九十二歳の悪意
可児市内の老人ホーム「木漏れ日苑」は、住宅街の中に静かに建っていた。
白い外壁、手入れされた庭。訪れる人を穏やかに迎えるような雰囲気だが、根古には今朝、その穏やかさが少し嘘くさく見えた。
受付で名前を告げると、若い女性スタッフが困惑した顔をした。
「鷺田義雄様のご面会は、ご家族以外は??」
「雨月警部補から連絡が入っているはずです」根古は言った。
スタッフが奥に確認しに行った。
ダニロが根古の隣に立ち、小声で言った。「昨夜の面会者の件、調べたか」
「雨月が動いている」
「根古さん」ダニロは入口の方を一瞥した。「尾けられています。駐車場に車が一台、さっきから動かない」
「知っている。見えていた」
「対処しなくていいのか」
「今は義雄に集中する」根古は前を向いた。「後ろは後でいい」
ダニロは短く頷いた。
スタッフに案内されたのは、建物の奥まった個室だった。
廊下が長い。他の部屋からテレビの音や話し声が聞こえるが、この部屋の前だけ静かだ。
スタッフがドアをノックした。
「義雄さん、お客様です」
返事はなかった。
スタッフがドアを開けた。
部屋は質素だった。
ベッドと小さなテーブル、窓際に椅子が一脚。窓から庭が見える。
車椅子に老人が座っていた。
九十二歳。白髪で、体が小さく縮んでいる。目が閉じている。
眠っているのか、と根古は思った。
しかし部屋に入った瞬間、老人の目が開いた。
根古はその目を見て、少し止まった。
澄んでいる。濁りがない。九十二歳の老人の目とは思えないほど、鋭く澄んでいる。
認知症ではない。康介が言った通りだ。全部分かっていて、黙っている目だ。
「鷺田義雄さん」根古は部屋に入った。「根古親司といいます。少し話を聞かせてください」
義雄は根古を見た。何も言わない。
「隣にいるのはダニロ・クラフチェンコです。ボリス・クラフチェンコの孫です」
義雄の目が、かすかに動いた。ダニロを見た。
それだけだった。表情は変わらない。
根古は椅子を引いて、義雄の前に座った。ダニロは扉の近くに立ったままだ。
「昭和四十九年から五十年にかけて、あなたがこの町でやったことを知っています」根古は静かに言った。「木下邸への放火を安藤家に命じた。村瀬綾子が死んだ。翌年、ボリス・クラフチェンコを殺した」
義雄は何も言わない。
「否定しますか」
義雄はゆっくり根古を見た。
それから、初めて口を開いた。
声は老いていたが、芯があった。
「根古」義雄は言った。「昌也の息子か」
「そうです」
「昌也は余計なものを持っていた」義雄は静かに言った。「あの箱さえなければ、もっと早く終わっていた」
「父に何かするつもりだったか」
「するつもりだったが??節子が産まれた」義雄は窓の外を見た。「モーシェの女房だ。あの女が産まれたとき、モーシェはこの町に根を下ろすと決めた。動きが止まった。だから昌也も、しばらく放っておいた」
「放っておいた間に、父は死んだ」
「自然に死んだ。俺は何もしていない」義雄は根古に目を戻した。「お前に恨みはない。昌也にも恨みはなかった。邪魔だっただけだ」
ダニロが一歩前に出た。
「ボリスを殺したのはあなたですか」ダニロは静かに、しかしはっきり言った。
義雄はダニロを見た。長い間、見ていた。
「ボリスに似ているな」義雄はやがて言った。「目が特に」
「答えてください」
「殺した」義雄は静かに言った。「邪魔だった。証拠を掴まれた。消すしかなかった」
ダニロは動かなかった。顔色も変わらなかった。根古は横目でダニロを見た。全身に力が入っているのが分かった。それでも動かなかった。
「後悔しているか」ダニロは言った。
義雄は少し考えた。
「していない」義雄は言った。「必要なことをした。それだけだ」
ダニロは黙った。
根古が口を開いた。「鷺田康介はロシアとの関係を切ろうとしています」
義雄の目が少し動いた。
「康介が自分でそう判断したのか」
「そうです」
「馬鹿な男だ」義雄は静かに言った。怒っているのか失望しているのか、表情では分からない。「五十年かけて作ったものを、一代で捨てる」
「あなたが五十年かけて作ったのは、人を傷つけ、殺すための仕組みです」根古は言った。
「そうだ」義雄は根古を見た。「それが力というものだ。根古、お前には分からん」
「分かりたくもない」
根古は立ち上がった。
「最後に一つだけ聞きます」根古は義雄を見下ろした。「村瀬綾子の遺体はどこにある」
義雄は少し間を置いた。
根古は待った。
義雄は窓の外を見た。庭の片隅に、古い柿の木が一本ある。
「この施設を建てる前、ここは空き地だった」義雄は静かに言った。「その前は、畑だった」
根古は義雄を見た。
「畑の、どこだ」
「柿の木の下だ」義雄は言った。「ずっとここにいたかったから、この施設に入った。見ていたかった」
部屋が静まり返った。
ダニロが小さく息を吐いた。
根古は携帯を取り出し、雨月に電話した。
「木漏れ日苑の庭、柿の木の下を調べてくれ。鷺田義雄が話した」
根古とダニロが施設を出ると、駐車場の車がまだいた。
根古は直接その車に近づいた。
窓を叩いた。
しばらくして窓が下がった。
中にいたのは、五十代の男だった。日本人だが、雰囲気が違う。目が冷たい。
「誰の指示で動いている」根古は静かに言った。
男は答えなかった。
ダニロが助手席側に回った。男が気づいて振り返った瞬間、根古が運転席のドアを開けた。
「降りろ」根古は言った。
男は少し考えてから、降りた。
