猫が見たもの、男が嗅いだもの
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ヤマトが止まったのは、骨董店の裏路地だった。
表通りから一本入ると、急に街灯が減る。アスファルトに轍の跡がある。車が定期的に出入りしていた痕跡だ。骨董店の裏口は鍵がかかっていたが、ドアの下の隙間に、段ボールの切れ端が挟まっていた。
「荷物の搬出入をしてた」と安藤が言った。「しかも最近だ。段ボールがまだ新しい」
「退職した人間の目は、まだ使えるんですね」と工藤が言った。
「嫌みか」
「褒めています」
根古は裏口の前にしゃがんで、地面を見ていた。タイヤ痕を指でなぞる。ヤマトが根古の隣に座って、ドアを見ていた。
「ヤマト」と根古が小声で言った。
ヤマトの目が細くなった。金色の瞳が、ドアを、壁を、裏路地の奥を、順番に見た。それから根古の方を向いた。
根古が小さく頷いた。
「三日以内に、誰か来る」と根古は言った。
「根拠は?」と工藤が聞いた。
「猫が言うてる」
また同じ答えだった。工藤はため息をついた。安藤は腕を組んだ。江戸川だけが「さすが師匠」という顔をしていた。
「根古さん」と工藤は努めて冷静に言った。「その、猫が言うてる、というのは……比喩ですか」
「比喩やない」
「では文字通り、猫が何かを認識して、それをあなたに伝えている?」
「そや」
工藤はヤマトを見た。ヤマトは工藤を見た。どちらも無表情だった。
「……わかりました」と工藤は言った。
信じたわけではなかった。ただ、この男に嘘をついている様子はなかった。そして何より、ヤマトの目が??本当に、何かを「見て」いる目をしていた。
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三人は一旦事務所に戻った。根古だけが「ちょっとそのへん歩いてくる」と言って、ヤマトと路地に残った。
二十分後、根古がLINEを送ってきた。
*「骨董屋の向かいのマンション、三階に明かりついてる。カーテン閉まってるけど人の気配がする。昨日今日じゃない」*
「どうやって調べたんですか」と江戸川が返した。
*「ヤマトが教えてくれた」*
江戸川がスマホを工藤に見せた。工藤は一度だけ目をつぶった。
「……行ってみましょう」
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マンションの三階、302号室。
表札はなかった。でもドアの郵便受けに、折り畳まれたチラシが無理やり押し込まれていた。配達された形跡ではなく、誰かが意図的に詰め込んだ感じだった。
「これ」と安藤が言った。チラシを裏返すと、走り書きがあった。
*「T、危ない、逃げろ」*
T??田中遼介の頭文字だ。
「田中さんへの警告か」と工藤が言った。「間に合わなかった」
「書いたのは誰だ」と安藤が言った。「田中の知り合いで、この部屋を知っていて、それでいて表立って連絡できない状況にいる人間だ」
「骨董店に関係する誰かでしょう」
根古がドアを見ていた。ヤマトが根古の足元に来て、一回だけ根古の足首に頭をこすりつけた。
「中に、誰かいる」と根古は言った。
全員がドアを見た。
沈黙。
工藤がドアをノックした。
返事がなかった。
もう一度ノックした。
「……田中さんですか」と工藤は言った。「私たちは探偵です。柊澪さんに頼まれてきました」
また沈黙。
それから、チェーンをかけたまま、ドアが少し開いた。
隙間から、男の目が見えた。疲れた目だった。
「……柊が」と男は言った。「頼んだのか」
「はい」
長い間があった。
チェーンが外れた。
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田中遼介は生きていた。
ただ、一週間、この部屋に隠れていた。
友人の部屋を借りていた??友人は今、仕事で県外にいる。田中はここを緊急の隠れ場所として使っていた。スマホの電源は落としていた。外に出ていなかった。
「なぜ隠れていたんですか」と工藤が聞いた。
田中はしばらく黙っていた。
「バイト先で、見てしまったんです」と田中はようやく言った。「骨董店でバイトしてて……荷物の中身を、たまたま見てしまって。それが、普通の骨董じゃなくて」
「どんな荷物でしたか」
「箱の中に、美術品みたいなのが入ってて。でも伝票と全然違うものが入ってた。伝票には『雑貨』って書いてあったのに、中身は明らかに高そうな焼き物で」
「それを誰かに見られましたか」
「店長に。見た瞬間、店長の目が変わったんです。だからそのまま帰って……次の日、知らない人に後をつけられてる気がして」
田中の手が、膝の上で震えていた。
「一週間、ここにいたんですね」と江戸川が言った。
「怖かった。でも警察に行くのも、誰かに話すのも、怖くて」
安藤が腕を組んだ。「骨董の偽装搬入か。伝票と中身が違うなら、関税か転売か……どっちにしても組織的にやってる」
「田中さん、その伝票、写真は撮りましたか」と工藤が聞いた。
「……撮りました。スマホが怖くて電源入れられなかったけど」
「大丈夫です。一緒に確認しましょう」
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田中がスマホの電源を入れた瞬間??
