燃やされる記憶
木下千恵が保護された廃屋は、御嵩寄りの旧道から少し入った杉林の中にあった。かつては農家だったらしく、崩れかけた土壁に蔦が絡みついている。
根古が現場に着いたとき、山本彩織がすでに外で待っていた。制服姿の二十八歳、いつもは溌剌としているが、今日は眉間に皺を寄せている。
「先生の状態は」
「落ち着いてきました。救急を呼ぼうとしたんですが、病院は嫌だと言って聞かなくて」山本が声を潜めた。「中にいます。根古さんなら話してくれるかもしれない」
廃屋の中は薄暗かった。差し込む光の中に埃が舞っている。
木下千恵は土間の隅に座っていた。五十三歳、普段は白衣姿で堂々としている動物病院の院長だが、今は膝を抱えて小さくなっている。髪が乱れ、靴底が泥だらけだ。
「千恵さん」
根古が声をかけると、木下はゆっくり顔を上げた。目が赤い。
「……根古さん」かすれた声だった。「来てくれたんですね」
根古は近くにあった木箱を引き寄せて腰を下ろした。急かさずに待った。
しばらく沈黙が続いた。外で山本が無線に応じる声が聞こえた。
「昨日の夕方」木下が口を開いた。「診療を終えて駐車場に戻ったら、車のワイパーに封筒が挟まっていました」
「どんな封筒だ」
「白い封筒。中に写真が一枚」
根古は表情を変えなかった。
「燃えている家の写真でしたか」
木下の目が見開かれた。「根古さん、知っているんですか」
「俺にも同じものが届いた。昨日の朝に」
木下は長い息を吐いた。震えていた手が、少し止まった。
「父の家です」木下が静かに言った。「昭和四十九年、私が三歳のときに燃えました。父は私を連れて逃げたけれど、中にいたはずの人が??」
言葉が途切れた。
「中にいたはずの人が、どうなった」
「見つからなかった。遺体も、何も。警察は行方不明として処理しました」木下は膝の上で手を組んだ。「でも父は死ぬまで言っていた。あれは事故じゃない、誰かが火をつけた、そして??その人を連れ去ったと」
「連れ去った人間に心当たりは」
「父は名前を言わなかった。怖がっていた」木下は根古を真っ直ぐ見た。「でも昨日、封筒を見た瞬間に思ったんです。五十年経って、またあの頃の何かが動き始めたって。だから怖くなって、車を置いて歩いた。どこへ行くかも分からずに」
根古が廃屋を出ると、杉林の入り口に見慣れない人影があった。
柊澪だ。自転車を押して立っている。
「なぜここにいる」
「鏑木さんから場所を聞きました」澪は悪びれずに言った。「それより根古さん、あそこ」
澪が顎で示した方向に、旧道沿いの茂みがある。
「さっきから人がいます。二人。こっちをずっと見てます」
根古は視線を動かさずに煙草に火をつけた。横目で茂みを確認する。??確かに、人の気配がある。
「お前は千恵さんのそばについていろ。山本さんに話を聞かせてやれ」
「根古さんは」
「少し挨拶してくる」
根古が茂みに近づくと、二人の人影が静かに出てきた。
一人は黒人ハーフの若い男だ。背が高く、目つきが鋭い。二十八歳くらい。もう一人は??
「北村唯です」
二十六歳の女が、淡々と言った。黒いジャケット、動きやすい靴。NSAのエージェントだ。根古とは半年前に一度会っている。
「遠藤成気です」背の高い男が続けた。「同じくNSAです」
「お前たちが木下さんを見張っていたのか」
「見張っていたわけではありません」北村が言った。「昨夜から木下千恵の身辺に不審な動きがあったので、保護を優先しました。根古さんが先に着いたので、待っていました」
「俺への封筒も、お前たちが」
「違います。私たちも把握していない動きです」北村は根古の目を見た。「根古さん、明日の午後、ヘイブンス上級部長が可児に来ます。あなたに直接話したいことがあると」
「俺に」
「五十年前の火事について」
根古は煙草の煙を吐いた。杉の梢が風に揺れた。
「スティーブが直々に来るか」根古は独り言のように言った。「大学の後輩が、偉くなったもんだ」
同じ時刻、ラクカで工藤俊一が秋月小五郎と向かい合っていた。
「根古さんに連絡しますか」工藤が言った。
「まだいい」秋月はコーヒーをかき混ぜた。「根古さんはあの人なりのペースで動いている。俺たちが割り込む場面じゃない。それより工藤くん、お前さんが昨夜調べたことを話せ」
工藤は手帳を開いた。
「昭和四十九年十一月、可児市御嵩付近で民家火災。死者なし、行方不明者一名。男性、三十代。名前の記録が残っていない。不自然なほど記録が少ない」工藤は手帳から目を上げた。「抹消されたと思います。誰かが意図的に」
「誰がそんな力を持っていた」秋月が静かに言った。「昭和四十九年の岐阜で、警察の記録を消せる人間というのは」
太田豊がカウンターを拭きながら、さりげなく口を挟んだ。「その頃の可児でえらい力を持っとった人間というたら……まあ、知っとるけど、言うていいもんかどうか」
工藤と秋月が同時に太田を見た。
「太田さん、知っているなら教えてください」工藤が言った。
太田はしばらく迷った顔をしてから、カウンターに肘をついた。
「五十年前、この辺りに土地を牛耳っとった一族があってな」低い声で言った。「今もその末裔がこの町に住んどる。表向きは普通の家だが??昔のことを知っとる年寄りは、みんな口を閉じる」
「その一族の名前は」工藤が前のめりになった。
太田は一度、店の窓の外を確認した。
「安藤という名前だ」
工藤の手が止まった。手帳に書きかけたペンを、静かに置いた。
「……安藤修と、関係がありますか」
「さあな」太田は立ち上がった。「俺が知っとるのはここまでだ。コーヒーのおかわりはいるか」
その夜、鳴海美佑は可児市内を一人で歩いていた。二十四歳の地元YouTuber兼ブロガー。いつもはカメラを回しているが、今夜は手ぶらだ。
スマートフォンに届いたメッセージを見返した。
??木下邸の火事を調べているなら、明日の朝、旧御嵩街道の地蔵堂に来い。本当のことを話せる人間がいる。
送信者不明。
鳴海は立ち止まり、夜空を見上げた。可児の空に星が出ている。
怖いか、と自分に問いかけた。
??怖い。でも行く。
それが自分の性分だと、鳴海はよく知っていた。




