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東洋の密使 ①


十一月の名古屋は、朝から冷たい雨だった。

ロドリゲス斎藤がスマートフォンの画面を見たのは、午前七時過ぎだ。

骨董バイヤーのネットワークには独自のSNSグループがある。

全国の業者、コレクター、目利き、怪しい筋の情報屋まで混在する雑多なグループだ。

普段は骨董市の情報や掘り出し物の写真が流れてくる。

その朝流れてきたのは、写真一枚だった。古い木箱の写真。

ロドリゲスは最初、見流しそうになった。よくある骨董品の売買打診だ。

だが何かが引っかかって、もう一度見た。木箱の隅に、小さなシールが貼ってある。

メーカーのロゴだ。骨董品に、現代のメーカーロゴ。


おかしい。ロドリゲスは写真を拡大した。

シールの文字を読もうとしたが、解像度が低くて読めない。

投稿者のアカウントを確認した。三日前に作られたばかりのアカウントだった。

ロドリゲスはコーヒーを飲みながら、しばらく画面を見ていた。それから根古親司に電話をかけた。


根古が電話を受けたのは、ラクカでコーヒーを飲んでいる最中だった。

太田が無言でお代わりを注いでいた。ヤマトは店の隅の椅子で丸くなっている。

「ロドリゲスか」「根古さん、おはようございます」ロドリゲスの声はいつも通り明るいが、その底に引っかかりがある。

「少し変なものを見ました。写真を送ります」画像が届いた。

根古は画面を見た。木箱。隅のシール。

「骨董品にメーカーのロゴか」「拡大しても読めないんですが、形からして電子部品系のメーカーだと思います。豊田か名古屋の」根古はコーヒーを置いた。「投稿者は」


「幽霊アカウントです。今朝確認したらもう削除されていました」

太田がカウンターの向こうから根古を見た。何も言わない。ただ見ている。

「わかった」根古は言った。「イエンガーに当たってみる。それと江戸川にも」

「根古さん」ロドリゲスが少し声を落とした。「もう一つあります」

「なんだ」

「同じグループに、先月も似たような投稿があったらしいんです。その時の投稿者も幽霊アカウントで、すぐ消えた。仲間の業者が覚えていて教えてくれました」

「先月も」

「ええ。その時の木箱の写真、背景に静岡のナンバープレートが写り込んでいたそうです」

根古は窓の外を見た。

冷たい雨が路地を濡らしている。

「静岡か」根古は静かに言った。

ヤマトが椅子の上で身じろぎした。



同じ頃、静岡県浜松市。

工藤俊一は駅前のビジネスホテルのベッドに寝転んで、天井を見ていた。

三十二歳。横浜を拠点にする私立探偵。休養のために浜松に来て四日目だ。

休養の理由は単純だ。先月片付けた横浜の案件が、予想以上に体に堪えた。

派手な事件ではない。だが長かった。三ヶ月、ほとんど眠れなかった。

「休め」と秋月小五郎に言われた。

秋月は元警視庁刑事、四十八歳。工藤とは二年前からの付き合いだ。

なぜ元刑事が私立探偵の休養に同行するのか、

工藤にもよくわからない。ただ秋月は「お前一人では心配だ」と言って、一緒に浜松まで来た。

「今日は何もするな」と秋月は昨夜言った。「飯を食って、風呂に入って、寝ろ」

その秋月は今、隣の部屋で寝ている。いびきが壁越しに聞こえる。

工藤は起き上がった。眠れなかった。

ジャケットを羽織って部屋を出た。

ホテルの近くに二十四時間のコンビニがある。缶コーヒーでも買おうと思った。それだけのつもりだった。

コンビニを出た時、駐車場の端で人が動いた。

二人の男が、もう一人の男を壁際に追い詰めていた。

夜中の二時だ。人通りはない。

工藤は足を止めた。


追い詰められているのは、外国人だった。体格がいい。ラテン系の顔立ち。

追い詰めている二人のうち、一人は背が高く、細身。もう一人は小柄で素早い動きをしている。

細身の男が先に動いた。

工藤が見ていた数秒の間に、それは終わった。

外国人の男??後でホセと知る??が腕を押さえて膝をついた。細身の男の蹴りが、音もなく入っていた。

