東洋の密使 ②
根古はスティーブに電話をかけた。
「名古屋港、金城ふ頭。今夜木箱が運び込まれた。中国向けの貨物船の出港スケジュールを調べてくれ」
スティーブがしばらくして答えた。
「明後日の朝、上海行きの貨物船がある。龍華貿易名義の荷物が積み込まれる予定だ」
「明後日」
「根古、時間がない」
根古は電話を切って全員を見た。
太田がコーヒーを一杯、根古の前に置いた。
熱かった。
「明後日の朝までに藤井の証拠を掴む」根古は言った。「全員、動くぞ」
工藤が立ち上がった。
秋月が上着を手に取った。
ヤマトが根古の膝から降りて、床に座った。耳を立てて、扉の方を向いている。
太田だけが動かなかった。
「根古」太田は静かに言った。
「なんだ」
「気をつけろ」
それだけ言った。
その夜、張玄習は名古屋市内のホテルにいた。
繁華街から外れた、目立たないビジネスホテルだ。
フロントに顔を覚えられない程度の滞在を繰り返す。それが張のやり方だ。
部屋の窓から夜の街を見下ろしながら、携帯で短い通話をした。広東語だ。
「金城の荷物は確認した。明後日の朝、予定通りだ」相手が何か言った。
「尾行はいた。警察か探偵か。撒いた」張は静かに言った。
「問題ない」また相手が何か言った。張の表情がわずかに変わった。
「横浜の探偵が可児にいる。去年の案件を知っている人間だ」相手の声が鋭くなった。
「始末するかどうかは私が判断する」張は静かに遮った。
「今は動かない。荷物が出るまでは余計な騒ぎを起こすな」通話を切った。
林達建がベッドの端に座って、ナイフの刃を布で拭いていた。
「工藤という男が気になるか」張は振り返らずに言った。林は答えなかった。「今夜は動くな」
林はナイフをしまった。
午後十時、可児市内。根古、工藤、秋月、江戸川が二台の車に分乗して動いていた。
スティーブとカルロスが別ルートで名古屋港周辺を確認している。
ホセは宿で腕を固定して待機だ。雨月は署に戻っていた。表向きは通常業務だ。
ただし携帯は常に手元にある。可児の倉庫に戻った木箱がまだあるかどうかを確認する。
それだけのつもりだった。根古の車が国道を走る。助手席の工藤が地図を見ていた。
「倉庫まであと五分です」後部座席で秋月が目を閉じている。
江戸川が後ろの車で単独で動いている。倉庫の周辺道路を別角度から見るためだ。
根古が倉庫から二百メートル手前で車を止めた。
「歩いて確認する。お前はここで待て」根古は工藤に言った。
「一人でですか」「お前の顔が知られている可能性がある」「根古さんの顔は知られていないんですか」「まだ知られていないはずだ」秋月が目を開けた。
「私が行く」
「秋月さん??」「二人で行く方が自然だ。夜の散歩に見える」秋月はドアを開けた。
「根古さん、一緒に」根古と秋月が車を降りた。街灯が疎らな道を歩く。
倉庫が見えてきた。昼間と変わらない外観だ。シャッターは閉まっている。
フェンスのセンサーが暗闇の中で小さく光っている。駐車場に車が一台止まっていた。
昼間はなかった車だ。黒いワンボックス。ナンバーが見えない。
泥がかかっている。意図的に汚した泥だ、と根古は思った。
「人が乗っている」秋月が小声で言った。根古も気づいていた
。運転席の影が動いた。二人は歩調を変えずに通り過ぎた。
角を曲がったところで根古が携帯を出した。スティーブに連絡する。
「可児の倉庫に見張りがいる。黒いワンボックス、ナンバー不明」
スティーブが即座に答えた。「こちらも動きがある。金城ふ頭の倉庫に今夜また車が入った。木箱の追加搬入だ。根古、明日の朝が早まる可能性がある」
「出港が早まるということか」
「確認中だ。カルロスが今、港を見ている」
根古は秋月を見た。
