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再会と告白

西野の教会の奥の部屋で、片桐とモーシェは向き合って座っていた。

 西野が湯呑みを二つ置いて、静かに出て行った。気を利かせる男だ。

 ダニロは廊下に立っている。部屋の中には入らなかった。これは老人たちの時間だと、若いエージェントは理解していた。

 片桐が先に口を開いた。

「モーシェさん、一つ謝らなければならない」

「何をですか」モーシェは静かに言った。

「ボリスのことです」片桐は手を膝に置いた。老いた手が、かすかに震えている。「私はボリスが死ぬ前日、彼と会っていた。危険だと分かっていたのに、止めなかった」

 モーシェは黙って聞いていた。

「ボリスは私に言った。鷺田義雄が何者か掴んだ、証拠がある、と。私は止めた。証拠を持って動けば消されると言った。でもボリスは聞かなかった」片桐は目を伏せた。「私が強く止めていれば、あるいは??」

「片桐さん」モーシェは静かに遮った。「ボリスは止まらなかった。あの男の性格を、あなたもよく知っているでしょう。一度動くと決めたら、誰にも止められない」

「それでも」

「あなたのせいではない」モーシェは片桐を見た。「五十年間、そのことを引きずっていたんですか」

 片桐は答えなかった。答えないことが、答えだった。

 モーシェは湯呑みを手に取った。「私も引きずっていた。ボリスが死んだとき、私はすでに任務を離れていた。節子と結婚する直前だった。動くことができなかった。動かなかった、と言うべきか」

「お互い、重いものを持ってきたな」片桐が静かに言った。

「ええ」モーシェは頷いた。「でも今夜、ここで話せている。それで少し、軽くなった気がします」


 しばらくして、根古が部屋に入った。

 二人の老人は穏やかな顔をしていた。嵐の前とも、嵐の後とも違う、静かな表情だ。

「一つ聞かせてください」根古は二人の前に座った。「鷺田義雄がボリスを殺した証拠は、今どこにあるか」

 片桐とモーシェが顔を見合わせた。

 モーシェが口を開いた。「ボリスが父に送った手紙の中に、証拠の在りかが書いてあったはずです。ダニロの父がその手紙を持っていた」

 根古は立ち上がり、廊下のダニロを呼んだ。

 ダニロが部屋に入り、モーシェを見た。初めて部屋の中に入った。

「ダニロ」モーシェは言った。「お祖父さんに似ているね。目が特に」

 ダニロは少し顔を強張らせた。感情を出すまいとしているのが分かった。

「ありがとうございます」ダニロは短く言った。

「お祖父さんの手紙を持っているか」

「持っています」ダニロはジャケットの内ポケットから、古い封筒を取り出した。「父から預かってきた。日本に来るなら持って行けと言われた」

 根古が受け取り、封筒を開けた。

 中に手紙が一通。ロシア語で書かれている。

「読めるか」根古はダニロに渡した。

 ダニロは手紙を広げた。古い紙が、かすかに音を立てた。

 ダニロは黙って読んだ。読み終えると、顔を上げた。目が少し赤い。

「祖父の字です」ダニロは静かに言った。「訳します」


息子へ。

私はもうすぐ日本を離れる。その前に一つだけ書いておく。

鷺田義雄という男が、この町で長い間悪いことをしてきた。その証拠を、私は安全な場所に隠した。場所は、この町の神社の裏にある石灯籠の下だ。右から三番目の灯籠。石の下に金属の筒が埋めてある。

