同僚の孫
鷺田の家の錠前は、古い南京錠だった。
根古が押すと、ドアがあっさり開いた。鍵がかかっていない。
一石が素早く中を確認しようとしたが、根古が先に入った。
土間から続く廊下、六畳の和室が二つ。奥に小さな台所。誰もいない。
ただ、最近人がいた気配がある。台所に湯呑みが一つ、洗わずに置いてある。畳に膝をついた跡がある。
「モーシェさんがここにいたのか」工藤が言った。
「いた。でも今はいない」秋月が畳の跡を見た。
「一人じゃなかったかもしれない。跡が二か所ある」
根古は台所の棚を確認した。缶詰が二つ。水のペットボトルが一本、半分減っている。
「自分で来た」根古は言った。「連れ去られたなら、こういう準備はしない」
「つまりモーシェさんは自分の意志でここに来た」工藤が言った。
「あの暗号は節子さんへのメッセージだったんですね。自分の居場所を伝えようとした」
「でも今はいない」一石が静かに言った。「誰かに動かされた」
根古が和室の隅を見ると、床板の端に何かが挟まっていた。
折り畳まれた紙だ。
広げると、ヘブライ文字と日本語が混じった文章が書いてある。
筆跡は震えているが、丁寧だ。老人の字だ。
「読めるか」根古は一石に渡した。
一石は紙を見た。表情が少し変わった。
「ヘブライ語の部分は??祈りの言葉です。シェマ・イスラエルの一節」一石は日本語の部分を読んだ。「日本語はこう書いてあります。『ダニロへ。祖父の話を聞かせてやりたい。でも先に確かめなければならないことがある。根古を信じろ』」
全員が黙った。
「モーシェさんは根古さんの名前を知っていた」工藤が言った。
「節子さんから聞いたか、あるいは??」秋月が根古を見た。「別のルートで」
根古は紙を一石に返した。「ダニロは今どこにいる」
「把握していません。昨日、名古屋で入国を確認しましたが、その後の動きが」
「可児に来ているはずだ」根古は立ち上がった。
「モーシェさんがここに来たのと、ダニロが日本に入ったのは同じタイミングか」
「ほぼ同時です」
「連絡を取り合っていた」根古は言った。「モーシェさんはダニロが来ることを知っていて、ここで待っていた。ところが別の誰かが先に来た」
車に戻ると、澪から連絡が入っていた。
「根古さん、鷺田という名前を調べました。鷺田家は御嵩の旧家で、昭和四十年代まで住んでいましたが、その後東京に移っています。現在の当主は鷺田康介、六十八歳。東京在住の実業家です」澪は一息ついた。
「それともう一つ。鷺田康介の母親の旧姓が、安藤です」
根古は雨の外を見た。
「安藤家と鷺田家が繋がっている」
「はい。鷺田康介の母親は安藤賢造の遠縁にあたります。安藤賢造が先日逮捕されましたが、鷺田康介はまだ事情聴取も受けていません」
「鷺田康介の今の動きは」
「東京から一昨日、岐阜入りしています」
工藤が後部座席から身を乗り出した。「根古さん、つまり鷺田家の旧宅に、モーシェさんが身を隠していた。それを鷺田康介が知って??」
「先に乗り込んだ」秋月が続けた。「モーシェさんを動かしたのは鷺田康介かもしれない」
根古はその足でラクカに向かった。
太田に事情を話すと、太田はしばらく考えてから言った。
「鷺田という名前は聞いたことある。昔この辺りで地主だった家だろ。安藤家とは親戚付き合いがあったって、年寄りから聞いたことがある」太田はカウンターを拭いた。
「鷺田康介って男は知らんが??その男の父親が昔、妙な噂のある人物だったって話は聞いたことがある」
「どんな噂だ」
「外国人の出入りが多かったって話だ。商売をやっとって、外国との取引があったらしい。でも何の商売か、誰も知らなかったって」太田は根古を見た。「昭和四十年代の話だ」
根古は煙草に火をつけた。
昭和四十年代。モーシェが来日した時期。片桐が可児にいた時期。木下邸が燃えた時期。
「鷺田の父親は今どこにいる」
「とっくに死んどるだろ、その年代なら」
夕方、根古の事務所に一石が一人でやってきた。
護衛も連れず、傘一本で来た。根古は少し見直した。
「話がある」一石はソファに座った。ヤマトが膝に乗ろうとして、一石が静かに受け入れた。
「モーシェさんについて、大使館が把握していることを全部話します」
「条件は」
「モーシェさんを生きて見つけてほしい。それだけです」
根古は対面に座った。
「話せ」
一石は組んだ手を膝に置いた。「モーシェさんが一九七四年に来日した本来の任務は、在日工作員の監視だけではありませんでした。もう一つ、別の任務がありました」
「何だ」
「あるユダヤ人ネットワークの保護です」一石は根古を見た。
「戦後、日本に渡ったユダヤ系の人々の中に、ナチスの迫害から逃れてきた一族がいました。その一族が日本で築いたネットワークを、モサドは密かに支援していた」
「その一族が日本のどこにいたか」