秋月が静かに言った。「倉庫の中身を今夜確認するか」
「証拠がいる。木箱の中身を押さえなければ藤井には届かない」
「警察を動かすか」
「雨月を動かすには令状が要る。令状を取るには証拠が要る」
根古は倉庫の方角を見た。「鶏と卵だ」
秋月は少し考えた。
「中に入る方法はあるか」
「センサーを回避できれば」
「誰かできる人間がいるか」
根古は少し考えた。
安藤修の顔が浮かんだ。元警部補、退職後の仕事は訊いたことがない。
ただあの男はいくつかのことができる。
電話をかけた。
安藤が一度で出た。
「安藤、今夜動けるか」
「どんな内容だ」
「倉庫のセンサーを回避して中の確認をしたい」
短い沈黙があった。
「可児か」
「ああ」
「三十分でそっちに行く」安藤はそれだけ言って切った。
根古と秋月が車に戻った。
工藤が「どうでしたか」と言った。
「見張りがいる」根古は答えた。「もう少し待つ」
工藤は頷いた。
三十分後、安藤修が原付バイクで現れた。三十六歳、元警部補。
ジャケットのポケットが膨らんでいる。
「見せてくれ」安藤は倉庫の方を見た。
根古が状況を説明した。
安藤はフェンスのセンサーの話を聞いて、ポケットから小さな機器を出した。
「これで十分だ」
「何だそれは」秋月が訊いた。
「退職後の仕事の道具だ」安藤は笑わずに言った。
工藤が安藤を見た。元刑事が退職後に何をしているかを、工藤なりに推測している顔だった。
「私も行きます」工藤が言った。
根古は少し考えてから頷いた。
「ただし動くなと言ったら動くな」
「わかりました」
安藤、根古、工藤の三人が車を降りた。
秋月は車に残った。
「外の見張りは私がやる」秋月は静かに言った。「何かあれば連絡しろ」
三人が暗闇の中に入った。
フェンスに近づく。
安藤が機器をセンサーに向けた。小さな電子音がして、センサーのランプが消えた。
「二十分で戻ってくる」安藤は言った。「それ以上かかるとリセットされる」
根古が頷いた。
フェンスの隙間から敷地に入る。
シャッターの横に小さなドアがあった。鍵がかかっている。
安藤が工具を出した。三十秒でドアが開いた。
中に入る。
暗い。
懐中電灯を向けた。
木箱が並んでいた。
昼間に軽トラで運ばれたものとは別に、さらに十数個の木箱が積まれていた。
工藤が一つの箱に近づいた。蓋をわずかに開ける。
中に陶器の置物が入っていた。
工藤が置物を取り出した。手で重さを確認する。
「重すぎます」工藤は静かに言った。「陶器にしては重い」
根古が受け取った。確かに重い。
安藤がポケットからもう一つの機器を出した。置物に向けた。
小さな画面に数値が出た。
「電子部品の反応が出ている」安藤は言った。
「中にストレージが仕込まれている」
根古はスマートフォンで置物を撮影した。箱の外観も撮影した。
積み上げられた木箱全体も撮影した。
「これで雨月に令状を取れるか」工藤が言った。
「取れる」根古は言った。
「十五分経ちました」安藤が言った。「出ます」
三人がドアから出た。フェンスを抜けた。
暗闇の中を車まで戻る。
あと三十メートルというところで、秋月から電話が来た。
「見張りの車が動いた。こちらに来る」
根古は立ち止まった。
「どのくらいだ」
「一分かからない」
暗闇の中で三人が顔を見合わせた。
道路に出れば車に見つかる。
根古は民家の塀を見た。高さ一メートル半ほどだ。
「越えるぞ」
安藤が先に越えた。根古が続いた。
工藤が越えようとした瞬間、背後で車のヘッドライトが道を照らした。
工藤は塀の陰に張り付いた。
黒いワンボックスがゆっくりと走ってきた。
速度を落とした。
止まった。
窓が開いた。
誰かが外を見ている。
三人とも動かなかった。
一分が経った。
ワンボックスがまた走り始めた。
