温泉宿の客たち
翌朝、根古は可児市内を車で流した。助手席にヤマトが座り、窓の外を眺めている。猫を助手席に乗せる探偵など、この町では根古だけだろう。
木下千恵の動物病院の前を一度通った。シャッターが下りている。駐車場に彼女の軽自動車がある。昨夜から動いていない。
携帯に着信が入った。
「根古さん、私です」
柊澪の声だ。二十一歳の学生で、先月から根古に弟子入りを志願して事務所に出入りしている。断っても来る。根古はまだ正式に認めていないが、追い払うのも面倒になってきていた。
「何だ」
「昨夜、鏑木さんから連絡がありました。木下先生が夕方、鏑木さんの作業場の近くを歩いているのを見たって」
鏑木俊哉。六十歳の大工で、根古の古い知り合いだ。口数は少ないが目は確かい。
「どの辺だ」
「御嵩寄りの旧道沿いだそうです。一人で、足早に歩いていたと」
根古はハンドルを切った。御嵩方面へ向かう。ヤマトが体勢を変えた。
旧道沿いには、古い温泉宿が一軒ある。「湯宿 さざなみ」。地元客がひっそり使う、目立たない宿だ。
根古が暖簾の前に車を止めると、玄関先で見知った顔がたむろしていた。
「おお、根古くん」
長曾我部圭吾が手を上げた。五十九歳の会計士で、根古の温泉仲間の一人だ。隣には松平秀麿、神主の五十五歳。その向こうに、加藤敬三が腕を組んで立っている。自動車屋の六十歳だ。
「何でお前らがここにいる」
「俺たちも昨日からここに泊まっとる」松平が言った。「月一の温泉会じゃないか。根古が忘れとるだけで」
根古は額に手を当てた。すっかり忘れていた。
「織田は」
「もう中におる。朝からラーメンの話しかしとらん」
玄関を入ると、ロビーの隅でロドリゲス斎藤がタブレットを操作していた。五十二歳、バイヤー兼YouTuberで、いつもどこかを撮影している。
「根古さん、昨夜この宿に変な客が来ましたよ」低い声でロドリゲスが言った。「女三人組。チェックインしたのが夜の十一時過ぎ。荷物が妙に少なくて、でも全員、目が笑ってない」
根古は黙って続きを促した。
「今朝、廊下ですれ違ったんですが……」ロドリゲスはタブレットを裏返した。「盗撮じゃないですよ、廊下の共有スペースで自然に映り込んだだけです」
画面には、三人の女が写っていた。
根古は写真を見つめた。??東京から来た三人組。まさかこの宿に。
宿の奥の個室に、イエンガー・ムハンマドがいた。五十五歳、インド系のカレー店長で、これも温泉仲間だ。だが今日は顔色が優れない。
「根古さん、昨夜ここで妙なものを見ました」
ムハンマドは窓の外、裏庭に目を向けた。
「夜中の二時ごろ、目が覚めて窓を開けたんですが??裏庭に人が立っていた。女性です。じっとこちらを見ていた。三分ほど動かなかったと思ったら、ふっといなくなりました」
「木下先生じゃないか」
「いや……知らない顔でした。若い女性でした」
根古は煙草を取り出しかけて、宿の中だと思い直してポケットに戻した。
「西野さんは」
「牧師の西野さんなら、朝から露天にいますよ」ムハンマドが言った。「珍しく難しい顔して」
露天風呂の岩に腰掛けて、西野薫が空を見上げていた。五十四歳、穏やかな牧師だが、今日は祈っているというより、考え込んでいるように見えた。
「根古くん」西野は振り返らずに言った。「昨夜、夢を見た」
「聞きたくない話の前置きだな、それは」
「五十年前の火事の夢だよ」
根古は湯の縁に片膝をついた。
「お前も知っとるのか、木下邸の火事を」
「子供のころ、父から聞いた話だ」西野はゆっくり振り返った。「あの火事で一人死んでいる。表向きは事故扱いだった。でも父は??事故じゃないと言っていた」
湯煙が二人の間を漂った。遠くで鳥の声がした。
根古の携帯が鳴った。山本彩織からだ。
「根古さん、木下先生が見つかりました」
「どこだ」
「御嵩の旧道沿いの、廃屋です。怪我はありません。ただ??先生、何かひどく怯えていて、一言だけ繰り返しているんです」
「何と言っとる」
山本が一呼吸置いた。
「燃やされる、って」
その同じ時刻、可児署では雨月雅之警部補が一枚の報告書を睨んでいた。二十八歳、若い警部補だが、目の鋭さは年齢に似合わない。
隣で平圭巡査長がコーヒーを置いた。二十四歳、いつも淡々としている。
「北村さんから連絡がありました」平が静かに言った。
「NSAの」
「はい。この町に彼女の上司が来るそうです。スティーブ・ヘイブンスという人物。護衛二名を連れて、明日の午後に」
雨月は報告書を伏せた。
「NSAがこんな田舎に何の用だ」
「それが……根古親司という人物に会いに来るようです」
雨月は窓の外を見た。可児の空は今日も静かに晴れている。
??この静けさが、どこかで音を立てて崩れる気がした。




