旧知の持ち込み アメリカ人が来た
【 一月 某朝 根古の家 】
ヤマトが玄関の方を見た。
根古はまだ布団の中にいた。朝八時。冬の朝は起きるのが億劫だった。
FXの画面をスマートフォンで確認してから、また目を閉じた。
ヤマトがにゃあと鳴いた。警戒音ではなく、興味津々の声だった。
??誰かが来る。
右肩の古い霊が、珍しく笑っているような気配がした。
懐かしい、という感触。
三十秒後、インターフォンが鳴った。
根古は布団から出て、受話器を取った。
「ネコ、俺だ。スティーブだ。開けてくれ」
英語だった。低い、陽気な声。
根古は少し目を閉じた。
??スティーブ・ヘイブンス。三十年ぶりか。
ドアを開けると、大柄な白人男性が立っていた。五十七歳、銀髪、体格がいい。スーツはよく見ると高級品だった。後ろに二人の護衛??カルロスとホセ、と根古は後で知った??がついている。
スティーブは根古を見て、満面の笑みになった。
「ネコ! 全然変わってないな!」
「あなたは変わりました」と根古は日本語で言った。
「太ったか?」
「白くなりました。髪が」
「お互い様だろう」
スティーブはそのまま部屋に入ろうとした。根古が少しドアを狭めた。
護衛の二人は、外で待ってもらえますか」
「安全上の問題が??」
「ここは可児市です。安全です」
スティーブは護衛を振り返り、日本語で言った。
「ちょっと待ってて」
日本語が上手かった。当然か、と根古は思った。
スティーブが一人で入ってきた。
ヤマトがスティーブの足元に寄っていった。スティーブはしゃがんで、ヤマトの頭を撫でた。
「猫を飼っているとは知らなかった」
「ヤマトです。十歳です」
「ヤマト。いい名前だ」
ヤマトはしばらくスティーブの手に顔を押しつけてから、根古の布団の上に戻った。
??ヤマトが警戒しない。それは、この男が根古にとって危険ではないということだ。ヤマトの判断は、たいていあっている。
根古がスティーブをラクカに連れていったのは、話を聞く場所として自分の部屋より適切だと思ったからだ。護衛の二人も、外のベンチに座らせた。
太田はスティーブを見て、一瞬だけ目を細めたが、何も言わずにコーヒーを淹れた。
スティーブはコーヒーを一口飲んで言った。
「うまい。本物だ」
「太田さんのコーヒーは本物です」と根古は言った。「それで??なぜ来たんですか」
「会いたかった。それだけじゃだめか」
「NSAの幹部が護衛を連れて可児市まで来る理由が、それだけのはずがない」
スティーブは少し笑った。
「相変わらずだな、ネコ。大学の頃から、君は人の言葉の裏を読む」
「あなたが裏を持ちすぎるんです」
「それが仕事だから」
スティーブはコーヒーをもう一口飲んで、少し表情を変えた。
「ネコ。君の能力のことは、昔から知っている」
「……知っていましたか」
「大学の頃、君は時々、起きていないことを知っていた。私は気づいていた。何も言わなかったが」
根古は右手を膝の上に置いた。熱くはなっていない。スティーブは嘘をついていない。
「それが、来た理由と関係しますか」
「関係する」とスティーブは言った。声が少し低くなった。「ネコ。私の部下が二人、行方不明になった。日本国内で。三週間前から連絡が取れない」
「警察には」
「動かせない案件だ。公式には動けない」
「それで、私のところへ」
「君なら、見えるかもしれない。行方が」
根古はしばらくスティーブを見ていた。
??三十年前の後輩。今はNSAの幹部。護衛を連れて、可児まで来た。
??右肩の霊が、静かに押してきた。「聞け」という感触だった。
「部下の名前と、最後に確認できた場所を教えてください」と根古は言った。
スティーブの顔が、少し緩んだ。
「ありがとう、ネコ」
「お礼は後にしてください。それと??」
根古はコーヒーを一口飲んだ。
「私のことをネコと呼ぶのは、ここでは控えてもらえますか」
「なぜ? 大学の頃からずっとネコだろう」
「今はラクカのお客さんたちに聞こえています」
太田がカウンターの奥で、かすかに笑った。
「……わかった。根古さん、と呼ぶ」
「ありがとうございます」
スティーブが帰った後、根古は布団に戻った。
ヤマトが膝の上に来た。重い。温かい。
??スティーブ・ヘイブンス。大学時代、根古の一年後輩だった。国際教養学部の交換留学生で、日本語が異様に上手かった。明るく、頭が良く、人を好きになる才能があった。
??卒業後は米国に帰り、いつの間にかNSAにいた。連絡が来たのは十年前が最後だった。「君はまだ可児にいるか」という短いメッセージ。「います」と返した。それだけだった。
今日また現れた。護衛を連れて。
??行方不明の部下。日本国内で。公式には動けない案件。
右手がじんわりと熱くなってきた。体調は悪くない。
スマートフォンに、太田からメッセージが来た。