もう一人、大柄な外国人が駐車場の影から飛び出してきた。カルロスだ。

細身の男と大柄な外国人が向き合った。

工藤は息を止めた。

細身の男の動きは、工藤が今まで見たことのない種類の動きだった。流れるように、しかし鋭く、隙がない。


カルロスが二度仕掛けて、二度いなされた。

その間に小柄な男??林達建??がホセに近づいた。

ジャケットの内側から何かを出す動きをした。

工藤は考える前に動いていた。

「警察呼ぶぞ」

大声で言いながら、スマートフォンを耳に当てるふりをした。

林が工藤を見た。

暗い目だった。感情が読めない目だ。

細身の男??張玄習??が林に向かって短く何か言った。中国語だ。

二人は走った。

あっという間に闇の中に消えた。

工藤は駆け寄った。

ホセが壁にもたれて腕を押さえている。カルロスが駆け寄ってホセを支えた。

二人とも工藤を見た。警戒した目だ。

「大丈夫ですか」工藤は言った。


カルロスが英語で何か言った。工藤には半分しかわからなかった。

その時、駐車場の奥から三人目の男が歩いてきた。

五十七歳、白髪交じり、長身。

スティーブ・ヘイブンスだった。

工藤を見て、英語で言った。

「君は何者だ」

「通りすがりです」工藤は答えた。

スティーブはしばらく工藤を見た。値踏みするような目だった。

「名前は」

「工藤俊一。横浜から来た探偵です」

スティーブの表情が、わずかに変わった。

「探偵」スティーブは繰り返した。日本語で。「横浜の」

「休養中ですが」

スティーブは少し考えてから、携帯を取り出した。

電話をかけた。

しばらくして、日本語で言った。

「根古、起きているか。浜松で面白い男に会った」


ホテルに戻った工藤が部屋のドアを開けると、秋月小五郎がベッドの端に座って腕を組んでいた。

「どこ行ってた」

「コンビニ」

「その割には時間がかかったな」

工藤は缶コーヒーを秋月に放った。秋月は無言で受け取った。

「少し、面倒なことになったかもしれない」工藤は言った。

秋月は缶コーヒーを開けながら言った。

「休養に来たんだろうが」

「そのつもりだったんですが」

秋月は天井を見た。

「話してみろ」

工藤は椅子に座って、駐車場で見たことを話した。

秋月は最後まで黙って聞いた。

缶コーヒーを飲み干してから言った。

「そのカンフーの男、相当な使い手だな」

「見たことない動きでした」

「で、そのアメリカ人は今どこにいる」

「ホテルのロビーで根古という人物と電話中です」

秋月は工藤を見た。

「根古親司か」

工藤は驚いた。「知ってるんですか」

「名前だけな」秋月は立ち上がった。「会ってみよう」

「休養中じゃないんですか」

「お前が言うな」


根古が浜松に向けて車を出したのは、夜明け前だった。

助手席にヤマトのキャリーケースを置いた。ヤマトは文句も言わずに入った。

長距離の移動には慣れている。

東名高速を東へ走る。まだ暗い。トラックが多い。

スティーブからの電話は短かった。

「工藤俊一という男を知っているか」

「知らない」

「横浜の探偵だ。今夜、張玄習の現場を目撃した」

「張玄習」

「我々が追っている工作員だ。

中華系マフィアとNSAのデータベースに両方引っかかっている。

カンフーの使い手で、これまでに三件の口封じに関与している疑いがある」

根古は少し考えた。

「ホセは」

「左腕を痛めた。骨には異常がないが、しばらく動けない」

「工藤という男は信用できるか」

スティーブが少し間を置いた。


「カルロスの目利きでは、使える男だと言っている」

カルロスの目利きなら信用していい、と根古は思った。

「わかった。今から行く」

「根古、一つだけ言っておく」スティーブの声が低くなった。

「今回の案件、東京に繋がっている」

「政界か」

「まだ名前は出せない。ただ??根古、お前の地元が終着点だ」

名古屋港。

根古は電話を切って、ヤマトのキャリーケースを見た。

「浜松まで付き合ってくれ」

ヤマトが小さく鳴いた。



浜松のホテルのロビーに着いたのは、夜明けの少し後だった。

