表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
36/57

シオンの地へ  三柱の沢

十二月の郡上は、朝から雪だった。

ロドリゲス斎藤が根古に電話をかけてきたのは三日前だ。

「根古さん、郡上に三柱鳥居って知ってますか」「名前だけは聞いたことがある」「YouTube的に最高の素材なんですよ。

冬の雪景色と三柱鳥居、絵になると思いませんか。

ついでに根古さんも映りませんか」「映らない」「じゃあ荷物持ちだけでも」根古はヤマトを見た。ヤマトが欠伸をした。「わかった」そういう話だった。

そういう、ただそれだけの話だった。


郡上八幡から車で三十分、山道を上る

。雪が積もり始めていた。ロドリゲスの四駆が慎重に道を進む。

助手席に根古、後部座席にヤマトのキャリーケース。

「三柱鳥居ってのはですね」ロドリゲスは運転しながら解説を始めた。

「三方向から鳥居が合わさった形で、全国に数か所しかない珍しい構造なんですよ。

ここ郡上のものは特に古くて、日ユ同祖論の研究者の間では有名な場所でして」「日ユ同祖論」「日本人とユダヤ人が同じ祖先を持つという説です。

三柱鳥居の三という数字がユダヤの三位一体と繋がるとか、形がダビデの星に似ているとか、まあ諸説ありますが??動画映えするのは確かです」根古は窓の外を見た。

雪の山が続いている。人の気配がない。ヤマトがキャリーケースの中で低く鳴いた。

根古は少し気になったが、山道のせいだろうと思った。


三柱鳥居は、杉林の奥にひっそりと建っていた。

雪をかぶった三方向の鳥居が、薄暗い林の中に白く浮かんでいる。

「いいですね」ロドリゲスはカメラを構えながら言った。「絵になる」

根古は鳥居の前に立った。

確かに、普通の鳥居ではない。

三つの鳥居が中心点で合わさって、どの方向から見ても鳥居に見える。三百六十度、どこからでも入れる構造だ。

「これは神道の建築じゃないな」根古は静かに言った。

「でしょう」ロドリゲスがカメラを回しながら答えた。

「だから研究者が騒ぐんです。誰が、何のために建てたのか、記録がないんですよ。いつの時代かもはっきりしない」

根古は鳥居の柱に手を触れた。

石だった。古い石だ。苔がついている。だが彫られた模様が、見たことのない種類だった。

「この模様は」

「六芒星に見えませんか」ロドリゲスはカメラを向けながら言った。

「ダビデの星とも呼ばれます。イスラエルの国旗にも使われている紋章です」

根古は手を離した。

ヤマトがキャリーケースの中で、また鳴いた。

今度は唸るような声だった。


撮影を終えたのは昼過ぎだった。

「帰りに温泉寄りましょうよ」ロドリゲスは機嫌よく言いながら山道を下り始めた。

「郡上の温泉、最高なんですよ」

「ああ」根古は窓の外を見ていた。

沢の音が近づいてきた。

道の脇に小さな沢が流れている。雪解け水が岩の間を白く流れていた。

「止めてくれ」根古は言った。

「え」

「止めろ」

ロドリゲスが急ブレーキをかけた。

根古はドアを開けて車を降りた。

沢の方に歩いていく。

「根古さん、どうしました」ロドリゲスが車から降りながら言った。

根古は沢の縁に立った。

岩と雪の間に、何かがあった。

人だった。

男だった。

うつ伏せに倒れている。コートを着ている。雪が薄く積もっていた。


根古はしゃがんだ。

脈を確かめた。

ない。

体が冷たかった。昨夜か、あるいはそれ以前から、ここにいる。

ロドリゲスが根古の後ろで息を呑んだ。

「死んでいる」根古は静かに言った。

男の顔を見た。

日本人ではなかった。

彫りの深い顔立ち。濃い眉。黒い髭の剃り跡。

中東系の顔だ、と根古は思った。

コートのポケットに手を入れた。

財布があった。カードが数枚、現金はない。身分証らしきものを引き出した。

ヘブライ文字が書いてある。

写真の顔は、目の前の男と一致していた。

名前の下に英字表記がある。

Hui Zuckerberg

根古は立ち上がって雨月に電話をかけた。

「郡上で死体を見つけた。外国人男性、中東系の顔立ちだ。イスラエルの身分証を持っている」

雨月が少し間を置いた。

「今どこですか」

「三柱鳥居から山道を下った沢だ。場所を送る」

「すぐ向かいます」

電話を切った。

ロドリゲスが根古の隣に立っていた。カメラはしまっていた。

「根古さん」ロドリゲスは静かに言った。「これは??」

「撮るな」根古は言った。

「わかってます」

二人は沢の前に立って、雪の降る山を見ていた。

ヤマトが車の中で低く唸り続けていた。

三柱鳥居の方角から、風が来た。

冷たく、重い風だった。


身元が判明するまで、三日かかった。

郡上署から岐阜県警、そして警察庁へ。

外務省を通じてイスラエル大使館に照会が入った。

その間、根古は可児に戻っていた。

ラクカで太田のコーヒーを飲みながら、雨月からの報告を待った。

ヤマトは郡上から戻ってきた日から、飯を半分しか食わなかった。

三日目の夜、雨月から電話が来た。

「身元が判明しました」雨月の声が硬い。

「フュイ・ザッカーバーグ、三十八歳。イスラエル国籍。

イスラエル大使館に在籍記録がありますが??根古さん、大使館の対応が妙です」

「妙とは」

「普通、自国民の死亡連絡を受けたら領事が動きます。

ところが大使館は『確認中』の一点張りで、三日間何も動いていない」

「隠したいのか、あるいは??」

「あるいは、承知の上で動かないのか」雨月は静かに言った。

「どちらかだと思います」

根古はコーヒーを飲んだ。

「死因は」

「鋭利な刃物による刺傷です。一突きで急所を外していない。訓練を受けた人間の仕業です」

「抵抗の跡は」

「ほとんどない。気づいた時には刺されていたか、あるいは??信頼している相手からやられたか」

根古は窓の外を見た。


夜の可児が静かだ。