??「護衛の二人、コーヒー飲みますかと声をかけたら、一人は飲みました。もう一人は断りました。律儀な人たちですね」
根古は少し笑った。
返信した。
??「ありがとうございます。しばらく、また賑やかになりそうです」
太田からすぐ返信が来た。
??「豆は多めに仕入れておきます」
根古はスマートフォンを置いた。
ヤマトが根古の顔を見た。黄色い目が、何かを言っているようだった。
「わかっている」と根古は言った。「体調のいい日に動く。それだけだ」
ヤマトはもう一度にゃあと鳴いて、また丸くなった。
一月の可児の空が、窓の外に広がっていた。
外出したのは夕方だった。
コンビニへ行く途中、路地で見知らぬ若者二人と鉢合わせした。
一人は二十六歳くらいの女性??北村唯、と後で知った??小柄で、目が鋭い。もう一人は二十八歳くらいの男性??遠藤成気、黒人との混血らしく、彫りが深い顔立ちをしていた。
ふたりは根古を見て、立ち止まった。
根古も立ち止まった。
右手が、すぐに反応した。
??スティーブの部下だ。行方不明のはずの。
北村が先に口を開いた。
「根古さんですか」
「そうですが」
「ヘイブンス幹部から、あなたを訪ねるよう言われていました。でも??今日、幹部がここに来たことを知りませんでした。先を越されたみたいで」
遠藤が頭を下げた。
「遠藤成気です。北村唯と一緒に動いていました。三週間、可児周辺を調べていましたが??限界を感じて、あなたに頼ろうと思いました」
根古は二人を交互に見た。
??スティーブが「行方不明」と言っていた部下。だが、目の前にいる。つまり??スティーブに黙って、独自に動いていたということか。
「スティーブさんに連絡しましたか」と根古が聞いた。
北村と遠藤が、目を合わせた。
「……していません。連絡できない事情があります」
根古は少し間を置いた。
??スティーブは部下を探している。部下はスティーブに連絡できない。その間に、何がある。
右肩の霊が、強く押してきた。
「コンビニに行くところでした」と根古は言った。「一緒に来てください。その後、話を聞きます」
北村が少し目を丸くした。
「……コンビニ、ですか」
「ヤマトのえさが切れています」
遠藤が、小さく笑った。
ヤマトというのは」
「猫です」
三人で、冬の路地を歩いた。
コンビニでヤマトのえさを買い、三人でア家に戻った。
根古が部屋に入れたのは北村だけだった。遠藤は広すぎて、六畳間が更に狭くなる気がしたので、玄関の外の廊下に椅子を出した。遠藤は文句を言わなかった。
ヤマトがえさを食べ終わると、北村の膝に乗った。北村は少し驚いたが、撫でた。ヤマトはそのまま動かなくなった。
猫に好かれますね」と根古は言った。
「……珍しいです。猫には警戒されることが多いので」
「ヤマトの判断は信用しています」
北村は根古を見た。それが褒め言葉だと理解したらしく、少し表情が柔らかくなった。
北村はリュックから薄いノートPCを取り出した。起動すると、画面にいくつものウィンドウが開いた。地図、通信記録、データベースのような画面が並んでいる。
「三週間、この地域の通信パターンをAIで解析していました」と北村は言った。「私の専門は情報収集と分析です。フィールドは遠藤の仕事で、私はPCの前にいることが多い」
「三週間、どこにいたんですか」と根古が聞いた。
「美濃加茂市内に借りた部屋です。可児と美濃加茂を行き来していました」
「スティーブさんには連絡せずに」
北村の手が、一瞬止まった。
「……連絡できない理由は、幹部の通信が傍受されている可能性があるからです」
根古は北村を見た。右手は静かだった。嘘はない。
「傍受、というのは??NSAの内部ですか」
「わかりません。ただ、幹部の動向が事前に漏れていた案件が、過去に二件ありました。私と遠藤は独自に調べることにした。幹部を信用していないわけではない。ただ、幹部の周辺に??問題があるかもしれない」
廊下から遠藤の声がした。
「根古さん。少し入っていいですか。寒くて」
「どうぞ」
遠藤が入ってきた。やはり部屋が狭くなった。遠藤は壁際に座り、膝を抱えた。
「続けてください、北村」
北村がPCの画面を根古に向けた。
「三週間で判明したことを説明します。この地域に、特定の通信パターンを持つグループが存在します。暗号化されていますが、AIの解析でパターンは見えています。発信源が三箇所??可児市内、御嵩町、そして美濃加茂市内に点在している」
「それが、スティーブさんの仕事と関係しますか」と根古が聞いた。
「おそらく。幹部の任務の内容は私たちも完全には知らない。ただ??このグループは、エスメディカルの残党と繋がっている可能性があります」
根古の右手が、じん、と熱くなった。
??エスメディカル。持田勇二は逮捕されたが、組織のすべてが潰れたわけではない。残党が動いているとすれば??
