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ヴェクサシオン  作者: 杜若表六
第一章

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「はあ、これで私も流浪の身か……燃えてしまった、なにもかも! そんなに長いあいだ住んでいたわけではなかったが、それでも愛着のある家だった。Home, sweet home !」と神は嘆いた。

「そんなに気を落とさないでください、先生。だって、現に命は失わずに済んだじゃないですか? だれかが本当に先生のことを狙っているというのは、よくわかりましたが……。まあ、家の一軒や二軒、すぐに建て直せますよ。だって、先生が本気になって書けば、きっとベストセラー間違いなし!」とマネージャーがそれを慰める。

「ベストセラーなんて、書こうとしても、そうそう書けるものじゃないさ……たぶん、私には絶対にムリだ。それに、君は一軒家に住んだことがないからそう言うがね、実際、この喪失感というもの、それはそれは強いものなのさ。なんせ、自分の生活の基盤を失ってしまったんだ、それも無理からぬことだろう? 君にもわかる時がくる……」

「なるほど、そんなものですかねえ? まあたしかに僕もあのアパートが燃えたら、少しばかり悲しい気持ちになるかもわかりませんね。一体全体、住処すまいというのは不思議なものですね。普段はその存在を気にも留めないのに、いざ失ってみると、その大切さがわかるのですから!」といってマネージャーはなにか納得したように独り頷いた。

「ありがとう、君と話しているとなんだか元気が出てきたよ、不思議だな、悲しみも人と共有するとその本質が見えてきて、かえって活力になるとは! 『旅は道連れ、世は情け』か! よく言ったものだ。マネージャーくん、なんとかこの苦難をともに乗り切ろう」

「そうですね、それしかありませんね」とまたしても殊勝に頷く。


 彼の自宅を燃やしたのが実は「悪魔」ではなく、他ならぬ「天使」であったことなどつゆ知らず、神はマネージャーとともにいまだ街をさまよっていた。辺りには目つきの悪い男や腹をすかせた犬がうろついている(世の中には、大きな混乱に乗じて何処からともなく現れる、謎めいた怪しいものたちが存在するのだ)。

 いまやこの街を支配している唯一の法則は「無秩序」であった。マネージャーはようやく事の異常さに気が付いてきたようで、「先生、早く今晩の宿を見つけましょう!」などとくりかえしささやいた。神はその進言には耳を貸さず、二人はひたすらに歩いた。歩きに歩いた。

 ――この狂った街を抜け出すために。安息の地を探すために。

《それにしても、悪魔ってどんな奴らなんだろう?》マネージャーはずっと考えていた。《先生によると、二人組の紳士、って話だけどな。なんだか、まるきり想像がつかないな。ニュースの通りの、凶暴で恐ろしいやつらなんだろうか? だとしたら厄介だ。……それでも、できれば、一目見てみたいもんだ! 実在するなら、ね》

 この青年は、いつでも現実に生きていた。悪魔など少しも信じてはいなかった。少なくとも今までは。今は?……先生のこの狂乱ぶりに、何かしらの根拠があるのは間違いないと思っている。

 しかし、悪魔とは……。借金取りか何かのことじゃないのか? とにかく、悪魔っていうことはなくて、なにか、別のものなんじゃないか? それなら、少しは納得がいく。先生は少し疲れているだけだ。自分も疲れている。二人とも、休暇を取るべきだ……少々長めの。どこか静かな浜辺にでもいって、のんびり過ごそう。それがいい。そうしよう。そうしないと、いつか自分のところにも悪魔が訪ねてくるかもしれない。

 悪魔を信じるなんて、まるで昔話の世界だが(子供のころ読んだ『イワンのばか』もたしかそんな話だったっけ)、人間の心の中には悪魔がいる、という考えには確かに一理ある。なにかの拍子に、そいつが、心の中から抜け出して、目の前に現れるのだ。「やあ! 僕、悪魔! よろしくね!」そしてむしゃむしゃと人を食い殺す。