もし私が戻らなければ、根古という運送屋を頼れ。昌也という男だ。信用できる。

お前を愛している。ボリスより。


 部屋が静まり返った。

 根古は煙草を取り出しかけて、教会の中だと思いとどまった。

「根古という名前が、またここに出てきた」西野が扉の陰から静かに言った。いつの間にか戻っていた。「昌也さんは本当にいろんな人に頼られていたんだな」

「神社というのはどこですか」根古はモーシェを見た。

「この辺りに神社は複数あります」モーシェは少し考えた。「ボリスがよく散歩していた神社がありました。御嵩の小さな神社です。私も一度行ったことがある」

「松平さんの神社か」根古は言った。


 根古は松平秀麿に電話した。

 夜中の一時を過ぎていたが、松平はすぐ出た。

「こんな時間に何だ」

「神社の石灯籠の話だ。右から三番目の灯籠の下に、何か埋まっているかもしれない」

 しばらく沈黙があった。

「根古」松平は低い声で言った。「実は??ずっと気になっていたことがある」

「何だ」

「三番目の灯籠の下、土が少し違うんだ。色が周りと違う。何年か前から気になっていたが、触るのが怖くて放っておいた」

「明日の朝、掘らせてくれ」

「ああ」松平は少し間を置いた。「根古、これは大事なことか」

「大事だ」

「分かった。朝六時に来い。俺も立ち会う」


 電話を切ると、ダニロが根古を見た。

「一緒に行きます」

「来い」根古は言った。「ただし??」根古はダニロを見た。「明日の朝まで、モーシェさんをここから動かすな。鷺田康介の返事が来るまでは」

「鷺田康介と取引しているのか」

「俺じゃない。別の人間が動いている」

 ダニロは根古を少し見てから、頷いた。


 翌朝五時半、根古の携帯に連絡が入った。

 鷺田康介からだ。

「根古さん」康介の声は、昨夜より低い。「星野という女から話を聞いた。一つ聞かせてほしい。私の名前を出さないというのは、本当に守れるのか」

「それは俺が決めることじゃない」根古は正直に言った。「ただ??お前が今夜動かなかったことは、有利に働く」

「祖父の件は」

「鷺田義雄がやったことは、記録に残る。ただし康介、お前の代でそれを続けたかどうかが、お前自身の話だ」

 康介は長い間、黙っていた。

「ロシアとの関係は、すでに切りつつあった」康介はゆっくり言った。「正直に言う。怖くなっていた。どこまで行くのかと思っていた」

「それを雨月警部補に話せ。自分から話すのと、後で追い詰められて話すのでは、結果が変わる」

「……考える」

「康介、一つだけ聞く。鷺田義雄は本当に認知症なのか」

 沈黙があった。

「分かりません」康介は静かに言った。「認知症のふりをしているのか、本当になっているのか??私にも判断できない。ただ、私が会いに行くと、目が光ることがある。全部分かっていて、黙っているような目です」


 朝六時、根古とダニロは松平の神社に向かった。

 五月の朝、境内は濡れた空気に包まれている。松平が既に待っていた。神主の装束ではなく、作業着姿だ。

「ここだ」松平は石灯籠の列の前に立った。「右から三番目」

 灯籠の土台の周りの土が、確かに少し色が違う。長年の雨で周囲と馴染んでいるが、言われれば分かる。

 ダニロが無言でしゃがみ、素手で土を掘り始めた。

 根古と松平は黙って見ていた。

 十センチほど掘ったところで、金属の感触があった。

 ダニロは慎重に土をどけた。

 錆びた金属の筒が出てきた。直径五センチ、長さ二十センチほど。蓋がしっかり閉まっている。

 ダニロは筒を取り上げた。土を払った。

 ゆっくり蓋を開けた。

 中に、防水加工された布に包まれた書類が入っていた。

 ダニロは布を開いた。

 書類はロシア語と日本語と英語が混在している。写真も数枚挟まれていた。

 ダニロは写真を一枚取り出した。見た。

 表情が変わった。

「根古さん」ダニロは静かに言った。「これは??鷺田義雄です。若い頃の写真です。一緒に写っているのはソ連の人間だと思う。制服が見える」

 根古は写真を見た。昭和の雰囲気の白黒写真。若い義雄の横に、軍服に近い服を着た男が立っている。

「書類は」

「ボリスが集めた証拠です」ダニロは書類を慎重に捲った。「鷺田義雄が安藤家を通じてソ連に提供した情報のリスト。日付が入っている。昭和四十年代から五十年代にかけての記録です」

