梅雨の依頼人
六月に入って三日目、可児はずっと雨だった。
午前十時、根古の事務所のドアをノックした人物は、小柄な老女だった。
七十五歳くらい。白髪を丁寧にまとめ、濡れた傘を律儀に玄関で畳んでいる。
ヤマトが入口まで歩いて行き、老女を見上げた。
しばらく見つめてから、くるりと根古の方を向いた。いつもの、信用していい相手だというサインだ。
「吉田節子と申します」老女は丁寧にお辞儀をした。「夫が、五日前からおりません」
根古は椅子を勧めた。
「警察には」
「届けました。でも??」節子は膝の上のハンドバッグを小さな手で握った。
「夫のことを、警察には全部話せないんです」
「全部話せない理由が、私には話せますか」
節子は根古をしばらく見た。ヤマトが節子の足元に来て、また座った。
「話せます」節子は静かに言った。「夫は、モーシェ・吉田と申します。イスラエル人です」
節子が語ったことを、根古は黙って聞いた。
モーシェ・吉田、本名モーシェ・ベングリオン。
イスラエル情報機関モサドのエージェントとして一九七四年に来日した。任務は在日外国人工作員の監視だった。
その年の秋、可児で節子と出会った。
翌年、モサドを離れ、節子と結婚した。
日本国籍を取得し、吉田モーシェとなった。以来五十年、可児で静かに暮らしてきた。
「夫は今年八十二歳です。足腰は弱っていますが、頭はしっかりしています」節子は言った。
「六日前の朝、散歩に出ると言って出かけました。それきりです」
「散歩のルートは決まっていましたか」
「いつも木曽川沿いを歩いていました。一時間ほどで帰るのが常でした」
「その日、変わった様子は」
節子は少し間を置いた。
「前の晩、手紙が来ました。封筒に差出人がなくて、夫が読んだ後、私には見せませんでした。でも顔色が変わっていました」
「手紙は今もありますか」
「夫が持ち出したのか、見当たりません」節子はハンドバッグから一枚の紙を取り出した。「ただ、夫の机の上にこれが残っていました。夫の字です。意味が分かりません」
根古は紙を受け取った。
数字と文字が並んでいる。
358・木曽・東・鷺
節子が帰った後、澪が紙を覗き込んだ。
「暗号ですかね」
「かもしれん」根古は紙をテーブルに置いた。「358。木曽。東。鷺」
「木曽川の東側に鷺がいる場所、358番地とか」
「この辺りに鷺の名がつく場所があるか調べろ」
「はい」澪はすぐにスマートフォンを取り出した。
「根古さん、モーシェさんって??第一章の片桐さんと時代が重なりますよね。昭和四十九年、同じ頃に可児にいた」
根古は煙草に火をつけた。「俺も今それを考えていた」
「片桐さんはソ連の工作員で、モーシェさんはモサドのエージェント。同じ時期に同じ町にいた」澪は顔を上げた。「接点があったかもしれません」
「ある」根古は静かに言った。「節子さんが言った。夫は在日外国人工作員の監視が任務だったと。片桐はその監視対象だった可能性がある」
澪が息を呑んだ。「じゃあモーシェさんは片桐さんのことを知っていた」
「知っていただけじゃないかもしれん」根古は窓の雨を見た。「五十年前、あの火事の夜に何があったか??片桐が話さなかったことが、まだあるのかもしれない」
昼過ぎ、ラクカに寄ると工藤俊一がいた。
横浜に戻ると言っていたが、まだいる。
「帰らなかったのか」
「なんとなく」工藤は曖昧に笑った。「秋月さんが残るというので、自分も少しと思って」
「暇な探偵だ」
「根古さんこそ、その顔は新しい依頼が来た顔です」
根古は紙をテーブルに置いた。工藤が見た。
「暗号ですね」工藤はすぐ言った。
「358??旧道の番地じゃないですか。御嵩の旧道沿いに、鷺という屋号の古い家があると聞いたことがあります」
