八十四歳の証人
片桐レナードが指定した場所は、御嵩町の外れにある古い旅館だった。
表向きは廃業しているが、電気は通っている。根古が車を止めると、玄関の引き戸が内側から開いた。
出てきたのは小柄な老人だった。
八十四歳。白髪で、背が曲がっている。しかし電話で聞いた通り、目に力がある。日系アメリカ人の面影が、皺の奥に残っている。
「根古さん」片桐は日本語で言った。少し訛りがある。「昌也さんに似ているね」
「そう言われる」根古は老人を見た。「一人か」
「一人です。護衛も何もない。隠れる力が残っていないと言ったのは本当です」
根古はヤマトを助手席に残し、旅館の中に入った。
奥の部屋に古いちゃぶ台が一つ。片桐はそこに座り、根古は向かいに腰を下ろした。
部屋に電気ストーブが一台。五月でも山沿いの夜は冷える。
「昌也さんが亡くなったと聞いたとき、これで終わりだと思いました」片桐はゆっくり話した。「でも三週間前、東京で古い知人に会った。その人が言ったんです。昌也さんの息子が探偵をやっていると」
「誰からそれを」
「安藤修です」
根古は眉を動かした。「安藤は死んでいる」
「会ったのは死ぬ一週間前でした」片桐は手を膝に置いた。節くれ立った、年老いた手だ。「安藤は私を探していた。長い間。でも会いに来たのは脅すためでも、捕まえるためでもなかった」
「何のために」
「謝るためです」
沈黙が落ちた。ストーブが小さく唸っている。
「安藤修は、五十年前の火事に関わっていた」片桐は静かに続けた。「当時二十歳の新人警官だった。上から命令されて、木下邸を見張っていた。火が出たとき、消火を遅らせるよう言われていた」
「誰に命令された」
「当時の可児署の上層部です。そしてその上層部は??ある一族の息がかかっていた」
根古は煙草を取り出した。「安藤という一族か」
片桐が目を細めた。「調べましたね」
「人から聞いた」
「そうです。安藤家です。修さんは安藤家の傍系にあたる。だから警官になれた。だから命令に従った」片桐は目を伏せた。「でも修さんは若かった。まさか人が死ぬとは思っていなかった。火が燃え広がったとき、止めようとしたが遅かった」
「亡くなったのは誰だ」
片桐は長い間、黙っていた。
「私の連絡係をしていた女性です。二十六歳でした。名前は村瀬綾子。私がこの町に滞在している間、身の回りの世話をしてくれていた」片桐の声が、初めて揺れた。「木下邸に匿われていたのは私だけじゃなかった。綾子も一緒にいた。私は逃げられた。綾子は??逃げ遅れた」
「遺体が見つからなかった理由は」
「安藤家が隠したからです。連れ去ったというのは正確じゃない。証拠を消したんです」片桐は顔を上げた。「修さんはそれを知らなかった。火事の後で知った。それが五十年間、あの人を苦しめ続けた」
根古は煙草を一本吸い終えてから、口を開いた。
「マイクロフィルムの中身を教えてくれ」
「フィルムには二つの内容が入っています」片桐は指を一本立てた。「一つは冷戦時代、米軍が日本国内で行っていた非公式の諜報活動の記録。政治家、官僚、財界人の名前が入っている。今も現役の人間の親や祖父の名前も含まれている」
「もう一つは」
「村瀬綾子の死の記録です」片桐は二本目の指を立てた。「私が持っていた証拠書類のコピー。安藤家が何をしたか。誰が命令し、誰が実行したか。当時の記録を、私なりに集めたものです」
「それをNSAに渡すつもりだったのか」
「違います」片桐は首を振った。「NSAはフィルムの存在を知っていたが、中身を把握していなかった。諜報活動の記録だけが入っていると思っていた。綾子の件は知らない」片桐は根古を見た。「私がフィルムを作ったのは、いつか綾子の死を明らかにするためです。五十年かかった。でも今がその時だと思っています」
根古が旅館を出たのは夜十時を過ぎていた。
車に戻ると、ヤマトが助手席で丸くなっていた。
携帯を見ると、着信が三件。工藤、雨月、そして澪からだ。
まず雨月に掛けた。
「根古さん、安藤修の件で話があります」雨月の声は緊張している。「安藤の退職後の行動記録を調べました。根古さんを監視していたのは本当です。ただ??監視の依頼主が分かりました」
