繋がらない男と、繋がる猫
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五月の終わり、可児市内のとある路地に、看板が一枚掲げられた。
**『工藤・江戸川探偵事務所 何でもご相談ください』**
江戸川勉が自分でペンキを塗った。文字が少し傾いている。工藤俊一は見なかったことにした。
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依頼が来たのは、開業して十日目のことだった。
柊澪は二十一歳の学生で、東白川村のツチノコイベント以来の顔だった。今日はスニーカーの紐をきちんと結んで、少し緊張した顔で事務所のドアを開けた。
「あの……依頼って、どんなことでも受けてもらえますか」
「何でもご相談ください、と看板に書いてあります」と工藤は言った。
「文字が傾いてましたけど」
「……それは関係ありません」
柊の話はこうだった。大学の先輩が一週間前から連絡を絶った。SNSも止まっている。実家に確認したら「こちらにも連絡がない」と言われた。失踪届は出したが、警察は「成人の自発的失踪の可能性が高い」として本格捜査には動いていない。
「その先輩、変な人じゃないんです。几帳面で、連絡をちゃんとくれる人で」と柊は言った。「だから、おかしいと思って」
工藤は手帳にメモを取りながら聞いた。江戸川がお茶を出した。安藤修が、なぜかすでに隅の椅子に座っていた。
「安藤さん、今日も来るんですか」と江戸川が小声で言った。
「いたら何か問題があるか」と安藤は言った。三十六歳、元警部補、退職済み。問題しかないが、追い出せる雰囲気でもなかった。
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調査は三人で始めた。
工藤が失踪した先輩??田中遼介、二十四歳??の行動を足で追う。江戸川がSNSのアーカイブと周辺の人間関係を整理する。安藤が警察時代の伝手を使って情報を引き出す。退職済みなのに、伝手だけはまだ生きていた。
最初の三日は順調だった。
田中の最後の目撃情報は、可児市内の骨董店の近くだった。その前日、見知らぬ番号から着信があったことも分かった。田中のアパートの近隣住民によれば、「スーツを着た男が一度来て、すぐ帰った」という。
「スーツの男の特徴は?」と工藤が聞いた。
「普通でした。背が高くて、革靴で、普通の男の人」と住民は言った。
「普通」を三回繰り返す証言ほど、特定の役に立たないものはない。
そして四日目??手がかりが、消えた。
骨董店は閉まっていた。見知らぬ番号はすでに使われていなかった。スーツの男の目撃者はそれ以上いなかった。田中がどこへ行ったか、記録の上では完全に空白になっていた。
「これは普通じゃない」と安藤が言った。
「同感です」と工藤が答えた。
二人が同じことを言うのは珍しかった。それだけ、手詰まり感が本物だった。
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江戸川がスマホを取り出した。
LINEを開く。トーク一覧の上の方に「根古さん」という名前がある。アイコンは黒猫の写真だった。ヤマトである。根古本人が設定したわけではなく、江戸川がこっそり変えた。根古は気づいていないか、気づいていて言わないかのどちらかだ。
江戸川はメッセージを打った。
*「師匠、ちょっと相談があります。お時間ありますか」*
送信。
既読がつかない。
五分待った。既読がつかない。
工藤が「返事は来ましたか」と聞いた。
「まだです。温泉かもしれません」
「温泉」
「週に四回は行くので」
工藤は何も言わなかった。
安藤が「電話してみろ」と言った。江戸川が電話した。コール音が六回鳴って、留守番電話に切り替わった。根古の声が「おらんから後で」とだけ言って終わった。留守番電話のメッセージにしては短すぎた。
江戸川はもう一度LINEを開き、今度は少し長めに状況を打ち込んだ。
*「田中遼介さん、24歳男性、失踪から一週間。最後の目撃が可児市内の骨董店周辺。手がかりが途中で全部消えました。骨董、スーツの男、使われなくなった番号。師匠、何かわかりますか」*
送信。
既読がつかない。
「今夜は無理かもしれないですね」と江戸川は言った。
「明日また動きましょう」と工藤が言った。
三人は事務所の電気を消した。
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翌朝、江戸川がスマホを見ると、LINEに通知が来ていた。
午前三時十七分。
*「見た。骨董か。ほな今日の夕方行くわ」*
それだけだった。スタンプも絵文字もない。
江戸川は「ありがとうございます!!!」と返した。既読はつかなかった。根古はおそらくまた寝ていた。
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夕方五時。
事務所の前に、古い軽自動車が止まった。
年式は相当古い。色はかつてシルバーだったと思われるが、今は日焼けと汚れで判別しづらい。エンジンが止まると、少し間があってからドアが開いた。
根古親司が降りてきた。
五十八歳。背は中くらい。体型は「温泉おじさん」という言葉がそのまま形になったような感じ。グレーのパーカーに、色の抜けたジーンズ。サンダル履きだった。
助手席から黒猫が降りてきた。
黒猫ヤマト、十歳、オス。全身が艶のある黒で、目だけが金色だった。軽自動車のステップを一歩踏んで、地面を確認してから降りた。急がなかった。
「師匠!」と江戸川が駆け寄った。
「おう」と根古は言った。それだけだった。
工藤が根古を見た。この人が、江戸川の「師匠」か。正直に言えば、想像と違った。もっと鋭い感じの人を想像していた。
「初めまして。工藤俊一と申します」
「根古や」と根古は言った。「ヤマト」
ヤマトが工藤を見た。じっと、一秒ほど見た。それから、工藤の足元に近づいて、匂いを嗅いだ。
「…………」
「合格や」と根古が言った。
「何の合格ですか」と工藤は聞いた。
「さあ」と根古は言い、事務所のドアを開けた。
安藤が根古を見て、値踏みするような顔をした。根古は安藤を見て、何も言わなかった。ヤマトが安藤の椅子の隣に座った。安藤がヤマトを見た。ヤマトは知らん顔をした。
「資料、見せてくれるか」と根古は言った。
江戸川が三日分の調査メモを広げた。根古は湯呑みを取り出した。どこからか煎茶を注いで、ゆっくり飲みながら、メモを読んだ。
十分後。
「なるほどな」と根古は言った。
「何がわかりましたか」と工藤が聞いた。
「骨董屋、ちょっと調べてみよか」
「……それは私たちも調べました。閉まっていて」
「閉まってる店は、裏から見るんや」と根古は言った。
そのとき、ヤマトが立ち上がった。
事務所の窓の方へ歩いて、外を見た。金色の目が細くなった。しばらく動かなかった。
根古がヤマトを見た。煙草を一本取り出した。
「外、行こか」と根古は言った。
「何かわかったんですか」と江戸川が聞いた。
「猫が言うてる」と根古は言って、立ち上がった。
工藤と安藤が顔を見合わせた。
「……行きましょう」と工藤は言った。
安藤は一瞬だけ「この人、大丈夫か」という顔をした。でも立ち上がった。
ヤマトがすたすたと先を歩いた。根古が後ろをついていった。工藤が続いた。安藤が続いた。江戸川が一番後ろで、「師匠、方向はどっちですか」と言った。
「ヤマトに聞け」と根古は言った。
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夜の可児市内を、黒猫が歩いていた。
その後ろを、探偵と元刑事と元警部補と温泉おじさんが歩いていた。
傍から見れば、相当おかしな光景だった。
でも、ヤマトは迷わなかった。
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