「もう一つあります」雨月が続けた。

「フュイの所持品の中に、小さなメモリーカードが縫い込まれていました。コートの裏地に。鑑識が偶然発見しました」

「中身は」

「解析中ですが??暗号化されています。警察庁でも解読できていない」

根古はヤマトを見た。

膝の上で丸くなっている。だが目は閉じていない。

「雨月、そのメモリーカードを厳重に保管してくれ。表には出すな」

「わかりました。ただ根古さん、もう遅いかもしれません」

「どういうことだ」

「今日の午後、大使館から一人の男が郡上署に来ました。フュイの身元確認という名目で。男の名前は??」

根古は待った。

「一石哲夫です」

太田がカウンターの向こうで静かに根古を見た。

根古は立ち上がった。

「一石は今どこにいる」

「郡上のホテルに宿泊しています。明日、根古さんに会いたいと言っていました」

「根古に、と」

「名指しです。あなたが発見者だということを、大使館は把握していました」

根古はコーヒーカップを置いた。

熱かった。太田のコーヒーはいつも少し熱すぎる。

「わかった。明日、郡上に行く」

電話を切った。

ヤマトが根古を見上げた。

「お前も来るか」

ヤマトは小さく鳴いた。


-----------------------


翌朝、郡上八幡のホテルのロビーに根古が入ると、一石哲夫はすでに待っていた。

五十代、中背、細身。日本人に見える顔立ちだが、どこか違う。目の動き方が違う。

常に出口と入口を確認している目だ。

グレーのスーツ、ネクタイなし。大使館員というより、どこかの会社の管理職に見える。

それが偽装だとわかるのは、靴だけが妙に本格的だからだ。

長距離を走れる靴だ。「根古親司さん」一石は日本語で言った。流暢だった。

「お時間をいただきありがとうございます」「一石さん」根古は向かいに座った。

ヤマトのキャリーケースを足元に置いた。一石がキャリーケースを見た。

「猫ですか」「ヤマトだ」一石は少し目を細めた。何かを確認するような目だ。

「フュイの発見者が根古さんだということは、把握していました」一石は静かに言った。

「ただ、根古さんがどういう方かは??来る前から調べさせていただきました」「何がわかった」「第一弾の呪いの人形の件、東洋の密使の件」一石は根古を見た。

「あなたは警察でも探偵でもない。だが事件の核心に必ずいる。地元の人間、というのが公式の肩書のようですが」

「そうだ」「スティーブ・ヘイブンスとは旧知の間柄だと」

根古は答えなかった。

一石は小さく頷いた。答えないこと自体が答えだ、と受け取った顔だ。

「フュイについて話します」一石はテーブルの上に手を組んだ。

「ただし、ここで話せることには限界があります。それはご承知ください」

「わかった」

「フュイ・ザッカーバーグは我々の同僚でした」一石は静かに言った。

「大使館の文化担当という肩書で日本に来ていた。三週間前から郡上周辺を調査していました」

「何を調査していた」

一石は少し間を置いた。

「日ユ同祖論に関わる現地調査です」

根古は表情を変えなかった。

「三柱鳥居か」

一石が初めて、微かに驚いた顔をした。

「知っていましたか」

「ロドリゲスから聞いた。三柱鳥居と日ユ同祖論の関係は、その界隈では知られた話だ」

「そうですね」一石は続けた。

「ただフュイの調査は、学術的な関心ではありませんでした。本国からの指令に基づく、正式な任務です」


「本国が、なぜ郡上を」

一石は窓の外を見た。

雪の郡上八幡の街が広がっている。長良川が白く光っている。

「根古さん、日ユ同祖論は多くの人が与太話だと思っています。私も以前はそう思っていた」一石は根古に目を戻した。

「ただ本国の研究機関が三年前から本格的に調査を始めた結果、郡上に一つの物証が存在する可能性が出てきました」

「物証とは」

「石碑です」一石は静かに言った。

「ヘブライ文字が刻まれた、非常に古い石碑。三柱鳥居の近くの山中に埋まっているという記録が、イスラエル国内の古文書に残っていました」

根古は黙って聞いた。

「フュイはその石碑の場所を特定するために郡上に来ていた。三週間かけて山中を調査していた。そして??」一石は言葉を切った。「殺された」

「石碑は見つかったのか」

「わかりません。フュイが最後に本国に送ったレポートには、場所を特定したという記述がありました。ただ詳細な座標は送られていなかった」

根古は足元のキャリーケースを見た。

ヤマトが静かにしている。

「メモリーカードだ」根古は言った。

一石が根古を見た。


「座標のデータがメモリーカードに入っている。だからフュイはコートの裏地に縫い込んでいた」

一石は少し間を置いた。

「警察がメモリーカードを発見したことは、把握しています」

「暗号化されている」

「解読できます」一石は静かに言った。「我々なら」

根古は一石を見た。

大使館員の顔だ。だが目の奥に、別の何かがある。

「一石さん、一つだけ訊いていいか」

「どうぞ」

「フュイを殺した組織は、メモリーカードの存在を知っているか」

一石は答えなかった。

答えない、ということが答えだった。

「知っている」根古は言った。「だからメモリーカードは今、危険な状態にある」

一石は静かに頷いた。

「根古さん、協力をお願いしたい」

「条件がある」

「聞かせてください」


「全部話してくれ」根古は静かに言った。

「半分だけの話では動かない。フュイが何を見つけたのか、石碑に何が刻まれているのか、なぜそれがイランにとってヤバいのか。全部だ」

一石は根古を見た。

値踏みの目ではない。

確認の目だ。

この男は信頼できるか。

一石は長い間、根古を見続けた。

やがて静かに口を開いた。

「石碑に刻まれているのは、ヘブライ文字で書かれた系譜です」一石は声を落とした。「イスラエルの十二支族の一つが、二千年以上前に日本に渡ったことを記した系譜。もしそれが本物なら??」

