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呪いの人形

第一話「蔵の底」


九月の残暑が、まだ午前の空気に居座っていた。

鏑木俊哉は額の汗を手の甲で拭いながら、古びた引き戸を力任せに引いた。

蝶番が悲鳴を上げる。三十年以上閉じられていたであろう蔵の扉が、ようやく観念したように開いた。

「くっさ……」

思わず声が出た。黴と獣と、もうひとつ、名前のつけにくい何かが混じった空気が、どっと押し寄せてくる。

伊藤骨董店の閉店整理を請け負ったのは先週のことだ。

店主の伊藤が「蔵の中身も全部片づけてくれ」と言っていた。七十二歳の伊藤には、もう重いものを運ぶ体力がないらしい。それだけの話のはずだった。

懐中電灯を手に、鏑木は蔵に足を踏み入れた。

埃が舞い上がる。棚には古い茶碗、掛け軸、正体不明の木箱が所狭しと並んでいた。

値の張るものも混じっているかもしれないが、鏑木には骨董の目利きはできない。ロドリゲスに頼んで一度見てもらうか、と考えながら奥へ進む。

蔵の突き当たり。床に置かれた古い木箱。

蓋は半開きになっていた。

虫でも入り込んだのか、と思いながら鏑木は懐中電灯を向けた。

箱の中に、人形が座っていた。

日本人形だった。白い顔、黒い髪、朱色の着物。年代はわからない。

だが、異様なほどきれいだった。埃を被っているはずの空間で、その人形だけが、まるで昨日誰かに磨かれたかのように、くっきりと鮮明に座っている。

瞳が、鏑木の方を向いていた。

??気のせいだ。

そう思った。当然そう思った。

ただ、その日の夕方、鏑木が根古に電話をかけてきたとき、受話器の向こうの声は少しだけ、掠れていた。

「なあ、親司。お前、人形って……供養とか、するもんか」

根古は缶ビールを持ったまま、黒猫のヤマトを膝から下ろした。

ヤマトが不満そうに鳴いたが、構っていられなかった。

「どうした急に」

「いや、蔵で見つけたんだが……なんか、変な感じがしてな」

「変な感じ」

「うまく言えんのだが」

電話口でしばらく沈黙があった。

翌朝、伊藤が死んだ。

死因は不明だった。



伊藤清三郎が死んでいるのを発見したのは、近所に住む姪だった。

朝の八時過ぎ、いつもなら店の雨戸を開けている時間に、表が静まり返っているのを不審に思って裏口から入った。

老人の一人暮らしだ。

最近めっきり体が弱っていたから、倒れていたとしても不思議はない??そう自分に言い聞かせながら居間の戸を開けた姪は、声を失った。

伊藤は畳の上に正座していた。

倒れていたのではない。座っていた。

背筋を伸ばし、両手を膝の上に揃え、まるで誰かの来訪を待つように、

きちんと正座していた。

ただし、目が開いたままだった。

救急車が来て、警察が来た。

検死の結果は「心不全の疑い」。

七十二歳の高齢者、持病もある、一人暮らし??不審な点は、書類の上では何もなかった。

可児署の山本彩織巡査長が現場を一通り確認して署に戻ったのは昼前だ。

報告書を書きながら、どこかに引っかかりを覚えていたが、うまく言葉にできなかった。正座していた。

老人が深夜に一人で正座して、そのまま死ぬだろうか。

彼女はその疑問を、報告書の欄外に書かなかった。

書く根拠がなかった。


鏑木から連絡が来たのは、その翌日だった。

「伊藤さんが死んだのは知ってるか」「ニュースで見た」と根古は答えた。

「あの蔵の人形な」鏑木の声が低くなった。「伊藤さんの部屋に、あったらしいぞ」根古は黙った。

昨日から、ヤマトの様子がおかしかった。

窓の外をじっと見つめて、呼んでも来ない。飯も半分しか食わない。

十年一緒に暮らして、こんなことは初めてだった。

「人形は今どこにある」「わからん。姪が片付けたか、あるいは……」鏑木は言葉を切った。

あるいは、誰かが持ち出した。


恩田久米がその人形を手に入れたのは、まったくの偶然だった。

四十七歳、バツイチ、岐阜市内のアパートに一人で住んでいる。

職業はフリーのライター。

趣味は骨董めぐり。

ロドリゲス斎藤とは三年前、骨董市で知り合った。

以来、面白い品が出たときはお互いに連絡を取り合う仲だ。

伊藤骨董店の閉店を聞いたのはロドリゲスからだった。

「蔵の中に面白いものがあるらしいんだけど、俺は今週身動きが取れなくてさ。久米ちゃん、代わりに見てきてくれない?」

そういう話だった。そういう、ただそれだけの話だった。

鏑木が片付けを進める前に蔵を訪ねた恩田久米は、すでに伊藤が死んでいることを知らなかった。

姪と鉢合わせ、事情を話すと、姪は疲れた顔で言った。

「どうぞ、もう私には整理する気力もなくて……好きなものがあれば持っていってください」

恩田久米が木箱を見つけたのは、鏑木が懐中電灯を向けたのと同じ棚の前だった。

蓋を開けた。

白い顔の人形が、彼女を見上げた。

きれいだ。


素直にそう思った。年代物にしては保存状態が良すぎる。

着物の朱色も褪せていない。瞳に使われているガラスが、懐中電灯の光を受けてわずかに光った。

恩田久米は人形を抱えてアパートに帰った。その夜、ロドリゲスに写真を送った。

『すごいね、これ。ちょっと調べてみる』とロドリゲスから返信が来た。

返信の来た翌朝、恩田久米は目を覚まさなかった。

隣室の住人が異変に気づいたのは夕方だった。

ドアを叩いても返事がない。管理会社を呼んで部屋に入ると、恩田久米はベッドの上に仰向けになっていた。

表情は、穏やかだった。

苦しんだ形跡がなかった。

ただ、死んでいた。

死因は、不明だった。

枕元に人形が座っていた。


ロドリゲス斎藤がその報を受けたのは翌日の昼だ。

警察から電話がかかってきた。

「恩田久米さんとはどのようなご関係ですか」

受話器を持ちながら、ロドリゲスは前夜届いた写真を画面で見ていた。

白い顔の人形。

黒い瞳。

彼は根古親司の番号を探して電話をかけた。根古とは直接の知り合いではない。

繋いでくれそうな人間を考えたとき、なぜかその名前が浮かんだ。

「根古さんですか。ロドリゲス斎藤です。少し、妙な話をしたいんですが」

根古の膝の上で、ヤマトが低く唸った。


黒田誠司がラジオのマイクの前に座ったのは、木曜日の夜九時だった。

FM可児、番組名は『夜の骨董市』。

地元密着の二時間生放送で、リスナーから持ち込まれた「変なもの、古いもの、曰くのあるもの」を紹介するという、ローカル局らしい緩いコンセプトの番組だ。黒田は十二年この番組を担当している。

四十四歳、独身、声だけは妙にいい。

その夜のゲストコーナーに、一人の女性リスナーが人形を持ち込んだ。

名前は名乗らなかった。

三十代くらい、地味な服装、大きな紙袋を両手で抱えている。

「岐阜の知人から譲り受けたんですが」と女性は言った。

「なんか、怖くて家に置いておけなくて」

黒田はにやりとした。こういう話は番組が盛り上がる。

「見せてもらいましょうか」紙袋から取り出された人形を、黒田はマイク越しに描写した。

「白い顔、黒髪、朱色の着物……いやあ、これは確かに迫力がありますね。

目がリアルというか、ガラス製かな、光の加減で動いて見える感じがしますよ。

リスナーの皆さんには見えないのが残念ですが」スタジオに笑いが起きた。

番組は盛況のうちに終わった。

女性リスナーは人形を置いて帰った。

「もう持って帰りたくない」と言って。

黒田は苦笑しながら人形をスタジオの棚に置いた。

総務に言って処分してもらえばいい、と思いながら。

翌朝、黒田誠司はスタジオの床で倒れているのを後輩ディレクターに発見された。

前夜の放送後、一人でスタジオに残っていたらしかった。

珍しいことではない。

翌週分の構成を考えるのが黒田の習慣だった。

机の上にはメモ帳が開いていた。

何かを書きかけた形跡がある。

だが文字は途中で乱れ、最後は紙を突き破るほど強くペンが押し付けられたまま止まっていた。

救急隊員が駆けつけた時、黒田の目は開いていた。

棚の人形の方を向いて。

死因は、不明だった。

その日の午後、FM可児の局内は騒然となった。

番組スタッフが集められ、事情聴取が行われた。


雨月雅之警部補が淡々と質問を重ねる。

「昨夜、スタジオに残っていた人間は」「黒田さんだけです」とディレクターが答えた。「私は十一時には出ました」「人形を持ち込んだ女性の連絡先は」「番組への持ち込みは基本的に事前予約不要で……名前も住所も聞いていません」雨月はメモを取りながら、スタジオの棚に目をやった。


