表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
54/56

五十年前の星

 モーシェが指定した場所は、木曽川沿いの小さな公園だった。

 雨上がりの夜、川面が月明かりを反射している。

根古が車を止めると、ベンチに二人の人影が見えた。

 老人と、背の高い男だ。

 根古が近づくと、老人が立ち上がろうとした。

ダニロが素早く支えた。八十二歳の体は、夜の冷気の中で小さく見えた。

「根古さん」モーシェは日本語で言った。皺の深い顔に、穏やかな目がある。

「昌也さんに似ている。やはり」

「そう言われます」根古はベンチの前にしゃがんだ。老人と目線を合わせた。

「体は大丈夫ですか」

「足が言うことを聞かないだけです。頭はまだ動く」モーシェは隣のダニロを見た。

「この子がダニロです。ボリスの孫です」

 ダニロは根古を見た。三十八歳、無駄のない体格。目が鋭いが、敵意はない。

「根古親司」ダニロは短く言った。日本語が堪能だ。「モーシェさんから聞いている。信用していい人間だと」

「買いかぶりだ」根古は立ち上がった。「話は車の中で聞かせてもらえますか。モーシェさん、体が冷える」


 根古の車の中で、モーシェが話し始めた。

 ダニロが後部座席で黙って聞いている。

「一週間前、手紙が届きました」モーシェは膝に手を置いた。

「差出人の名前はなかった。でも内容を読んで、誰が書いたか分かった」

「鷺田康介か」

 モーシェは根古を見た。「調べましたね」

「繋がりが見えてきた」

「そうですか」モーシェは小さく頷いた。

「手紙にはこう書いてありました。五十年前のことを誰かに話すなら、その前に私に連絡しろ、と。連絡しなければどうなるか??書いてありませんでしたが、分かりました」

「脅しだ」

「ええ。だから節子には見せなかった。心配させたくなかった」モーシェは窓の外の川を見た。「私は鷺田義一のことをよく知っていた。昭和四十九年、私が可児に来たのは鷺田家との連絡のためでもあった。義一さんは良い人でした。息子の康介が、こういう男になるとは思わなかった」

「康介は今、ロシアと繋がっているという話を聞いた」

 モーシェは静かに頷いた。

「康介の母親が安藤家の出身です。安藤家はかつてソ連と繋がりがあった。その流れが、今のロシアまで続いている」

「安藤家とソ連の繋がり」根古は言った。

「片桐レナードを追っていたのは公安だけじゃなかった。安藤家も片桐を追っていた。ソ連の命令で」

「そうです」モーシェは根古を見た。

「片桐はソ連の工作員でしたが、離脱しようとしていた。ソ連は安藤家を使って片桐を監視させていた。木下邸に火をつけたのは安藤家ですが??命令したのはソ連側の人間です」

「その人間が誰か、分かるか」

「分かります」モーシェは静かに言った。

「それがボリスの死と繋がっている」


 川の向こうで犬の遠吠えが聞こえた。

 ダニロが口を開いた。

「祖父ボリスは、昭和五十年の春に死にました。私は生まれていないが、父から話を聞いた。祖父は事故で死んだと言われていたが、父は信じていなかった。死ぬ前に祖父が父に手紙を送っていた。何かを掴んだ、もうすぐ明らかにできると書いてあった。その三日後に死んだ」

「ボリスが掴んだのは何だったのか」根古は言った。

「木下邸の火事の真相です」モーシェが答えた。

「ボリスは私と別のルートで調べていた。そして安藤家の背後に誰がいるか、突き止めた。その人間に消された」

「その人間が今も生きていると、片桐が言っていた」

 モーシェの目が少し揺れた。「片桐さんと連絡が取れているんですか」

「西野薫の教会にいる」

 モーシェは長い間、黙っていた。それから静かに言った。

「片桐さんが生きていたか。会いたいですね。敵同士でしたが??あの頃、この町で生き延びた者同士です」

「会わせます。でも先に聞かせてくれ。ボリスを殺した人間の名前を」


 モーシェは深く息を吸った。

「鷺田義一の兄です」モーシェはゆっくり言った。

「鷺田義一には兄がいました。鷺田義雄。二人は腹違いの兄弟で、父親が同じでも母親が違った。義一の母はユダヤ系ドイツ人でしたが、義雄の母は日本人です。義雄はユダヤ系であることを憎んでいた。戦後の混乱の中で、義雄はソ連の工作員になった。安藤家との繋がりも義雄が作った」