「ユダヤ民族の日本起源が証明される」

「それだけではありません」一石は根古をまっすぐ見た。

「その系譜には、中東の特定の地域への領有権を示す記述が含まれているという」

根古は黙った。


「その地域は現在、イランの影響下にあります」一石は続けた。

「もし石碑が本物で、イスラエルがその領有権を主張すれば??中東の政治地図が根底から変わる」

店内が静まり返った。

長良川の水音が遠く聞こえた。

「だからイランはフュイを殺した」根古は言った。

「そして今、メモリーカードを狙っている」

ヤマトがキャリーケースの中で低く唸った。

根古は立ち上がった。

「雨月に連絡する。メモリーカードを今すぐ動かす」

「どこへ」

「安全な場所だ」根古は一石を見た。「ついてきてもらう。ただし??」

「条件は」

「拳銃は持ち込むな」

一石は少し目を細めた。

それから静かに頷いた。


根古が外に出て携帯を出した瞬間、雨月からすでに着信が入っていた。

出ると、雨月の声が緊張していた。

「根古さん、郡上署に男が二人来ました。外国人です。メモリーカードの引き渡しを要求しています。外務省の名前を使っています」

「本物か」

「外務省に確認したら、そんな人間は派遣していないと言われました」

根古は一石を見た。

一石が小さく頷いた。

来た、という目だ。

「メモリーカードをどこに移せる」根古は言った。

「私の車の中に、今あります。署に置いておけないと思って」雨月は続けた。「根古さん、その男たちが今??」

電話口で音がした。

複数の足音。

「雨月」

返事がなかった。

根古は走り始めた。


-----------------------


郡上署まで車で五分だった。根古が一石を助手席に乗せて走った。

ヤマトのキャリーケースが後部座席で揺れる。

「人数は」根古はハンドルを握りながら一石に言った。

「最低二人、おそらく四人です」一石は静かに答えた。

「彼らのやり方は??先に陽動を入れて、本命を別のルートから動かします」「陽動が署の正面に入った二人」「本命が別の入口から動いている可能性があります」根古は雨月に再度電話をかけた。

繋がらない。山本彩織に電話を切り替えた。一度で繋がった。

「山本さん、雨月はどこだ」「駐車場です」山本の声が緊張している。

「さっきから男二人と対峙していて??根古さん、もう一人、裏口から入ろうとしている人間がいます。気づいた巡査が止めていますが」「メモリーカードは雨月が持っている」「はい」「雨月から離すな。私が今から行く」