人形はそこにあった。

朝から誰も触っていない。

触りたくなかった、とスタッフの一人が後で打ち明けた。

雨月は手袋をはめて人形を証拠袋に収めた。白い顔が袋越しに透けて見える。

署に戻った雨月は、資料を引っ張り出した。

先週の伊藤清三郎、その翌日の恩田久米。そして今日の黒田誠司。

三件とも死因不明。三件とも外傷なし。

三件とも、直前に同じ人形と接触している。

雨月は煙草に火をつけ、すぐに消した。

禁煙中だった。

代わりにペンをノックしながら、一つの名前を書いた。


根古 親司。

二件目の時点で、ロドリゲス斎藤が根古に連絡を取ったことは把握していた。

根古が何者かも、知っている。

警察が動くより先に、あの男が動いている。雨月は受話器を取った。


その夜、根古の携帯が鳴った。


「根古さん。可児署の雨月です。少し、お話を聞かせていただけますか」

根古は窓の外を見た。マトが窓枠に座って夜空を見上げている。

三日前からずっとあの調子だ。

「どうぞ」と根古は答えた。「私も、聞きたいことがありますので」


雨月はペンをノックしながら、一つの名前を書いた。

根古 親司。

二件目の時点で、ロドリゲス斎藤が根古に連絡を取ったことは把握していた。

三年前の山県の事件以来、根古とは互いの仕事を尊重する間柄だ。

あの時も根古は警察より先に核心に触れていた。

今回も、おそらくそうだろう。

雨月は受話器を取った。


その夜、根古の携帯が鳴った。

画面を見た瞬間、根古は小さく息を吐いた。

「雨月か」

「三件目が出ました」雨月の声に余計な前置きはない。

「FM可児のDJ、黒田誠司。今朝スタジオで発見。死因不明です」

「人形は」

一瞬の間があった。

「根古さんも把握してましたか」

「二件目の時点で話が来た。ロドリゲスという男から」

「知っています」と雨月は言った。「今、人形は署にあります。

鑑識に回しましたが、おそらく何も出ない」

根古は窓の外を見た。ヤマトが窓枠に座ったまま、夜空をじっと見上げている。

三日前からあの調子だ。

「会えるか」


「明日の朝、ラクカでどうですか」と雨月は答えた。

太田のいる茶店の名前を、この若い警部補は迷わず口にした。

根古の周りの地図を、きちんと頭に入れている。

「七時でいい」

「七時に」

電話を切った根古は、しばらくヤマトを見ていた。

猫は振り向かなかった。


-----------------------


茶店ラクカは、駅から歩いて七分の路地に挟まれた古い一軒家だ。

看板も出ていない。知っている人間しか来ない。マスターの太田豊が二十年前に始めた店で、メニューはコーヒーと日替わりのサンドイッチだけ。

開店は朝六時、閉店は夕方三時。太田が気が向かなければ臨時休業する。

それでも客が絶えないのは、コーヒーが本物だからだ、と根古は思っている。七時きっかりに引き戸を開けると、雨月雅之はすでにカウンターの端に座っていた。二十八歳。背が高く、線が細い。警察官に見えない、と最初に会った時に根古は思った。

今も思う。だが三年前の山県の事件で、この男の粘り強さと勘の鋭さは骨身に染みている。「早いな」「眠れなかったので」太田が無言でコーヒーを二つ出した。この店のルールで、余計なことは訊かない。根古は隣に腰を下ろした。

しばらく二人ともコーヒーを飲んだ。先に口を開いたのは雨月だった。


第二話「波紋」 冒頭


茶店ラクカは、駅から歩いて七分の路地に挟まれた古い一軒家だ。

看板も出ていない。知っている人間しか来ない。

マスターの太田豊が二十年前に始めた店で、メニューはコーヒーと日替わりのサンドイッチだけ。

開店は朝六時、閉店は夕方三時。

太田が気が向かなければ臨時休業する。それでも客が絶えないのは、コーヒーが本物だからだ、と根古は思っている。

七時きっかりに引き戸を開けると、雨月雅之はすでにカウンターの端に座っていた。

二十八歳。背が高く、線が細い。警察官に見えない、と最初に会った時に根古は思った。

今も思う。だが三年前の山県の事件で、この男の粘り強さと勘の鋭さは骨身に染みている。

「早いな」

「眠れなかったので」

太田が無言でコーヒーを二つ出した。この店のルールで、余計なことは訊かない。

根古は隣に腰を下ろした。

しばらく二人ともコーヒーを飲んだ。

先に口を開いたのは雨月だった。

「三件の共通点です」薄いファイルをカウンターに置く。

「伊藤清三郎、七十二歳。恩田久米、四十七歳。黒田誠司、四十四歳。年齢も性別もバラバラ。接点は一つだけ??人形です」

「死因は三件とも不明のままか」

「検死では心停止としか出ない。

毒物反応なし、外傷なし、脳や心臓に器質的な異常もなし」雨月はコーヒーカップを両手で包んだ。「署内では三件の関連を認めていません。自然死が二件、突然死が一件、という整理です」

「お前はどう見る」

「同一の原因です」雨月は迷わず言った。「人形に触れた者が順番に死んでいる。

偶然とは考えられない」

根古はファイルをめくった。現場写真、検死報告書の要約、聞き込みのメモ。

「人形は今どこにある」

「証拠品として署の保管室に」

「触った人間は」

雨月が少し表情を変えた。


「鑑識が二名、素手で扱いました。今のところ異常はありませんが……」

「経過を見ろ」根古は静かに言った。「そして、できれば早く保管室から出せ」

「根拠は」

「ヤマトが三日間、飯を半分しか食わない」

雨月は一瞬だけ目を細めた。それから小さく頷いた。

山県の事件でも、根古の猫の話が一つの転機になったことを、この男は覚えている。

「人形の来歴を調べました」雨月はページを繰った。「伊藤の店の仕入れ帳に記録がありました。十一年前、愛知県内の旧家の蔵から一括購入した品の中に含まれていたようです。