スティーブが一人でソファに座っていた。

長身を折り畳むように座って、コーヒーを飲んでいる。カルロスはホセについている。

根古はスティーブの向かいに座った。

「久しぶりだな」

「三年ぶりだ」スティーブは根古を見た。「老けたな」

「お互い様だ」

スティーブが小さく笑った。大学時代から変わらない笑い方だ。

「工藤はどこだ」

「上の部屋にいる。連れの秋月という男と一緒だ」

「秋月小五郎」根古は言った。「元警視庁の刑事か」

「知っているのか」

「名前だけな。優秀だったと聞いている」

スティーブはコーヒーカップを置いた。

「根古、張玄習について話す。長くなるが聞いてくれ」

根古は頷いた。


「張玄習、推定四十代。出身は上海。表の顔はない。完全に裏の人間だ。

中国系マフィアの実行部隊として動きながら、同時に中国の対外情報機関と繋がっている。

NSAが最初に彼の名前を掴んだのは二年前、シンガポールでの案件だ」

「日本に来たのはいつだ」

「六ヶ月前だ。入国記録がない。つまり正規のルートでは入っていない」

「部下の林達建は」

スティーブが少し目を細めた。「よく知っているな」

「今夜の現場で工藤が見たと言っていた。ナイフ使いだと」

「林達建、三十代。張の右腕だ。無口で感情を表に出さない。

近距離戦の専門家だ。張が表の仕事をする時、林は必ず影にいる」

根古はヤマトのキャリーケースを足元に置いた。ヤマトが中で動く気配がした。

「データの密輸ルートを説明してくれ」

スティーブはジャケットの内ポケットから薄い封筒を出した。

中に地図が入っていた。

愛知、岐阜、静岡、そして名古屋港。


「豊田市内のAI関連企業から、開発中の自動運転システムの学習データが抜き出されている。

量は膨大だ。物理的なストレージに落として、骨董品に偽装して運ぶ」

「骨董品に偽装」根古はロドリゲスからの電話を思い出した。「木箱か」

スティーブが根古を見た。「知っていたのか」

「今朝、情報が入った」

スティーブは少し考えてから続けた。「木箱の中に特注のストレージを仕込む。

外見は古い陶器や置物だ。税関では引っかからない。名古屋港から貨物船で上海へ。

そこで組織が受け取る」

「岐阜経由というのは」

「可児市内に中継拠点がある。木箱はそこで一度集められてから名古屋港に運ばれる」

根古は地図を見た。

可児市。

自分の地元だ。

「その拠点の場所は」

「特定できていない」スティーブは静かに言った。「それを掴むために、根古、お前の力が要る」

エレベーターの音がした。

二人が顔を上げると、男が二人降りてきた。

三十二歳と四十八歳。

工藤俊一と秋月小五郎だった。



工藤は根古を見て、少し目を丸くした。

「根古さんですか。思ったより……」

「若くない」根古は先に言った。

工藤が苦笑した。

秋月は無言で根古を見た。値踏みでも品定めでもない。ただ確認するような目だ。

「根古親司さん」秋月は言った。「可児の」

「そうだ」

秋月はソファに腰を下ろした。工藤も隣に座った。

「昨夜の張玄習の動きを話してもらえますか」根古は工藤に向いた。

工藤は簡潔に話した。無駄がない話し方だ。

若いが、現場で鍛えられた話し方だ、と根古は思った。

「蹴りが入った瞬間を見たか」

「見ました。音がしなかった」

「音がしない蹴り」

「足が空気を切らない。体重の乗せ方が普通じゃない」工藤は少し考えてから言った。

「強いというより、怖い動きでした」

秋月が腕を組んだまま言った。「林のナイフを止めたのはお前の機転か」


「警察を呼ぶふりをしただけです」

「それで二人が退いた」秋月は根古を見た。

「組織的な訓練を受けている人間は、不必要なリスクを取らない。目撃者が増える前に退く。その判断が早かった」

「プロだ」根古は言った。

全員が少し黙った。

ヤマトがキャリーケースの中で欠伸をした。

工藤がキャリーケースを見た。「猫ですか」

「ヤマトだ」

「連れてきたんですか」

「置いていけない」

工藤は少し笑った。秋月は表情を変えなかった。

