収束する糸
翌朝、根古は事務所で全員を集めた。
工藤、秋月、澪、鳴海、雨月、平、北村、遠藤。フェルナンド村田も来た。太田が大きなポットにコーヒーを入れて持ってきた。ヤマトは本棚の上から全員を見下ろしている。
根古は昨夜の片桐との会話を、全員に話した。
話し終えると、しばらく誰も口を開かなかった。
「村瀬綾子という女性が、五十年前に殺されていた」秋月が静かに言った。「安藤家が隠蔽した」
「安藤修は共犯ではなく、利用された側だった」工藤が手帳に書きながら言った。「でも五十年間、それを抱えて生きてきた」
「安藤修を殺したのは安藤賢造ですか」雨月が根古に聞いた。
「おそらくそうだ。修が片桐に会ったと知って、口を封じた」根古は全員を見た。「安藤賢造は今も五十年前の秘密を守ろうとしている。息子の警察庁でのキャリアを守るために」
北村が口を開いた。「NSAはマイクロフィルムの回収を優先しています。綾子さんの件は、我々の任務の範囲外です」
「範囲外でも、人が殺されている」雨月がはっきり言った。「それは警察の範囲内です」
北村は雨月を見た。少し間を置いてから、頷いた。
「協力します」
フェルナンド村田が手を上げた。
「根古さん、一つ提案があります」フェルナンドは関西弁を抑えた口調で言った。「マイクロフィルムの諜報活動の記録と、綾子さんの死の記録を切り分けて考えましょう」
「どういうことだ」
「諜報活動の記録はCABINが預かります。公開のタイミングは政府と調整が必要です。簡単にはいかない。でも綾子さんの件は別です。これは殺人事件の証拠です。時効はとっくに過ぎているが、歴史的事実として記録に残せる」フェルナンドは根古を見た。「片桐さんが五十年間守ってきたのは、綾子さんの死を明らかにするためだと言いましたね。その部分だけでも、果たせる」
根古は少し考えた。「NSAは諜報記録だけ渡せば満足か」
北村が答えた。「ヘイブンス部長と確認します。おそらく合意できます」
「安藤賢造の件は」
「修さん殺害の証拠を集めれば、逮捕できます」雨月が言った。「綾子さんの件は時効ですが、安藤修を殺した件は時効ではない」
午前中、根古は星野由紀子に会いに行った。
温泉宿さざなみのロビーで、由紀子は一人でお茶を飲んでいた。根古が向かいに座ると、由紀子は静かに言った。
「昨夜のことは見ていたんですね」
「見ていた」根古は由紀子を見た。「感謝する」
「仕事ですから」
「片桐から依頼を受けたと聞いた。なぜお前たちに頼んだ」
「片桐さんは慎重な人です」由紀子はカップを置いた。「NSAにもCABINにも頼めない。警察にも頼めない。表の人間では動きが読まれる。だから裏の人間に頼んだ」由紀子は根古を真っ直ぐ見た。「根古さん、片桐さんは今どこにいますか」
「安全な場所だ」
「安藤賢造は昨夜の失敗で、次は自分で動くかもしれません。私たちが守れるのはもう少しの間だけです」
根古は頷いた。「分かった。今日中に動く」
昼過ぎ、根古は木下千恵の動物病院に寄った。
千恵はすでに診療を再開していた。白衣姿で、顔色は戻っている。ただ目の奥に、まだ怯えの名残がある。
「根古さん」千恵は処置室の椅子を根古に勧めた。「片桐という人に会ったんですか」
「昨夜」
「父が守ろうとしていた人なんですね」
「そうだ。そして綾子さんのことを、五十年間抱えてきた人だ」根古は千恵を見た。「綾子さんの件が記録に残ることになる。お前の父親が守ろうとしたものが、ようやく日の目を見る」
千恵は長い間、根古の顔を見ていた。それから静かに泣いた。声を出さずに、ただ涙が流れた。
「父に報告したい」千恵はようやく言った。「お墓に行ってきます」
「行ってこい」根古は立ち上がった。「山本さんに付き添ってもらえ。今日はまだ一人で動くな」
夕方、根古は片桐を連れて可児署に向かった。
雨月と平が待っていた。北村と遠藤も同席した。
片桐は署の応接室に座り、雨月の前で五十年前のことを話した。静かに、丁寧に、一つずつ。
雨月は黙って聞いた。平がすべてを記録した。
一時間半かかった。
話し終えた片桐は、酷く疲れた顔をしていたが、どこか軽くなったように見えた。
