飛騨街道の残像
一
三月の初めに、太田から電話があった。
「久しぶりに街道を走らんか。下呂まで」
根古は縁側で缶コーヒーを飲んでいた。ヤマトが膝の上にいた。
「何かあるんか」
「……まあ、走りながら話す」
根古はヤマトを見た。ヤマトは目を閉じていた。
「わかった。明後日でええか」
「ええ」
電話を切った。
ヤマトが耳をぴくりと動かした。
「お前は留守番や」
ヤマトは答えなかった。
明後日の朝、根古が軽自動車のエンジンをかけると、家の前に三人が立っていた。
星野由紀子。西野千紗都。古田麻尋。
千紗都が言った。
「ご一緒してもいいですか」
根古はエンジンを切った。
「……なんでここにおるんや」
「街道沿いを調べたいことがあります」由紀子が言った。
「偶然やないやろ」
「偶然ではないです」
根古は由紀子を見た。由紀子は根古を見た。
どちらも譲らなかった。
そこへ太田の車が来た。
太田豊が降りてきた。五十八歳。根古の先輩だ。茶店のマスターだ。
この男は普段、何を考えているのかわからない顔をしている。
根古はそれを二十年以上見てきた。
太田は三人を見た。
一人ずつ、静かに見た。
由紀子を最後に見た。
「根古、こいつらは」
「……説明が長くなる」
「ええ」太田は言った。「乗りゃええ」
根古は何も言わなかった。
軽自動車に根古と太田と由紀子が乗った。
千紗都と麻尋は千紗都の車で後ろをついてきた。
国道を北へ走った。
飛騨川が見えてきた。三月の川は水が多かった。雪解けが始まっていた。
太田が運転した。
根古は助手席で缶コーヒーを飲んだ。
由紀子は後部座席で窓の外を見ていた。
三人とも、しばらく何も言わなかった。
美濃加茂市に入ったあたりで、太田が口を開いた。
「先月、街道の旧道を歩いたんや」
「何しに」
「散歩や。茶店の仕入れのついでに」太田は前を見たまま言った。
「そしたら妙な気配がした。場所は覚えとる。もう少し先や」
根古は窓の外を見た。
山が近くなっていた。
右手が、じわりと熱くなり始めた。
「……ここ、何かある」
太田:「やっぱりそうか」
由紀子が前を向いた。
何も言わなかった。
二
旧道への分岐を入った。
舗装が荒くなった。道が細くなった。杉林が両側から迫ってきた。
五分ほど走って、太田が車を停めた。
「この辺や」
全員が降りた。
後ろから千紗都と麻尋が来た。
杉林の中に、古い石仏があった。
苔むしていた。首のあたりが欠けていた。道中安全を祈る旅人が建てたものだろう。
こういう石仏が、飛騨街道には何百もある。
根古は石仏の前に立った。
右手の熱が、強くなった。
ゆっくりと、右手を石仏に近づけた。
触れた。
暗転。
夜の街道だった。
江戸期の光景だった。
荷を背負った旅人が歩いていた。一人だった。提灯を持っていた。
後ろから、複数の人影が近づいていた。
足音を消していた。
旅人が振り返った時には遅かった。
倒れた。
荷物を奪われた。
男たちが土を掘った。
旅人が埋められた。
提灯の火が消えた。
映像が変わった。
最近の夜だった。
車のヘッドライトが見えた。
軽トラックだった。
男が一人、荷台から何かを降ろした。
重かった。
男はスコップを取り出した。
同じ場所に、穴を掘り始めた。
男の顔が見えた。
五十代。がっしりした体格。作業着を着ていた。
男は黙々と掘った。
汗をかいていた。
しかし迷っていなかった。
慣れていた。
根古は手を離した。
右手が強く痺れていた。
振り返ると、五人が根古を見ていた。
「二層ある」根古は言った。「古い層と、新しい層や」
「新しい層は」太田が聞いた。
「半年以内や。男が一人、ここに何かを埋めた」
由紀子の目が、鋭くなった。
千紗都が麻尋を見た。
麻尋が小さく頷いた。
「由紀子さん」根古は言った。「話してくれるか」
由紀子は少し間を置いた。
「……はい」
三
杉林の中で、由紀子が話した。
半年前。
東京の私立大学で民俗学を専門とする准教授が、突然失踪した。
名前は神田誠一。四十八歳。
神田が研究していたもの??飛騨街道沿いに古くから伝わる、霊的存在を器物に封じる技術の歴史的記録。
その技術で作られた器物が現存するという、古い文書の記録。
根古は由紀子を見た。
「……漆の箱か」
由紀子は答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
「神田という人間が、箱の存在を突き止めた」
「はい」千紗都が言った。
「神田先生は私たちに接触してきました。
三ヶ月かけて箱の所在を調べて、私たちに行き着いた。
箱について教えてほしいと言っていました」
「会ったんか」
「一度だけ。でもその直後に??失踪した」
麻尋が地面を見た。
千紗都が続けた。
「先生の奥さんから、依頼を受けました。見つけてあげてほしいと」
太田が静かに聞いていた。
根古は杉林の奥を見た。
「神田さんは、箱の何を調べとったんや」
由紀子が答えた。「箱の表面の文字です。あの文字が何を意味するのか。先生は古い文書の中に、同じ文字の記録を見つけていた」
根古は右手を見た。
第十三話の夜、山伏が言った言葉が頭の中に残っていた。
次の器の名前や。
「……神田さんは、どこまで解読しとった」
「わかりません」千紗都は言った。「会った時には、まだ途中だと言っていた」
根古は缶コーヒーを飲んだ。
空だった。
「……サイコメトリーをやる。触れたくないが、やる」
