占い師の正体
翌朝、根古は西野薫の教会に向かった。
可児市内の小さなプロテスタント教会だ。白い外壁に木製の十字架。
普段は穏やかな空気が漂っているが、今朝は玄関の鍵が開いたままになっている。
中に入ると、礼拝堂の前列に西野が座っていた。祈っているのか、考えているのか、背中を丸めて動かない。
「西野」
西野はゆっくり振り返った。根古の顔を見て、何かを観念したような表情になった。
「来ると思っていた」西野は静かに言った。
「いつか来ると、ずっと思っていた」
根古は写真を取り出し、西野の前に置いた。
三人の男が写った白黒写真。西野は写真を見た。長い沈黙の後、目を閉じた。
「父から箱を見つけたか」
「昨夜」
「そうか」西野は深く息を吐いた。「五十年間、誰にも話せなかった」
西野が語り始めたのは、しばらくしてからだった。
昭和四十九年の秋、西野は二十九歳だった。
神学校を出たばかりで、可児の小さな教会に赴任してきたばかりだった。
「片桐という男と知り合ったのは偶然だった」西野は手を組んだまま話した。
「川沿いで釣りをしていたら、隣に座ってきた。人懐こい男でな、すぐ仲良くなった。昌也さんとも、その頃からの付き合いだ」
「父も片桐の正体を知っていたのか」
「知らなかった。俺も最初は知らなかった。ただの貿易商だと思っていた」西野は写真を指先で触れた。「気づいたのは十一月に入ってからだ。片桐が追われていると分かった。公安の人間が、この町をうろつき始めた」
「ソ連の工作員だったと聞いた」
西野は静かに頷いた。「片桐本人から聞いた。火事の三日前だ。全部話してくれた。日系アメリカ人で、冷戦の中でソ連に協力していた。でも途中から後悔していた。足を洗おうとしていた」
「足を洗う前に追い詰められた」
「ああ。公安だけじゃない。ソ連側の人間も片桐を追っていた。裏切り者として」西野は顔を上げた。「片桐は俺に言った。自分が持っている情報を、信頼できる人間に預けたいと。その情報が公になれば、日本とアメリカ双方に影響が出る内容だと」
「マイクロフィルムか」
「そうだ。昌也さんと俺で、箱と鍵を分けて持つことにした。片桐の提案だった。どちらか一人が消されても、もう一人が残る。二人揃わなければ開けられない」根古は頷いた。
「火事の夜、片桐は姿を消した。逃げたのか、連れ去られたのか、俺には分からなかった。昌也さんとは、片桐が現れるまで箱と鍵を持ち続けようと約束した」
「父は死んだ」
「ああ」西野は目を伏せた。「昌也さんが死んだとき、俺はこのまま墓まで持っていくつもりだった。
ところが三週間前??」
「片桐の指紋が東京で出た」
西野が顔を上げた。「なぜ知っている」
「NSAから聞いた」
西野はしばらく根古を見つめた。それから静かに言った。
「根古、お前は俺が思っていたより、ずっと深いところまで入っているな」
教会を出た根古に、澪から連絡が入った。
「根古さん、フェルナンド村田が事務所に来ています。会いたいと言っています」
「俺を訪ねて来たのか」
「はい。名刺を置いていきました。関西弁で、感じのいい人です。でも目が??笑ってないです」
根古は車に乗った。
事務所に戻ると、フェルナンド村田がソファに座ってヤマトと遊んでいた。
五十三歳、混血の顔立ちで、派手なシャツを着ている。
YouTubeでは関西弁の占い師として知られているが、北村が言った通り、占い師ではない。
「根古さん、ようやく会えましたわ」フェルナンドは立ち上がり、人懐こい笑顔を見せた。
「この猫、賢いですな。俺のこと気に入ってくれてますわ」
「ヤマトが気に入る人間を、俺は信用する」根古は対面に座った。
「北村からお前の話を聞いた。占い師ではないと」
「占い師ですよ、一応は」フェルナンドは笑いながら座り直した。
笑顔はそのままで、声のトーンが少し変わった。
「内閣情報調査室、略してCABINです。五年前から片桐レナードを追っています」
根古は表情を変えなかった。