電話を切った。一石が根古を見た。

「銃は持っていないと言った」一石は静かに言った。

「ただし、私にはこれがある」ジャケットの内側から小さな筒を出した。

「スタンガンか」「特殊なものです。本国製です」根古は前を向いたまま言った。

「使うなとは言わない。ただし署の中では使うな」「わかりました」郡上署の駐車場が見えてきた。


駐車場に雨月の車が止まっていた。

雨月が車の前に立っている。男二人が正面から詰め寄っている。

根古は車を止めた。

一石と二人で降りた。

男二人が根古を見た。

三十代、細身、動きやすい服装。目が鋭い。訓練された目だ。

一人が英語で言った。

「関係ない人間は引っ込んでいろ」

根古は答えなかった。

雨月の隣に立った。

雨月が小声で言った。「裏口の一人は署内に抑えました。この二人が残っています」

「メモリーカードは」

「ジャケットの内ポケットに」

根古は男二人を見た。

「外務省の人間なら身分証を見せてくれ」根古は日本語で言った。

男が英語で返した。

「日本語が通じないふりか」根古は続けた。「それとも本当に通じないか」

男の目が動いた。

通じている。

「根古さん」一石が根古の隣に来た。ヘブライ語で何かを言った。

男二人の表情が変わった。

一瞬だけ、動揺が走った。

一石がまた何か言った。今度は短い。

男二人が顔を見合わせた。

「何を言った」根古は一石に小声で訊いた。

「あなたたちの上司の名前を言いました」一石は静かに答えた。

「そして??この件から手を引けと」

「効くか」

「三十秒でわかります」

二十秒だった。

男二人が後退した。

駐車場の出口まで下がって、そのまま走り去った。

雨月が息を吐いた。

「なんですか今のは」

「交渉だ」根古は一石を見た。「上司の名前を知っていた」

「知っていれば使います」一石は静かに言った。

「ただし次は通じません。別の手を使ってくる」

「時間がどのくらいある」

「半日、長くて一日です」

根古は雨月を見た。

「メモリーカードを今すぐ可児に移す。雨月、一緒に来てくれ」

「署を離れていいですか」

「山本さんに任せろ。今日だけでいい」

雨月は少し考えてから頷いた。


可児に向かう車の中で、根古はスティーブに電話をかけた。

「今、動いているか」

「名古屋にいる」スティーブの声がすぐに引き締まった。

「何があった」

根古は簡潔に話した。

郡上の死体、フュイ・ザッカーバーグ、石碑、メモリーカード、そして駐車場の男二人。

スティーブが少し間を置いた。

「根古、一石哲夫という名前は知っている」

「どういう人物だ」

「モサドの日本支局長だ。優秀な人間だが??根古、一つだけ言っておく。一石は組織の人間だ。組織の利益が優先される時、個人の安全は二番目になる」

根古は助手席の一石を見た。

一石は前を向いたまま、聞こえているような聞こえていないような顔をしていた。

「わかった」根古は言った。「カルロスを動かせるか」

「ホセはまだ腕が完全じゃないが、カルロスは動ける」

「可児に来てくれ。ラクカに全員集める」

「三十分で行く」

電話を切った。

根古は江戸川に電話をかけた。


「今夜、動けるか」

「はい」江戸川は即座に答えた。

「イラン系の人間が可児周辺に入っている可能性がある。外国人の不審な動きを拾ってくれ。イエンガーにも声をかけてくれ」

「わかりました」

次に安藤修に電話をかけた。

「安藤、今夜頼みたいことがある」

「内容は」

「メモリーカードの保管場所を作る。センサーと錠前、頼める物を持ってきてくれ」

安藤は少し間を置いた。

「どのくらいのレベルだ」

「国際的な工作員が相手だ」

「わかった」安藤はそれだけ言って切った。

根古はヤマトのキャリーケースを後部座席で確認した。

ヤマトが根古を見た。

耳が立っている。

「もう少しだ」根古は言った。


ラクカに全員が集まったのは夕方だった。

根古、雨月、一石、スティーブ、カルロス、江戸川、安藤。

太田が黙ってコーヒーを淹れた。人数が増えても表情一つ変えない。

一石がラクカに入った瞬間、店内を一度だけ見回した。

隅から隅まで、素早く確認した。

太田がその動きを見た。

何も言わなかった。ただコーヒーを一石の前に置いた。

一石はコーヒーを一口飲んだ。

「美味しい」と小さく言った。

太田は答えなかった。

スティーブが根古の隣に座った。

「一石さん」スティーブは英語で言った。

「NSAとして一つだけ確認させてください。石碑の件、本国は公式に動いていますか」

一石は英語で答えた。「非公式です。発見されたとしても、すぐに公表するつもりはない」

「なぜですか」

「時期の問題です」一石は静かに言った。

「今の中東情勢で石碑が表に出れば、戦争の火種になる可能性がある。本国は慎重です」

「ではなぜフュイを派遣した」

「存在を確認するためだけです。発掘も公表も、その後の話です」


スティーブは根古を見た。

根古は雨月を見た。

「メモリーカードを解読する」根古は一石に言った。

「ただし解読した情報は、全員で共有する。モサドだけが持つことはしない」

一石は根古を見た。

「条件を出しますか」

「そうだ」

一石は少し考えた。

「わかりました」

安藤がテーブルに機材を広げ始めた。

一石がジャケットの内側から小さな解読機を出した。

メモリーカードを差し込む。

全員が画面を覗き込んだ。

暗号が解けるまで、二分かかった。

画面に座標が出た。

緯度と経度。

それから短い文章が続いた。ヘブライ文字だ。

一石が静かに読み始めた。


読むにつれて、一石の顔が変わっていった。

全員が一石を見た。

一石は読み終えてから、長い間黙っていた。

「一石さん」根古が言った。

「見つかっていました」一石は静かに言った。

「フュイは石碑を見つけていた。そして??」

一石は顔を上げた。

「石碑に刻まれた系譜の中に、日本の地名が複数記されていました。

郡上だけではない。飛騨、白川、そして??」

一石は根古を見た。

「可児」

全員が静止した。

太田がカウンターの向こうで手を止めた。

ヤマトが根古の膝の上で、低く唸った。

根古は窓の外を見た。

夜の可児が静かだ。

「可児に、何がある」根古は静かに言った。

誰も答えられなかった。

一石だけが、根古を見続けていた。


「可児の系譜」


根古が星野由紀子に電話をかけたのは、夜の十時だった。

「星野か。仕事を頼みたい」「内容は」星野の声は眠そうだったが一瞬で切り替わった。

東洋の密使の時と同じだ。

「可児市内とその周辺に、イラン系の工作員が入っている可能性がある。人数は不明。顔もわからない。捜索してくれ」短い沈黙があった。

「イラン系」「ああ」「郡上の件と繋がっていますか」根古は少し驚いた。

「知っているのか」「郡上で外国人の死体が出たことは、麻尋がネットで拾っていました。身元がイスラエル人だという情報も」星野は静かに言った。

「根古さんが絡んでいると思っていました」「そうだ」「わかりました」星野は即座に言った。

「千紗都と麻尋を連れて今夜から動きます。ただ??」「条件か」「一つだけ」星野の声が少し変わった。「可児に何があるのか、教えてもらえますか。石碑の話は聞いています。ただ可児という地名が出てきた理由を知らないと、何を探していいかわからない」根古は少し考えた。

「明日の朝、ラクカに来てくれ。全部話す」「わかりました」電話を切った。



翌朝七時、ラクカに全員が揃った。

根古、雨月、一石、スティーブ、カルロス、江戸川、安藤、そして星野由紀子、西野千紗都、古田麻尋。

太田が黙ってコーヒーを配った。

星野が一石を見た。一石が星野を見た。

初対面だ。だが二人とも、互いが何者かを一瞬で測った顔をした。

「一石さん」星野は言った。「モサドですね」

一石は少し目を細めた。「どこでわかりましたか」

「靴です」

一石は星野を見た。それから小さく頷いた。

根古は全員を見渡した。

「昨夜のメモリーカードの解読内容を共有する」根古は言った。

「フュイが見つけた石碑に刻まれた系譜に、可児という地名が含まれていた。

郡上、飛騨、白川と並んで可児が記されている」

「可児に何があるということですか」江戸川が手帳を開きながら言った。

「わからない」根古は静かに言った。

「だがイラン系組織が可児に入ろうとしているなら、理由がある。石碑の系譜に可児が記されていることを、向こうも知っている可能性がある」

「フュイのレポートが漏れているということですか」雨月が言った。

「あるいは??」一石が静かに言った。

「フュイより先に、向こうが独自に調査を進めていた」

全員が一石を見た。


「フュイが郡上に入ったのは三週間前です。ただ本国が郡上を調査対象に指定したのは一年前だ。その情報がどこかから漏れていれば、イラン側も同じ期間、調査していた可能性がある」