遠ざかっていった。
工藤が息を吐いた。
塀を越えて道路に出た。
三人が急ぎ足で車に戻った。
秋月が無言でドアを開けた。
全員が乗り込んだ。
根古はエンジンをかけずにしばらく待った。
ワンボックスが戻ってくる気配はなかった。
「撮影した画像を雨月に送る」根古は言った。「今夜中に令状の手配をしてもらう」
「間に合うか」工藤が言った。
「明日の朝までに動けば間に合う」
根古は雨月に電話をかけた。
「今から画像を送る。令状を取れるか」
雨月が少し間を置いた。
「内容次第ですが??根古さん、今どこにいますか」
「可児の倉庫の近くだ」
「倉庫に入りましたか」
「ノーコメントだ」
雨月が小さく息を吐いた。
「画像を送ってください。今夜動きます」
電話を切った。
その時、スティーブから着信が来た。
「根古、大きな動きがある」スティーブの声が緊張していた。
「金城ふ頭の倉庫に張玄習が入った。カルロスが確認した。奴が直接動くということは??」
「出港が明日に早まった」
「おそらく。根古、時間がない」
根古はエンジンをかけた。
「名古屋に向かう」
秋月が前を向いた。工藤が地図を開いた。安藤がシートベルトを締めた。
ヤマトがキャリーケースの中で低く鳴いた。
名古屋港、金城ふ頭。
カルロスが暗闇の中で倉庫を見ていた。
腰に拳銃がある。NSAの正規の装備だ。
倉庫のシャッターが開いていた。中から人が出入りしている。
三人、四人??数えながらカルロスは携帯を耳に当てた。
「スティーブ、人数は五人確認。張と林は中にいる」
スティーブが答えた。「根古たちが向かっている。もう少し待て」
「了解」
カルロスは暗闇に目を凝らした。
その時、背後で音がした。
振り返る間もなかった。
首筋に鋭い衝撃。
カルロスは意識を失う前に一つだけ思った。
回り込まれた。
スティーブの携帯にカルロスからの通信が途絶えたのは、根古たちが名古屋に入った直後だった。
「カルロスと連絡が取れない」
根古はアクセルを踏んだ。
工藤が前を向いたまま言った。「罠の可能性があります」
「わかっている」
「それでも行きますか」
「行く」根古は静かに言った。「カルロスがいる」
秋月が後部座席で上着の内側を確認した。
何かが入っている。
工藤はそれを見て何も言わなかった。
金城ふ頭まで、あと十分だった。
根古が西野千紗都に電話をかけたのは、名古屋港まで五分というところだった。
「千紗都か。今夜、仕事を頼めるか」西野の声は眠そうだったが、一瞬で切り替わった。
「内容は」「名古屋港、金城ふ頭。中華系マフィアが相手だ。
NSAの護衛が一人やられた。人数は少なくとも五人、張玄習と林達建がいる」短い沈黙。
「麻尋と二人でいいですか」「頼む」「十五分で行きます」電話を切った。
工藤が助手席で根古を見た。
「今の??西野千紗都ですか」「知っているか」工藤は少し間を置いた。
「知っています」工藤は静かに言った。
「二年前、東京で」根古は前を向いたまま言った。「話してくれ」
「依頼人の身辺警護の案件でした。
依頼人を狙っている人間を突き止めようとしていたら、先回りされていた。
気づいたら完全に挟まれていた」工藤は窓の外を見た。
「相手が西野と古田でした。二対一で、私は三時間動けなかった」
「三時間」
「恥ずかしい話ですが」工藤は言った。「二十三歳の女二人に、です」
後部座席で秋月が小さく鼻を鳴らした。
「その後は」工藤は続けた。
「互いの依頼人が実は同じ案件の被害者と加害者だったことがわかって、共同で動くことになりました。それきりです」
「二人の実力は」
工藤は少し考えてから言った。
「林達建のナイフを、止められると思います」
根古は頷いた。
それで十分だった。