「どこで聞いた」
「秋月さんから。昨日この辺りを二人で散歩していて、古い表札を見たそうです」
秋月小五郎が奥のテーブルから顔を上げた。「御嵩の旧道、木曽川から東に入ったところだ。廃屋かと思ったが、表札が残っていた。鷺田という名前だった」
根古は煙草を消した。「行くか」
雨の中、根古の車に工藤と秋月が乗った。
澪は事務所で留守番だ。不満そうな顔をしたが、根古が「鷺田という名前を調べておけ」と言うと、すぐに表情が変わった。
御嵩の旧道を東に入ると、杉林が続く細い道になった。ワイパーが忙しく動いている。
道沿いに古い家が見えてきた。木造の平屋で、雨に濡れた庭に草が伸びている。表札には確かに「鷺田」とある。
根古が車を止めようとしたとき、秋月が低い声で言った。
「根古さん、通り過ぎてください」
「なぜ」
「家の前に車が一台、止まっています。エンジンがかかっている」
根古は速度を落とさずに通り過ぎた。バックミラーで確認する。黒いセダン。ナンバーは東京だ。運転席に人影がある。
「止まって待っている」工藤が言った。「誰かを待っているのか、あるいは??」
「見張っている」秋月が続けた。
根古は五十メートル先で車を止め、携帯を取り出した。
雨月に電話した。
「東京ナンバーの黒いセダン、御嵩旧道の鷺田という家の前に止まっている。照会できるか」
「少し待ってください」雨月の返事は早かった。三分後に折り返してきた。「外交官ナンバーです。イスラエル大使館の登録車両です」
工藤と秋月が顔を見合わせた。
「イスラエル大使館が先に動いていた」工藤が言った。
「モーシェさんが行方不明になったことを、大使館が把握している」秋月が言った。「現役を退いて五十年経っても、モサドの元エージェントは繋がっているということか」
根古は車のドアを開けた。
「乗り込む」
「正面からですか」工藤が言った。
「他に行き方があるか」根古は傘も差さずに雨の中を歩き始めた。
黒いセダンの運転席の窓が下がった。
中にいたのは、四十代の男だった。短く刈った髪、整った顔立ち。スーツが濡れていないところを見ると、ずっと車の中にいたらしい。
「根古親司さんですか」男は流暢な日本語で言った。
「そうだ。あんたは」
「一石誠です」男は名刺を差し出した。イスラエル大使館の名刺だ。「お話しできますか」
鷺田の家の前で、根古と一石は向き合った。工藤と秋月は少し離れて立っている。雨が細くなってきた。
「モーシェさんを探しているのか」根古は言った。
「そうです」一石は根古を真っ直ぐ見た。「吉田節子さんから、根古さんに依頼したと連絡がありました。協力をお願いしたくて来ました」
「大使館が直接動く案件か」
「モーシェさんは引退した老人です。でも??三日前から状況が変わりました」一石は声を低くした。「ウクライナから一人の男が日本に入りました。ダニロ・クラフチェンコ。ウクライナ国防情報局のエージェントです」
「ウクライナが可児に」
「そのダニロが、モーシェさんを探しています」一石は一息ついた。「ダニロの祖父は、五十年前に日本にいたユダヤ人です。そしてモーシェさんの、かつての同僚でした」
雨が杉の葉を叩く音がした。
「モーシェさんとダニロの祖父の間に、何があったんですか」根古は静かに聞いた。
一石はしばらく黙っていた。
「モーシェさんだけが知っています」一石はやがて言った。「だからダニロはモーシェさんを探している。そして??もう一人、同じ理由でモーシェさんを探している人間がいます」
「誰だ」
「ダニロと違い、その人間はモーシェさんに生きていてほしいとは思っていない」
根古は雨の鷺田の家を見た。
雨と暗号と、五十年前の影。
梅雨の可児に、また火種が落ちてきた。