「一年間、可児で何かを探していたということか」と安藤が言った。

「可能性の話ですが」

根古は太田を見た。

太田はカウンターの向こうで黙っている。

「太田」根古は言った。

「この一年で、可児周辺に外国人が増えたという話を聞いたことはあるか」

太田はしばらく考えた。

「一つだけ」太田は静かに言った。

「半年前から、木曽川沿いの古い民家に外国人が住んでいるという話を聞いた。近所の人間が気にしていた。中東系の顔立ちだと」

全員が静止した。

「場所は」根古が言った。

太田が地名を言った。

可児市内、木曽川沿い。

根古は雨月を見た。

雨月はすでに地図アプリを開いていた。

「民家の周辺、今夜確認できますか」根古は星野に言った。

星野は西野と古田麻尋を見た。


二人が同時に頷いた。

「やります」星野は言った。「ただし??」

星野は一石を見た。

「一石さん、フュイの写真を持っていますか」

一石は少し考えてから、携帯を出した。画面を星野に向けた。

星野はフュイの顔を三秒見た。

「わかりました」星野は根古を見た。「フュイを殺した人間を探します」

「捜索だけでいい。接触するな」

「わかっています」

西野千紗都がジャケットの袖をまくった。

古田麻尋が首を静かに回した。

東洋の密使の時と同じ動作だ。

江戸川が星野の隣に来た。

「私も一緒に動いていいですか。外から見張る役をやります」

星野は江戸川を見た。

「邪魔しないなら」

「します」江戸川は真顔で言った。「邪魔しません」

星野は小さく頷いた。


昼過ぎ、根古は一石と二人でラクカに残っていた。

スティーブとカルロスは名古屋に戻った。

NSA側の情報収集のためだ。雨月は署に戻っている。

太田がコーヒーをお代わりに注いだ。

一石は両手でカップを包みながら言った。

「根古さん、一つ訊いていいですか」

「なんだ」

「なぜ可児なんですか」一石は窓の外を見た。

「あなたの地元だから、という以上の何かがあるような気がしています」

根古はコーヒーを飲んだ。

「可児市には鳩吹山という山がある」根古は静かに言った。

「その山の中腹に、誰が建てたかわからない古い石組みがある。子供の頃から知っていたが、由来を調べた人間がいない」

一石が根古を見た。

「見たことがあるんですか」

「子供の頃に一度だけ」根古は言った。

「形が変わっていた。普通の石積みじゃない。何かを囲うように組まれていた」

「いつからそこにあるか」

「わからない。ただ??」根古は少し間を置いた。

「地元の古い人間は、あの石組みに近づかない。理由を訊いても誰も答えない」

一石は静かに根古を見た。


「行ってみますか」

根古はヤマトを見た。

ヤマトが顔を上げた。

耳が立っている。

「行く」根古は言った。

「ただし今夜は動かない。星野たちの報告を聞いてからだ」

一石は頷いた。

コーヒーを一口飲んだ。

「根古さん」一石は静かに言った。

「あなたは郡上でフュイを見つけた時、怖いとは思いませんでしたか」

「思わなかった」

「なぜですか」

根古は少し考えた。

「怖いと思う前に、誰かが助けを必要としていると思った」

一石は根古を見た。

フュイはもう死んでいた。助けは間に合わなかった。

だがこの男は、それでも動く。


「根古さん」一石はコーヒーカップを置いた。

「フュイの話をしていいですか。任務の話ではなく、人間としての話を」

「聞く」

「フュイは三十八歳でした。独身です。イスラエルで生まれて、二十歳でモサドに入った。日本語が好きで、任務の合間に独学で勉強していた。郡上の和紙が好きで、休日に工房を訪ねたりしていた」