金城ふ頭の手前で車を止めた。
港の夜風が冷たい。遠くでコンテナ船のエンジン音が低く響いている。
スティーブが先に来ていた。
カルロスが見張りをしていた場所の近くで、腕を組んで立っている。
「カルロスは」根古が言った。
「倉庫の裏で見つかった。意識はある。
頭を打ったが骨折はない」スティーブは静かに言った。「ただ??根古、倉庫の中を見てくれ」
スティーブが指さした方角を見た。
倉庫のシャッターが半分開いていた。中から明かりが漏れている。
「張が中にいる。木箱の最終確認をしているようだ。出港は明朝六時に早まった」
「今は何時だ」
「午前一時過ぎだ」
「五時間ある」根古は言った。
「根古、令状は」
「雨月が動いている。ただ夜中に令状を取るのは??」
「時間がかかる」スティーブは言った。「根古、私に一つ提案がある」
「聞く」
「NSAとして倉庫に入る。日本の法律の外の話だ。木箱を確保して張を拘束する。藤井への証拠は別途??」
「それはできない」根古は静かに遮った。
「日本でやることだ。雨月を通す」
スティーブは根古を見た。
「時間がないぞ」
「わかっている」
その時、後ろから声がした。
「根古さん」
振り返った。
西野千紗都と古田麻尋が立っていた。
黒いジャケット、動きやすい服装。二人とも表情が静かだ。
どこから来たのか、足音がしなかった。
工藤が二人を見た。
西野が工藤を見た。
一瞬だけ、何かが走った。
「工藤さん」西野は言った。
「久しぶりだな」工藤は言った。「元気そうだ」
「おかげさまで」
古田麻尋が工藤を見て、小さく会釈した。無口な方だ。
だがその目は周囲を素早く測っている。
秋月が二人を一度見た。それから根古に向いた。
「頼れる」秋月は短く言った。元刑事の目利きだ。
根古は二人に向いた。
「林達建を知っているか」
「ナイフ使い」西野は即座に答えた。
「林の名前は東京でも出ていました。会ったことはないですが」
「今夜会うことになる」
西野は古田と目を合わせた。
古田が小さく頷いた。
「わかりました」西野は根古を見た。「どう動きますか」
根古は倉庫を見た。
シャッターの隙間から漏れる明かり。
「雨月が令状を取るまで、張と林を倉庫の中に留める。外に出させない。それだけでいい」
「出てきたら」
「止めてくれ」
西野はジャケットの袖を少しまくった。
古田が首を静かに回した。
準備ができた、という動作だ。
スティーブが根古の隣に来た。「私とカルロスは港の出口を抑える。船に荷物を積ませない」
「頼む」
安藤が根古の肩を叩いた。「私は倉庫の裏に回る。逃げ道を塞ぐ」
根古は全員を見渡した。
工藤が言った。「私は」
「お前は私と一緒に来い」根古は言った。「倉庫の正面で雨月を待つ」
「囮ですか」
「そうだ」
工藤は少し笑った。
「わかりました」
秋月が工藤の肩に手を置いた。
「無理をするな」
「秋月さんは」
「私は根古さんの隣にいる」秋月は静かに言った。「それが今夜の私の仕事だ」
根古はヤマトのキャリーケースを車のトランクに残してきた。ヤマトは文句を言わなかった。
港の風が吹いた。
全員が静かに動き始めた。
倉庫の正面、根古と工藤と秋月が立った。
シャッターの隙間から人の動く気配がする。
三分後、シャッターがゆっくりと上がり始めた。
中から男が三人出てきた。
木箱を台車に乗せている。
先頭の男が根古たちを見た。
止まった。
「誰だ」中国語だった。
根古は動かなかった。
男が後ろに向かって何か叫んだ。
倉庫の中からさらに二人出てきた。
その後ろに、張玄習がいた。
夜の港の明かりの中で、張は根古を静かに見た。
「探偵か」張は日本語で言った。流暢だった。
「違う」根古は答えた。
「では何者だ」
「地元の人間だ」