その旧家の名前が??」

太田がカウンターの奥から、サンドイッチを二皿そっと置いた。

二人とも礼を言わずに受け取った。太田も気にしない。

「犬山の、旧佐久間家です」

根古の手が止まった。

「佐久間」

「ご存知ですか」


根古はサンドイッチを一口食べてから答えた。

「名前だけな。戦前に相当な資産家だったと聞く。今は絶えた家だ」

「絶えた、というより??」雨月はメモを見た。

「昭和二十二年に一家全員が相次いで死亡しています。死因は全員、不明」

店内が静かになった。

路地を走る自転車の音が遠く聞こえた。

根古はコーヒーを飲み干した。

「戦前の旧家、一家全滅、死因不明」低い声で繰り返す。

「そして七十年後、蔵から出てきた人形が三人を殺した」

「四人かもしれません」雨月が静かに言った。

「今朝、連絡が入りました。霊感師を名乗る男が、人形を調べさせてほしいと署に申し出てきました。清水という人物です」

根古は太田の方を見た。

太田は何も言わずに、コーヒーのお代わりを注いだ。

「断れ」と根古は言った。

「もう会ってしまいました」


根古は目を閉じた。

「今、その清水という男はどこにいる」

「昨夜、保管室で人形と対面させました。今朝から連絡が取れません」


-----------------------


清水健造のアパートは、多治見市の外れにあった。

築四十年の二階建て、外壁の塗装が所々剥げている。

表札には『清水』とだけある。霊感師という職業の割に、看板も御札も何もない。

ただの古びた部屋だ。雨月が山本彩織を連れて踏み込んだのは昼前だった。

ドアに鍵はかかっていなかった。「清水さん、可児署の者です」返事がない。

山本が先に入った。廊下、台所、六畳の居間。カーテンが閉まったまま薄暗い。

居間の中央に、清水健造は座っていた。正座だった。

山本の足が止まった。伊藤清三郎と同じだ、と雨月は思った。

背筋を伸ばし、両手を膝に揃え、誰かを待つように座ったまま、動かない。五十四歳、白髪交じりの細身の男。目は閉じていた。伊藤の目は開いていた。

恩田久米は仰向けで穏やかな顔だった。黒田は目を開けたまま棚の方を向いていた。

死に方がそれぞれ違う。


だが死因は同じだろう、と雨月にはわかった。山本が脈を確かめた

。首を振る。雨月は部屋を見回した。乱れた形跡はない。争った痕もない。

ただ、部屋の隅に小さな祭壇のようなものがあって、蝋燭が一本、根元まで燃え尽きていた。

清水は昨夜ここに戻り、何かをしようとした。

蝋燭が燃え尽きるまでの時間、座って何かと向き合っていた。

そして死んだ。雨月はポケットから携帯を取り出した。

根古への着信が一件入っていた。三分前だ。折り返すと、一度で繋がった。

「清水は」と根古が言った。「死んでいます」短い沈黙。


「死に様は」

「正座。目を閉じている」

また沈黙。今度は少し長い。

「根古さん」

「ああ」

「人形を、どうすべきですか」

根古はすぐに答えなかった。雨月は山本に目で合図して、彼女を廊下に出した

。二人きりになる。

「松平に連絡した」根古がようやく口を開いた。

「神主の松平秀麿だ。古田智雲にも話を通してある。条光寺の住職だ」

「宗教者に」

「お前が頼めるか? 署として」

雨月は少し考えた。


「非公式なら」

「それでいい。今夜、条光寺に人形を持ち込む。松平と古田に見てもらう。お前も来い」

「わかりました」雨月は答えた。「ただ??」

「なんだ」

「保管室の鑑識二名ですが、今朝から二人とも体調不良を訴えています」

今度の沈黙は、長かった。

「わかった」根古は静かに言った。「

楓に連絡する。木下にも。人形に触れた人間全員、今日中に診てもらえ」

「根古さんは今どこにいますか」

「犬山だ」

雨月は窓の外を見た。青い空に薄い雲が流れている。のどかな秋の昼だ。四人が死んだことが信じられないほど、穏やかな空だった。

「犬山で何を」

「佐久間家の跡地を見ている」根古の声が少しだけ変わった。

「雨月、人形はな、一体じゃないかもしれんぞ」

雨月の背筋に、冷たいものが走った。

「どういう……」


「跡地に古い蔵が残っている。今、鏑木と一緒にいる。

大工だから建物の状態がわかる。蔵は複数あったらしい。伊藤が仕入れたのは一つ目の蔵だけだ」

鑑識の二名、発熱と頭痛。

保管室にある人形は一体。

だがもし複数あるなら??

「根古さん、待ってください。今から行きます」

「来なくていい」根古は穏やかに遮った。「お前には署でやることがある。四件の死亡を、正式に連続事案として上げろ。時間がかかるのはわかっている。

だが記録に残せ。これはまだ始まったばかりだ」

電話が切れた。

雨月は携帯を握ったまま、しばらく動かなかった。

廊下から山本が顔を出した。


「警部補、どうしますか」

雨月は清水健造の穏やかな死に顔を、もう一度見た。

目が閉じている。

眠っているように見える。

何を見て、目を閉じたのか。

「救急と鑑識を呼んでくれ」雨月は言った。

「それと山本さん、今夜少し付き合ってもらえますか。非公式の話です」

山本彩織は一瞬だけ目を丸くした。それから、真面目な顔で頷いた。


-----------------------


佐久間家の跡地は、犬山城から北に車で十五分ほど入った山際にあった。

表通りから細い農道を折れ、さらに雑木林の縁を回り込んだ先に、突然ひらけた土地が現れる。

かつては広大な屋敷だったのだろう。

主屋はとうに失われていたが、石垣と庭の輪郭だけが残っていた。

秋草が膝まで伸び、柿の木が一本、誰に採られることもなく実をつけている。

蔵が三つあった。並んでいるのではない。敷地の東、北、奥にそれぞれ独立して建っている。

主屋から等距離に配置された、妙な間取りだ。

「普通じゃないな」と鏑木俊哉が言った。腕を組んで三つの蔵を見渡している。

大工の目だ。建物の骨格を読む目だ。

「蔵を三つ持つ家は珍しくない。だがこの配置は蔵として機能させるためじゃない。

何かを……囲い込むための配置だ」「中心に何があった」根古は草を踏みながら三つの蔵の中間点に立った。鏑木が少し考えた。

「井戸か、祠か。今は埋まってるな。草の生え方が違う」根古はしゃがんで地面を見た。確かに、中心点だけ草の色が薄い。土が盛られたか、あるいは埋められた跡だ。「伊藤が持ち出したのは東の蔵か」


第二話「波紋」 続き


佐久間家の跡地は、犬山城から北に車で十五分ほど入った山際にあった。

表通りから細い農道を折れ、さらに雑木林の縁を回り込んだ先に、突然ひらけた土地が現れる。かつては広大な屋敷だったのだろう。主屋はとうに失われていたが、石垣と庭の輪郭だけが残っていた。秋草が膝まで伸び、柿の木が一本、誰に採られることもなく実をつけている。

蔵が三つあった。

並んでいるのではない。敷地の東、北、奥にそれぞれ独立して建っている。主屋から等距離に配置された、妙な間取りだ。

「普通じゃないな」と鏑木俊哉が言った。

腕を組んで三つの蔵を見渡している。大工の目だ。建物の骨格を読む目だ。

「蔵を三つ持つ家は珍しくない。だがこの配置は蔵として機能させるためじゃない。何かを……囲い込むための配置だ」

「中心に何があった」根古は草を踏みながら三つの蔵の中間点に立った。

鏑木が少し考えた。

「井戸か、祠か。今は埋まってるな。草の生え方が違う」

根古はしゃがんで地面を見た。確かに、中心点だけ草の色が薄い。

土が盛られたか、あるいは埋められた跡だ。

「伊藤が持ち出したのは東の蔵か」

「ああ」鏑木が東の蔵を指した。

「一番状態がいい。俺が解体工事に入る前に、伊藤さんが業者を入れて中身を全部出してたんだ。あの人形もその時に出てきたんだろう」

「北と奥の蔵は」

「手つかずだ」

二人は北の蔵に向かった。

扉は古い南京錠がかかっていたが、錠前はすでに錆びて形だけになっていた。鏑木が工具で軽く叩くと、あっけなく外れた。

引き戸を開ける。

黴の匂い。湿った木の匂い。そして??