根古は男を見た。「鷺田康介か、ロシア側か」
「……康介さんです」男は低い声で言った。「今朝まで監視を続けろと言われていた。でも??」男は少し迷ってから続けた。「今朝、康介さんから連絡が来て、引き上げろと言われました。でもどこに行けばいいか分からなくて、ここにいました」
根古はダニロを見た。
ダニロは小さく頷いた。
「名前は」根古は男に聞いた。
「田中といいます」
「田中、雨月警部補に会いに行け。自分から話せ。康介が動いているなら、お前も同じ方向に動け」
田中は根古を見た。それから小さく頷いた。
昼前、雨月から連絡が入った。
「根古さん、柿の木の下から??遺骨が出ました」
根古は電話口で黙っていた。
「鑑定はこれからですが、状況から見て??村瀬綾子さんだと思われます」雨月の声は静かだったが、緊張が滲んでいた。「鷺田義雄の件、傷害致死と死体遺棄で立件できます。九十二歳ですが、検察と協議します」
「綾子さんの遺族は」
「今調べています。五十年前に行方不明になった女性として記録がある。岐阜県出身で、ご両親はすでに亡くなっていますが、弟が愛知県にいます」
「知らせてやれ」
「はい」雨月は一息ついた。「根古さん、よくここまで来ましたね」
「まだ終わっていない」根古は言った。
昼過ぎ、根古はラクカに戻った。
工藤と秋月がいた。澪も来ていた。鳴海も来ている。フェルナンド村田も、なぜかいた。
太田がカウンターで黙々とコーヒーを淹れている。
「全員集まったな」根古は言った。
「根古さんが動いているとき、ここに来ると何か起きる気がして」工藤が言った。
「気のせいだ」根古は席に着いた。「ただの茶店だ」
「失礼な」太田がカウンターから言った。
笑いが起きた。
根古はコーヒーを一口飲んでから、今朝のことを話した。
誰も口を挟まずに聞いた。
話し終えると、しばらく静かだった。
「九十二歳で、後悔していないと言ったか」秋月が静かに言った。
「そう言った」
「怖い老人だ」
「ええ」フェルナンドが言った。「でも話したということは??どこかで、話したかったんだと思います。九十二歳まで、一人で抱えてきた。誰にも言えなかった。根古さんが来て、初めて話せた」
「それが免罪符になるとは思わない」根古は言った。
「なりません」フェルナンドは静かに言った。「でも人間というのは、そういうものだと思って」
夕方、根古は一人で木下千恵の動物病院に寄った。
千恵に綾子の遺骨が見つかったことを伝えた。
千恵は白衣のまま、しばらく黙っていた。
「父が守ろうとしていたものが??ちゃんとありましたね」千恵はやがて言った。
「あった」
「根古さん」千恵は根古を見た。「ありがとうございます。本当に」
「俺は動いただけだ。最初から全部、お前の父親と昌也さんが守っていたものだ」
千恵は頷いた。それから少し笑った。
「根古さん、ヤマトは元気ですか」
「今日も事務所で好き勝手やっている」
「今度、健康診断に連れてきてください」
「高くするなよ」
千恵が笑った。根古も少し笑った。
夜、西野の教会で小さな集まりがあった。
片桐とモーシェ、ダニロ、一石、西野。それに根古と澪。
西野がテーブルに簡単な食事を並べた。誰かが持ってきたビールが一本ずつある。
一石が立ち上がった。
「モーシェさんの証言と、ボリスの遺した書類、そして昌也さんの箱の中身を合わせて、大使館として正式に記録します」一石は言った。「ボリス・クラフチェンコが何者で、なぜ死んだか。それが記録に残ります」
ダニロは黙って頷いた。
「片桐さんについては」一石はフェルナンドを見た。フェルナンドは今日も来ていた。いつの間にか輪の中にいる男だ。
「CABINとして、片桐さんの今後の身の安全は保証します」フェルナンドは言った。「諜報記録については、政府と協議しながら、適切なタイミングで」
「適切なタイミングというのは」片桐が静かに聞いた。
「長くはかかりません」フェルナンドは片桐を見た。「片桐さんが生きているうちに、必ず」
片桐は頷いた。
食事が始まった。
モーシェが節子に電話した。電話口で節子が泣いているのが、離れていても分かった。モーシェは穏やかに話し続けた。大丈夫だ、明日帰る、心配させてすまなかった、と。
ダニロはビールを一口飲んで、窓の外を見た。
星が出ている。
「祖父が星好きだったと聞いた」ダニロは静かに言った。独り言のようだった。
「ボリスはよく外に出て星を見ていたな」モーシェが電話を切って言った。「この町の星が好きだと言っていた。都会より多く見える、と」
ダニロは少し空を見た。
「同じです」ダニロは言った。「私も星が好きです」
誰も何も言わなかった。
それで十分だった。
根古は食事の後、外に出て煙草を吸った。
澪が後ろからついて来た。
「根古さん」澪は言った。「一つ聞いていいですか」
「何だ」
「根古さんのお父さん、どんな人でしたか」
根古は星を見た。
「無口だった」根古は言った。「あまり家にいなかった。仕事ばかりしていた。自分のことは何も話さなかった」根古は煙草の煙を吐いた。「でも今になって分かる。黙って人の荷物を持つ人間だった」
「かっこいいですね」澪は言った。
「そうでもなかった」根古は言った。「でも??悪い男ではなかった」
根古は煙草を消した。
教会の中から、話し声と笑い声が聞こえてくる。
片桐とモーシェが何か話している。西野が笑っている。ダニロの低い声も聞こえる。
根古は空を見上げた。
五月の終わりの夜空に、星がよく見えた。




