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川の老婆

三月の中旬に、ロドリゲス斎藤からLINEが来た。


根古が縁側で缶コーヒーを飲んでいた昼下がりだった。ヤマトが膝の上で丸くなっていた。


スマホを見た。


斎藤だった。


「おっさん、ちょっとええか」


根古は既読にした。返信しなかった。


「動画撮りに行ったら、やばいもん映った」


根古は缶コーヒーを飲んだ。


「川に老婆がおる」

「しかも毎晩」


ヤマトが目を開けた。


根古は返信しなかった。


次のメッセージが来た。


「近所の子供が川に引き寄せられかけた」

「三人目や」


根古は少し間を置いた。


返信した。


「場所を送れ」


三秒後に地図が来た。


ヤマトが根古を見た。


「お前は留守番や」


ヤマトは答えなかった。


坂祝町の国道沿い。


木曽川が真下に見える崖の上に、廃墟が建っていた。


かつては食堂兼土産物屋だったらしい。

昭和の観光地によくあった種類の店だ。

窓ガラスが割れていた。

看板の文字が読めなくなっていた。

壁が苔むしていた。

二十年以上、誰も入っていない建物の匂いがした。


ロドリゲス斎藤が廃墟の前で待っていた。


首からカメラを下げていた。肩に大きなバッグ。いつも通りの格好だった。


「おっさん、来てくれるとは思わんかった」


「三人目と聞いたら来るわ」


「そうか」斎藤は少し表情を和らげた。「ありがとう」


根古は返事をしなかった。


廃墟の裏へ回った。


崖の縁に出ると、眼下に木曽川が見えた。


三月の川だった。雪解けが始まっていて、水が多かった。濁っていた。うねりながら流れていた。


根古は崖の縁に立った。


右手が、重くなった。


じわりではなかった。


ずっしりと。深く。まるで水を含んだ土のように。


「……ここ、長い」


「長い?」斎藤が隣に来た。


「ここにおるものが、長い」根古は川を見たまま言った。「何十年やない。もっと前からや」


斎藤は根古の横顔を見た。何も言わなかった。


廃墟の中に入った。


床が抜けかけていた。根古は慎重に歩いた。斎藤は慣れた足取りで進んだ。こういう場所に入り慣れているのだろう。


川が見えた窓の前に立った。


ガラスが割れていて、風が入ってきた。


冷たかった。


川の音が聞こえた。


斎藤がカメラを取り出した。


「映像を見てくれ」


画面を根古に向けた。


夜の映像だった。川が暗く映っていた。


水面に、白いものが見えた。


老婆だった。


川の中に立っていた。


腰まで水に浸かっていた。


動かなかった。


ただ、川岸を見ていた。


表情がなかった。


目が、じっと川岸を見ていた。


根古は画面を見た。


「毎晩や」斎藤は言った。「深夜一時から三時の間。夜明け前に消える。俺、三日連続で撮った」


「消える前後は」


「スッと消える。溶けるような感じや。煙みたいになるわけやない。ただ、いなくなる」


根古は映像の老婆を見た。


「子供が引き寄せられたのは」


「この崖の下の河川敷や」斎藤は言った。「三人とも、気がついたら川に向かって歩いとったと言っとる。止めたのは全員、親や。本人たちは川に行こうとした意識がない」


根古は窓の外の川を見た。


「……この場所、昔何があった」


「調べた」斎藤はバッグからタブレットを出した。

「ここで水難事故が何件かある。記録に残っとるだけで七件。一番古いのは昭和十年代や。でも地元の古老に聞いたら、もっと前からここで人が川に入っとると言っとった」


「食堂が閉まったのは」


「二十三年前や。経営者が高齢で引退したらしい。それ以来ずっと廃墟や」


根古は壁に手をついた。


壁の感触が、根古の右手に流れ込んできた。


暗転。


昭和の光景だった。


賑やかな食堂だった。


窓から川が見えた。


客が食事をしていた。土産物が並んでいた。子供が走り回っていた。


ここは長い間、川を見下ろしてきた場所だった。


川を見る場所だった。


何十年も。


そして??川が見えた。


川の中に、何かがいた。


ずっとそこにいた。


食堂が賑やかだった頃も。廃墟になってからも。


この崖と川と建物が、一体になって積み重ねてきたものだった。


水難事故の記憶。


川に引き寄せられた命の記憶。


川が持つ引力の記憶。


老婆の形をとっているのは??この場所が長い時間かけて作り上げた姿だった。


人ではなかった。


場所だった。


根古は手を離した。


斎藤が根古の顔を見ていた。


「何が見えた」


「老婆は霊やない」


「じゃあ何や」


「場所や」根古は壁を見た。

「この崖と川が、長い年月かけてああいう形になった。

人が死んだ記憶、引き寄せられた記憶、川の引力??全部が積み重なって、老婆の形になっとる」


斎藤は少し間を置いた。


「……消せるか」


「消えん」根古は言った。「場所がある限り、おる」


「じゃあどうする」


「夜まで待つ」


斎藤は腕時計を見た。


「六時間あるな」


「弁当でも買ってこい」


斎藤は笑った。「おっさん、肝据わっとるな」


「お前に言われたくない」


斎藤が弁当を二つ買ってきた。


唐揚げ弁当だった。


廃墟の中で二人で食べた。


床の上に新聞紙を敷いて座った。


川の音が聞こえていた。