スティーブが立ち上がった。

「根古、今日中に可児に戻れるか」

「戻れる」


「雨月という警部補に連絡を入れてくれ。可児市内の中継拠点を探す必要がある。ただし??」スティーブは声を落とした。

「警察組織の上には通すな。今回の案件、東京に繋がっている。どこから漏れるかわからない」

雨月なら信用できる、と根古は思った。

「工藤、秋月さん」根古は二人を見た。「可児に来てもらえますか」

工藤は秋月を見た。

秋月は窓の外の夜明けの空を見てから言った。

「休養は終わりか」

「すみません」

「謝るな」秋月は立ち上がった。「行くぞ」



可児市内に戻ったのは昼過ぎだった。

根古の車に工藤、秋月が同乗した。スティーブはカルロスとホセを連れて別ルートで動いた。

ホセの腕の具合を診せるためだ。高速を走りながら、根古は雨月に電話を入れた。

「今から戻る。ラクカに来てくれ」「何がありましたか」雨月の声が引き締まった。

「浜松で動きがあった。話す」電話を切った。

助手席の工藤がヤマトのキャリーケースを膝に乗せていた。いつの間にか乗せていた。

ヤマトが文句を言わないのが根古には少し意外だった。

「猫が好きか」「実家で飼ってました」工藤は前を向いたまま言った。

後部座席の秋月は目を閉じていた。

寝ているのか考えているのか、外からは区別がつかない。

名古屋インターを過ぎたあたりで、秋月が目を開けた。「根古さん」「なんだ」

「一つだけある」根古はハンドルを握ったまま言った。

「ロドリゲスのネットワークに流れ込んだ木箱の写真。

投稿者は幽霊アカウントだったが、先月の投稿の背景に静岡ナンバーが写り込んでいた。

今朝の投稿は名古屋周辺から発信されている可能性がある」

「発信場所を特定できるか」

「江戸川に当たらせている」

秋月は頷いてまた目を閉じた。



ラクカに全員が集まったのは午後二時を過ぎた頃だった。

雨月と山本彩織、江戸川勉、ロドリゲス斎藤、そして太田豊。

太田はいつも通り黙ってコーヒーを淹れた。人数が増えても表情一つ変えない。

根古が工藤と秋月を紹介した。

雨月が工藤を見た。三十二歳、線が細い。刑事の目で一度測ってから、静かに頷いた。

秋月と雨月が目を合わせた。

元警視庁刑事と現役警部補。同じ種類の人間が互いを確認する時の、静かな間があった。

「秋月さんのことは聞いたことがあります」雨月は言った。

「どこで」秋月は短く言った。

「警察学校の教官が話していました。赤坂の案件だと思います」

秋月は何も言わなかった。それが答えだった。

江戸川が手帳を開いた。

「今朝のアカウントの発信場所ですが、可児市内のフリーWi-Fiスポットからです。場所は??」江戸川はページを指さした。「多治見寄りの国道沿いのファミレスです」

「特定できたか」と根古が言った。

「アカウントはすでに削除されていますが、投稿時間とWi-Fiのアクセスログが一致しました。そのファミレスの防犯カメラの映像を確認できれば??」

「できるか」と雨月が江戸川を見た。

「令状なしでは難しいですが」江戸川は雨月を見た。「非公式なら」

雨月は少し考えた。



「私が行きます」

山本が立ち上がった。「私も」

根古はロドリゲスを見た。

「木箱の写真をもう一度見せてくれ」

ロドリゲスがスマートフォンを出した。保存しておいた画像だ。

全員が画面を覗き込んだ。

古い木箱。隅のシール。

工藤が身を乗り出した。

「このシール、見たことがあります」

全員が工藤を見た。

「横浜で去年片付けた案件です。港の倉庫会社が絡んでいました。このロゴ、豊田の部品メーカーじゃないですか」

「どこの」根古が言った。

「トウカイ精密。自動運転システムの部品を作っている中堅メーカーです。去年の案件で名前が出てきた会社です」

秋月が目を細めた。「去年の案件と今回が繋がっているということか」

「可能性があります」工藤は根古を見た。「去年の案件、表向きは会社の横領事件でしたが、途中から妙な方向に転んで??依頼人に止められて調査を打ち切りました。今思えば、それ自体が怪しかった」