根古は鼻で息をした。

花の匂いがした。

真冬でも真夏でもない。今は九月だ。この蔵の中に花はない。だが確かに、甘い花の匂いが混じっている。

鏑木も気づいたらしく、黙って根古を見た。

懐中電灯を向ける。

棚に箱が並んでいた。東の蔵と同じような木箱が、整然と五つ。

根古は近づかなかった。


「蓋を開けるな」

「わかってる」鏑木の声も低い。

二人はしばらく入口から棚を見ていた。

五つの木箱。

全部に、人形が入っているとは限らない。だが入っているとしたら。

「根古」鏑木が静かに言った。「伊藤さんの蔵から出た人形は一体で四人死んだ」

「ああ」

「北の蔵に五つ、奥の蔵にも同じくらいあるとしたら」

根古は返事をしなかった。

答えは計算するまでもない。

扉を閉めた。南京錠の代わりに、鏑木が持ってきていた新しい錠前をかけた。気休めだ、とわかっていてもやらないよりましだ。

奥の蔵に向かう途中で、根古の携帯が鳴った。

太田豊からだ。


「親司、ちょっとええか」太田の声はいつも通り穏やかだが、その穏やかさの底に何かが滲んでいる。「さっきラクカに妙な客が来てな」

「妙な」

「女が三人。若い子二人と、四十くらいの女。コーヒーを飲みながら、お前のことを訊いてきた」

根古は立ち止まった。

「何を」

「根古親司という人物を知っているか、と。住所と、最近どこに出入りしているかを」

鏑木が根古の顔を見て、足を止めた。

「お前はどう答えた」

「知らん、と言った。当たり前だろ」太田は少し間を置いた。「ただ、根古。あの三人はな、訊き方が慣れてた。職業的な慣れ方だった。俺にはそう見えた」

根古は奥の蔵を見た。

雑木林の影に半分埋もれるように建っている。扉は閉まったままだ。

「三人の特徴を教えてくれ」


太田が答える。二十代が二人、四十前後が一人。背格好、服装、話し方。根古は全部頭に入れた。

電話を切って鏑木を見た。

「知り合いか」鏑木が訊いた。

「知らない女だ」根古は奥の蔵に向かって歩き出した。「だが江戸川が最近、近所に越してきた女たちのことを気にしていた。おそらくその三人だ」

「何者なんだ」

「関東から来た、とだけ聞いている」

鏑木は少し考えた顔をしてから、黙ってついてきた。

奥の蔵の前に立つ。

こちらに錠前はなかった。

ただ、扉に御札が貼ってあった。

風雨に晒されて文字は判読できない。だがそれが御札だということは、形でわかる。一枚ではない。重ねて貼られた跡が残っている。何度も、何度も、誰かがここに御札を貼り続けた。

根古はしゃがんで地面を見た。


扉の前の土が、わずかに掘り返されていた。

新しい跡だ。

昨日か、今日か。

「誰かが先に来ている」鏑木が低く言った。

根古は立ち上がって携帯を出した。

雨月に電話をかける。

「今どこだ」

「多治見から戻るところです」

「犬山に来い。佐久間家の跡地だ。場所を送る。それと??」根古は御札を見た。「松平と古田にも連絡してくれ。今夜の条光寺の前に、ここに来てもらいたい」

「わかりました。何がありましたか」

「蔵がまだ二つある」根古は静かに言った。「そして誰かがすでにここに来ている」

電話を切った。


鏑木が奥の蔵の扉を見ていた。

「開けるか」

根古はしばらく考えた。

風が吹いた。柿の木の葉が揺れた。

御札の端がめくれ上がり、その下から墨書きの文字が一瞬だけ見えた。

根古には読めなかった。だが鏑木が隣で小さく息を呑んだ。

「なんと書いてある」

「……『開クベカラズ』」鏑木は声を絞り出すように言った。「それが何枚も重なってる」

二人は扉を開けなかった。


-----------------------


日が傾き始めた頃、佐久間家の跡地に人が集まってきた。

最初に来たのは松平秀麿だった。白い作務衣姿で軽トラックから降りてくる。

五十五歳、神主にしては妙に日焼けした顔だ。

荷台に木箱を積んでいた。中身は訊かなくても分かる。祓いの道具だ。

「話は雨月君から聞いた」松平は開口一番に言った。

「根古、お前がここに呼んだということは、相当まずい話だな」「まずい」根古は短く答えた。次に来たのは古田智雲だ。

条光寺の住職、五十九歳。黒い衣に袈裟をかけている。

車から降りる前に、すでに跡地全体を眺め回していた。

「気が重い場所だな」古田は静かに言った。感想ではなく、報告のような口調だ。

「長い時間、何かが溜まっている」松平と古田は顔を見合わせた。

旧知の間柄だ。宗派は違うが、この地域の古い因縁を共有している。


雨月と山本彩織が到着したのはそれから十分後だ。

山本は私服だった。非公式、という言葉の意味をきちんと受け取っている。

雨月は跡地に入った瞬間、一度だけ足を止めた。それから何も言わずに歩いてきた。

「全部で何人来ますか」と山本が根古に訊いた。

「もう少し来る」その言葉通り、続々と人が集まってきた。

織田信暢がラーメン屋の軽自動車で乗りつけ、荷台から大きな魔法瓶とおにぎりの包みを下ろした。

「腹が減ったら動けんからな」と誰にも訊かれていないのに言った。

長曾我部圭吾は会計士らしく、手帳を持参していた。

「記録を取る人間が要るだろう」と言った。木下千恵が来た。

動物病院院長の彼女は、往診用のバッグを肩にかけていた。

「鑑識の二人の様子が気になる」と雨月に言った。

「明日の朝、私のところに連れてきてください」垂井美智子、通称ミーコは黒いパンツスーツ姿で現れた。弁護士の顔だ。

「佐久間家の土地の登記を調べてきた」と言いながらファイルを広げた。

「現在の所有者は愛知県の不動産管理会社になっているが、実質的に休眠状態。

この土地に法的に入る権限は、今のところ誰にもない」「つまり俺たちは不法侵入か」と鏑木が言った。「今は緊急性を優先しましょう」とミーコは涼しい顔で答えた。


楓幸恵が来た。医者の彼女はジーンズ姿で、白衣を持参していた。

木下と二言三言話して、すぐに意気投合した様子だ。太田豊は魔法瓶のコーヒーを持ってきた。

織田のおにぎりと並べて、草の上に無言で置いた。

西野薫牧師は小さな聖書を胸のポケットに入れていた。

「私に何ができるかわからないが」と静かに言った。

「来ないわけにはいかなかった」柊澪と鳴海美佑は一緒に来た。

鳴海はスマートフォンを構えようとして、根古に一瞥された。

「撮影は今日はなしだ」「わかってます」鳴海は素直にスマートフォンをポケットにしまった。

「記録は頭に入れます」藤原茜は柊の隣で黙って立っていた。

二十歳、いつも表情が読めない。だが根古の指示には誰より早く従う。

安藤修が来た。退職した元警部補、三十六歳。雨月と目が合い、軽く頷き合った。

現役と退職者の、静かな連携だ。江戸川勉が最後に駆け込んできた。

二十五歳の私立探偵、息が上がっている。

「すみません、遅くなりました。途中で尾行に気づいて撒いてきたので」全員の視線が集まった。

「尾行」と根古が言った。


「女が一人です。四十前後、背が高い。犬山駅からずっとついてきました」

根古と太田の目が合った。

太田が小さく頷く。昼間ラクカに来た三人組の一人だ。

「今はどこにいる」と雨月が訊いた。

「林の手前で撒きました。ただ??」江戸川は少し言いにくそうにした。

「撒けたと思ったんですが、自信は六割くらいです」

「つまり四割の確率でまだいる」と長曾我部が几帳面に言った。

「そういうことです」

全員が自然と輪になっていた。

二十人近い人間が、秋草の中に立っている。神主、住職、弁護士、医者、大工、自動車屋、ラーメン屋、牧師、学生、YouTuber、探偵、元刑事、現役刑事。職業も年齢もバラバラな面々だ。