張は少し目を細めた。
その時、張の視線が根古の隣に移った。
工藤を見た。
一秒だけ、張の表情が変わった。
「横浜の探偵」張は静かに言った。「ここまで来たか」
「休養中だったんですが」工藤は言った。
張が林達建に何か言った。
林がジャケットの内側に手をやった。
その瞬間、暗闇から西野千紗都が走り込んできた。
音がなかった。
林の手首を掴んで、ナイフが抜ける前に制した。
林が西野を見た。
初めて、林の目に感情が出た。
驚きだった。
古田麻尋が反対側から回り込んで、もう一人の男の前に立った。
張が状況を見渡した。
四人の部下が動きを止めている。林が制されている。
根古が携帯を出した。
雨月からメッセージが入っていた。
『令状取れました。今から向かいます。十分で着きます』
根古は張を見た。
「十分待ってもらう」
張は根古を見た。
静かな目だ。感情が読めない。
だが動かなかった。
プロの判断だ、と根古は思った。
林が西野の手を振りほどこうとした。
西野が体重をかけた。林の体勢が崩れた。
林は西野を見た。また感情が出た。今度は別の感情だ。
こいつは何者だ。
西野は無表情だった。
古田が後ろの男を一歩も動かせていない。ナイフも銃も出ていないのに、男は動けない。
工藤が根古の隣で静かに言った。
「東京で三時間動けなかった理由が、秋月さんにも少しわかったと思います」
秋月は何も言わなかった。
港の風が吹いた。
コンテナ船のエンジン音が遠く響いていた。
八分後、雨月の車が見えた。
山本彩織が助手席から降りながら、無線で応援を呼んでいた。
張玄習は最後まで動かなかった。
根古が雨月に歩み寄った。
「令状を」
雨月が封筒を渡した。
根古は振り返って倉庫を見た。
木箱が台車の上に並んでいる。
中に、自動運転システムの学習データが入っている。
「頼む」根古は雨月に言った。
雨月が一歩前に出た。
「愛知県警可児署、雨月雅之です。密輸品の押収令状が出ています。全員動かないでください」
張はその言葉を聞いて、根古を見た。
何かを言おうとした。
言わなかった。
ただ静かに、両手を上げた。
林達建が西野の手を振りほどいた。
西野は止めなかった。
令状が出た以上、西野と古田の仕事は終わった。
林は両手を上げた。
無表情に戻っていた。
夜明けが近づいていた。
港の空が少しだけ白くなっていた。
倉庫の前に警察車両が三台止まった。
木箱が次々と運び出されていく。
根古はそれを見ながら、太田に電話をかけた。
「コーヒーを頼む。全員分だ」
太田が少し間を置いた。
「今から可児から名古屋まで来るのか」
「来てくれるか」
また間があった。
「わかった」太田はそれだけ言った。
根古は電話を切った。
工藤が隣に来た。
「張と林は」
「雨月が押さえた。ただ??」根古は静かに言った。「藤井にはまだ届いていない」
「証拠は取れましたか」
「木箱と龍華貿易の繋がりは押さえた。ただ藤井と龍華貿易を結ぶ線がまだ細い」
「細い、というのは」
「状況証拠だけだ。藤井の弁護士が動けば逃げられる可能性がある」
工藤は少し考えた。
「去年の案件の依頼人??消えた経理部長を見つければ、直接証言が取れるかもしれません」
根古は工藤を見た。
「探せるか」
「探します」工藤は言った。「それが去年の案件への私なりの区切りです」
秋月が後ろで腕を組んだまま言った。
「休養はいつ取るんだ」
「帰ってから」
「横浜に帰れるのはいつだ」
工藤は少し考えた。
「藤井が摘発されてから、でしょうか」
秋月は何も言わなかった。
西野千紗都が根古の隣に来た。
「根古さん、私たちはここまでですか」
「もう一仕事ある」根古は言った。「消えた証人を探す手伝いをしてくれ」
西野は古田を見た。古田が小さく頷いた。