根古は黙って聞いた。

「郡上の沢で、彼は何を考えていたんだろうと思います」一石は窓の外を見た。

「石碑を見つけた達成感か。あるいは追われていることへの恐怖か。それとも??郡上の山が綺麗だと思っていたか」

太田がカウンターの向こうで静かに立っていた。

「郡上の山は綺麗だ」根古は静かに言った。「雪の日は特に」

一石は根古を見た。

目に何かが滲んだ。

一瞬だけ。

すぐに戻った。

「ありがとうございます」一石は言った。

太田がコーヒーのお代わりを、二人の前に静かに置いた。


夜の十一時、星野から電話が来た。

「根古さん、木曽川沿いの民家を確認しました」

「どうだった」

「中東系の男が二人います。生活感はある。半年以上住んでいる様子です」

星野の声が少し変わった。「ただ、もう一つ見つけました」

「なんだ」

「民家の裏に、車が止まっています。レンタカーです。今日借りた車です」

「今日来た人間がいる」

「はい」星野は静かに言った。「窓から見えた人物が一人います。男です。四十代、中東系の顔立ち。ただ??根古さん、その男の横顔に見覚えがあります」

「誰だ」

「郡上署の駐車場で、雨月さんに詰め寄っていた二人のうちの一人です」

根古は立ち上がった。

「離れていろ。今から行く」

電話を切って一石を見た。

一石はすでに立っていた。

靴の紐を締め直している。

長距離を走れる靴だ。


-----------------------


木曽川沿いの道は暗かった。街灯が疎らで、川の音だけが近い。

十二月の夜風が冷たく、河原の草が揺れている。

根古の車が民家から三百メートル手前で止まった。一石が助手席から降りた。

根古が続く。星野が暗闇の中から現れた。音がしなかった。

「西野と麻尋は民家の裏に回っています」星野は小声で言った。

「男は二人、民家の中にいます。今夜来た一人と、もともと住んでいた一人です」「動きは」「一時間前から動いていません。ただ??」星野は川の方を見た。

「さっきから民家の灯りが消えています。寝たか、あるいは気づいているか」根古は民家を見た。

確かに暗い。「気づいているとしたら」根古は一石に言った。

「動く前に消した、ということです」一石は静かに言った。

「プロの習慣です」三人が民家に向かって歩き始めた。

川の音が大きくなる。民家まで百メートル。五十メートル。その時、民家の裏口から人影が出た。


一つ、二つ。走っている。「逃げた」星野が言った。

根古は走り出した。一石が並走した。民家の裏に回ると、西野千紗都と古田麻尋が追っていた。

根古を見た。そのまま川に向かって走り続けた。古田麻尋が加速した。

男の一人に追いつく。タックルではない。足元に入り込んで重心を崩した。

男が河原の石の上に倒れた。古田が馬乗りになって腕を押さえた。

もう一人が川岸まで来た。止まった。

川だ。十二月の木曽川は増水している。飛び込める状態ではない。

男が振り返った。

根古、一石、星野、西野が迫っている。

男は懐に手を入れた。

「止まれ」一石がヘブライ語で叫んだ。

男が固まった。

ヘブライ語に反応した。

一石が続けて何か言った。今度は別の言語だ。

ファルシー語だ、と根古には聞こえた。

男は一石を見た。

暗闇の中で、二人の目が合った。

男がゆっくりと手を出した。

空だった。

一石が前に出た。

根古は一石の後ろについた。

「話せますか」一石は静かにファルシー語で言った。

男は答えなかった。

一石は続けた。根古には内容がわからない。

ただ一石の声は脅していない。説得している声だ。

男が一石を見続けた。

三十秒が経った。

男がゆっくりと両手を上げた。



古田に抑えられた男が引き起こされた。

四人を河原に座らせた。

懐を確認した。男の一人がナイフを持っていた。

西野が抜き取った。もう一人は携帯だけだった。

星野が根古の隣に来た。

「一石さんは何を言ったんですか」

「わからない」根古は一石を見た。

一石が四人の男と向き合っていた。ファルシー語で話している。

男たちは最初無言だったが、一人がぽつりぽつりと答え始めた。

五分ほど続いた。

一石が根古の隣に来た。

「話してくれました」一石は静かに言った。

「ただし、聞いて驚かないでください」

「話せ」

「この四人は確かにイラン系です。ただし??イラン政府の工作員ではありません」

根古は黙って聞いた。

「イランの反政府組織です。テヘランの現政権に反対している人間たちだ。彼らはイラン政府の核開発計画の内部告発者で、モサドと接触しようとして日本に来ていた」

全員が静止した。

「モサドと接触」根古は繰り返した。

「フュイに会いに来ていたんです」一石は根古を見た。

「フュイが郡上で調査しているという情報を掴んで、情報を渡そうとした。ただ接触する前にフュイが殺された」

