漆の箱の中身
二月の終わりに、江戸川勉が根古の家に来た。
夕方だった。根古が縁側で缶コーヒーを飲んでいると、インターホンが鳴った。ヤマトが耳を動かした。根古は動かなかった。
もう一度鳴った。
「……」
三度目が鳴る前に、根古は立ち上がった。
玄関を開けると、江戸川勉が立っていた。
二十五歳。探偵。背が高くて、顔が若い。若すぎる。探偵に見えないと根古はいつも思う。ただ、目だけは使える目をしている。
今日のその目が、落ち着かない動きをしていた。
「根古さん、ちょっといいですか」
「上がれ」
台所でインスタントコーヒーを二つ作った。
勉の前に置いて、向かいに座る。
ヤマトが入ってきて、勉を一瞥して、根古の隣に座った。
「隣に、人が越してきたんですよ」勉は言った。
「それがどうした」
「三人です。女性が三人」
「それがどうした」
「深夜に連れ立って外出するんです。荷物の中に妙に重いものがある。近所付き合いは愛想がいいのに、目が笑っていない時がある」勉はコーヒーを一口飲んだ。「で、一人が俺に聞いてきたんです。この辺で霊的なことに詳しい人を知りませんかって」
根古は天井を見た。
「ワシに言うな」
「根古さんしかいないんですよ」
「お前、探偵やろ。自分で調べろ」
「調べたから来てるんです」
根古はコーヒーを飲んだ。
ヤマトが根古を見た。
「……わかった」と根古は言った。「明日、連れて行け」
翌日の昼過ぎ。
勉が住む借家街は、可児市の外れにあった。古い一戸建てが並ぶ、静かな通りだった。
勉の隣の家は、表から見ると普通だった。
カーテンが閉まっていた。郵便受けに名前がなかった。それだけだった。
勉がインターホンを押した。
しばらくして、ドアが開いた。
二十三歳の女が立っていた。
細い。背が高い。黒い髪を後ろで束ねている。笑顔だった。きれいな笑顔だった。ただ根古には、その笑顔がどこで作られているのかがわからなかった。
「根古さん、ですね」と女は言った。「西野千紗都といいます。話は江戸川さんから聞いています。どうぞ」
部屋に入った。
リビングに、もう一人いた。
千紗都と同じ年頃の女だった。丸い顔で、目が大きかった。千紗都より感情が顔に出る。根古が入ってきた瞬間、わずかに緊張した。
「古田麻尋です」と女は言った。
根古は部屋を見た。
奥に、もう一人いた。
壁際に立っていた。
四十歳。中肉。短い髪。腕を組んでいた。
動かなかった。
根古が入ってきても、表情が変わらなかった。
ただ、根古を見ていた。
値踏みするような目だった。いや、値踏みではない。もっと静かな目だった。長い時間をかけて人を見ることに慣れた、そういう目だった。
「星野由紀子です」と女は言った。
声が低かった。
根古の右手が、じわりと熱くなった。
三人から来るものは霊的なものではなかった。
生きている人間の重い何かだった。
血の匂いではなかった。
もっと静かな、長い年月積み重なってきた何かだった。
千紗都がお茶を出した。
根古は座った。勉が隣に座った。
千紗都が話し始めた。東京から来たこと。移住を考えていること。この地域のことを調べていること。
根古は聞きながら、由紀子を意識していた。
由紀子は壁際から動かなかった。
根古を見続けていた。
千紗都が話し終えたところで、由紀子が初めて口を開いた。
「根古さん」
「なんや」
「本物ですか」
根古は由紀子を見た。
「さあな」
由紀子は少し間を置いた。
「試してもいいですか」
「何をするつもりや」
由紀子は壁際から歩いてきた。
根古の前に立った。
右手を差し出した。
「握手してください」
根古は由紀子の右手を見た。
手の甲に、古い傷があった。皮膚が引きつれていた。古い火傷のような、しかしそれとは違う傷だった。
根古はその手を握った。
一瞬だった。
流れ込んできたものがあった。
映像ではなかった。
感触だけだった。
血と、泥と、長い夜の感触だった。
それと??もう一つ。
重い、重い、箱の感触だった。
根古は手を離した。
由紀子が根古を見ていた。
「……本物ですね」
由紀子は自分の席に戻った。
千紗都が小さく息をついた。
麻尋が口を開いた。
「由紀子さんが認めた人、初めて見た」
根古は缶コーヒーを飲んだ。
持ってくればよかった、と思った。
翌日。
千紗都が一人で根古の家を訪ねてきた。
手に、小さな箱を持っていた。
根古は玄関でそれを見た瞬間、右手に熱を感じた。
じわりではなかった。
ぞくり、と来た。
「上がれ」
台所のテーブルに、千紗都が箱を置いた。
黒塗りの漆箱だった。
大きさは両手に収まるほど。金の細工が表面に施されていた。細かい、丁寧な細工だった。古い。相当古い。江戸期のものか、あるいはそれ以前か。
根古は椅子を引いて座った。
箱を見た。
触れなかった。
ヤマトが台所に入ってきた。
箱を見た。
一歩、後ろへ下がった。