「AIで何がわかりましたか。具体的に」と根古は聞いた。
北村は迷わず答えた。
「通信の頻度から、この三箇所は週に二回、決まった時間帯に連絡を取り合っています。内容は解読できていませんが??量と頻度から、何かの輸送スケジュールを調整していると推測されます」
「輸送」
「人か、物か。千歳楼の件と同種の可能性があります」
遠藤が静かに言った。
「根古さん。あなたの能力で、何か感じますか。この地域で」
根古は右手を見た。熱い。ただし、今夜は場所が特定できるほどではない。
「体調のいい日に、集中して確認します」
「体調次第、ということですか」と北村が言った。
「そうです」
北村はPCに何か打ち込みながら言った。
「……AIと似ていますね」
「何がですか」
「条件が揃ったときだけ、精度が上がる。リソースと状態に依存する」
根古は少し考えてから言った。
「……そういう見方もあるかもしれません」
遠藤が小さく笑った。
「北村は何でもAIで例えます」
「わかりやすいので」と北村は言った。表情は変わらなかった。
全員を集めるのに、一時間かからなかった。
根古、江戸川、安藤、雨月。それから星野と麻尋。太田はコーヒーを淹れ続けた。
北村はPCをテーブルに置いた。
「AIの解析結果を共有します」と北村は言った。全員を前にしても、声が揺れなかった。「まず地図を見てください」
PCの画面に、可児周辺の地図が表示された。三点に赤いマーカーが立っていた。
「この三点が通信の発信源です。頻度と量のパターンから、輸送スケジュールの調整と推測されます。次に??」
北村は別のウィンドウを開いた。
「エスメディカルの残党と思われる人物のSNSおよび通信パターンをAIで追いました。現在、この地域に少なくとも三名が滞在しています。顔写真と推定居場所が、こちらです」
鮮明な写真が三枚、画面に並んだ。
雨月が顔を近づけた。
「……一人、見覚えがあります。持田の会社の元社員です」
「それが確認できれば、照会できます」と安藤が言った。
「令状なしでここまで調べられるんですか」と江戸川が北村に聞いた。
「公開情報とAIの組み合わせです。違法なことはしていません」
「どこまでが公開情報なんですか」
「……広い意味での公開です」
江戸川は手帳に書きながら、それ以上聞かなかった。
麻尋が静かに言った。
「北村さん。三点の発信源のうち、一点??御嵩町の場所、私が歩いて確認できます。先週も近くを通りました」
「座標を送ります」と北村は即座に言った。スマートフォンに情報が届いた。
星野が根古を見た。
「根古さん。スティーブ幹部には、いつ話しますか」
「今日の午後、会う約束をしています」と根古は言った。「北村さんと遠藤さんのことも含めて、話します」
「北村さんたちは??」と江戸川が北村を見た。
「幹部に会います」と北村は言った。少し間があった。「逃げるつもりはありません。ただ、今日ここで見た情報を、幹部に渡す前に??根古さんに判断してもらいたい」
全員が根古を見た。
根古は右手を見た。熱い。判断しろ、と霊たちが言っている。
「渡してください」と根古は言った。「スティーブさんは信用できます。ただし??彼の周辺については、慎重に」
北村は根古を見た。
「……わかりました」
遠藤がコーヒーを一口飲んだ。
「うまいですね、これ」
「太田さんのコーヒーは本物です」と根古は言った。
「根古さんが言うと、すごく説得力がある」と江戸川が言った。
太田がカウンターの奥で、静かに微笑んだ。
スティーブとの会話が終わり、根古はまた布団に戻った。
ヤマトが来た。膝の上に乗った。重い。
??スティーブは北村と遠藤が生きていることを知って、安堵した。そして怒った。連絡しなかったことを。だが怒りより安堵の方が大きかった。それは、あの男がまだ人間だということだ。
北村の言った言葉が残っていた。
??「幹部の周辺に問題があるかもしれない」。
NSAの幹部の周辺。その「問題」が、エスメディカルの残党と繋がっているとすれば??これは可児だけの話ではなくなる。
??規模が大きくなってきた。
根古は目を閉じた。
守護霊たちが、静かに、しかし確かにざわめいていた。
??まだ、始まりに過ぎない。
ヤマトが根古の胸に顔を押しつけた。
根古は黒猫の背中を撫でながら、窓の外の一月の夜空を見た。
星が、よく見えた。