 松平が小さく息を吐いた。「こんなものが、ずっとここに埋まっていたのか」


 根古は書類を慎重に包み直しながら、一石に電話した。

「証拠が出た。今から教会に向かう。モーシェさんに確認してもらいたい」

「分かりました」一石の声に、安堵が滲んだ。「根古さん、一つ報告があります。今朝早く、安藤賢造が取調べの中で重要なことを話しました」

「何を」

「五十年前、木下邸への放火を命じたのは??鷺田義雄だったと証言しました。安藤家は実行役に過ぎなかった、と」

 根古は境内の空を見上げた。朝の光が杉の梢を照らしている。

「全部繋がった」根古は静かに言った。

「はい」一石は言った。「モーシェさんに会わせてください。五十年前の記録を、正式に証言してもらう必要があります。大使館として、手続きを進めます」


 教会に戻ると、片桐とモーシェが縁側で朝の光を浴びていた。

 二人の老人は、昨夜より穏やかな顔をしている。一晩かけて、たくさん話したのだろう。

 ダニロが金属筒を持って、モーシェの前に立った。

「モーシェさん、祖父が残したものです」

 モーシェは筒を受け取った。しばらく手の中で転がした。

「ボリス」モーシェは静かに言った。「ちゃんと残していたか。几帳面な男だったからな」

「根古という名前を、手紙に書いていました。信用できると」

「ボリスも昌也さんを信用していた」モーシェは根古を見た。「あなたのお父さんは、本当にいろんな人に頼られていた。でも自分では何も言わなかった」

「無口な男でした」根古は言った。「でも今になって、いろんな人がそう言う」

「良い人間というのは、そういうものです」モーシェは微笑んだ。


 縁側にダニロが腰を下ろした。

 モーシェの隣に座った。

 しばらく黙っていた。

「モーシェさん」ダニロはゆっくり言った。「祖父はどんな人でしたか」

 モーシェは少し考えてから答えた。

「よく笑う男でした。こんな仕事をしていながら、本当によく笑った。食べることが好きで、この町のうどんを気に入っていた。あと、星が好きだった。夜になると外に出て、ずっと星を見ていた」

 ダニロは黙って聞いていた。

「強い男でした。でも優しかった。それが一番、私の記憶に残っている」モーシェはダニロを見た。「あなたに似ている部分がある。目だけじゃない。話し方も、少し似ている」

 ダニロは前を向いた。

 朝の光が庭に差し込んでいる。

「ありがとうございます」ダニロは静かに言った。声が、ほんの少し揺れた。


 根古は教会の外で煙草を一本吸った。

 澪がいつの間にか来ていた。自転車で来たらしく、裾が泥はねしている。

「勝手に来ました」澪は言った。

「見れば分かる」

「鷺田義雄の件、調べていました」澪はスマートフォンを出した。「老人ホームに昨夜、面会者が来ています。鷺田康介ではない別の人間です。登録名は斉藤、でも??受付の人が不審に思って、記録を残していたそうです。雨月さんに連絡しました」

「よくやった」

 澪は少し胸を張った。それからすぐに真顔になった。

「根古さん、鷺田義雄に会いに行きますか」

「行く」根古は煙草を消した。「認知症のふりをしているかもしれない九十二歳の男に、会いに行く」

「私も」

「来るな」

「根古さん」澪は根古を見た。「一人で行かないでください。昨日から、誰かに尾けられている気がします。事務所の前に知らない車が止まっていました」

 根古は少し間を置いた。

「ダニロを連れて行く。お前は片桐さんとモーシェさんのそばにいろ」

「分かりました」澪は頷いた。それから小さく言った。「気をつけてください」


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