ヤマトが立ち上がった。
窓の方へ走った。カーテンの端をかきわけて、外を見た。
根古が立ち上がった。
「電源、すぐ切れ」と根古が言った。
田中が反射的に電源を切った。
「何ですか」と工藤が聞いた。
「位置情報や」と根古は言った。「スマホの電源を入れた瞬間、居場所がわかる。誰かが待ってた」
「今、外に?」
根古はヤマトを見た。ヤマトがカーテンの端から顔を出して、根古を見た。
「一人や」と根古は言った。「まだ気づいてない。でも五分もしたら上がってくる」
安藤が立ち上がった。刑事の顔になっていた。退職しても、それだけは残っていた。
「非常階段から降りろ。田中を連れて」と安藤は言った。「俺とそこの探偵が残る」
「私もいます」と江戸川が言った。
「お前は田中を連れていけ」
「でも??」
「師匠が残るんだろう」と安藤は言った。「ならお前は師匠の邪魔をするな」
江戸川は一瞬だけ根古を見た。根古が小さく頷いた。江戸川は田中の腕を引いて、部屋を出た。
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三分後。
廊下に足音がした。
ゆっくりとした足音だった。急いでいない。確認しながら来ている。
安藤がドアの横に立った。工藤が反対側に立った。根古は部屋の中央で、椅子に座ったままだった。ヤマトが根古の膝に乗った。
ノック。
返事がなかった。
もう一度ノック。
それから、ドアノブが動いた。鍵はかかっていなかった。田中が出るとき、そのままにしていた。
ドアが開いた。
男が入ってきた。スーツ姿。背が高い。革靴。田中の隣人が「普通の男の人」と言ったとおりの、特徴のない男だった。
男は、根古を見た。
根古が、男を見た。
ヤマトが、男を見た。
男の表情が、一瞬だけ崩れた。
その瞬間、安藤が動いた。長年の刑事の体が、退職後も動き方を覚えていた。工藤がもう一方から動いた。
男は抵抗しなかった。
ただ、根古を見ながら言った。
「……猫、なんですか」
「猫や」と根古は言った。
「なんで猫がいるんですか」
「一緒に住んでるから」
男は諦めたように床を見た。
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その夜、可児署の山本彩織巡査長に連絡が入った。工藤からだった。
「身柄を確保しました。骨董店の件、動けますか」
「……またあなたたちですか」と山本は言った。疲れた声だった。
「すみません」
「場所は」
工藤が住所を告げた。山本がため息をついた。雨月警部補に報告して、パトカーを出した。
安藤は「俺も現場に行く」と言った。
「安藤さんは退職されてます」と工藤は言った。
「口だけ出す」
「それが一番困ります」
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田中遼介は、江戸川と一緒に事務所で待っていた。
柊澪に連絡が入った。
「田中さん、見つかりました。生きてます」
しばらく沈黙があって、それから柊の声が少し崩れた。
「……よかった」
江戸川は「依頼、解決です」と言おうとして、やめた。まだ終わっていない。骨董店の背後には、まだ何かがある。
根古からLINEが来た。
*「署で話してくる。ヤマトは車で待たせてる。夜遅くなるから先に帰っといて」*
江戸川が返した。
*「師匠、今日もありがとうございました!」*
しばらくして、スタンプが一個来た。
黒猫のスタンプだった。ヤマトのスタンプを根古が使ったのか、ヤマトが勝手に送ったのか、判断がつかなかった。
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深夜。
根古の軽自動車が、可児署の駐車場を出た。
助手席にヤマトが戻っていた。
根古はしばらく黙って運転した。ラジオをつけた。深夜の音楽番組が流れた。
「お疲れさん」と根古はヤマトに言った。
ヤマトが小さく鳴いた。
「まだ終わっとらんけどな」
ヤマトは何も言わなかった。
夜の可児市を、古い軽自動車が走っていった。
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