根古は全員を一度見渡した。

「集まってもらった理由は雨月から聞いていると思う」根古は静かに言った。

「四人が死んだ。死因はわからない。人形が関係している。それだけは確かだ」

誰も喋らなかった。


「この跡地に蔵が三つある。東の蔵はすでに空だ。

北の蔵に木箱が五つ、中身は不明。奥の蔵は御札が重ねて貼られていて、扉に『開クベカラズ』と書いてある」

また沈黙。

「そして今、この場所を誰かが観ている可能性がある」

松平が木箱から榊を取り出した。古田が数珠を繰り始めた。二人の動きに打ち合わせはない。

それぞれが自分のやるべきことを静かに始めていた。

「根古さん」雨月が言った。「北の蔵の木箱は、開けますか」

根古はしばらく奥の蔵を見ていた。

『開クベカラズ』。

何枚も重ねられた御札。

新しく掘り返された扉前の土。

「松平、古田」根古は二人に向いた。「北の蔵、頼めるか」


松平が根古を見た。

「中に入る前に時間をくれ。それだけでいい」

「わかった」

古田が静かに言った。「根古、一つだけ訊いていいか」

「なんだ」

「奥の蔵を、お前は開けるつもりか」

全員が根古を見た。

風が止んだ。柿の木が動かなくなった。どこかで烏が一声鳴いた。

根古は奥の蔵の御札を見た。

「今夜は開けない」根古は静かに言った。「だが、いずれ開けることになる」

古田は目を閉じて、また数珠を繰った。

その時、林の方から枝を踏む音がした。

全員が一斉にそちらを向いた。

雑木林の陰に、人影があった。

女だった。


背が高い。四十前後。

根古と目が合った。

女は逃げなかった。


-----------------------


誰も動かなかった。林の陰の女も動かない。根古も動かない。

十秒ほど、そのまま互いに見ていた。先に動いたのは雨月だ。

さりげなく一歩横にずれて、逃げ道を塞ぐ位置に立った。

山本が反対側に回る。二人とも声を出さない。

刑事の動きだ。女はそれを見て、小さく笑った。両手を上げた。降参のポーズだ。

「撃ちませんよ」女は低い声で言った。

「見ていただけです」根古は江戸川を見た。江戸川が小さく頷く。

さっき尾行してきた女だ、という確認だ。「こちらへ来てもらえますか」根古は穏やかに言った。

女は草を踏んで輪の中に入ってきた。背が高い。

百七十近い。黒いジャケット、ジーンズ、底の厚いブーツ。

顔は整っているが表情が薄い。目だけが、周囲の全員を素早く測るように動いた。

「星野由紀子です」女は言った。「四十歳」名乗るのか、と根古は思った。

隠す気がないのか、それとも隠しても無駄だと判断したのか。

「根古親司だ」根古は答えた。「なぜここにいる」

「あなたたちを観察していました」「目的は」星野は根古を真っすぐ見た。

「同じものを追っているから、です」全員がざわりとした。

雨月だけが無表情のままだ。「江戸川」根古は探偵を見た。

「聞かせてくれ」江戸川勉は一歩前に出た。二十五歳、線の細い青年だ。

だが話し始めると声が落ち着いている。

「三人については一週間前から調べていました」江戸川は手帳を開いた。

「星野由紀子、四十歳。西野千紗都、二十三歳。古田麻尋、二十三歳。三人は二ヶ月前から可児市内の借家で共同生活をしています」「職業は」と長曾我部が手帳を構えながら訊いた。