「わかりました」
夜明けの港に、風が吹いた。
コンテナ船がゆっくりと岸壁に向かっていた。
今日は上海には行かない。
消えた経理部長の名前は、藤田誠一といった。五十二歳。トウカイ精密の元経理部長。
一年前に突然退職して以来、消息不明。
工藤が最後に確認していた住所は名古屋市内のマンションだったが、すでに引き払われていた。
「家族は」根古が訊いた。「離婚しています。子供は一人、東京にいる」工藤は手帳を見た。
「娘さんです。連絡を取ってみましたが、父親の居場所は知らないと言っていました。ただ??」
「ただし」「半年前に一度だけ、父親から手紙が来たと言っていました。消印は岐阜でした」根古はイエンガー・ムハンマドに電話をかけた。
カレー店長にして情報協力者。岐阜周辺のネットワークは根古より広い。
「藤田誠一という人物を探している。五十二歳、元会社員。半年前に岐阜にいた可能性がある」イエンガーが少し考えた。
「根古さん、一つだけ心当たりがあります。
可児の温泉に、半年前から住み込みで働いている日本人男性がいると聞きました。名前は知りませんが、年齢は五十代だと」温泉。
根古は思い出した。第一弾の時に名前が出た、事故を予知する温泉の友人。
「その温泉、どこだ」「御嵩町です。根古さんの地元から車で二十分ほどです」根古は立ち上がった。
御嵩町の温泉施設は、山の麓にひっそりと建っていた。観光客向けではない。
地元の人間が体を休めに来る、古い日帰り温泉だ。根古と工藤が受付に入った。
番台に座っていた男が顔を上げた。五十二歳。細い体、白髪が増えた顔。
目の下に疲労の色がある。工藤が一歩前に出た。「藤田さん」男の顔が強張った。逃げようとした。
根古が静かに言った。「座ってください。警察ではない」
男は根古を見た。工藤を見た。
やがて力が抜けたように椅子に座り直した。
「もう終わりか」藤田誠一は小さく言った。
「終わりです」根古は答えた。「ただし、あなたが望んでいた終わり方で」
藤田が顔を上げた。
「張たちは」
「昨夜、名古屋港で押さえました」
藤田の目に、何かが滲んだ。
「藤井は」
「まだです。あなたの証言が要ります」
藤田は長い間、手を見ていた。
番台の外で、温泉の湯が流れる音がした。
やがて藤田は顔を上げた。
「話します」藤田誠一は静かに言った。「一年間、話したかった」
藤田誠一の証言は、三時間にわたった。
雨月が録音した。山本彩織が記録した。
藤井秀樹参議院議員がトウカイ精密に接触したのは三年前だ。
日中技術協力の名目で、中国企業との提携を斡旋した。表向きは合法的な技術協力だった。
だが実態は違った。
提携先の中国企業が龍華貿易の関連会社だった。
技術協力の名目でトウカイ精密の開発データに、相手側がアクセスできる仕組みを作った。
藤田が異変に気づいたのは二年前だ。経理の数字が合わない。資金が不明な形で動いている。
調べれば調べるほど、藤井の名前が出てきた。
工藤に調査を依頼したのは藤田だ。
だが三週間後、藤井の秘書が藤田の自宅に来た。
脅しだった。
「調査を止めなければ、家族に何かが起きると言われました」藤田は静かに言った。「娘が東京にいる。それを知っていた。だから??」
藤田は言葉を切った。
「工藤に調査を止めるよう連絡して、会社を辞めて、ここに来ました。娘を守るためです。情けない話ですが」
工藤が静かに言った。「情けくない。正しい判断です」
藤田が工藤を見た。
「去年、あなたに迷惑をかけました」
「私こそ、力が足りなかった」工藤は言った。「今回、一緒に終わらせましょう」
藤田は小さく頷いた。
証言と録音、龍華貿易の資料、名古屋港で押収した木箱の証拠。
全部揃った。
雨月が三枝康介に電話をかけた。
