地蔵堂の男
翌朝六時、鳴海美佑は旧御嵩街道を歩いていた。五月の朝は空気が冷たい。
吐く息がわずかに白くなる。
地蔵堂は街道沿いの小さな祠だった。
苔むした石段の上に赤い前掛けをした地蔵が一体、道行く人を見守るように座っている。
周囲に人影はない。
鳴海は時刻を確認した。六時三分。
「早いな、お嬢さん」
背後から声がした。
振り返ると、木の陰から老人が現れた。七十代後半だろうか。
腰が少し曲がっているが、目は鋭い。作業着姿で、手に古びた風呂敷包みを持っている。
「あなたが連絡を」
「ああ」老人は石段の脇に腰を下ろした。
「鳴海さんのブログを読んどった。可児の古い話を丁寧に調べとる。信用できると思った」
「木下邸の火事をご存知なんですか」
「知っとる」老人は風呂敷をゆっくり解いた。「俺はあの夜、その場におった」
鳴海は息を呑んだ。
風呂敷の中には、古い日記帳が一冊あった。表紙が焦げている。
「これは」
「あの火事の夜、燃え残ったものだ。五十年間、持っとった」老人は日記を鳴海に差し出した。
「俺一人で抱えるには、重すぎる歳になった」
同じ朝、根古の事務所に鏑木俊哉が来た。
六十歳の大工は、いつも無口だ。用件だけ言って帰る。
今日も玄関先に立ったまま、封筒を差し出した。
「昨日、現場で拾った」
根古が受け取ると、鏑木はもう踵を返しかけた。
「待て。現場というのは」
「木下先生が倒れとった廃屋の近くだ」鏑木は振り返らずに言った。
「誰かが落としていったんだろう。俺には関係ない話だが、根古には関係あると思った」
それだけ言って、鏑木は帰った。
根古は封筒を開けた。中に小さな鍵が一本入っている。古い型の鍵だ。
銀行の貸金庫か、あるいは古い錠前用か。鍵の頭に、小さく「K49」と刻んである。
ヤマトが机に飛び乗り、鍵を前足でつついた。
「触るな」
午後一時、可児インター近くのホテルに、黒塗りのレンタカーが二台停まった。
スティーブ・ヘイブンスが車から降りた。五十七歳、長身で白髪混じりの髪。
日本語が堪能なアメリカ人だ。護衛のカルロスとホセが左右に立つ。
ロビーで根古が待っていた。
「親司」ヘイブンスは日本語で言い、右手を差し出した。
「スティーブ」根古は握手した。「三十年ぶりか」
「二十八年だ。俺は覚えている」ヘイブンスは笑ったが、目は笑っていなかった。
「場所を変えよう」
ホテルの会議室に、根古とヘイブンス、北村、遠藤の四人が揃った。
カルロスとホセは廊下に立っている。
ヘイブンスはテーブルにタブレットを置いた。画面に古い文書が映っている。
英語と日本語が混在している。
「昭和四十九年、木下邸の火事」ヘイブンスが口を開いた。
「NSAはあの事件を把握していた」
「なぜアメリカの情報機関が」根古は静かに聞いた。
「あの火事で行方不明になった男を、NSAは追っていたからだ」ヘイブンスはタブレットをスライドした。
「男の名前はレナード・片桐。日系アメリカ人、当時三十四歳。表向きは貿易商だったが、実際はソ連の工作員だった」
沈黙が落ちた。
「ソ連の」根古が繰り返した。
「冷戦の最中だ。片桐は日本各地の米軍関連施設の情報をソ連に流していた。NSAと日本の公安が追い詰めたところで、あの火事が起きた」ヘイブンスは根古を見た。
「片桐は火事の混乱で逃げた。あるいは逃がされた。それ以来、消息不明だ」
「五十年間」
「ああ。ところが三週間前、片桐の指紋が東京で検出された」
根古は背もたれに体を預けた。
「生きているのか。今年で八十四歳か」
「生死は不明だ。指紋だけが残っていた。場所は??とある人物の遺品の中だ」ヘイブンスは一息ついた。「その人物の名前が、安藤修という」
根古の目が細くなった。
「安藤修は先月、退職している。元警部補だ」
「知っている。退職の二日後に死んでいる。表向きは自然死だ」
根古が会議室を出たのは三時過ぎだった。
廊下で北村唯が小声で言った。
「根古さん、一つ言っておきます。ヘイブンス部長が話したことは全部本当です。でも??話さなかったことも、同じくらいあります」
「お前はどちら側だ」
「NSAのエージェントです」北村は真っ直ぐ答えた。
「でも根古さんに死んでほしくはない」
根古は少し目を細めた。「買いかぶりすぎだ」
「そうでしょうか」北村は廊下の奥を一瞥した。
「フェルナンド村田という人物を知っていますか」
「関西の占い師か。YouTuberの」
「その人物が昨日、可児入りしています。あの人は占い師ではありません」
夕方、ラクカに根古、工藤、秋月が集まった。澪がお茶を運ぶのを、太田が黙って見ている。
根古はヘイブンスから聞いた話を、必要な部分だけかいつまんで話した。
秋月が腕を組んだ。「安藤修が死んでいる。それは把握していませんでした」
「俺も今日知った」
「安藤修と片桐レナードの接点は何でしょう」工藤が手帳に書きながら言った。
「それが今夜の宿題だ」根古はコーヒーを一口飲んだ。「それと??」
そこで根古の携帯が鳴った。鳴海美佑からだ。
「根古さん、会えますか。今すぐ」鳴海の声は緊張している。
「朝に地蔵堂で老人から日記を受け取りました。読んでいたら??根古さんの名前が出てきました」
「俺の名前が」
「正確には、根古という苗字が。五十年前の日記の中に」
店内が静まり返った。ヤマトが根古の足元で丸くなったまま、耳だけ動かした。
同じ夕刻、温泉宿さざなみの一室で、星野由紀子が電話を切った。
「東京から連絡が入ったわ」由紀子は窓の外の山並みを見た。
「予定を早める。明後日までに片をつけなさいと」
「片桐の件ですか」古田麻尋が低い声で聞いた。
「ええ。NSAが動き始めた以上、悠長にしていられない」由紀子は振り返った。
静かな目をしている。怒っているときほど、この人は静かになる、と麻尋は知っていた。
「麻尋、江戸川勉の動きは」
「今日の昼から姿が見えません」
「見失ったの」
「……はい」
由紀子は何も言わなかった。それが一番怖かった。
「千紗都は」
「フェルナンド村田の宿を確認しています。今夜中に報告が来るはずです」
「わかった」由紀子はソファに座った。
「根古親司という男??想像より厄介ね。動きが読めない」
「殺しますか」麻尋が事務的な口調で言った。
「まだ」由紀子は目を閉じた。
「あの男が五十年前の日記を読んだとき、どう動くか見てから決める」
核心に近づいてきました!次では日記の内容が明かされ、根古の名前が五十年前の記録に残っている謎、そしてフェルナンド村田の正体が動き始めます。