「由紀子さんから、です」千紗都は言った。「見ていただけますかと」
「どこから持ってきた」
「東京です。ある人から預かりました」
「依頼か」
「はい。この箱の中身を確認してほしいという依頼です。私たちには霊的なことがわからないので」
「中身は」
「開けられないんです。鍵はあります。でも開けると??」千紗都は少し間を置いた。「麻尋が、三日寝込みました」
根古は千紗都を見た。
「開けたのか」
「試しに、少しだけ」
「……お前らは学ばんのか」
千紗都は答えなかった。
根古はゆっくりと右手を箱に近づけた。
触れた。
表面だけに。蓋は開けなかった。
暗転。
戦の匂いがした。
古い時代だった。
一人の男が見えた。武将だった。甲冑ではなく、普段着だった。部屋の中にいた。
男の背後から、別の男が近づいていた。
刃物を持っていた。
男は振り返らなかった。
気づかなかったのか、気づいていたのか、わからなかった。
それだけだった。
次に見えたのは??箱だった。
誰かが箱に何かを封じていた。強い力を持つ人間だった。長い時間をかけて、丁寧に、確実に封じていた。
封じながら、その人間は泣いていた。
最後に??根古は感じた。
封じられたものの奥に、別の何かがいた。
重かった。
暗かった。
意思があった。
根古は手を離した。
額に汗をかいていた。
右手が強く痺れていた。
「……二つおる」
千紗都が根古を見た。
「表におるものと??奥に、別のものがおる」根古は言った。「表のものが奥のものを封じとる。封印が、封印されとる」
千紗都の顔が、わずかに青くなった。
「やっぱり、そうですか」
「知っとったんか」
「……由紀子さんが、そう言っていました」
「由紀子さんを呼んでくれ。直接話したい」
千紗都は立ち上がった。
ヤマトはまだ、箱から一歩引いた場所に座っていた。
一時間後、由紀子が来た。
一人だった。
台所に座って、根古の前に向かい合った。
コーヒーを一口飲んだ。
「何が見えましたか」
「二つおると言った。表が奥を封じとる」根古は言った。「表のものは??記録してほしいという念や。謀殺された武将やと思う。名前を消された男や」
由紀子は静かに聞いていた。
「奥のものは、まだ触れとらん。でも重い。暗い。意思がある」
「はい」
「お前は知っとったんやな」
「予想していました」由紀子は言った。「十年前に、この箱に触れた時??奥のものに、少し触れた」
根古は由紀子の右手の傷を見た。
「それで、その手か」
「はい」
根古は箱を見た。
「表のものが奥のものを押さえ続けとる。ずっと。何百年も」
「はい」
「……ご苦労さんな話や」
由紀子は少し間を置いた。
「根古さんに、処理をお願いしたい」
「やってみる、としか言えん」
「それで構いません」由紀子は根古を見た。「ただ??一つだけ、確認させてください」
「何を」
由紀子は立ち上がった。
根古を見た。
その目が??初めて、別の光を持った。
「今夜、また来ます」
それだけ言って、由紀子は帰った。
夜の十一時過ぎ。
根古は台所で一人、漆の箱と向き合っていた。
触れていなかった。
ただ、見ていた。
ヤマトが根古の隣にいた。箱から目を離さなかった。
缶コーヒーが空になっていた。
根古が立ち上がろうとした時。
気配があった。
音はなかった。
しかし根古は振り返った。
由紀子が部屋の入口に立っていた。
いつ入ってきたのか、わからなかった。
「……鍵はかけとったが」
「すみません」由紀子は言った。「そういう仕事をしていたので」
根古は由紀子を見た。
由紀子の目が、変わっていた。
昼間とは違う目だった。
仕事の目だった。
「来るとは思っとった」根古は言った。「何をするつもりや」
由紀子は答えなかった。
動いた。
速かった。
根古が体を動かす前に、由紀子はすでに根古の側面に回っていた。
根古の腕を取った。壁際まで誘導した。
力が強かった。
格闘に慣れた人間の動きだった。無駄がなかった。
根古の背中が壁についた。
由紀子の手が、根古の首の近くにかかった。
締めなかった。
ただ、かかっていた。
殺せる間合いだった。
由紀子は根古を見た。
「これが答えです」由紀子は静かに言った。「追い詰められた時、霊能者は何をするか。あなたはどうですか」
根古は由紀子を見た。
右手が??燃えるように熱くなっていた。
本気ではない、と根古にはわかった。
でも。
「……わかった」
根古は右手を由紀子に向けた。
魂剥離、発動。
由紀子の体から、何かが一瞬だけ剥がれた。
根古にしか見えないものだった。
由紀子の魂の、表層の一枚が、ほんの一瞬だけ浮いた。
由紀子の手から、力が抜けた。
由紀子が後ろへよろめいた。
膝をついた。
ヤマトが低く唸った。
数秒後。
由紀子は顔を上げた。
根古を見た。
「……本物だ」
声が、昼間とは少し違った。
何かが、溶けたような声だった。