「フュイを殺したのはこの四人ではない」

「違います」一石は静かに言った。

「彼らもフュイの死を知って、混乱していた。身動きが取れなくなって、この民家に隠れていた」

「では誰がフュイを殺した」

一石は少し間を置いた。

「フュイを殺したのはイラン政府の正規工作員です。彼らとは別の組織だ。そしてその正規工作員が??今もこの周辺にいると思われます」

川の音が大きく聞こえた。

十二月の木曽川が、暗闇の中を流れている。

「つまり」星野が静かに言った。「私たちが探すべき工作員は別にいる」

「そうです」一石は言った。「この四人は??むしろ根古さんたちと同じ側の人間です」

根古は河原に座った四人を見た。

三十代から四十代、疲れた顔をしている。半年間、異国の地で身を隠していた人間の顔だ。

「名前を教えてもらえますか」根古は一石に言った。

一石がファルシー語で訊いた。


男が答えた。

「リーダーはダリウス・モラディ、四十二歳です」一石が通訳した。

「残り三人はカミャール、シャヤン、アリレザ。全員テヘラン出身です」

「彼らが持っている情報は」

一石がまた訊いた。

ダリウスが今度は長く答えた。

一石の表情が変わっていった。

読めない表情だ。ただ目だけが、少しずつ大きくなっていく。

「一石さん」根古が言った。

一石は答えるまでに時間がかかった。

「イランの核開発の詳細なデータです」一石は静かに言った。

「施設の場所、開発段階、関係者のリスト。それだけではない」

「何がある」

「可児に隠された石碑の場所を、ダリウスたちも知っています」一石は根古を見た。

「彼らの祖父の一人が、戦前に郡上と可児を調査した日本人研究者と文通していた。

その手紙に、石碑の記録が残っていたと言っています」

川の音が続いている。

「ダリウスたちはその石碑を守りに来た」一石は続けた。

「イラン政府に破壊される前に」

根古は夜空を見た。

星が出ていた。


「石碑を破壊しようとしているのが、フュイを殺した正規工作員か」

「おそらく」

「可児の石碑の場所は」

「ダリウスは大まかな場所しか知らないと言っています。詳細はフュイのメモリーカードにある座標だけです」

根古は立ち上がった。

「鳩吹山だ」根古は静かに言った。

全員が根古を見た。

「子供の頃に見た石組みがある。木曽川沿いの山の中腹だ。ここから車で十分もかからない」

一石がダリウスに何か言った。

ダリウスが根古を見た。

そして静かに頷いた。

「座標と一致します」一石は言った。

根古はスティーブに電話をかけた。

「今から鳩吹山に行く。カルロスを連れて来い。急いでくれ」

「何があった」


「全部話す。ただし急げ。フュイを殺した工作員が同じ場所を目指している可能性がある」

電話を切った。

雨月に電話をかけた。

「鳩吹山、今から動けるか」

「非公式でいいですか」

「ああ」

「行きます」雨月は即座に言った。

根古はダリウスを見た。

疲れた顔の四十二歳が、根古を見ていた。

「一緒に来ますか」根古は一石を通じて言った。

ダリウスが答えた。

「来ます」一石が通訳した。

「石碑を守るために日本に来たと言っています」

根古は川を見た。

木曽川が暗闇の中を流れている。

「行くぞ」根古は言った。



我田という地名を聞いた時、根古は少し黙った。

「我田か」「知っていますか」一石が訊いた。

「知っている」根古は静かに言った。

「可児市の外れだ。木曽川沿いの山裾に、昔から大きな岩がある。地元では我田の大岩と呼ばれている」「行ったことは」「子供の頃に一度だけ。鳩吹山に登る途中で道を外れて迷い込んだ。大人に見つかって、ひどく叱られた」「なぜ叱られたんですか」根古は少し考えた。

「理由を言わなかった。ただ、あそこには近づくなと」一石はダリウスに通訳した。

ダリウスが短く言った。「座標と完全に一致します」一石は根古を見た。「我田の大岩が、石碑の場所です」


全員が車に分乗した。根古の車にヤマト、一石、ダリウス。

星野の車に西野、古田麻尋、カミャール、シャヤン、アリレザ。江戸川が単独で先行した。

雨月と山本彩織が別ルートから向かっている。スティーブとカルロスは名古屋から高速を飛ばしていた。「間に合うか」根古は運転しながら言った。

「わかりません」一石は助手席で静かに言った。「ただフュイを殺した工作員がメモリーカードの座標を知っているとしたら??先に動いている可能性があります」

「メモリーカードは解読した時にラクカにいた全員が見ている」

「そこから漏れたとは思いません。ただ??」一石は少し間を置いた。

「フュイのレポートが本国に届いた時点で、もう一つのルートから情報が流れている可能性があります」「モサドの内部から」「言いたくはないですが、可能性としてゼロではない」根古はヤマトのキャリーケースを後部座席で確認した。ヤマトが根古を見ていた。