根古は石仏から少し離れた場所に行った。
土が盛り上がっている場所があった。
わずかだった。気づかない人間の方が多いだろう。
根古はしゃがんだ。
右手を地面に近づけた。
触れた。
暗転。
夜の街道だった。
半年前だった。
中年の男が、車の荷台から引きずり降ろされていた。
抵抗できない状態だった。
目が開いていた。意識はあった。
男は薄いコートを着ていた。胸に何かを抱えていた。
ノートだった。
研究ノートだった。
男の顔が見えた。
眼鏡をかけていた。髪が乱れていた。怖くなかった??諦めていた。でも目が、悔しそうだった。
埋められる直前、男は顔を上げた。
街道の山を見上げた。
何かを思っていた。
妻のことだった。
研究が途中だったことを、悔やんでいた。
そして??箱のことを、誰かに伝えたかった。
それだけだった。
根古は手を離した。
立ち上がれなかった。
しばらく、地面に手をついたままでいた。
由紀子がしゃがんで、根古の顔を見た。
「見えましたか」
「見えた」根古は言った。「ここや。神田さんはここにおる」
由紀子の顔が、かすかに動いた。
麻尋が口を押さえた。
千紗都は動かなかった。ただ、目が赤くなっていた。
太田が根古の腕を取って、立ち上がらせた。
「ご苦労さん」と太田は小さく言った。
根古は由紀子を見た。
「遺族に、ちゃんと返してやれ」
「はい」と由紀子は言った。
四
埋めた男の特徴を由紀子に伝えた。
「五十代。がっしりした体格。
作業着。軽トラックを使っとった。
この街道沿いで建設か土木の仕事をしとる男や」
由紀子は手帳に書き留めた。
「心当たりがあります」千紗都が言った。
「神田先生が接触していた人物の中に、この辺りで建設業を営む男がいた。
先生が土地の伝承を聞きに行った相手です」
太田が言った。「この辺の建設業者なら、心当たりがある」
根古:「……また建設業者か」
太田:「世の中そんなもんや」
根古は缶コーヒーを飲もうとして、また空だったことを思い出した。
「証拠は私たちが集めます」由紀子が言った。「根古さんには??」
「神田さんを帰してやる」根古は言った。「それだけや」
由紀子は静かに頷いた。
五
日が傾き始めた。
三月の夕暮れは、まだ早い。
五人が土の盛り上がった場所の前に立った。
根古が前に出た。
右手が強く熱を持った。
目を閉じた。
神田誠一の霊が、根古に触れてきた。
怒りではなかった。
悔しさでもなかった。
ただ??帰りたかった。
妻のことを思っていた。
研究が途中だったことを悔やんでいた。
そして??箱のことを、誰かに伝えたかった。
根古は静かに言った。
「……箱のことは、ワシが引き継いだる。心配せんでええ」
霊が、根古の言葉に応えた。
ゆっくりと、重さが変わった。
穏やかになった。
根古は右手を地面に向けた。
魂剥離は使わなかった。
右手の熱で??神田の霊を、土の中から、そっと引き上げた。
霊が根古の右手に宿った。
重かった。
でも穏やかだった。
研究ノートを抱えた男の、最後の姿が根古の目の裏に浮かんだ。
「……帰るで」
その瞬間。
根古の右手に、流れ込んできたものがあった。
映像ではなかった。
知識だった。
神田が長年かけて集めた記録の断片だった。
飛騨街道沿いに残る封印の伝承。
器物に霊を封じる技術の系譜。
そして??漆の箱の文字についての、断片的な解読の記録。
全部ではなかった。
途中だった。
でも??確かに、根古の中に入ってきた。
根古は目を開けた。
由紀子を見た。
「……神田さんが、箱の文字を解読しかけとった」
由紀子の目が揺れた。
「どこまで」
「全部やない。でも??一部は」根古は右手を見た。「あとで話す」
由紀子は静かに頷いた。
杉林の中が、しんと静まり返っていた。
夕暮れの光が、木の間から差し込んでいた。
六 エピローグ
翌朝、根古は雨月に電話した。
「非公式で、場所を教える。あとはお前がやれ」
「わかりました」雨月は言った。「場所は」
根古は場所を伝えた。
電話を切った。
それだけだった。
帰り道、下呂温泉に寄った。
五人全員で。
根古と太田が男湯に入った。
湯船に沈んだ。
熱かった。ちょうどよかった。
しばらく二人とも黙っていた。
太田が天井を見たまま言った。
「あの三人、何者や」
「……言えんことがある連中や」
「そうか」
しばらく沈黙があった。
「由紀子さんという人、強い目をしとるな」
「強い人や」
「お前が人を強いと言うのは、珍しい」
根古は湯に顎まで沈んだ。
「……黙って浸かれ」
太田は笑った。
根古は笑わなかった。
でも悪くなかった。
湯から上がって、休憩室で五人が集まった。
自販機で缶コーヒーを買ってきた。
全員分。
誰も頼んでいなかった。根古が勝手に買ってきた。
千紗都が受け取った時、一瞬だけ表情が動いた。
麻尋が受け取って、両手で持った。
由紀子が根古を見た。
根古は目を逸らした。
缶コーヒーを飲んだ。
しばらく誰も喋らなかった。
やがて麻尋が言った。
「……先生、帰れましたか」
根古は缶コーヒーを一口飲んだ。
「帰れた」
麻尋が、小さく泣いた。
声は出なかった。ただ、涙だけが落ちた。
千紗都が麻尋の肩に手を置いた。
由紀子は窓の外を見ていた。
飛騨川が見えた。三月の川が、夕暮れの光の中で橙色に光っていた。
太田は根古を見た。
根古は缶コーヒーを飲んだ。
「……たまたまや」
太田は何も言わなかった。
ただ、頷いた。
それだけだった。