「星野は表向きフリーのコンサルタント。

西野と古田は大学生ということになっています」「なっている、というのは」とミーコが鋭く言った。「西野と古田の在籍する大学に確認しました。

二人とも今学期、休学届を出しています。理由は一身上の都合」


雨月が星野を見た。星野は表情を変えない。

「三人がこの地方に来た時期は」と雨月が訊いた。

「四月です」江戸川はページをめくった。

「伊藤骨董店の閉店が決まったのが三月末。タイミングが一致しています」

「つまり」と鏑木が言った。「人形が出てくるのを知って来た、ということか」

江戸川は答える前に星野を見た。

星野が静かに口を開いた。

「知っていたわけではありません。可能性を追っていた、というのが正確です」

「何の可能性だ」と根古が言った。

「佐久間家の蔵に、それがあるかもしれないという可能性です」

「それ、とは」


星野は少し間を置いた。全員の顔を一度見渡してから、根古に視線を戻した。

「続きは、全員の前で話すべきことではないかもしれません」

「ここにいる全員は信頼できる」根古は静かに言った。「話してくれ」

星野はまた少し考えた。

やがて口を開いた。

「佐久間家は戦前、陸軍と深い関わりがありました。

表向きは資産家ですが、実態は陸軍の特殊任務を民間で請け負う家系です。昭和十年代、彼らはある研究に関わっていた」

「研究」と根古が繰り返した。

「人の精神と肉体を、遠隔から制御する研究です」

誰かが息を呑んだ。

「失敗した研究です」星野は続けた。

「ただし、完全に失敗したわけではなかった。研究の成果の一部が、この蔵に封じられたと言われています」

「封じられた、とはどういう意味だ」と古田が静かに訊いた。住職の声だ。

「人形に、です」

全員が黙った。


「佐久間家が昭和二十二年に全員死亡したのは」根古が言った。「その人形のせいか」

「そう考えています」

「なぜ今になって動いた」

「管理していた人間が死んだからです」星野の声が少し変わった。

「三年前、東京で一人の老人が死にました。佐久間家の遠縁にあたる人物で、この蔵を外から管理し続けていた。その老人が死んで、蔵への結界が緩み始めた。

そして今年、伊藤骨董店が閉店して蔵が開けられた」


「老人の名前は」と江戸川が手帳を構えた。

「佐久間冬彦。享年九十一歳」

古田と松平が目を見合わせた。

根古は奥の蔵を見た。

御札。『開クベカラズ』。

「あなたたちの目的は何だ」根古は星野に向き直った。

「人形を封じることか。それとも回収することか」

星野は根古を見た。

「封じることです」


「誰の依頼で」

「依頼ではありません」星野の声が初めて少しだけ揺れた。

「あの老人は私の祖父です」

全員が静止した。

織田が持ってきたおにぎりが、誰にも手をつけられないまま草の上に並んでいた。

太田のコーヒーから湯気が立っていた。

根古は星野を見続けた。

「祖父から、頼まれていたのか」

「はい」

「いつ」

「死ぬ三日前に」星野は真っすぐ根古を見た。

「もし蔵が開いたら、全部を封じ直してくれ、と。一人では無理だから、信頼できる人間を集めろ、と」

「それで可児に来た」

「はい。ただ、信頼できる人間を見つけるのに時間がかかりました」

根古は少し黙った。

それから言った。

「あと二人はどこにいる」


「近くにいます」星野は林の方に顔を向けた。「呼んでいいですか」

根古は古田を見た。古田が静かに頷いた。

星野が林に向かって短く口笛を吹いた。

しばらくして、二つの人影が草を踏んで出てきた。

二十三歳の女が二人。西野千紗都と古田麻尋。

二人とも、手に御札を持っていた。

松平が目を細めた。

「その御札は」

「祖父が残したものです」星野が答えた。

「佐久間家の当主が書いたものです。本物かどうかは、あなた方の方が詳しいと思いますが」

松平は西野から御札を受け取った。しばらく黙って見ていた。

それから根古を見た。

「本物だ」

全員がまた静止した。


根古は星野を見た。星野は根古を見た。

「今夜、一緒に動いてもらえますか」根古は言った。

星野は少し目を細めた。

「それを待っていました」


----------------------


松平秀麿が北の蔵の前に立ったのは、日が完全に落ちる少し前だった。

空の端がまだ赤い。だが蔵の周囲はすでに影の中にある。

松平は荷台から木箱を下ろして開けた。榊、御幣、塩、白い和紙に包まれた何か。

手慣れた動きで並べていく。二十年以上、神主をやっている手だ。

古田智雲が隣に立った。数珠を両手にかけ、目を閉じている。

唇が微かに動いている。声は出ていない。

星野由紀子が少し離れた位置に立って、蔵を見ていた。

西野千紗都と古田麻尋が両脇に並ぶ。三人とも無言だ。

根古は全員をその場に残して、少し離れた位置に雨月と並んだ。

「どう見る」雨月が小声で言った。

「星野の話は本当だと思う」「根拠は」「嘘をつく理由がない。ここまで来て正体を明かした。

祖父の遺言を果たしに来た人間の目だった」雨月は星野を見た。

蔵の前で静かに立っている背の高い女を。


「彼女たちが封じようとしているのなら、我々と目的は一致している」「ああ」根古は言った。

「ただ、星野はまだ全部話していない」「何が」「祖父から聞いた話の全部だ。

人形が何体あるか、奥の蔵に何があるか。

それを知っているはずだが、まだ言っていない」雨月は少し考えた。

「急かさない方がいいですか」「今夜は急かさない。見ていろ」松平が準備を終えた。

蔵の前に小さな祭壇が出来上がっていた。

榊を左右に立て、中央に御幣。塩を扉の前に一文字に盛る。


「古田さん」松平が呼んだ。古田が前に出た。二人が並んで立つ。

宗派の違う二人が、同じ方向を向いている。松平が柏手を打った。

静かな音が夜の空気に広がった。古田が低く経を唱え始めた。

誰も喋らなかった。織田もミーコも山本も、全員が黙って見ていた。

江戸川だけが少しだけ体を強張らせている。若い分、この種の空気に慣れていない。

三分ほど続いた。松平が振り返った。「入れる」短く言った。根古が前に出た。

鏑木、雨月、星野が続く。引き戸を開ける。昼間と同じ黴の匂い。湿った木の匂い。そして花の匂い。


懐中電灯を向けた。

棚に木箱が五つ、整然と並んでいる。

松平が塩を手に持って先に入った。左右の壁に塩を打ちながら奥へ進む。

古田が経を唱えながらついていく。

根古は入口に立ったまま棚を見た。

五つの箱。

東の蔵の箱と同じ大きさだ。同じ作りだ。蓋の合わせ目に、細い縄が巻いてある。

星野が根古の隣に来た。

「箱の数は合っています」星野は小声で言った。「祖父から聞いた通りです」

「北の蔵に五つ」

「はい」

「奥の蔵には」

星野は少し間を置いた。

「七つ、と聞いています」

根古は計算した。


東の蔵から出た一体で四人死んだ。北に五つ、奥に七つ。合計十三体。

「全部に人形が入っているのか」

「全部ではないと思います」星野は棚を見た。

「ただ、何が入っているかは祖父も詳しく知らなかったようです。封じたのは佐久間家の当主で、祖父は管理を任されただけでしたから」

松平が棚の前に立った。一つ一つの箱に榊を向け、何かを唱えている。

古田が箱の前で数珠を繰った。

しばらくして松平が振り返った。

「根古、一つだけ開けていいか」

全員が松平を見た。

「開けるのか」と鏑木が言った。

「中身を確認しないと封じ方がわからない」松平は静かに答えた。

「ただし一つだけだ。私と古田さんが前にいる間に開けて、すぐに閉じる」

根古は星野を見た。

星野は頷いた。


「どれを開ける」と根古が訊いた。

松平は五つの箱を順に見た。しばらく考えてから、右端の箱を指した。

「これだ。他より気が薄い」

鏑木が前に出た。大工の手で縄をほどく。

慣れた手つきだが、指先が少しだけ緊張している。

蓋を持ち上げた。

全員が息を止めた。

箱の中は、空だった。

誰かが安堵の息を吐いた。

「空か」と織田が入口から言った。

「空だ」鏑木は蓋を閉じた。

松平が残り四つの箱を順に見た。

「こちら三つも気が薄い。中身は空か、人形以外のものだ」

「残り一つは」と根古が言った。

松平は左端の箱を見た。


答えなかった。

それが答えだった。

「開けるか」と根古が言った。

「開けない」松平は静かに、しかし明確に言った。

「今夜は封じるだけにする。開けるなら準備が要る。今夜の準備では足りない」

古田が頷いた。

「松平さんの言う通りだ」古田は根古を見た。

「根古、今夜は封じることだけをやろう。中身を確かめるのは次にしてくれ」

根古は左端の箱を見た。

他の箱と同じ大きさだ。同じ作りだ。ただ、縄の色だけが違った。

他の箱の縄は白く乾いているが、この箱の縄だけが黒ずんでいる。

「わかった」根古は言った。

松平と古田が左端の箱の前に並んだ。


御幣を向け、経を唱え、塩を打つ。二人の声と動作が重なっていく。

宗派の違いが溶けていくような時間だった。


星野が根古の隣で静かに立っていた。

手に御札を持っている。

「それをどうするつもりだ」根古は小声で言った。

「祖父が言っていました」星野は御札を見た。

