黒猫と古い写真
五月の朝、岐阜県可児市の外れにある木造二階建ての事務所に、一枚の封筒が届いた。
差出人の名前はなかった。
「ヤマト、これを見ろ」
根古親司は封筒を開けながら、足元に丸くなっている黒猫に話しかけた。
五十八歳にしては背筋の伸びた男だが、今朝はまだ寝癖が直っていない。
ヤマトは片目だけ開けて、興味なさそうにまた閉じた。
封筒の中には、一枚の古い白黒写真と、手書きのメモが入っていた。
写真には、炎に包まれた建物が写っている。昭和の雰囲気だ。
裏には鉛筆で小さく「S49・可児・木下邸」と書いてある。
メモにはこうあった。
??五十年前の炎を、掘り返すな。命が惜しければ。
「脅迫状にしては、ずいぶん古風だな」
根古は湯呑みを手にしながらつぶやいた。木下邸。
その名前に、微かに記憶が引っかかる。
??木下千恵。あの動物病院の院長も、木下だ。
昼前に根古が「茶店ラクカ」の暖簾をくぐると、カウンターで太田豊マスターが新聞を読んでいた。
「珍しい顔が揃っとるな」
太田は眼鏡を額に上げて言った。
奥のテーブルには、工藤俊一と秋月小五郎が向かい合って座っていた。
工藤は横浜から療養に来ているはずの三十二歳。
秋月は元警視庁刑事で四十八歳、いつも工藤の後ろをついて歩く。
「療養中の人間がこんな顔色で来るな」と秋月が言った。「根古さん、何かあったろ」
「人の顔を読むな、元刑事」
根古は写真のコピーをテーブルに置いた。本物は事務所の引き出しに鍵をかけて仕舞ってある。
工藤が写真を手に取り、秋月が横から覗き込んだ。
「昭和四十九年……五十年前、ちょうど」工藤が低い声で言った。
「木下邸の火事。可児で当時、こんな事件があったんですか」
「知らん。だから調べたい」
太田がコーヒーを三つ運んできながら、さりげなく会話に割り込んだ。
「木下っていや、ロータリーの前の動物病院の先生か。あそこの先生のお父さん、昔ここらで何か揉め事があったって話、ちらっと聞いたことあるな。詳しくは知らんけど」
その夜、可児署の山本彩織巡査長から根古に連絡が入った。
「根古さん、ちょっといいですか」
電話口の声は低く、いつもの快活さがない。
「実は……木下千恵先生が、今日の夕方から連絡が取れなくて」
根古は煙草を灰皿に押しつけた。
「動物病院は」
「スタッフが閉めました。先生の車は駐車場にあります。携帯も繋がりません」
ヤマトが根古の膝に飛び乗り、じっと顔を見上げた。
「わかった。俺も動く」
根古は立ち上がりながら、窓の外に目をやった。可児の夜は静かだ。
御嵩の山の稜線が、月明かりにうっすら浮かんでいる。
??五十年前の炎。それが今夜、また燃え始めたのかもしれない。
同じ夜、可児市内のとある集合住宅の一室。
「お姉さん、この町、想像より静かじゃないですか」
古田麻尋が窓の外を見ながら言った。二十三歳、細い目に人を食ったような笑み。
「静かな町ほど、深いところで何かが動いてる」星野由紀子が答えた。
四十歳。三人の中で最年長、常に落ち着き払っている。
「それより??江戸川勉、今夜も外に出たわよ」
「あの探偵くん、こまめに動くね」西野千紗都が小さく笑った。
「放っておいていいんですか」
「もう少し泳がせましょう」由紀子はカーテンをそっと戻した。
「この町には、私たちより先に来ている人間が多すぎる。NSAまでいるとなれば、急ぐ必要はない」
部屋の照明が落とされ、三人の気配が闇に溶けた。




