のやったことは祖父のことだ」
「あなたがロシアと繋がっていることも、同時に明るみに出ます」由紀子は康介を見た。
「それはあなた自身の問題です」
康介は黙っていた。
「取引しましょう」由紀子は言った。
「今夜モーシェさんに手を出さない。ロシアとの関係を静かに切る。そうすれば、あなたの名前は表に出さないようにします」
「誰がそれを保証する」
「私が保証します」
「あなたが何者か知らない」
「知る必要はありません」由紀子はコーヒーに手をつけずに立ち上がった。
「返事は明日の朝までに。根古さんへ連絡してください」
由紀子は出て行った。
康介は残されたコーヒーを見た。
太田が奥からゆっくり出てきて、カウンターを拭いた。
「お客さん」太田は康介を見た。「コーヒー、飲んでいきなさい。夜は長いで」