「ありがとうございました」雨月は片桐に頭を下げた。「村瀬綾子さんの件、必ず記録に残します」
「それだけで十分です」片桐は静かに言った。「綾子は記録に残ることを望んでいたと思うから」
夜、安藤賢造が動いた。
可児市内の自宅を出て、車で御嵩方面に向かった。それを雨月の手配した捜査員が追った。
安藤賢造が向かった先は、古い倉庫だった。
倉庫の中に、もう一人の男がいた。昨夜根古の事務所前に現れた、がっしりした体格の男だ。
雨月の捜査員が倉庫を囲んだとき、安藤賢造は観念した様子だった。七十一歳の老人は、思ったより小さかった。
「安藤賢造さん、安藤修さんの死について話を聞かせてください」雨月は静かに言った。「署まで来てもらえますか」
安藤賢造は長い間、黙っていた。
それから低い声で言った。「弁護士を呼んでいいか」
「もちろんです」
同じ夜、ラクカに根古の仲間たちが集まっていた。
温泉仲間の面々も来ていた。長曾我部、松平、加藤、ロドリゲス、ムハンマド、織田。西野薫も来た。
太田がカウンターでコーヒーを淹れ続けた。
根古は片隅のテーブルで、工藤と秋月と向かい合っていた。
「解決したんですか」工藤が言った。
「した、とは言えん」根古は言った。「安藤賢造が捕まっても、五十年前に死んだ綾子さんは戻らない。マイクロフィルムの諜報記録が公開されるのも、まだ先の話だ」
「でも動いた」秋月が言った。「五十年間動かなかったものが、動いた」
根古は窓の外を見た。可児の夜は静かだ。
「片桐は今夜、どうしているんですか」工藤が聞いた。
「西野の教会にいる」根古は言った。「西野が泊めると言った。五十年ぶりに、二人でゆっくり話すそうだ」
工藤が少し微笑んだ。「よかった」
夜遅く、根古が事務所に戻ると、澪が電気をつけたまま居眠りをしていた。
机の上に手書きのメモがある。
根古さんへ。今日一日で、私が探偵の弟子になりたい理由が、もっとはっきりしました。こんな仕事、他にないと思います。澪
根古はメモを手に取り、読んでから机の引き出しに入れた。
ヤマトが澪の膝に乗っている。
「お前も認めたのか」根古は小声で言った。
ヤマトは目を開けず、ごろごろと喉を鳴らした。
根古は窓を少し開けた。五月の夜風が入ってくる。
??五十年前の炎は、ようやく鎮まり始めた。
でも根古は知っていた。この町にはまだ、語られていない話がある。静かな温泉地の底に、次の火種が眠っている。
それが顔を出すのは、そう遠くない。
根古は煙草に火をつけ、夜の可児を眺めた。ヤマトの喉が鳴り続けている。澪の寝息が聞こえる。
今夜はこれでいい。
終章 それぞれの朝
翌朝、可児の空は晴れていた。
木下千恵は父の墓前に花を供えた。山本彩織が少し離れて立っている。千恵は手を合わせ、長い間そのままでいた。
西野薫の教会では、片桐レナードが縁側に座って朝の光を浴びていた。八十四年生きてきて、こんなに穏やかな朝は久しぶりだと思った。
ラクカでは太田豊が開店準備をしながら、工藤と秋月が昨夜の残りのコーヒーを飲んでいた。工藤は今日、横浜に戻るつもりだった。でも秋月はもう少し可児にいると言った。理由は言わなかった。
鳴海美佑は朝からブログを書いていた。五十年前の火事のこと、村瀬綾子のこと。書けることと書けないことを慎重に選びながら、それでも書き続けた。
江戸川勉は昨夜遅く、宿に戻っていた。何も言わなかったが、顔色はよかった。
フェルナンド村田は早朝の新幹線で大阪に戻った。車中でYouTubeの撮影をしながら、今回のことは一切話さなかった。
星野由紀子と古田麻尋と西野千紗都は、チェックアウトの前に温泉に入った。三人とも無言だったが、悪い空気ではなかった。
雨月雅之は朝から書類と格闘していた。平圭が黙ってコーヒーを置いた。
そして根古親司は、事務所の窓から可児の朝を見ていた。
ヤマトが膝に乗ってきた。
澪はまだ眠っている。
根古は今日の一件目の依頼について、ぼんやりと考えた。昨日、長曾我部から電話があった。会計の書類が一枚、どこかに消えたと言う。たいした話ではないだろう。
でも根古は知っていた。
たいした話ではないように見えるものが、たいした話になることを。
この町では特に。
煙草に火をつけ、ヤマトの背を撫でた。




