日記の中の名前
鳴海美佑が根古の事務所に来たのは、夜七時を過ぎた頃だった。
工藤と秋月も残っている。澪がお茶を入れた。ヤマトは鳴海の膝に迷わず乗った。
初対面の人間に乗るのは珍しい。
「この猫、人見知りしないんですね」鳴海が言った。
「人を選んでいる」根古が答えた。「悪い人間には近づかない」
鳴海は少し表情を緩めてから、鞄から日記帳を取り出した。
表紙の焦げた跡を、根古は黙って見た。
「地蔵堂の老人は名前を言いませんでした。連絡先も教えてくれなかった。
日記を渡したら、そのまま行ってしまいました」
「老人の風貌は」
「七十代後半、腰が少し曲がっていました。作業着を着ていて、右手の人差し指の先がありませんでした。指を切断しているんです」
鏑木俊哉の顔が根古の頭をよぎった。大工の鏑木も右手の指に古傷がある。
しかし鏑木は六十歳だ。年齢が合わない。
「日記を見せてくれ」
日記は薄い大学ノートだった。ページが茶色く変色し、端が崩れかけている。
几帳面な字で、びっしりと書き込まれていた。
昭和四十九年十月から十一月にかけての記録だ。
書いたのは木下千恵の父、木下正義だと思われる。
日常の記録の中に、不穏な記述が混じり始めるのは十月の終わりからだ。
十月二十八日。例の男がまた来た。片桐と名乗っているが、本名かどうか分からない。
金を置いて行く。受け取るなと正子に言ったが、また受け取っていた。あの金は何の金だ。
十一月三日。片桐が妙なことを言った。もうすぐここを離れなければならないかもしれない、と。
何かから逃げているのか。顔色が悪かった。
十一月九日。片桐が荷物を持って来た。預かってほしいと言う。断った。
しかし置いて行った。小さな金属製の箱だ。鍵がかかっている。
根古は手を止めた。
鍵。
今朝、鏑木から受け取った封筒の中の鍵。頭に「K49」と刻まれた、古い鍵。
根古はポケットに手を入れた。鍵はそこにある。
「続きを」根古は静かに言った。
秋月が日記を受け取り、読み上げた。
十一月十四日。夜中に物音がした。外に人がいる気配があった。
正子を二階に上げて、俺は一階で待った。夜明け前に気配が消えた。片桐の荷物を、どこかに隠さなければならない。
十一月十八日。根古に連絡を取った。根古は信用できる。あの男に預けることにした。
工藤が顔を上げた。「根古さん、あなたのお父さんですか」
根古は黙っていた。
父、根古昌也は昭和四十九年に四十二歳だった。可児で小さな運送会社をやっていた。五年前に八十七歳で死んでいる。
「続きを読め」根古は静かに言った。
十一月二十日。根古に荷物を渡した。鍵は俺が持つ、箱は根古が持つ、そう決めた。
片桐のことは根古も知っている。二人で抱えれば、どちらか一人が消されても残りが残る。
十一月二十三日。夜、火が出た??
そこで日記は終わっていた。最後のページが半分焼けている。
沈黙が落ちた。
ヤマトが鳴海の膝から降り、根古の足元に来て座った。
「箱を持っているのは、根古さんのお父さんだった」工藤が言った。
「その箱が今どこにあるか」
「分からん」根古は立ち上がった。
「父は五年前に死んだ。遺品は整理した。金属製の箱など見た覚えはない」
「処分したかもしれない」秋月が言った。
「あるいは隠した」澪が小声で言った。全員が澪を見た。澪は少し縮こまった。
「す、すみません。でも日記の人も隠したから、鍵と箱を別々に持ったわけで。根古さんのお父さんも、大事なものは隠す人だったんじゃないかと思って」
根古は澪を見た。
「……筋は通っている」
澪が少し胸を張った。
その夜、根古は一人で実家に行った。
可児市内の古い一軒家だ。父が死んでから空き家になっている。根古は鍵を持っている。
懐中電灯を手に、家の中を歩いた。ヤマトがついて来た。
居間、台所、父の寝室。五年前に一度整理しているが、大きな家具はそのままだ。
根古は父がものを隠すとしたらどこか、と考えた。
父は几帳面な男だった。同時に、用心深かった。大切なものは人目につかない場所に置く習慣があった。
根古は仏間に入った。仏壇の前に座り、線香を一本立てた。
「親父、教えてくれ」
ヤマトが仏壇の横の柱に近づき、前足で床を叩き始めた。
「何だ」
根古は懐中電灯を向けた。床板の一枚が、周囲と微妙に色が違う。継ぎ目が不自然だ。
根古は手で押した。板が僅かに動いた。端に指をかけて持ち上げると、板が外れた。
暗い空間がある。
手を入れると、布に包まれた硬いものが触れた。
取り出すと、風呂敷に包まれた金属製の小箱だった。横幅二十センチほど。表面に錆が浮いているが、鍵穴はしっかりしている。
根古はポケットから鍵を出した。
鍵穴に差し込んだ。
回した。
かちりと音がして、蓋が開いた。
中に入っていたのは三つのものだった。
一つは小さなマイクロフィルム。専用の機器がなければ読めない。
一つは手書きのリスト。日本語と英語で書かれた人名と数字の羅列。二十人以上の名前がある。
一つは、小さな写真だった。
白黒の写真に、男が三人写っている。背景は見覚えのある景色だ。可児の、御嵩寄りの川沿いだ。
三人のうち一人は、若い頃の父だと分かった。
もう一人は、若い頃の写真だが??今の顔と照合できる。根古は静かに息を吸った。
西野薫だ。牧師の西野。
そして三人目の男は??根古の知らない顔だ。日系の顔立ちで、鋭い目をしている。
写真の裏に鉛筆で書いてある。
昭和四十九年十一月 片桐、昌也、薫
根古は小箱を閉じ、立ち上がった。
ヤマトが根古を見上げた。
「西野薫を知っているか」根古は猫に言った。
ヤマトは答えない。ただ根古の顔を見ている。
「俺も知らなかった。父と西野が、五十年前に繋がっていたとは」
根古は懐中電灯を消した。暗い仏間に、線香の煙が漂っている。
父は何を知っていたのか。西野は何を隠しているのか。
そして片桐レナードは今、どこにいるのか。
深夜、温泉宿さざなみに戻った西野千紗都が、星野由紀子に報告した。
「フェルナンド村田は可児市内のビジネスホテルに泊まっています。今夜は外出していません」
「接触者は」
「昼間、可児署の雨月警部補と一時間ほど話していました」
由紀子は眉を上げた。「警察と」
「はい。ただ??」千紗都は少し間を置いた。「雨月警部補、その後すぐに何かを調べ始めました。署に戻らずに、単独で動いています。フェルナンド村田が何かを教えたんだと思います」
「雨月雅之」由紀子は名前を繰り返した。「二十八歳の若い警部補が、なぜフェルナンド村田と接触する必要がある」
古田麻尋が口を開いた。「雨月警部補の身辺を調べますか」
「ええ」由紀子は立ち上がった。
「この町には秘密を持った人間が多すぎる。一つずつ、開けていきましょう」
由紀子は窓の外の夜空を見た。
??五十年前の炎が、一人ひとりの過去を照らし始めていた。




