ロイス・オズフェル2
どういうこと? そう尋ねようとした瞬間、扉が蹴破られたのかと懸念するほど強く開かれた。
風が馬車へと入り込み、ジーン様の髪が舞い上がる。
月光の力強い光を背にして、凛然とした紳士が階段でも降りるように中へ入ってきた。
飛ばないように帽子をおさえて、優雅な足取りで。
その靴が床についた瞬間、部屋の中が夜空に変わった。
星が瞬く、綺麗な月夜。
私たちは夜空を飛んでいる!
思わず立ち上がった私を彼が抱き寄せた。
「これは。相変わらず、見事なものだな」
「王子様に褒められても嬉しくないのだけど」
ジーン様の言葉にもつっけんどんに返す。
その声が顔の近くで聞こえてどぎまぎしている。
馬車に突然、夜空を出現させることができる人を、私は一人しか知らない。
「ロイス!」
「イライザ、なぜこんなに遅いの? 僕が迎えに来なければ帰らないつもりだった?」
拗ねたような言葉につい、笑ってしまう。
ロイスの魔法が、この馬車の中を夜空にしてしまった。
真珠のような星が髪をきらきら照らしている。
「僕のお嫁さんなのに、こんな奴と二人っきり。ふしだらすぎる」
「えっ!? ち、ちがっ」
確かに言われて見ればジーン様と二人っきりだ。密会していたのかって勘繰られても仕方がない。
それに、行きはルビーさんだったのに、帰りはジーン様になっているって、端からみれば愛人を取っ替え引っ替えにしているように映るのでは。
「王子をこんな奴呼ばわりとは、隠士の長は豪胆だ」
「人の妻を取ろうとしている王子に言われたくない。いくらイライザが魅力的だからって」
「王子ならば人妻に懸想してはいけない?」
「臣下の逆上を防ぐのならば。慣例を紐解いてやろうか」
「因習になっているのならば、わたしが道を違えるのは必然では?」
「だからって、僕のものを奪うな。痛めつけられたい?」
そう言いながら、ロイスは顔を近付けてきた。言い返す暇もなく口付けられる。
短ったけれど、頭がぽおっとなるような熱がロイスの唇にはあった。
「イライザも。僕以外に奪われるな。君にも酷いことしなくちゃならなくなる」
「酷いこと!?」
「毎日三十回は唇を重ねるっていうのはどう? 」
「三十回!?」
ルビーさんともそんなに口付けしてないのに?!
……私、ルビーさんに何回も口付けされている。それなのにロイスと唇を重ねた。
ロイスが他の人と間接的に唇を重ねるのは嫌だなって思った。
そうさせているのは、自分なのに。身勝手だ。
陰気な考えは、今は捨て去る。
落ち込んでいるだけじゃ駄目だ。
「不埒な行いなのはどちらだ。隠士の長。口付けは神聖なものだ。むやみやたらと交わしていいものではない」
「僕にとってイライザはむやみやたらと唇を交わしたくなるぐらい魅力的な女性だ」
なんだか、恥ずかしいことを真剣に論議している!
「魅力的な女性に口付けを強請ってなにが悪い」
「イライザ、恥ずかしいのでは?」
「僕のお嫁さんに話しかけないでくれる? 王子といえども、容赦はしないよ」
「心の狭い持ち主だ。夫とはもっと寛大であらねば」
「知らない。僕は僕のしたいことだけをするのさ。お前の指図など受けないよ」
頭が火をつけられたように熱くて仕方がない。
二人して、凄いこと話している自覚、あるだろうか。
「そもそも、イライザの唇は僕と重なるためにあるのだよ。少しぷくりと腫れているのも、誘惑するように艶っぽいのも、すべて夫である僕のためなのだから、仕方ない」
「し、仕方ないってなに?!」
「口付けされても仕方ないと言っているんだよ」
よし、気絶しよう。ロイスの言葉に色がついているならば、絶対に桃色だ。
酩酊させたいとばかりに甘ったるくて、胸焼けする言葉達に脳が気絶しなさいと誘ってくる。
神が与えた試練なのかもしれない。夫の甘言に惑ってはいけないという。
「ほらイライザ、君も言っていい。僕の唇は私と口付けするためだけにあると、ね」
息も絶え絶え、私が今なぜ生きているのか分からなくなってきた。
さすがのジーン様も、ロイスの砂糖の塊を食べているような言葉の数々に閉口している。
「ほら、僕の唇を塞いで、宣言してごらん」
理性という楔がぼろぼろ壊れていく。
だんだんロイスって、情熱的! と恋は盲目な思考回路になってくる。
だめだだめだ、このままいったらジーン様の前でロイスの言葉を復唱して後々羞恥心で死にたくなるに決まっている。
あたりに散らばる無数の星々に視線を移して、どうにかロイスの誘惑を拒む。
だが、ロイスの息が耳にあたると、星々のことなど頭のなかから消えてしまう。
星々から視線を離すと、ジーン様と目が合った。
羞恥で顔が燃え上がるような気がした。
「ロイス!」
「なあに、僕の唇を塞ぐ気になったの?」
「か、帰ろう! 家でしよう!」
「ふうん、まあ、イライザがねだるのだから仕方がないね」
満悦気味にロイスは頷いた。
ふうと一息つく。このままずっと口付けする羽目になったら、羞恥で身が焼ける。
ロイスは小脇に抱えていた杖を床に降ろした。瞬間、夜空が正方形の部屋に変わった。布を引っ張る音がすると、ぱたんぱたんと側面が開いていく。壁が倒れていく。遮るものはなにもない。
夜の臭いが鼻腔をくすぐった。
ふわりと、羽が生えたようにロイスが飛び立った。
彼に抱えられた私も、一緒に空を飛ぶ。
「じゃあね、王子様。イライザは僕がいただいていくよ」
怪盗みたいな言い方に、不覚にもときめいてしまった。
ロイスって、この世でもっともかっこいい男性だと思う。
「ーー仕方ない。また、お会いしよう、イライザ」
苦笑していたジーン様がふっと、淫美な表情をつくった。
なにか嫌な予感がする。
「ああ、そうだ、隠士の長。この方がどんなところにいたか、教えてやろうか?」
「なに?」
「あまり自由を与えぬほうがいいのでは? 私なら、そうするが」
ぐんぐんと高度が上がっていく。髪が風でふわふわ浮いている。
慌てふためく馭者の姿が豆粒のように小さくなる。
優雅に一礼するジーン様が遠ざかっていく。
「ロイス、馬車は……」
「僕が屋敷についたらもと通りになるようにしてあるよ。そのあいだ、ここでゆるりと待っていればいいんだ」
王子がいた場所に視線を落として、鼻を鳴らす。
あたりはさっきロイスが作り出した幻のように星々が輝いていた。
ロイスに手をとられ、屋敷まで空中散歩。
まるで、私まで魔法使いになったみたいだ。
「それで、あの王子が言っていたのは?まるで、イライザが不埒な場所に行っていたと言わんばかりだったが」
「え、えっと」
歯切れの悪い私に、ロイスは眉を上げた。
「ふぅん、僕を家に待たせたあげく、愉悦に興じていたの? 今日は寝るまでキスをしようか。ああ、寝るのは明日になるかもしれないか」
言い訳を吐こうとした唇に、淡雪のような唇が落ちてくる。
「どんなに言い訳しようと、無駄だから黙りなさい」