「鷺田義雄は今どこにいるか」根古は静かに言った。

「九十二歳です」モーシェは根古を見た。

「可児市内の老人ホームにいます。認知症を患っていると聞いていますが??最近、面会者が増えたという話を節子が聞いてきた」

「面会者は誰だ」

「鷺田康介です」


 根古は携帯を取り出し、雨月に電話した。

 深夜だったが、雨月はすぐ出た。

「可児市内の老人ホームで、鷺田義雄という九十二歳の男を確認してほしい。面会記録を調べられるか」

「令状なしでは難しいですが??家族からの要請という形なら動けます」雨月は少し間を置いた。

「鷺田義一の息子の鷺田康介に、妹がいます。康介とは仲が悪く、今は別々に暮らしている。その妹から要請という形なら」

「妹の名前は」

「鷺田美也子、六十四歳。可児市内在住です」

「明日の朝、その人に会いに行く」

「根古さん」雨月の声が少し変わった。

「今夜、可児市内で不審な動きがあります。御嵩方面で、見張りのような人間が複数確認されています。一石さんの大使館車両も動いている」

「鷺田康介が動き始めた」

「そう思います。根古さん、今夜は気をつけてください」


 電話を切ると、ダニロが後部座席から言った。

「根古さん、一つ確認したい」

「何だ」

「鷺田康介は今夜、モーシェさんを見つけようとしている。見つければ??黙らせようとするはずだ」ダニロは根古を見た。

「私はモーシェさんを守ることができる。でも根古さんを守る余裕はない。それでも動きますか」

「俺の心配より、モーシェさんを安全な場所に移すことを考えろ」

「どこに移しますか」

 根古は少し考えた。

「西野の教会だ。片桐もいる。西野は信用できる」根古はモーシェを見た。

「片桐と再会することになりますが」

「構いません」モーシェは静かに言った。「むしろ??会わなければならないと思っていた。五十年越しに」


 根古が西野の教会に電話すると、西野はすぐに承諾した。

「片桐さんに話しておきます」西野は言った。「根古、気をつけて来い」

 根古は車を走らせた。雨上がりの道が光っている。

 教会の前に着くと、玄関の灯りがついていた。

 西野が扉を開けて待っていた。その後ろに、片桐レナードがいた。

 モーシェが車から降りた。ダニロが支えた。

 片桐とモーシェは、暗い玄関先で向き合った。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 五十年という時間が、二人の間に静かに横たわっていた。

 片桐が先に口を開いた。日本語で言った。

「生きていたか」

「生きていました」モーシェも日本語で答えた。「あなたも」

「お互い、しぶとい」

 モーシェが少し笑った。片桐も少し笑った。

 西野が二人を中に促した。


 根古は教会の外で煙草を一本吸った。

 ダニロが隣に立った。

「モーシェさんは安全ですか、ここは」

「西野は信用できる。一石には連絡したか」

「今送った」ダニロは夜空を見た。雲が切れて星が出ている。

「根古さん、一つ聞いていいか」

「何だ」

「なぜそんなに動くんですか。あなたには関係のない話だ。五十年前のことも、モーシェさんのことも」

 根古は煙草の煙を吐いた。

「親父が関わっていた」根古は静かに言った。「それだけだ」

「それだけで、ここまで動くか」

「お前はなぜここまで来た。ウクライナから日本まで」

 ダニロは少し黙った。「祖父のことを知りたかった。父が一生気にしていたから」

「同じだ」根古は煙草を消した。「親の話の続きを聞きたいだけだ」

 ダニロは根古を見た。それから短く言った。「分かった」


 深夜、鷺田康介の携帯に連絡が入った。

 康介は可児市内のビジネスホテルの一室で、電話を受けた。

五十八歳、父義一に似た端正な顔立ちだが、目が冷たい。

「見失ったか」康介は低い声で言った。

「申し訳ありません。木曽川沿いで確認したが、その後??」

「いい」康介は電話を切った。

 窓の外の夜を見た。

 モーシェ・吉田が根古に接触したことは、もう分かっている。根古が動いている。

 康介はテーブルの上の封筒を見た。中にはロシア語の文書が入っている。

 五十年前に祖父義雄が作ったネットワークの記録。

それが今、ロシアにとって再び価値を持ち始めている。ウクライナ戦争の中で、日本国内の情報ルートの再構築が求められていた。

 モーシェが話せば、そのネットワークの根幹が崩れる。

 康介は立ち上がった。

 直接動くしかない。


 そのとき康介の携帯がもう一度鳴った。

 知らない番号だ。

 出ると、女の声だった。

「鷺田康介さんですね」落ち着いた声だ。「星野由紀子と申します。少しお話しできますか」

「誰だ」

「あなたが今夜やろうとしていることを、止めに来ました」星野は静かに言った。

「モーシェ・吉田さんに手を出せば、あなたが困ることになります。詳しい話は直接。今夜、会えますか」

 康介は少し間を置いた。

「どこで会う」

「ラクカという茶店をご存知ですか。今から三十分後に」


 深夜のラクカで、太田豊は電気をつけたまま椅子に座っていた。

 根古から電話があって、今夜は開けておいてくれと言われた。

理由は聞かなかった。根古に頼まれたら断らない。それが太田の流儀だ。

 三十分後、ドアが開いた。

 星野由紀子と鷺田康介が入ってきた。

 二人はカウンターの端に座った。太田はコーヒーを二つ出して、何も聞かずにカウンターの奥に引っ込んだ。

 由紀子は康介を見た。

「単刀直入に言います」由紀子は静かに言った。

「あなたの祖父、鷺田義雄が五十年前にやったことの証拠が揃いつつあります。片桐レナード、モーシェ・吉田、そして昌也さんの残した小箱の中身。三つが揃えば、ボリス・クラフチェンコの死の真相が明らかになる」

「それが俺に何の関係がある」康介は静かに言った。「祖父のやったことは祖父のことだ」

「あなたがロシアと繋がっていることも、同時に明るみに出ます」由紀子は康介を見た。

「それはあなた自身の問題です」

 康介は黙っていた。

「取引しましょう」由紀子は言った。

「今夜モーシェさんに手を出さない。ロシアとの関係を静かに切る。そうすれば、あなたの名前は表に出さないようにします」

「誰がそれを保証する」

「私が保証します」

「あなたが何者か知らない」

「知る必要はありません」由紀子はコーヒーに手をつけずに立ち上がった。

「返事は明日の朝までに。根古さんへ連絡してください」

 由紀子は出て行った。

 康介は残されたコーヒーを見た。

 太田が奥からゆっくり出てきて、カウンターを拭いた。

「お客さん」太田は康介を見た。「コーヒー、飲んでいきなさい。夜は長いで」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