「佐久間家の当主の御札は、松平さんたちの封じと組み合わせることで効果が出ると。単独では意味がないと」

「なぜそれを最初に言わなかった」

「信用してもらえるか分からなかったから」

根古は少し黙った。

「今は信用するか」と星野が訊いた。

「している」根古は答えた。


何かを確かめるような目だった。

やがて静かに頷いた。

松平が振り返った。


「終わった。この箱はしばらく持つ」

「しばらく、とはどのくらいだ」と雨月が訊いた。

「一週間。長くても二週間だ」松平は疲れた顔で言った。

「根古、奥の蔵は早めにやらないといけない」

「わかっている」

全員が蔵から出た。

夜の空気が冷たかった。

草の上に並んだおにぎりと魔法瓶のコーヒーを、織田が改めて皆に配り始めた。

誰も断らなかった。

江戸川が根古の隣に来た。

「根古さん」小声で言った。「一つ、報告があります」

「なんだ」

「星野さんたちを調べていた時に、もう一人、この跡地に関心を持っている人物がいることがわかりました」

根古は江戸川を見た。

「誰だ」


「ロドリゲス斎藤さんです」江戸川は手帳を見た。

「恩田さんが死んだ後、ロドリゲスさんは独自に人形の来歴を調べていました。佐久間家の名前にたどり着いていた可能性があります」

根古は夜空を見た。

星が出ていた。

「ロドリゲスに連絡を取ってくれ」根古は言った。「明日、ラクカに来てもらう」

「わかりました」

根古はコーヒーを一口飲んだ。

熱かった。太田が淹れたコーヒーは、いつも少し熱すぎる。

奥の蔵が夜の闇の中に黒く建っていた。

御札が風に揺れている。

『開クベカラズ』。

根古はその文字を見ながら、静かに考えていた。



-----------------------


奥の蔵を開けることになったのは、北の蔵を封じた三日後だった。

きっかけは松平からの電話だ。

「根古、北の蔵の封じが緩んでいる」朝の六時、根古がまだコーヒーを淹れる前だった。

ヤマトが膝に乗ってきていた。

三日前から飯を普通に食うようになっていたが、この朝はまた半分残した。

「一週間持つと言っていたな」「そう言った。だが二日で緩んだ」松平の声は穏やかだが、その穏やかさの底に緊張がある。

「根古、奥の蔵の中で何かが動いている。

このまま放置すると北の封じが持たない」根古はコーヒーを諦めて携帯を持ったまま窓の外を見た。

曇り空だった。ヤマトが低く唸った。


二時間後、佐久間家の跡地に七人が集まった。

根古、鏑木、雨月、松平、古田、星野、そして西野千紗都と古田麻尋の二人。

今回は全員出動ではない。根古が絞った。

蔵の前に人間が多すぎると、かえって収拾がつかなくなる。動ける人間、必要な人間だけだ。残りの面々には太田のラクカで待機を頼んだ。

ミーコが法的な問題を整理しながら、楓と木下が医療の準備をして、江戸川が外の見張りをする。

長曾我部が記録を取り、鳴海と藤原が連絡係だ。

山本彩織は非番を使って跡地の外周を車で回っていた。

安藤修は江戸川の隣で煙草を吸いながら待機している。

織田は朝から握り飯を作って全員に配ってから、ラクカで待つと言った。

「腹が減ったら連絡してくれ」それだけ言った。


奥の蔵の前に立つ。三日前と変わらない。御札が風に揺れている。

扉の前の土が、また新たに掘り返されていた。

「また誰かが来ている」鏑木が低く言った。「足跡が二つある」雨月がしゃがんで地面を見た。

「昨夜か、今朝早くだ」根古は星野を見た。

星野は首を振った。私たちではない、という意味だ。

「江戸川に外周の確認を頼む」根古は雨月に言った。雨月がすぐに携帯を出した。松平が御幣を持って蔵の前に立った。古田が隣に並ぶ。三日前と同じ配置だ。

ただ今日の二人は、三日前より表情が硬い。星野が御札を両手に持って松平の後ろに立った。

西野と古田麻尋がその両脇に並ぶ。「始める前に一つだけ言っておく」松平が全員を見た。

「扉を開けたら、私と古田さんと星野さんが前に出る。

それ以外の人間は入口から三歩以内で止まってくれ。

中で何が起きても、指示があるまで動かないこと」「わかった」と根古は答えた。

「根古」古田が静かに言った。「お前は入口に立っていてくれ。外と中の境界に人間が要る」「境界に」「この蔵は内と外を隔てるために建てられた。

その境界に、しっかりした人間が立っていないといけない」古田は根古をまっすぐ見た。「お前が適任だ」


根古は頷いた。松平が祝詞を唱え始めた。古田が経を重ねる。

星野が御札を扉に向けて両手で掲げた。西野と古田麻尋が左右で支える。

風が止んだ。秋の朝の冷たい空気が、突然動かなくなった。

草も揺れない。柿の木の葉も静止した。鏑木が根古の隣で息を殺している。

雨月が一歩後ろで立っている。松平が祝詞を終えた。古田が経を終えた。

二人が同時に振り返って根古を見た。根古は扉に手をかけた。重かった。

蔵の扉は厚い木でできている。錠前も閂もないのに、まるで内側から押さえられているように動かない。根古は両手で引いた。鏑木が隣に来て一緒に引いた。

ゆっくりと、扉が開いた。闇だった。


第三話「開クベカラズ」 冒頭


奥の蔵を開けることになったのは、北の蔵を封じた三日後だった。

きっかけは松平からの電話だ。

「根古、北の蔵の封じが緩んでいる」

朝の六時、根古がまだコーヒーを淹れる前だった。ヤマトが膝に乗ってきていた。

三日前から飯を普通に食うようになっていたが、この朝はまた半分残した。

「一週間持つと言っていたな」

「そう言った。だが二日で緩んだ」松平の声は穏やかだが、その穏やかさの底に緊張がある。

「根古、奥の蔵の中で何かが動いている。このまま放置すると北の封じが持たない」

根古はコーヒーを諦めて携帯を持ったまま窓の外を見た。

曇り空だった。

ヤマトが低く唸った。


二時間後、佐久間家の跡地に七人が集まった。

根古、鏑木、雨月、松平、古田、星野、そして西野千紗都と古田麻尋の二人。

今回は全員出動ではない。根古が絞った。

蔵の前に人間が多すぎると、かえって収拾がつかなくなる。動ける人間、必要な人間だけだ。

残りの面々には太田のラクカで待機を頼んだ。

ミーコが法的な問題を整理しながら、楓と木下が医療の準備をして、江戸川が外の見張りをする。長曾我部が記録を取り、鳴海と藤原が連絡係だ。

山本彩織は非番を使って跡地の外周を車で回っていた。

安藤修は江戸川の隣で煙草を吸いながら待機している。

織田は朝から握り飯を作って全員に配ってから、ラクカで待つと言った。

「腹が減ったら連絡してくれ」それだけ言った。


奥の蔵の前に立つ。

三日前と変わらない。御札が風に揺れている。

扉の前の土が、また新たに掘り返されていた。

「また誰かが来ている」鏑木が低く言った。

「足跡が二つある」雨月がしゃがんで地面を見た。

「昨夜か、今朝早くだ」

根古は星野を見た。

星野は首を振った。私たちではない、という意味だ。

「江戸川に外周の確認を頼む」根古は雨月に言った。

雨月がすぐに携帯を出した。

松平が御幣を持って蔵の前に立った。古田が隣に並ぶ。

三日前と同じ配置だ。ただ今日の二人は、三日前より表情が硬い。

星野が御札を両手に持って松平の後ろに立った。西野と古田麻尋がその両脇に並ぶ。

「始める前に一つだけ言っておく」松平が全員を見た。

「扉を開けたら、私と古田さんと星野さんが前に出る。それ以外の人間は入口から三歩以内で止まってくれ。中で何が起きても、指示があるまで動かないこと」

「わかった」と根古は答えた。

「根古」古田が静かに言った。「お前は入口に立っていてくれ。外と中の境界に人間が要る」

「境界に」

「この蔵は内と外を隔てるために建てられた。その境界に、しっかりした人間が立っていないといけない」古田は根古をまっすぐ見た。「お前が適任だ」

根古は頷いた。

松平が祝詞を唱え始めた。

古田が経を重ねる。

星野が御札を扉に向けて両手で掲げた。

西野と古田麻尋が左右で支える。

風が止んだ。

秋の朝の冷たい空気が、突然動かなくなった。

草も揺れない。柿の木の葉も静止した。

鏑木が根古の隣で息を殺している。雨月が一歩後ろで立っている。

松平が祝詞を終えた。

古田が経を終えた。

二人が同時に振り返って根古を見た。

根古は扉に手をかけた。

重かった。

蔵の扉は厚い木でできている。

錠前も閂もないのに、まるで内側から押さえられているように動かない。

根古は両手で引いた。鏑木が隣に来て一緒に引いた。

ゆっくりと、扉が開いた。

闇だった。

懐中電灯を向ける。

埃が舞い上がった。その向こうに棚が見えた。

木箱が並んでいる。七つ、確かに七つある。

花の匂いがした。

北の蔵より濃い。甘く、重く、息が詰まりそうなほどだ。

松平が先に入った。古田、星野、西野、古田麻尋と続く。

根古は入口に立った。

閾の上に両足を置いて、内と外の境界に立つ。

古田の言った通りだ。ここに立っていると、蔵の内側と外側の空気の違いが肌でわかる。

内側は重く、粘つくような感触がある。外側は冷たく、乾いている。

松平が棚の前を進んでいく。懐中電灯の光が箱を順に照らした。

七つの木箱。

縄の色がそれぞれ違う。白、白、黒、白、赤、白、そして??

