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地図にない寺

一月の中旬に、ヤマトの餌が切れた。

朝、根古が台所に立つと、ヤマトが餌入れの前に座っていた。

空の餌入れの前に。こちらを見ていた。

「……わかっとる」根古は缶コーヒーを一本持って、軽自動車に乗り込んだ。

外は雪だった。大した雪ではない、と思った。

美濃市の山沿いに入ったあたりで、それが間違いだったとわかった。


道が白くなっていた。轍がなかった。

朝からここを走った車がいないということだ。

根古は速度を落とした。落とした次の瞬間、タイヤが空転した。

「……」アクセルを踏んでも動かなかった。バックしようとしても動かなかった。

スタックした。根古は車を降りた。タイヤが雪にはまっていた。

スコップは積んでいなかった。

JAFに電話しようとしたら、圏外だった。

「……なんやねん」白い息を吐いて、根古は辺りを見回した。

民家はなかった。山だけがあった。「歩くか」


道を戻りながら歩いた。

電波が戻る場所まで行けばいい。

そう遠くないはずだ。

雪が降り続けていた。

五分ほど歩いたところで、根古は立ち止まった。

右手が、じわりと熱くなった。

山の方を見た。

木々の間から、何かが見えた。

屋根だった。古い、黒い屋根だった。

根古はスマホを出して地図アプリを開いた。建物の表示はなかった。

「……なんや」見てから行けばよかった、と後で思った。

でもその時は、足が勝手に動いていた。


雪を踏んで、山に入った。

木の間を抜けると、開けた場所に出た。

廃寺だった。小さな寺だ。

本堂だけが残っていた。鐘楼の跡がある。

庫裏は屋根が落ちていた。

石段は苔むして、雪の下に埋もれていた。

山号の表札は、風雨で文字が読めなくなっていた。

右手の熱が、少し強くなった。

根古は本堂の前に立った。

扉が半開きになっていた。

中から、声が聞こえた。子供の声だった。

小さな声で、何かを繰り返していた。

根古は扉を引いた。



少女が一人、本堂の中に座っていた。

十歳前後だった。厚手の赤いコートを着ていた。

膝を抱えて、本尊に向かって何かを呟いていた。

根古が敷居をまたいだ音で、少女が振り返った。

泣いていた。目が赤かった。

ずっと泣いていたのではなく、泣いたり止まったりを繰り返してきた目だった。

「……おじさん、ここがわかったん?」「迷い込んだだけや」根古は言った。

「お前こそ、なんでこんなとこにおる」少女は根古を見た。

警戒しているのか、していないのか、わからない顔だった。

「おじいちゃんを、探してる」


少女の名前は村井灯といった。

十歳。

祖父の村井勝蔵が、二日前から行方不明になっていた。

七十四歳。

家族は警察に届けを出していた。

山の中で高齢者が消えた案件として、捜索が続いていた。

灯が一人でこの廃寺に来た理由を、根古は聞いた。

「おじいちゃん、ここの話をよくしてた」灯は膝を抱えたまま言った。

「子供の頃に来た寺やって。地図にも出てこんのに、おじいちゃんだけが知っとった」

「何度も聞いとったんか」

「うん。ここの和尚さんに、いろんなことを教えてもらったって。

だからここに来てみたら、おじいちゃんもここに来とるんやないかと思って」

根古は本堂の中を見回した。

古い本尊が残っていた。小さな阿弥陀仏だ。埃をかぶっていたが、形は崩れていなかった。

右手の熱が、じわりと強くなった。

「一人で来たんか」

「うん」

「親には言ったんか」

灯は少し黙った。

「……言ったら、来させてもらえんかったから」

根古はため息をついた。

怒る気にはなれなかった。

この子は間違っていない、と思った。

間違った方法で、正しいことをしようとしている。そういう子供だった。

「ここで待っとれ」根古は言った。「外に出るなよ」

灯が根古を見た。「どこ行くん」

「ちょっと見てくる」


本尊の前に立った。

埃を払った。

ゆっくりと、右手を伸ばした。

台座に触れた。


暗転。


光があった。

夏の光だった。

本堂の中に子供たちがいた。

七、八人。畳の上に座って、老いた僧侶の話を聞いていた。

僧侶は穏やかな顔をしていた。

戦後まもない頃の光景だった。服が薄かった。

子供たちの顔が、どこか翳っていた。でも目は光っていた。

縁側に、一人だけ輪から外れた子供がいた。

膝を抱えて、泣いていた。

僧侶が立ち上がった。

縁側へ行った。

子供の隣に座った。

何も言わなかった。ただ、隣に座った。

子供の泣き声が、やがて小さくなった。

消えた。

子供が顔を上げた。

幼い、しかし根古には見覚えのある顔だった。

村井勝蔵の、幼い頃の顔だった。


根古は台座から手を離した。

右手の痺れが、ゆっくりと引いていった。

「……ここで育ったんやな、あの人は」

守護霊の山伏が、根古の背後に立つ気配があった。

『老いた者が、最後に帰る場所を選ぶことがある』

根古は立ち上がった。

灯の方を見た。

少女はまだ膝を抱えていた。本尊を見ていた。

「灯ちゃん」

灯が振り返った。

「お前はここで待っとれ。動くなよ」