「NSAとCABINが同じ男を追っている」
「ええ。ただし目的が違います」フェルナンドは足を組んだ。
「NSAは片桐の持っている情報を回収したい。マイクロフィルムの内容を封じ込めたい。でも我々CABINは??」
「公にしたい側か」
「鋭いですな」フェルナンドは少し目を細めた。
「マイクロフィルムには、冷戦時代に日本国内でアメリカが行っていた諜報活動の記録が含まれています。日本の政治家や官僚がアメリカに協力していた証拠も。それが今も続いている構造の、根っこの部分です」
「五十年前の話が、今も続いている」
「続いているどころか、今が一番核心に近い状態です」フェルナンドは根古を見た。
「安藤修が死んだのはご存知ですか」
「聞いた」
「安藤修は三十六歳で所轄を退職しましたが、退職後は別の仕事をしていました。五十年前の火事に関わった人間の監視です。誰かに雇われて」
「誰に」
「それを調べていたら、死にました」フェルナンドは静かに言った。
「根古さん、あなたの父上が持っていた箱を、NSAに渡してはいけません」
昼過ぎ、可児署で雨月雅之が平圭を呼んだ。
「安藤修の退職後の動きを調べてくれ。非公式でいい」
「何かありましたか」平は表情を変えずに聞いた。
「フェルナンド村田という男と昨日話した。信用していいか分からんが、内容は無視できない」雨月は手帳を開いた。
「安藤修は退職後、可児市内の特定の人物を継続的に監視していたらしい。報告先は警察ではない」
「誰を監視していたんですか」
「根古親司だ」
平は少し間を置いた。「……根古さんを、ですか」
「ああ。つまり安藤が退職したのも、根古の近くで動くためだった可能性がある」雨月は手帳を閉じた。「根古さんに話すべきか迷っている」
「話したほうがいいと思います」平は迷わず言った。「根古さんは今、かなり危ない場所に立っているはずです。知らないままでいるほうが危険です」
雨月は窓の外を見た。
「お前は判断が早いな」
「迷っている時間が惜しいと思っているだけです」
夕方、江戸川勉が姿を現した。
二十五歳の私立探偵は、ラクカの裏口から入ってきた。二日ぶりだ。頬が少し削げている。
「どこにいた」工藤が聞いた。
「隠れていました」江戸川は水を一気に飲んだ。
「例の三人組に尾けられていると気づいて、撒くのに時間がかかりました」
「撒けたのか」
「たぶん」江戸川は自信なさそうに言った。「あの三人、プロです。普通じゃない。特に星野由紀子という女は??俺が尾けていることに、最初から気づいていたと思います。逆に泳がされていた」
秋月が低い声で言った。「噂通り、殺し屋か」
「分かりません。でも隠れている間に一つだけ分かったことがあります」江戸川は全員を見回した。
「三人組は片桐レナードを探していません。別の何かを、この町で探しています」
「何を」工藤が前のめりになった。
「分かりません。でも??」江戸川は少し躊躇してから続けた。「三人が可児に来た日付と、安藤修が死んだ日付が、同じです」
夜、根古は事務所で小箱を前にして座っていた。
ヤマトが箱の隣に座っている。
マイクロフィルム。人名リスト。写真。
NSAは回収したい。CABINは公にしたい。
三人組は別の何かを探している。安藤は根古を監視していた。そして片桐レナードは、まだどこかにいるかもしれない。
根古は煙草に火をつけた。
??五十年前の炎は、まだ燃えている。いや、今が一番火が強い。
携帯が鳴った。見知らぬ番号だ。
「根古親司さんですか」
老いた男の声だ。しかし芯が強い。
「そうだが」
「私が片桐です」
煙草の煙が、静かな事務所に漂った。ヤマトが箱から根古の顔に視線を移した。
「……生きていたか」
「ええ」老人は静かに言った。
「八十四歳になりました。もう隠れている体力がない。根古さん、会っていただけますか。全部話します。五十年前の夜に何があったか、そして??誰があの火をつけたかを」