「根古」松平の声が変わった。

「何だ」


「一番奥の箱を見てくれ」

根古は入口から目を凝らした。

懐中電灯の光の中に、一番奥の箱が浮かび上がっている。

縄がない。

蓋が、わずかに開いていた。

誰も喋らなかった。

「昨夜来た何者かが開けた」雨月が根古の隣で静かに言った。

「中身は」根古は松平に言った。

松平が箱に近づいた。懐中電灯を向ける。

しばらく動かなかった。

「空だ」松平はようやく言った。「人形がない」

鏑木が低く舌打ちした。

「持ち出されたのか」雨月が言った。

「昨夜か今朝、誰かがここに来て、この箱から人形を取り出した」根古は足跡を見た。

「二人分の足跡。男と女、あるいは二人の女だ」

星野が振り返った。その顔に、初めて動揺の色があった。

「それは」星野は声を抑えながら言った。「一番まずいものです」

「なぜだ」


「祖父が言っていました」星野は奥の箱を見た。

「この蔵の一番奥にあるものだけは、絶対に外に出してはいけないと。他の人形とは性質が違うと」

「どう違う」

星野は少し間を置いた。

「他の人形は、触れた者を殺す。一対一です」星野は根古を見た。

「ですが一番奥のものは??対象を選ばない。触れた者だけでなく、その周囲にいる全員に影響が出ると」

蔵の中が静まり返った。

根古は外を見た。

ラクカで待っている全員の顔が、頭に浮かんだ。

太田、ミーコ、楓、木下、長曾我部、鳴海、藤原、安藤、織田。

「江戸川はどこにいる」根古は雨月に言った。

雨月がすぐに携帯を出した。

呼び出し音が鳴り続けた。

出ない。

「山本さんに繋いでくれ」

山本彩織がすぐに出た。


「跡地の外周に不審な人物はいるか」

「今は見当たりません」山本の声が緊張した。

「ただ、さっきから江戸川さんと連絡が取れていなくて??」

根古は雨月を見た。

雨月はすでに動いていた。蔵から出て走っている。

根古は入口から一歩外に出た。

古田が根古の背中に向かって言った。

「根古、残り六つはここで封じる。行ってくれ」

根古は振り返らずに走った。

鏑木が隣に並んだ。

雑木林の方から、枝を踏む音がした。

一つではない。複数の足音だ。

林の陰から人影が出てきた。

江戸川勉だった。

顔が青い。右手を左胸に当てている。

「根古さん」江戸川は息を切らしながら言った。

「やられました。背後から何かを??」


江戸川の手が胸から離れた。

何も持っていなかった。

「手帳を取られました」江戸川は悔しそうに言った。

「三人分の調査資料が全部入っていた」

「三人とは」

「星野さんたちのことを調べた資料です。それと??」江戸川は根古を見た。

「もう一つ、昨日調べて手帳に書き込んだことがあります。根古さんに報告しようとしていた情報です」

「何だ」

「佐久間家に関係するもう一人の人物です」江戸川は記憶を辿るように目を閉じた。

「手帳を取られる前に見た最後のページです。名前は??」

林の奥で、枝が折れる音がした。

全員がそちらを向いた。

誰もいない。

江戸川は目を開けた。

「愛知県警の人間です」江戸川は静かに言った。

「三枝康介警部。佐久間家の遠縁にあたる人物だということが、昨日わかりました」


雨月の顔が変わった。

根古は奥の蔵の方を見た。

古田と松平が封じを続けている。星野たちが御札を掲げている。

そして今、人形が一体、外に出た。

対象を選ばない人形が。

「雨月」根古は静かに言った。

「はい」

「三枝康介の今日の行動を調べてくれ」

雨月はすでに携帯を耳に当てていた。

根古は林を見た。

どこかで烏が鳴いた。


-----------------------


ラクカに全員が戻ったのは昼を過ぎた頃だった。

十五人近い人間が小さな茶店に押し込まれて、太田は黙って椅子を増やした。

文句一つ言わない。コーヒーを黙々と淹れ続ける。

ロドリゲス斎藤が来たのはそれから三十分後だ。五十二歳、大柄な体に革のジャケット。

日本人の父とブラジル人の母を持つ顔立ちで、どこにいても目立つ。

だが今日は入口に立った瞬間、店内の空気を読んで表情を引き締めた。

「根古さんですね」ロドリゲスは根古を見つけて真っすぐ来た。

「久米ちゃんのことは??本当に申し訳なかった」「あなたのせいじゃない」根古は言った。「座ってくれ」ロドリゲスが腰を下ろした。太田がコーヒーを置いた。

「人形の来歴を調べていたと聞いた」「はい」ロドリゲスは鞄から分厚いファイルを出した。

「久米ちゃんが死んだ日から始めました。

骨董屋のネットワークをずっと当たって、佐久間家の名前にたどり着いたのが先週です」「その先は」「戦前の陸軍の記録です」ロドリゲスはファイルを開いた。

「公文書館で見つけました。昭和十四年から十八年にかけて、陸軍の委託を受けた民間研究として記録が残っています。名称は??」ロドリゲスはページを指さした。

『精神感応体移植研究 委託先 佐久間機関』店内が静まり返った。


「精神感応体」と根古が繰り返した。

「人の意識の一部を物体に移植する研究です」ロドリゲスは続けた。

「戦時中、敵地に送り込んだ工作員が死んでも、その工作員の技能や記憶を別の人間に移せないかという発想から始まった研究らしい」「それが失敗した」と雨月が言った。

「失敗というか??暴走した、という方が正確です」ロドリゲスはページをめくった。

「移植先として使った人形が、移植された意識に乗っ取られた。

その意識が、周囲の人間の生命力を吸収し始めた」「生命力を吸収」と楓が医者の顔で言った。

「それが死因不明の死亡につながる」「そう考えています」ミーコが腕を組んだ。

「法的には何も立件できない。

人形が人を殺したとは証明できないから」「だから迷宮入りになる」と安藤修が静かに言った。

元刑事の声だ。「警察の記録には四件の死因不明として残るだけだ」沈黙が落ちた。根古はコーヒーを飲んだ。熱かった。太田のコーヒーはいつも少し熱すぎる。


「ロドリゲスさん」根古は言った。

「記録に、人形の数は書いてあったか」「十三体です」ロドリゲスは答えた。

「ただし研究終了時点で三体が行方不明になっています」「三体が行方不明」「昭和二十二年、佐久間家が全滅した時に蔵から消えた、と記録にあります。

その後の所在は不明です」根古は星野を見た。

星野は静かに目を閉じた。祖父も知らなかったのだろう。あるいは知っていて言えなかったのか。

「奥の蔵から持ち出された一体が、その三体のうちの一つか」と鏑木が言った。

「可能性が高い」根古は答えた。「残り二体はどこにある」誰も答えられなかった。


三枝康介の動向は、その日の夕方に雨月が掴んだ。

愛知県警部、五十代。佐久間家の遠縁。「今日の午前中、有給を取っています」雨月は根古に電話で報告した。「行動確認はできていませんが??根古さん、三枝警部の自宅が犬山です」根古は窓の外を見た。夜になっていた。

「足跡の主か」「断定はできません。ただ??」雨月は少し間を置いた。

「三枝警部は今日の午後から体調不良で早退しています」根古は黙った。

「人形に触れたということか」と根古は言った。

「そう考えると辻褄が合います」「今の状態は」「発熱と頭痛です。

今のところ意識はある」根古はヤマトを見た。膝の上で丸くなって目を閉じている。

今日は飯を完食した。「雨月、三枝を今すぐ楓のところに連れて行け。木下にも連絡しろ」

「医学的に何かできますか」

「わからない。だが一人にするな」

電話を切った。


それから一週間、根古たちは動いた。

松平と古田が毎日佐久間家の跡地に通い、残り六体の封じを続けた。

星野の御札と組み合わせることで、封じは安定した。

ロドリゲスが骨董のネットワークを使って行方不明の二体を追った。

手がかりは出なかった。

江戸川が三枝康介を調べ続けた。

だが三枝は体調不良のまま自宅に引きこもり、接触できなかった。持ち出された人形の所在も掴めなかった。

奥の蔵から消えた一体は、どこかにある。

誰かが持っている。

あるいは、すでに誰かに渡っている。

三枝の体調は一週間後に回復した。楓の診断では異常なし、だった。触れた時間が短かったのか、あるいは別の理由があるのか、わからなかった。

三枝本人は何も話さなかった。

雨月が一度だけ接触を試みたが、三枝は「知らない」の一点張りで押し通した。

「証拠がない」雨月はラクカで根古に報告した。「動かせません」

「わかっている」根古は言った。


十月の終わり、松平から連絡が来た。

「封じが完了した。北と奥の蔵、全部だ」

「持つか」

「わからない」松平は正直に言った。

「永遠には持たない。だが今できることはやった」

根古は電話を切って、しばらく窓の外を見ていた。

ヤマトが窓枠に飛び乗って、外を見た。

それだけだった。唸らない。目を細めて、秋の光の中で欠伸をした。



ラクカに全員が集まったのは、十一月の最初の日曜日だった。

根古が声をかけたわけではない。気がついたら集まっていた。

太田が黙ってコーヒーを淹れ続けた。織田がおにぎりを持ってきた。

ミーコと楓と木下が一つのテーブルを囲んで何か話していた。

鏑木と加藤が入口の近くで立ったまま話している。

長曾我部が手帳を膝に置いて窓の外を見ていた。

西野薫牧師が聖書を静かに読んでいた。

柊澪と鳴海美佑と藤原茜が隅のテーブルで小声で話している。

安藤修が煙草を外で吸ってから戻ってきた。江戸川勉が手帳の新しいページを開いた。

松平と古田と西野千紗都と古田麻尋が並んで座っていた。星野由紀子が窓際に一人で立っていた。

雨月と山本彩織が少し遅れて入ってきた。

根古はカウンターの端に座っていた。ヤマトを膝に乗せて。

誰からともなく静かになった。

「区切りにしよう」根古は言った。

誰も反論しなかった。

「四人が死んだ。死因はわからないままだ。人形は封じたが、一体は行方不明のままだ。真相は出ない。警察の記録には死因不明として残る。それが現実だ」

静かだった。


「ただ」根古は続けた。

「伊藤さんも、恩田さんも、黒田も、清水も??誰かに殺されたわけじゃない。人の悪意で死んだわけじゃない。それだけは、わかった」

鏑木が小さく頷いた。

「不満だ」と安藤が静かに言った。「だが仕方がない」

「仕方がない」と根古は繰り返した。

太田がカウンターの向こうからコーヒーを根古の前に置いた。

熱かった。いつも通り、少し熱すぎる。

「今日は飲め」太田はそれだけ言った。

根古はコーヒーを両手で包んだ。

店内のあちこちで、また小さな話し声が始まった。

織田のおにぎりが配られた。松平と古田が星野に何か訊いていた。

江戸川が手帳に何かを書いていた。雨月が山本と小声で話していた。

根古は膝のヤマトを撫でた。

ヤマトはごろごろと鳴いた。

窓の外、十一月の光が路地に差し込んでいた。

どこかで行方不明の人形が、まだある。

三体、行方不明のままだ。

答えは出なかった。


だが今日は、それでいい。

根古はコーヒーを飲んだ。






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