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梅雨の終わり

翌朝、根古が家に着くと、ドアの前に人が立っていた。

 六十四歳の女性。落ち着いた服装で、背筋が伸びている。顔立ちが鷺田康介に少し似ている。

「鷺田美也子さんか」根古は言った。

 女性は少し驚いた顔をした。「ご存知でしたか」

「雨月警部補から名前を聞いていた。入ってください」


 美也子はソファに座り、ヤマトが足元に来ると少し表情を緩めた。

「兄のことで来ました」美也子は静かに言った。「昨夜、兄から電話がありました。雨月警部補に会いに行くと言っていました。自分から話すと」

「それは聞いた」

「根古さんが兄にそう言ってくださったと聞きました」美也子は根古を見た。「ありがとうございます。兄は頑固な男ですが、追い詰められると意固地になる。根古さんの言い方が良かったんだと思います」

「俺は背中を押しただけだ」

「それが大事なんです」美也子は膝の上の手を組んだ。「祖父の義雄についても、聞きました。柿の木の下のことも」美也子は少し間を置いた。「恥ずかしいことです。鷺田の家として、本当に恥ずかしい」

「あなたは何も知らなかった」

「知らなかったことが、免罪符になるとは思いません」美也子は根古を見た。「父の義一は良い人でした。祖父の義雄とは、晩年ほとんど口を利いていなかった。父は何か知っていたのかもしれない。知っていて、抱えていたのかもしれない」

「父親の重荷を、子供が引き継ぐ必要はない」根古は言った。

「そうでしょうか」美也子は静かに言った。「私はそうは思えない。引き継がなくていい荷物と、引き継がなければならない責任は、違うと思っています」

 根古は少し美也子を見た。

「何をするつもりですか」

「村瀬綾子さんの弟さんに、会いに行きます。鷺田家として、謝りに行きます」美也子は真っ直ぐ言った。「それだけです。それしかできない」


 美也子が帰った後、澪が奥から出てきた。

 昨夜から事務所に泊まっていた。根古は何も言わなかった。言っても聞かないと分かっていた。

「根古さん、美也子さんって強い人ですね」澪は言った。

「ああ」

「あんな家に生まれて、あんなふうに生きられるのって??どうしたらああなれるんですかね」

「知らん」根古は煙草に火をつけた。「ただ生きていたら、ああなったんだろう」

「それって、すごいことですよ」澪は言った。


 午前中、雨月から連絡が入った。

「鷺田康介が昨夜、任意で出頭しました。ロシアとの関係について、詳しく話しています」雨月は言った。「鷺田義雄については、検察と協議の結果??立件します。九十二歳ですが、村瀬綾子さんの件は時効ですが、ボリス・クラフチェンコの件は別の扱いになる可能性があります。国際的な案件として、外務省も動き始めました」

「一石さんの動きか」

「そうです。イスラエルと日本の間で、正式な協議が始まるようです」雨月は一息ついた。「根古さん、安藤修さんを殺した件については、安藤賢造が全面的に認めました。起訴されます」

「全部動き始めたな」

「はい」雨月は少し間を置いた。「根古さん、一つ個人的なことを聞いていいですか」

「何だ」

「こういう仕事をしていて、しんどくないですか」

 根古は少し考えた。

「しんどいときもある」根古は言った。「でも動かないよりはいい」

「そうですか」雨月は静かに言った。「参考にします」


 昼過ぎ、根古はモーシェと節子の家を訪ねた。

 可児市内の古い一軒家。手入れの行き届いた庭に、今年も紫陽花が咲いている。

 節子が玄関で迎えた。目が少し腫れているが、表情は穏やかだ。

「来てくださってありがとうございます」節子は言った。「主人が話したいと言っていました」

 居間に通されると、モーシェが座椅子に座っていた。昨夜より顔色がいい。節子の手料理を食べたからだろう。

「根古さん」モーシェは言った。「座ってください」

 根古は座った。節子が緑茶を持ってきて、そっと席を外した。

「一つお礼を言いたかった」モーシェは根古を見た。「あなたのお父さんに、五十年越しのお礼を」

「父はもういません」

「分かっています。だからあなたに言います」モーシェは静かに言った。「昌也さんは何も言わずに、ずっと箱を持っていてくれた。鍵は木下さんのお父さんが持っていた。二人とも、何も言わずに死んだ。でも守ってくれた」