「依頼人は」

「トウカイ精密の役員です。今は退任しています」

根古はスティーブに電話をかけた。

「トウカイ精密という会社を知っているか」

スティーブが即座に答えた。「知っている。データの流出元の一つだ」

「工藤が去年、その会社の案件に関わっていた」

短い沈黙があった。

「根古」スティーブの声が低くなった。

「工藤をそこに連れてきたのは正解だった。ただ??彼が去年の案件を知っているということは、向こうも工藤の顔を知っている可能性がある」

根古は工藤を見た。

工藤は静かに根古の目を受け止めた。

「聞こえていました」工藤は言った。「構いません」

「危険だぞ」

「休養は終わりましたので」

秋月が後ろで小さく鼻を鳴らした。

太田がコーヒーのお代わりを全員に注いで回った。


ヤマトがカウンターの上に飛び乗って、店内を見渡した。

「根古さん」江戸川が言った。「もう一つ報告があります」

「なんだ」

「中継拠点の候補ですが、可児市内で半年前から稼働している倉庫があります。表向きは輸入雑貨の保管倉庫です。オーナーは??」江戸川は手帳を見た。「ペーパーカンパニーで実態が掴めませんでした。ただ近隣住民の話では、夜間に出入りする車が多いと」

「場所は」

江戸川が地図を開いた。

国道沿い、木曽川の近く。

根古は地図を見た。

ファミレスから車で十分もかからない場所だ。

「雨月」根古は言った。

「はい」

「ファミレスの映像確認と並行して、その倉庫を外から見てきてくれ。中には入るな」

「わかりました」

雨月と山本が立ち上がった。

工藤も立ち上がりかけた。

根古が目で制した。

「お前はここで待て」

「なぜですか」

「向こうがお前の顔を知っているなら、今は出すタイミングじゃない。使いどころがある」

工藤は少し考えてから座り直した。

秋月が工藤を見て、小さく頷いた。

根古はコーヒーを飲んだ。

熱かった。太田のコーヒーはいつも少し熱すぎる。

窓の外、十一月の可児は曇っていた。

木曽川の近くに、倉庫がある。

夜間に出入りする車。

骨董品に偽装したAIデータ。

名古屋港へ向かう密輸ルートの、中継地点。

ヤマトがカウンターから降りて、根古の膝に乗った。

耳を立てている。



雨月雅之が倉庫を最初に見たのは、午後三時過ぎだった。山本彩織が助手席で地図を確認している。私服だ。覆面パトカーでもない。雨月の私有車、五年落ちのシルバーのコンパクトカーだ。国道から一本入った道を走ると、倉庫が見えてきた。鉄骨造り、二階建て。外壁はグレー、看板はない。シャッターが二つ、どちらも閉まっている。敷地を低いフェンスが囲んでいる。「普通の倉庫ですね」山本が言った。「普通に見せている」雨月は車を倉庫から離れた路肩に止めた。「フェンスを見ろ」山本が目を細めた。「新しい」「半年前に建てたなら当然だが??センサーがついている。フェンスの柱、三本に一本だ」山本が改めて見た。確かに、柱の上部に小さな機器が取り付けられている。「輸入雑貨の倉庫にしては、セキュリティが本格的すぎます」「ああ」雨月はエンジンを切らずに倉庫を見ていた。「車の出入りを確認したい。今夜、交代で張れるか」「非番ですが構いません」山本は即座に答えた。雨月は時計を見た。午後三時二十分。「一度ラクカに戻る。根古さんに報告してから??」山本が雨月の腕を掴んだ。「来ました」