耳が立っている。目が光っている。

「もう少しだ」根古は言った。後部座席でダリウスが窓の外を見ていた。

夜の可児を初めて見る目だ。「ダリウスさん」根古は一石に通訳を頼みながら言った。

「日本に来てどのくらいになりますか」一石が訳した。ダリウスが答えた。

「八ヶ月です」一石が通訳した。

「ずっと隠れていたと言っています。日本語はわからない。ただ日本人は親切だったと」「どこで暮らしていましたか」

「最初は東京。それから名古屋。半年前から可児に」根古は少し考えた。

八ヶ月。太田がラクカで聞いた、木曽川沿いに住む外国人の話。

半年前から、という時期と一致する。「太田も知っていたわけだ」根古は小さく言った。

一石が根古を見た。「何ですか」「なんでもない」


我田の入口で車を止めた。山裾に続く細い道。街灯がない。

懐中電灯だけが頼りだ。全員が降りた。江戸川が先に来ていた。

「根古さん」江戸川は小声で言った。

「大岩の手前に車が一台止まっています。エンジンが切れている。ナンバーが??」

「外国人登録のレンタカーか」

「はい。今日の午後に借りた車です。フュイを殺した組織の車だと思います」根古は全員を見渡した。

雨月と山本が到着した。スティーブとカルロスはあと五分だ。

「待つか、動くか」雨月が根古に訊いた。根古は空を見た。雲が出ている。月が見えない。

「動く」根古は言った。「スティーブには連絡を入れておく。

追いついたら合流してもらう」全員が頷いた。根古が先頭に立った。一石が隣に並んだ。

ダリウスとカミャールが続く。

星野、西野、古田麻尋。

雨月と山本。

江戸川と安藤。

全員が暗い山道を歩き始めた。

落ち葉を踏む音だけが続いた。


五分歩いた。

懐中電灯を消した。

目が慣れると、木々の輪郭が見えてきた。

大岩が見えた。

人の背丈の三倍はある。黒く、重く、山の中腹に鎮座している。

子供の頃に見た時と変わらない。変わるものではない。

何百年、あるいは何千年、ここにある岩だ。

岩の前に、人影があった。

二人だ。

懐中電灯を持っている。岩の表面を照らしながら何かを探している。

一石が根古の耳元で囁いた。

「正規工作員です。二人とも武装しています」

根古は全員に手で合図した。

散開。

星野が左へ。西野と古田麻尋が右へ。雨月と山本が後方を抑える。

ダリウスが根古の隣に来た。

一石が通訳した。

「ダリウスが言っています。あの二人は危険だと。テヘランで何人も殺している」

「わかっている」根古は静かに言った。

工作員の一人が岩の表面を手で触れた。


何かを見つけた顔だ。

もう一人に声をかけた。

二人が岩の右側に集まった。

懐中電灯が一点を照らした。

岩の表面に、何かが刻まれていた。

根古には遠くて見えない。

だがダリウスが隣で息を呑んだ。

一石が小声で言った。「見つけた、と言っています」

工作員の一人が鞄から何かを出した。

工具だ。

刻まれた文字を削り取ろうとしている。

「止める」根古は言った。

動き出した瞬間、後方から声がした。

「根古さん、カルロスです」

スティーブとカルロスが追いついてきた。

全員が揃った。

工作員二人が気づいた。

懐中電灯が消えた。


暗闘になる、と根古は思った。

その瞬間、工具を持った男が工具を投げた。

音がした。

走った。

根古は反対方向に動いた。

カルロスが男の進路を塞いだ。

第二弾でホセをやられたカルロスだ。

今夜は油断しない。

男がカルロスに向かった。

格闘になった。

カルロスは引かなかった。

もう一人の男が別方向に走った。

星野が出た。

一対一になった。

男が星野を見た。

女だと思った瞬間が、星野には隙に見える。

一秒で終わった。

男が地面に伏せていた。

西野が腕を押さえた。

古田麻尋が足を抑えた。

カルロスの方も終わっていた。

カルロスが男の腕をひねり上げて動きを封じている。

全員が静止した。

木々の間で風が鳴った。


雨月が前に出た。

「岐阜県警です。全員動かないでください」

二人の工作員が抵抗をやめた。

根古は大岩に歩み寄った。

懐中電灯を点けた。

岩の右側面を照らした。

そこにあった。

縦三十センチほどの、浅く刻まれた文字群。

ヘブライ文字だ。

長い年月で薄れているが、読める。

工具で削られた跡はない。間に合った。

一石が根古の隣に来た。

懐中電灯を受け取って、岩の文字を照らした。

静かに読み始めた。

誰も喋らなかった。

木曽川の水音が遠く聞こえた。


十二月の山の夜が、静かに包んでいた。

ダリウスが根古の後ろに立った。

岩の文字を見た。

目が潤んでいた。

長い沈黙の後、一石が口を開いた。

「読めます」一石は静かに言った。

「古いヘブライ語ですが??間違いありません」

「何と書いてある」根古が言った。

一石は少し間を置いた。

「イスラエルの十二支族の一つ、ガド族の末裔が、遥か東の地に渡った記録です。

年代は??二千年以上前です」一石の声が少し揺れた。「そして最後の一行に??」

一石は根古を見た。

「この地の民と共に生きよ、と書いてあります」

全員が岩を見た。

何千年も、ここにあった文字だ。

誰も知らないまま、この山の中腹にあり続けた。


ダリウスがファルシー語で何か言った。

一石が通訳した。

「ありがとう、と言っています。間に合ってよかったと」

根古は岩に手を触れた。

冷たかった。

何千年分の冷たさだ。

「一石さん」根古は言った。「これをどうするつもりですか」

一石は少し考えた。

「本国に報告します。ただし??」一石は根古を見た。

「根古さん、あなたに一つお願いがあります」

「なんだ」

「この岩を、このままにしておいてください」一石は静かに言った。

「発掘しない。公表しない。ここにあるものを、ここに置いておいてほしい」

「本国が許可するか」


「私が説得します」一石は言った。

「フュイが死んで、石碑が見つかった。それだけで十分です。今の中東情勢でこれを表に出せば、また誰かが死ぬ。それは本国も望まない」

根古は岩を見た。

「この地の民と共に生きよ」

二千年前に書かれた言葉が、可児の山の中腹にあり続けた。

誰も知らないまま。

それでよかったのかもしれない。

「わかった」根古は言った。

一石は深く頷いた。

スティーブが根古の隣に来た。

「NSAとしては??」スティーブは少し考えてから言った。

「見なかったことにする」

根古は笑わなかった。

だが目が少し細くなった。

スティーブも同じ目をした。

大学時代から変わらない、二人だけの合図だ。


工作員二人は雨月が身柄を確保した。

不法入国、不法所持の容疑だ。

国際的な背景は表に出さない。雨月はそう判断した。

ダリウスたち四人の身柄をどうするかは、一石が動いた。

翌日、東京のイスラエル大使館を通じて、四人は第三国への出国支援を受けることになった。

イランの核開発データは一石がモサドに渡した。

それがどう使われるかは、根古の知る話ではない。


三日後、ラクカに全員が集まった。

また集まった。

太田が黙ってコーヒーを配った。織田がおにぎりを持ってきた。

一石哲夫が帰る前に寄っていった。

スーツ姿、靴は同じものだ。

根古の隣に座ってコーヒーを飲んだ。

「美味しい」また言った。

「毎回言うな」根古は言った。

「毎回本当のことですから」

太田がカウンターの向こうで小さく笑った。

めったに笑わない太田が。

一石は全員を見渡した。

神主、住職、弁護士、医者、大工、探偵、刑事、YouTuber、バイヤー、カレー屋、元刑事、NSA幹部とその護衛、そして謎の三人組。

「不思議な場所ですね」一石は根古に言った。

「そうか」


「世界中どこに行っても、こういう場所はない」

「可児だからだ」根古は言った。

一石は少し考えてから頷いた。

「フュイも、ここに来たかったと思います」

根古は答えなかった。

ヤマトが根古の膝に乗ってきた。

一石がヤマトを見た。

「触っていいですか」

「ヤマト次第だ」

一石がそっと手を差し伸べた。

ヤマトは一石の手を嗅いだ。

それから頭を押しつけた。

一石は少し目を細めた。

「いい猫ですね」

「ああ」根古は言った。

ラクカに話し声が満ちていた。


雨月と山本が隅のテーブルで話している。

星野と西野と古田麻尋が窓際に並んでいる。

スティーブとカルロスが織田のおにぎりを食べている。

ダリウスたちはいない。もう旅立った。江戸川が手帳の新しいページを開いている。

安藤が煙草を外で吸ってから戻ってきた。

松平と古田智雲が並んで座っている。ミーコと楓と木下が話している。

鏑木と加藤が入口近くで笑っている。

全員がいた。

根古はコーヒーを飲んだ。

熱かった。

太田のコーヒーはいつも少し熱すぎる。

今日は冷まさなかった。

そのまま飲んだ。

窓の外、十二月の可児に薄い雪が降り始めていた。

我田の大岩は今夜も、山の中腹に静かにある。

誰も知らないまま。

この地の民と共に。










評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