「おじいちゃんは」

「探してくる」

灯の目が揺れた。

「……見つかる?」

根古は答えなかった。

扉を開けて、外に出た。


本堂の縁側に腰を下ろした。

雪が降り続けていた。

静かだった。

根古は目を閉じた。

意識を遠くへ飛ばした。

勝蔵を探した。老人の顔を、先ほどサイコメトリーで見た幼い顔と重ねながら、探した。


雪の山道が見えた。

老人が歩いていた。

ゆっくりと、しかし確かな足取りで歩いていた。

迷っていなかった。

目的地を知っている人間の歩き方だった。

老人が立ち止まった。

廃寺の裏手だった。

雪に埋もれた、古い墓地があった。

小さな墓が並んでいた。

老人は一つの墓の前に膝をついた。

手を合わせた。

そのまま、動かなくなった。


根古は目を開けた。

立ち上がった。

廃寺の裏へ回った。

雪が深かった。足首まで埋まった。

木が途切れた先に、墓地があった。

老人が座っていた。

「おい」

根古は駆け寄った。

勝蔵がゆっくりと顔を上げた。

意識はあった。

ただ、目が遠かった。

唇が少し紫がかっていた。長い時間、雪の中にいたのだろう。

「……ここの和尚さんの墓や」勝蔵は言った。

声が掠れていた。「ワシを育ててくれた人の」

根古は勝蔵の体を引き起こした。

体が冷えていた。

「立てるか」「立てる」勝蔵は言った。

「まだ立てる」

根古は勝蔵の腕を肩に回した。

「孫が来とる。灯ちゃんが、一人でここまで来とる」

勝蔵の体が、わずかに強張った。

「……灯が?」

「泣いとった。ずっとお前を探しとった」

勝蔵は根古を見た。

皺だらけの顔に、初めて焦点が戻った。

「……帰らんといかんな」

「当たり前や」根古は言った。「行くで」


勝蔵を支えながら、本堂へ向かった。

雪を踏む音が二つ、重なって聞こえた。

その途中だった。

根古の右手が、急激に熱を持った。

足が止まった。

廃寺の空気が変わった。

何かがいた。

本堂の方から来ていた。

怒っているのではなかった。

ただ、重かった。

誰も来なくなって、長い年月が経った場所に積もるものがあった。

忘れられた場所の、静かな重さだった。

「……ちょっと待て」

根古は勝蔵を近くの木に寄りかからせた。

「動くなよ」

本堂に向き直った。

右手を上げた。魂剥離は使わなかった。

ただ、右手を扉に向けて、静かに言った。

「ここにおった人たちは、みんな逝っとる。お前もそろそろ、ええやろ」

守護霊の巫女が、根古の隣に来た気がした。

何も言わなかった。

ただ、一緒に立っていた。

廃寺の空気が、すうっと変わった。

重さが、溶けるように消えていった。

雪が一度だけ、強く降った。

木の枝から雪が落ちた。

静かになった。

根古は右手を下ろした。

「……ええかった」

誰にともなく言った。


勝蔵が根古を見ていた。

「今、何をした」

「何もしとらん」根古は言った。「行くで」

勝蔵は少し間を置いた。

「……ありがとう」

根古は返事をしなかった。

勝蔵の腕を肩に回して、歩き出した。


五 エピローグ

本堂の扉を開けると、灯が飛んできた。

「おじいちゃん」

勝蔵が灯の頭を抱いた。

「……来てくれたんか」

「来るに決まっとる」灯は泣いていた。

「心配したんやから」

勝蔵は灯の頭を撫でた。

根古はその二人を見なかった。

扉の外に出て、雪を見た。



山を下りた。

麓で家族が待っていた。

駆けつけた警察官もいた。

勝蔵は救急車に乗せられた。

軽い低体温症だったが、命に別状はなかった。

灯が根古を振り返った。

「おじさん、名前は」

「根古や」

「根古おじさん、ありがとう」

根古は何も言わなかった。

灯は家族のところへ走って行った。


軽自動車はまだスタックしていた。

JAFに電話した。

一時間待ちだと言われた。

根古は車のそばに立って、缶コーヒーを飲んだ。

ぬるかった。

雪が少し弱くなっていた。

守護霊たちの気配があった。

何も言わなかった。

根古も何も言わなかった。

山を見た。

木の間から、廃寺の屋根がかろうじて見えた。

もう、何も感じなかった。

軽くなっていた。

「……ええかった」

もう一度だけ、言った。


スタックが解消して、ペットショップへ向かった。

ヤマトの高級猫缶を三つ買った。

まぐろ、かつお、鯛。

レジで千二百円払った。

「……高いな」

呟いたが、棚に戻しはしなかった。


家に帰ると、ヤマトが玄関で待っていた。

根古を一瞥した。

猫缶の袋を見た。

踵を返して、台所へ歩いて行った。

根古は後をついて行った。

「ただいま」

ヤマトは返事をしなかった。


夜、縁側に出た。

雪は止んでいた。

雲の切れ間に、星が見えた。

根古は缶コーヒーを飲んだ。

灯のことを思った。

一人で山に入った十歳の子供のことを。

「……ええ子やな」

ヤマトが縁側に来た。

根古の隣に座った。

星を見た。

二人で、しばらく星を見た。

何も言わなかった。

何も言わなくてよかった。

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