「三枝警部、少し話を聞かせてください」
三枝は長い沈黙の後に言った。「わかった」
三枝は全部話した。
佐久間家の遠縁として、かつて藤井の秘書から接触を受けていた。可児の倉庫の存在を見て見ぬふりをするよう圧力をかけられていた。奥の蔵から人形を持ち出したのも三枝だった。藤井側に証拠を渡さないためだ、と三枝は言った。
「私なりの抵抗でした」三枝は静かに言った。「だが結局、何もできなかった」
雨月は録音を止めた。
藤井秀樹が任意同行を求められたのは、証言から二日後だった。
愛知県警と警視庁が合同で動いた。三枝康介の証言と藤田誠一の証言、龍華貿易との資金の流れ、押収した木箱のデータ??全部が藤井を指していた。
藤井は最初、弁護士を呼べと言った。
だが証拠の量を見せられた後、黙った。
その日の夕方、藤井秀樹は議員会館で記者団に囲まれた。
テレビが中継した。
鳴海美佑がラクカで画面を見ながら、根古に小声で言った。「これ、撮っていいですか」
「ニュースは撮れない」根古は言った。
「テレビ画面じゃなくて、ここにいる皆さんを」
根古は全員を見た。
ラクカに集まっていた。
太田、鏑木、加藤、長曾我部、織田、松平、古田智雲、ミーコ、楓、木下、西野薫、柊澪、藤原茜、安藤、江戸川、ロドリゲス、イエンガー、フェルナンド・村田、星野由紀子、西野千紗都、古田麻尋。
雨月と山本彩織。
工藤俊一と秋月小五郎。
スティーブ・ヘイブンスとカルロス。ホセは腕を吊って椅子に
全員がいた。
根古はヤマトを膝に乗せたまま、鳴海に言った。
「撮るな」
鳴海は少し残念そうな顔をした。
「記録は心の中に残せ」根古は言った。
太田がコーヒーを配り始めた。
織田がおにぎりを山のように持ってきていた。
スティーブが根古の隣に来た。
「根古、NSAとしてお前に礼を言う」
「お前の後輩として動いただけだ」
スティーブは笑った。大学時代から変わらない笑い方だ。
「カルロスの頭は大丈夫か」根古が訊いた。
「医者が異常なしと言った」スティーブは言った。
「ただ本人は少し悔しがっている」
カルロスが遠くから根古に向かって軽く手を上げた。
根古は頷いた。
工藤が根古の隣に来た。
「根古さん、一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「根古さんの職業は何ですか」
根古は少し考えた。
「地元の人間だ」
工藤は笑った。
秋月が後ろで腕を組んだまま言った。「工藤、横浜に帰るのはいつだ」
「藤井が正式に逮捕されてからです」
「それはいつだ」
雨月がちょうど電話を切って振り返った。
「今です」雨月は静かに言った。「藤井秀樹、逮捕されました」
店内が静かになった。
一瞬だけ。
それから誰かが息を吐いた。
鏑木が「よし」と小さく言った。
加藤が拳を膝の上で握った。
ミーコが目を閉じた。
楓が隣の木下と目を合わせた。
松平と古田智雲が静かに頷き合った。
星野由紀子が窓の外を見た。
西野千紗都と古田麻尋が、小さく息を合わせた。
太田が根古の前にコーヒーを置いた。
熱かった。いつも通り、少し熱すぎる。
「太田」根古は言った。
「なんだ」
「今日は少し冷ましてから飲む」
太田はそれを聞いて、初めて小さく笑った。
ヤマトが膝の上で大きく伸びをした。
欠伸をした。
それから丸くなって、目を閉じた。
窓の外、十一月の可児に午後の光が差し込んでいた。
工藤俊一は秋月小五郎を見た。
「横浜に帰れます」
「そうだな」秋月は言った。「帰るか」
「でも」工藤は根古を見た。「また来てもいいですか」
根古はコーヒーを冷ましながら言った。
「ラクカは朝六時から開いている」
工藤は笑った。
秋月が珍しく、口の端を少しだけ上げた。