シャッターの一つがゆっくりと開き始めた。雨月はエンジンをかけたままサイドミラーで見た。中から軽トラックが出てきた。荷台に木箱が積まれている。ブルーシートがかかっているが、形でわかる。木箱だ。「ナンバーを」雨月は言った。山本がスマートフォンで撮影した。軽トラックは国道に出て、西へ走った。名古屋方面だ。雨月はすぐに根古に電話をかけた。「軽トラが出ました。木箱を積んでいます。名古屋方面へ。ナンバーを送ります」根古の声が落ち着いていた。「追えるか」「追います」雨月は車を出した。


ラクカに残った根古は、雨月からのナンバー写真をロドリゲスに転送した。

「心当たりはあるか」

ロドリゲスが画像を見た。「愛知ナンバー、このナンバー……」ロドリゲスは何かを思い出すように目を細めた。「根古さん、このナンバー、骨董市の配送業者のリストに入っていたと思います。確認します」

ロドリゲスがスマートフォンを操作し始めた。

江戸川がファミレスの防犯カメラの件で電話をかけている。

秋月が窓の外を見ていた。

工藤はテーブルの上に手帳を広げて、去年の案件のメモを書き出していた。

根古は工藤の隣に座った。

「去年の案件、詳しく話してくれ」

工藤はペンを置いた。

「トウカイ精密の経理部長から依頼が来ました。会社の資金が不明な形で動いているという内容でした。調べ始めると、資金の一部が海外のペーパーカンパニーに流れていることがわかった」

「どこの国だ」

「最終的には香港でした。ただその先が追えなかった」

「追えなかった理由は」


「依頼人の経理部長が、調査の三週間後に突然連絡を絶ちました。電話もメールも繋がらない。心配して会社に確認したら、一身上の都合で退職したと言われました」

「退職」

「はい。その翌日、別の役員から電話が来て、調査は終了だと言われました。報酬は全額払うから資料を全部返せと」

「返したか」

工藤は少し間を置いた。

「資料は返しました。ただ??」工藤は手帳を見た。「メモは手元に残しています。依頼人の経理部長の名前と、香港のペーパーカンパニーの名称だけですが」

根古は工藤を見た。

「なぜ残した」

「嫌な終わり方だったので」工藤は静かに言った。「依頼人が自分の意思で連絡を絶ったとは思えなかった。だから何かあった時のために」

秋月が後ろから言った。「その経理部長は今どこにいる」

「わかりません。今も消息不明です」

根古は少し黙った。

香港のペーパーカンパニー。消えた依頼人。そして今、可児の倉庫から名古屋方面へ向かう木箱。


「その香港の会社の名前を教えてくれ」

工藤が手帳を開いた。

「龍華貿易有限公司です」

太田がカウンターの向こうで手を止めた。根古の方を見た。

根古は立ち上がってスティーブに電話をかけた。

「龍華貿易という名前を知っているか」

スティーブが即座に言った。

「知っている。張玄習の組織のフロント企業だ」

根古は工藤を見た。

工藤は根古の表情を読んで、静かに目を閉じた。

去年の案件は終わっていなかった。

ただ自分が知らなかっただけだ。

「根古さん」工藤は目を開けて言った。「消えた経理部長を探せますか」

「探す」根古は言った。

「ただし今は後回しだ。今夜、倉庫を動いた木箱がどこに行くかを掴む方が先だ」

その時、雨月から電話が来た。


「根古さん、軽トラが名古屋港の近くの倉庫に入りました。場所を送ります」

根古は地図アプリを開いた。

名古屋港、金城ふ頭の近く。

「何時に入った」

「四時十分です。まだ中にいます」

「見張りを続けてくれ。ただし近づくな」

「わかりました。ただ??」雨月が少し間を置いた。「倉庫の前に車が一台止まっています。人が乗っています。こちらを見ています」

「気づかれているか」

「おそらく」

根古は舌打ちしそうになって止めた。

「すぐに離れろ。今夜は引け」

「根古さん??」

「引け。今夜はここまでだ。情報は十分取れた」

電話を切った。

全員が根古を見ていた。

「向こうも動いている」根古は静かに言った。「名古屋港の倉庫に木箱が運ばれた。だが雨月が気づかれた可能性がある」

「船の出港はいつだ」と秋月が言った。


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