「可児です」
根古は煙草の灰を落とした。
「鷺田家か」
一石が少し目を見開いた。「調べましたね」
「繋がりが見えてきた。鷺田の父親が外国人の出入りが多かった、という話を聞いた」
「鷺田家の先代、鷺田義一はユダヤ系ドイツ人の母親を持っていました。戦前に日本に渡ってきた一族です。表向きは日本人として生きていたが、モサドとの繋がりを持っていた」一石は続けた。「モーシェさんはその鷺田義一の家に、昭和四十九年に何度か出入りしていました。任務として」
「鷺田義一は今どこにいるか」
「十年前に亡くなっています。その息子が鷺田康介です」
「鷺田康介はモサドとの繋がりを継いでいるのか」
「それが問題なんです」一石は声を落とした。
「鷺田康介はモサドとの繋がりを切った。それどころか??現在、別の組織と繋がっている疑いがあります」
「どこの組織だ」
「ロシアです」
根古は窓の雨を見た。
ヤマトが一石の膝から降り、根古の足元に来た。
「整理させてくれ」根古はゆっくり言った。
「モーシェは五十年前、鷺田家を通じてユダヤ人ネットワークを支援した。鷺田家の先代はモサドと繋がっていた。その息子の鷺田康介は今、ロシアと繋がっている。そしてモーシェが行方不明になり、鷺田康介が可児に来た」
「そうです」
「ダニロ・クラフチェンコは、モーシェさんに祖父の話を聞きに来た。ダニロの祖父とモーシェは同僚だった。ダニロの祖父も五十年前に日本にいたのか」
「はい」一石は頷いた。「ダニロの祖父はボリス・クラフチェンコ。ウクライナ出身のユダヤ人で、イスラエル建国後にモサドに入りました。モーシェと同じ時期に日本にいた。二人は親しかった」一石は少し間を置いた。「ボリスは一九七五年、日本で死んでいます。事故死として処理されましたが??」
「事故ではなかった」根古が言った。
「モーシェさんはそう信じています」一石は根古を見た。「ボリスを殺したのは誰か。モーシェさんは五十年間、それを知っていた。ダニロはそれを聞きに来た。そしてその答えが??鷺田康介にとって、都合の悪い内容だったんです」
夜、根古は片桐レナードに電話した。
西野の教会にいる片桐は、電話口で少し沈黙した。
「ボリス・クラフチェンコ」根古が名前を出すと、片桐の息が変わった。
「……知っています」片桐は老いた声で言った。
「ボリスとは面識がありました。敵対する立場でしたが、不思議と話が合った。賢い男でした」
「ボリスの死について知っていることはあるか」
「根古さん」片桐は静かに言った。「あの夜??木下邸が燃えた夜、もう一つ別のことが起きていました。私はそれを今まで話していなかった」
「話してくれ」
「ボリスが死んだのは、木下邸の火事から三日後です。私は見ていた。事故ではなかった。でも誰がやったかは??当時の私には分からなかった」片桐は一息ついた。
「今なら分かるかもしれない。モーシェに会わせてください。二人で話せば、答えが出るかもしれない」
根古は雨の夜を見た。
「モーシェさんを先に見つけなければならない」
「根古さん、一つだけ言えることがあります」片桐の声が低くなった。「ボリスを殺した人間は、今も生きています。そしてその人間は??この町にいます」
深夜、御嵩の山中で一台の車が止まった。
車から二人の人間が降りた。一人は老人だ。足が不自由で、もう一人の男に支えられている。
老人が空を見上げた。雨が上がりかけている。雲の切れ間に星が一つ見えた。
「もう少しだけ時間をくれ」老人は日本語で言った。
「時間がない」男は低い声で言った。日本語に微かに外国語のアクセントがある。
「根古という男が動き始めた」
「根古の息子か」老人は言った。「昌也さんに似ているか」
「知らない」
「似ているといいが」老人は星を見た。「昌也さんは良い男だった。息子も良い男のはずだ」
男は黙っていた。
「ダニロ」老人は男を見た。「お前の祖父は本当に良い男だった。誇りに思っていい」
ダニロ・クラフチェンコは老人の言葉に、少しだけ表情を緩めた。
三十八歳の硬派なエージェントが、一瞬だけ孫の顔になった。
「早く根古という男に連絡してください」ダニロは言った。
「モーシェさん、鷺田康介はもう動いています」
老人、モーシェ・吉田は頷いた。
ポケットから古い携帯電話を取り出し、震える指で番号を押した。
雨上がりの夜に、呼び出し音が響いた。
根古の携帯が鳴った。
画面に番号が表示されている。見知らぬ番号だ。
「根古です」
「……昌也さんの息子さんですか」
老いた声。外国語の訛りが微かにある。
「そうですが」
「私はモーシェ・吉田です」老人は静かに言った。
「会っていただけますか。話したいことがある。五十年前のことと??今夜のこと、両方」
根古は立ち上がった。
「場所を言ってくれ」