 ああ! 僕は疲れているんだ、きっと。休みを取ろう。それも長めの。そういえば、もう半年も働きづめだ。半年前、風邪をこじらして休んだきりだ。そのときは、先生が看病してくれたっけ……。うん、やっぱり先生には恩義がある、もちろん義務も。彼についていくしか道はないのだ、今の自分には。……


 いくら歩いても一向に街から出られないことに気がつき、神は立ちどまった。

 おかしい。こんなに大きな街に住んでいただろうか。たしかにここは名のある地方都市だが、それでも所詮は一地方都市。これではあまりにも広すぎやしないか。

 そこで神は、ここ数年、自分が街から一歩も出ていない事実に気づき、少しばかり驚いたが、すぐに気を取り直して、街が奇怪に膨張している原因を考えた。

 ……いや、考えるまでもない。これは絶対に悪魔どもの仕業だ。

 神はそこまで考えた後、自らの思考を反芻して愕然とした。「これは絶対に悪魔どもの仕業だ」だって? まるで、中世の迷信深い人々の言いぐさじゃないか? 私はどうかしている。だが、現実はそれ以上にどうかしているんだ!

「どうやら、この街からは出られないらしい」マネージャーの方を振り向いて言う。

「えっ? それはどうしてですか?」

「悪魔……さっき説明した性悪の二人組のせいだ。やつらが何かまじないをして、この街をばかでかく膨張させたのだ。我々は閉じこめられた!」

「はあ。……はあ。にわかには信じられませんが、なんだかこのごろの世の中の混乱ぶりをみると、それもあり得る話だと思えてきますよ。悪魔かなにかが蛮行をふるっているとしか考えられない」

「よし。今日はここらで、どこか泊まれるところを探そう。無理なら、野宿だな」

「野宿はヤダなあ……さっきからなんだか物騒だし。ホテルか、親切な人を探しましょう」

「それはいいが、泊まらしてくれた人が悪魔だった、ということもありえる。慎重に探そう」

 二人は宿泊場所を探した。しかし当然のごとくホテルなどはみな閉まっており、こんな非常事態に、いかにも胡散臭い二人組を泊めてくれる「親切な」者もいなかった。

 途方に暮れ、あてどなくうろついていると、マネージャーが突然立ちどまり、整然と並ぶ街路樹の一本を指さした。

「先生、あの木、なにか変じゃないですか? ほら、あの根元、空洞になっている」

 たしかにその木の根元にだけ、不自然な(ほら)があった。人ひとりが丁度くぐれるほどの大きさだった。

 神には思うところがあるらしく、率先して木のそばに寄った。彼にはなにか懐かしい予感が芽生えていた。記憶のどこかにこの空洞があった。「いったい、どこで見たんだ? ……いや、見てない、実際にこの目では……けれど、いつか、心に思い描いたことがある。たしかきっと、作品に書いたんだ……でも、なぜ、ここに?」神は思わず空洞を覗き込んだ。

 そしてだれかの声を聴いた。あるいは遠い音を。

「危ないですよ、先生! 蛇でも潜んでやしないでしょうか」

「いや、なにか潜んではいるが、少なくとも蛇じゃないな。……いま、中から誰かが私を呼んだ」

「またまた突拍子もないことを! 幻聴じゃないですか、先生? それとも、例の、悪魔のやつらか」

「いや、確かに突拍子もないが、少なくとも幻聴じゃないな……。ん、いま、もう一度私を呼んだ。この声は悪魔のやつらの声でもない」

「それは良かったですね。それで……一体、どうするんです?」

 答えるよりも先に神は洞の中に入っていった。マネージャーは急いで洞に駆け寄った。想像以上に深いらしく、神の姿はすぐに見えなくなった。

「こういう時、マネージャーって仕事がつくづく嫌になるよ」と青年は独りごちる。

 そして、未知の領域へと足を踏み出す。彼も洞の中へと、深いふかい場所へと落ちていく。

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