「誰だ」
「安藤家の現在の当主です。安藤賢造、七十一歳。可児市内で不動産業を営んでいます」
「安藤修の遠縁か」
「はい。そして??」雨月は一息ついた。「安藤賢造の息子が現在、警察庁に勤めています。キャリア組です。そちらへの影響を恐れて、五十年前の件が蒸し返されないよう、根古さんの動きを監視させていたと思われます」
根古は暗い旧道を見つめた。
「分かった。雨月、一つ頼みがある」
「何でしょう」
「木下千恵の身辺を守ってくれ。今夜から」
「もう手配しています」
次に工藤に掛けた。
「根古さん、大変なことになりました」工藤の声が急いている。「江戸川くんが、また消えました」
「また尾けられたか」
「それが??今度は自分から消えたみたいです。ラクカに置き手紙がありました」
「何と書いてある」
「『三人組の目的が分かった。確認してくる。心配しないでください』と」工藤は声を落とした。「秋月さんが、これは心配しないといけないと言っています」
「秋月の言う通りだ。江戸川の携帯は」
「繋がりません」
根古はエンジンをかけた。「ラクカに行く」
ラクカに着くと、工藤と秋月に加えて澪もいた。太田がカウンターで腕を組んでいる。
「江戸川くんの置き手紙です」工藤が紙を差し出した。
根古は読んだ。工藤が言った通りの内容だが、最後に一行付け加えられていた。
追伸。三人組は殺し屋ではないと思います。でも人が死にます。今夜。
全員が黙った。
「今夜、誰が死ぬというんだ」秋月が言った。
根古は紙を置いた。
「江戸川は三人組の目的を掴んだ。三人組はこの町で誰かを殺すために来た」根古は全員を見回した。「標的が誰か、分かる人間は今ここにいるか」
沈黙が続いた。
そのとき澪が、おずおずと手を上げた。
「あの??一つ聞いていいですか」
「言え」
「三人組が来た日と、安藤修が死んだ日が同じだと江戸川さんが言っていました。でも安藤修は自然死だったんですよね」澪は慎重に言葉を選んだ。「もし三人組が安藤修を殺したとしたら??次の標的は、安藤修が監視していた人間じゃないですか」
根古の目が細くなった。
「つまり俺か」
「……はい」澪は申し訳なさそうに言った。「根古さんが標的だと思います」
その夜十一時、温泉宿さざなみの一室で、星野由紀子が立ち上がった。
「行くわ」
「お姉さんが自分で動くんですか」古田麻尋が言った。
「ええ」由紀子はジャケットを羽織った。「江戸川勉に気づかれた以上、時間がない。それに??」由紀子は窓の外を見た。「根古親司という男は、誰かに任せるには厄介すぎる」
「一つ確認していいですか」西野千紗都が静かに言った。「依頼の内容は、根古さんを殺すことですか」
由紀子は振り返った。
「違うわ」由紀子は静かに言った。「根古さんを、守ることよ」
麻尋と千紗都が顔を見合わせた。
「え」麻尋が言った。
「依頼人は片桐レナードです」由紀子は淡々と続けた。「三週間前に連絡が来た。自分が可児に現れたら、必ず狙われる。その前に根古親司という男を守ってほしいと。根古さんが持っている箱が、五十年前の真実の鍵だから」
「じゃあ私たちは最初から??」
「護衛の仕事よ」由紀子は扉を開けた。「殺し屋という噂は、わざと流したものです。近づきにくくするために」
根古の事務所の前に、黒い車が一台止まった。
運転席から降りてきたのは、がっしりした体格の男だ。五十代。スーツ姿だが、動きが滑らかすぎる。
男は事務所の表札を確認し、ドアに手をかけた。
そのとき背後から声がした。
「そこまでにしてください」
星野由紀子の声だ。
男が振り返った。由紀子が三メートルの距離に立っている。手に何も持っていない。それでも男は動きを止めた。
「あなたが安藤賢造の使いなら、今夜は帰ってください」由紀子は静かに言った。「根古さんには、まだやることがあります。それが終わってからにしてほしい」
男はしばらく由紀子を見た。
それから無言で車に戻り、走り去った。
由紀子は事務所を見上げた。二階の窓に灯りがついている。
??根古親司。片桐さんが命を懸けて守ろうとした男。
由紀子は静かに踵を返した。
今夜のところは、これでいい。