根古は壁に背をつけたまま、息を整えた。
右手が震えていた。
「……人に使うたのは、初めてや」
由紀子は立ち上がった。
深く頭を下げた。
「すみませんでした」
「謝っても遅い」
「はい」由紀子は顔を上げた。「でも??これで、信用できました」
根古は由紀子を見た。
「お前、殺し屋やろ」
由紀子は少し間を置いた。
「噂は噂です」
「否定はせんのやな」
「……根古さんには、嘘をついても意味がないと思って」
根古は台所の椅子に座った。
腰が抜けそうだった。
「座れ」と根古は言った。
由紀子が座った。
二人は向かい合った。
「明日、やる」根古は言った。「全員連れて来い」
由紀子は静かに頷いた。
翌日の夜。
三人と勉が根古の家に集まった。
テーブルの上に漆の箱があった。
根古が箱の前に座った。
由紀子が根古の斜め後ろに立った。
千紗都と麻尋は部屋の端にいた。麻尋が緊張した顔をしていた。千紗都は無表情だった。
勉は入口近くに立っていた。青い顔をしていた。
ヤマトが根古の隣に来た。
箱を見た。
離れなかった。
「お前も来るか」根古はヤマトに言った。
ヤマトは答えなかった。
根古は両手を箱の上に置いた。
守護霊たちが集まる気配がした。
戦国武将、山伏、巫女、猫又。
全員いた。
根古:「……手伝えよ」
無言だった。
それが返事だった。
第一層。
表の霊が根古に触れてきた。
重かった。
何百年分の重さだった。
根古は正面から受け取った。
「長い間、押さえ続けたんやな」
霊が応えた。言葉ではなかった。
疲れていた。
ただ、長く疲れていた。
それでも放せなかった。
奥のものが怖かったのではなかった。
奥のものが、外に出た時のことを、知っていたから。
「ワシが代わりに片付ける」根古は言った。「お前は逝っていい」
霊は動かなかった。
根古は続けた。
「信用できんか」
長い沈黙があった。
やがて??全部が、根古に委ねられてきた。
ずっしりとした重さだった。
そして表の霊が、消えた。
その瞬間。
箱の温度が、急激に下がった。
麻尋が息を呑んだ。
勉が一歩、後ろへ下がった。
千紗都が動かなかった。
由紀子が一歩、前に出た。
根古の両手の下で、箱が??震えた。
第二層。
奥のものが出てきた。
形がなかった。
意思だけがあった。
怒りと憎しみと、長い時間腐り続けた何かが、根古に向かってきた。
対話の余地はなかった。
根古は右手を正面に向けた。
「来い」
魂剥離、発動。
右手から熱が爆ぜた。
部屋の電球が明滅した。
ヤマトが低く唸った。
根古と奥のものが、正面からぶつかった。
押し返された。
根古の体が後ろへよろけた。
由紀子が根古の背中を支えた。
根古は息をついた。
「……もう一回、行く」
「行けますか」由紀子が耳元で言った。
「行く」
根古は前に向き直った。
守護霊の戦国武将が、右側に立った。
山伏が左側に立った。
巫女と猫又が後ろを固めた。
根古は右手を上げた。
「……今度は逃がさん」
魂剥離、全力。
部屋が、静かになった。
電球が、普通の明るさに戻った。
箱が??ただの箱になっていた。
根古は膝をついた。
立っていられなかった。
由紀子がしゃがんで、根古の顔を見た。
「終わりましたか」
「……終わった」
由紀子は根古の右手を見た。
震えていた。
由紀子は何も言わなかった。
根古の右手を、両手で包んだ。
少しだけ。
それだけだった。
麻尋が泣いていた。
勉が壁に手をついていた。
千紗都が、静かに目を閉じた。
七 エピローグ
しばらくして、根古は椅子に戻った。
由紀子が箱を持って、根古の前に置いた。
「文字が残っています」
根古は箱を見た。
金細工の文字が、くっきりと残っていた。
中のものが消えて、かえって浮き上がって見えた。
読めなかった。
古い文字だった。
守護霊の山伏が、根古の隣に来た。
箱を見た。
長い沈黙があった。
根古:「読めるか」
山伏は答えなかった。
しばらく経って、低く言った。
『……これは、封印の作者の名前やない』
「何や」
山伏は根古を見た。
『……次の、器の名前や』
根古は箱を見た。
由紀子が根古を見ていた。
千紗都が根古を見ていた。
麻尋が根古を見ていた。
勉が根古を見ていた。
誰も何も言わなかった。
根古は箱を見たまま、小さく言った。
「……ワシの名前やったら、笑えんな」
誰も笑わなかった。
ヤマトだけが、小さく鳴いた。
三人が帰った。
勉が残った。
「根古さん、大丈夫ですか」
「寝込む」
「え」
「三日は動けん。楓先生には??」
「言いますよそれは」
根古は布団に倒れ込んだ。
ヤマトが胸の上に乗ってきた。
重かった。
「……どかんでええ」
ヤマトは動かなかった。
根古は天井を見た。
山伏の言葉が、頭の中に残っていた。
次の器の名前。
「……まあ」
根古は目を閉じた。
「たまたまやろ」
守護霊たちは、今回は何も言わなかった。