斎藤:「おっさん、こういう時緊張せんの」


根古:「する」


斎藤:「顔に出んな」


根古:「出す必要がない」


斎藤は唐揚げを食べた。


「子供、三人とも無事やったんか」と根古は聞いた。


「無事や。全員親が気づいて止めた。でも??もし気づかんかったら」斎藤は川の方を見た。

「この水量やったら、子供は流される」


根古は弁当の蓋を閉めた。


「お前、なんでこの場所に来たんや」


「動画の撮影や。廃墟シリーズをやっとってな。この辺の廃墟を回っとった」


「子供の話は誰から聞いた」


「地元の人や。撮影の許可を取りに挨拶して回ったら、教えてくれた。心配しとったな、みんな」


根古は缶コーヒーを飲んだ。


「お前、ええとこあるな」


斎藤が根古を見た。


「……褒めてくれるんか」


「褒めてへん」


斎藤はけらけら笑った。


夜になった。


国道の車の音が遠くなった。


虫の声はまだなかった。三月だった。


廃墟の中が暗くなった。


斎藤が小さなランタンをつけた。


根古は川の方を向いて座っていた。


守護霊たちの気配が、静かに集まってきていた。


山伏、巫女、戦国武将、猫又。


全員いた。


でも今夜は静かだった。


何も言わなかった。


ただ、根古の周りにいた。


夜中の一時を過ぎた頃。


川が、変わった。


音が変わったのではなかった。


気配が変わった。


根古は立ち上がった。


崖の縁に出た。


川を見下ろした。


いた。


老婆だった。


腰まで水に浸かって、川岸を見ていた。


白い着物だった。


髪が長かった。


顔が、こちらを向いた。


目が合った。


根古の右手に、強い熱が来た。


老婆から流れ込んでくるものがあった。


引力だった。


川へ向かう、静かな、重い引力だった。


でもそれは悪意ではなかった。


川は引き寄せる。昔からそういうものだ。


水は命を引き寄せる。それが川の性質だった。


老婆はその引力を、長い年月かけて形にしたものだった。


根古は崖の縁に立ったまま、老婆に向かって言った。


「子供には向けるな」


老婆は動かなかった。


川岸を見ていた。


「川が引き寄せるのは止められん。それはお前の性質や。でも子供は関係ない」


老婆はまだ動かなかった。


守護霊の巫女が、根古の隣に来た気がした。


根古は右手を川に向けた。


魂剥離は使わなかった。


場所そのものに魂剥離は効かない。


代わりに??右手の熱を、ゆっくりと川に向けて流した。


押し付けなかった。


ぶつけなかった。


ただ、流した。


川の引力と、根古の右手の熱が、静かに向き合った。


長かった。


どのくらいの時間だったか、根古にはわからなかった。


川の音だけが聞こえていた。


やがて。


老婆が根古を見た。


根古は老婆を見た。


老婆の目が??川岸から外れた。


川の方を向いた。


川だけを見た。


根古の右手の熱が、すうっと引いた。


子供への引力が、消えた。


根古は息をついた。


「……ありがとう」


老婆は答えなかった。


川だけを見ていた。


消えなかった。


ただ、川の方だけを向いていた。


五 エピローグ

夜明け前、根古と斎藤は廃墟を出た。


国道に出ると、東の山が白みかけていた。


「老婆、消えんかったな」斎藤が言った。


「消えん」根古は言った。「あれはここや。この崖と川がある限り、おる」


「また映るな、動画に」


「映ってもええ。ただ??川岸は向かんようになった。それでええ」


斎藤はカメラを見た。


しばらく黙っていた。


「動画にしていいか」


根古は少し考えた。


「子供の話は出すな」


「わかった」斎藤は珍しく真顔で言った。「それだけ守る」


根古は頷いた。


軽自動車に乗り込んだ。


斎藤が助手席に乗ってきた。


「送ったる」根古は言った。


「ありがとう」


国道を走った。


木曽川が朝日に光り始めていた。


橙色だった。


水が多い川は、光を受けると眩しかった。


斎藤が窓の外を見ていた。


「おっさん、報酬は」


「いらん」


「そうはいかんやろ」


「ムハンマドのカレーを奢れ」


斎藤は笑った。


「安いな」


「高いわ。あそこのカレー、値打ちがある」


斎藤はまた笑った。


今度は少し違う笑い方だった。


斎藤を降ろして、家に帰った。


夜明けの可児市は静かだった。


玄関を開けると、ヤマトが廊下にいた。


根古がしゃがむと、頭を押し付けてきた。


一回だけ。


「ただいま」


ヤマトは踵を返して台所へ歩いて行った。


餌の時間だった。


根古は後をついて行った。


餌をやってから、縁側に出た。


夜明けの空が、白から青に変わっていくところだった。


缶コーヒーを一口飲んだ。


川の老婆のことを思った。


何十年も、何百年も、川を見続けている何かのことを。


消えない。


消えなくていい。


川がある限り、あそこにいる。


ただ川だけを見て、川だけに向いている。


「……ご苦労さんな話や」


誰も答えなかった。


春の夜明けの風が、庭を渡った。


ヤマトが縁側に来て、根古の隣に座った。


二人で空を見た。


青が、少しずつ深くなっていった。




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