「父はそういう男でした」

「そういう男が、世界を支えているんです」モーシェは根古を見た。「派手なことは何もしない。でも誰かが必ず、黙って荷物を持っている。あなたも同じだ、根古さん」

 根古は黙っていた。

「探偵というのは、そういう仕事ですか」モーシェは少し微笑んだ。

「どうでしょう」根古は言った。「ただ動いているだけです」

「それが大事なんです」


 根古が帰り際、玄関で節子が小さな包みを渡してきた。

「主人が若い頃、イスラエルから持ってきたお菓子です。ずっと作り続けているんです。よかったら」

「いただきます」

「根古さん」節子は根古を見た。「昌也さんのこと、私は存じ上げなかったけれど??きっと良い方だったんでしょうね」

「無口でした」根古は言った。「でも悪い男ではなかった」

 節子は微笑んだ。「息子さんを見れば、分かります」


 夕方、ラクカに温泉仲間が集まっていた。

 長曾我部、松平、加藤、ロドリゲス、ムハンマド、織田。西野薫も来ていた。

 根古が入ると、全員が顔を上げた。

「終わったのか」長曾我部が聞いた。

「だいたい」根古は席に着いた。

「だいたいというのは」松平が言った。

「全部終わることはない。次が来る」

「違いない」加藤が笑った。「根古のいる町では、何かが常に起きとる」

「俺のせいではない」

「お前がいるから起きるんだ」ロドリゲスが言った。タブレットを持っているが、今日は撮影していない。

「ムハンマドさん、カレーはどうですか」澪が聞いた。いつの間にか来ていた。

「明日から新メニューだよ」ムハンマドは嬉しそうに言った。「夏向けのスープカレー。根古さん、食べに来てください」

「行く」

「織田さんのラーメンも新メニューあるよ」と織田が言った。

「お前も来い」

「俺はラーメン屋だ。カレーは関係ない」

 笑いが起きた。

 太田がコーヒーを運びながら、静かに笑っていた。


 夜、ダニロが根古の事務所に来た。

 明日の朝、日本を離れると言った。

「ウクライナに帰るのか」

「はい」ダニロは立ったまま言った。「祖父の件、記録に残ることになりました。父に報告します」

「お父さんは喜ぶだろう」

「喜ぶかどうか分かりません」ダニロは静かに言った。「でも??知ることができる。それで十分です」

 根古は頷いた。

「一つ礼を言います」ダニロは根古を見た。「あなたは私に、祖父の話を聞かせてくれた。モーシェさんと会わせてくれた。それは任務の外のことです」

「俺も動きたかっただけだ」

「それが大事なんです」ダニロは言った。モーシェと同じ言葉だった。

 根古は少し目を細めた。

「ダニロ」根古は言った。「気をつけて帰れ。ウクライナは今、危ない」

「分かっています」ダニロは言った。「でも帰らなければならない場所があります」

「そうだな」

 ダニロは一度だけ、深く頭を下げた。それから出て行った。

 ヤマトが窓の外を見ていた。


 その夜遅く、根古は一人で木曽川沿いを歩いた。

 ヤマトが隣を歩いている。猫が外を歩くのは珍しいが、今夜はついて来た。

 川面が月明かりを反射している。

 根古は昌也の箱のことを考えた。父が何も言わずに持ち続けた、あの小さな箱のことを。

 父は知っていたはずだ。中に何が入っているか。どれだけ危険なものか。それでも持ち続けた。誰にも言わずに。

 なぜ根古に言わなかったのか、と少し思った。

 でもすぐに分かった。

 言えば、息子が動く。動けば、危険に巻き込まれる。だから言わなかった。

「過保護な親父だ」根古は小声で言った。

 ヤマトが根古を見上げた。

「お前も同じだろうが」根古は言った。「危ないとなると、必ず足元に来る」

 ヤマトは何も言わない。ただ歩き続ける。

 梅雨の夜、川沿いに蛍が一匹飛んでいた。


終章 六月の光

 翌朝、可児は晴れた。

 梅雨の晴れ間だ。空気が洗われたように澄んでいる。

 根古が事務所を開けると、澪がもう来ていた。

「早いな」

「今日から正式に弟子にしてください」澪は言った。開口一番だった。

「まだ早い」

「どこが足りませんか」

「全部だ」

「全部というのは、全部伸びしろがあるということですか」

 根古は少し考えた。「勝手にそう解釈しろ」

 澪は笑った。


 一石誠が日本を離れる前日、根古に連絡をくれた。

「モーシェさんの証言、正式に記録されました。ボリスの件も。時間はかかりますが、国際的な場で事実として認定されます」一石は言った。「根古さん、あなたのお父さんが守っていたものが、正しく使われました」

「父に言ってやりたかった」

「言えませんでしたか」

「五年前に死にました。こんなことになると思っていなかった」

「伝わっていると思います」一石は静かに言った。「そういうことは、伝わるものです」


 フェルナンド村田は大阪に戻る前に、ラクカに寄った。

 根古と二人でコーヒーを飲んだ。

「根古さん、次はいつ何か起きますか」フェルナンドは笑いながら言った。

「知らん」

「でも起きますよね」

「お前が来るから起きる」

「それは違います」フェルナンドは笑った。「私はいつも後からついて行くだけです。根古さんが先に動いている」フェルナンドは少し真顔になった。「根古さん、一つだけ言っていいですか」

「何だ」

「この町には、まだ眠っているものがある。私は職業柄、そういうものが分かります。可児という町は、表向き静かだけど??地の底に何かがある。良いものも、悪いものも」フェルナンドはコーヒーを飲んだ。「次に何か起きたら、また来ます」

「来なくていい」

「来ます」フェルナンドは笑った。


 夕方、工藤俊一が本当に横浜に帰った。

 今度は秋月も一緒だ。

 ラクカの前で、根古は二人を見送った。

「お世話になりました」工藤は頭を下げた。「また来ていいですか」

「好きにしろ」

「それは来ていいということですね」

「好きにしろと言った」

 工藤は笑った。

 秋月が根古の隣に並んだ。

「根古さん、あんたは良い探偵だ」秋月は静かに言った。

「そんなことはない」

「俺は元刑事だ。人を見る目はある」秋月は根古を見た。「また来る。次の事件のときに」

「事件になるとは限らない」

「なる」秋月は言った。「あんたのいる町では、必ずなる」

 工藤と秋月の車が走り去った。

 澪が隣に来た。

「寂しくないですか」澪は言った。

「なぜ俺が寂しい」

「なんとなく」

「寂しくない」根古は言った。「また来る。そう言った」


 その夜、根古は父の仏壇の前に座った。

 線香を一本立てた。

 床板の下の空間は、もう空だ。箱はない。鍵もない。

「全部片付いた」根古は静かに言った。「お前が守っていたものは、ちゃんと届いた。モーシェさんも、片桐さんも、ダニロも??みんな、ありがとうと言っていた」

 線香の煙が細く上がっていく。

「無口な親父だった」根古は言った。「でも重い荷物を、ずっと持っていた。知らなかった。悪かった」

 ヤマトが根古の隣に来て、座った。

 二人で線香が燃え尽きるまで、そこにいた。


 翌朝、根古の事務所に新しい依頼が来た。

 七十代の男性で、飼い犬が迷子になったという。

 根古は話を聞いた。メモを取った。

「分かりました。探してみます」根古は言った。

 男性が帰った後、澪が言った。「犬の迷子ですか」

「依頼は依頼だ」

「探偵が犬を探すんですか」

「何が悪い」

 澪は少し笑った。「分かりました。私も手伝います」

「勝手にしろ」

 根古は立ち上がった。ヤマトが机から飛び降りた。

 六月の朝、可児の空は高く晴れていた。

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