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……私はいったい、何度こうして「矛盾」を追い求める旅をくりかえしてきたことだろう。もうお分かりの通り、こうして『ヴェクサシオン』は無限に際限なく続いている。
まるで終わりが見えないこの彷徨の中で、私はある閃きを得た。
もしかしたら、私が矛盾を追っているというこのことは、何か見えない原理によって規定されているのではないかということだ。
それは何なのだろう?
「矛盾」というものの存在をもう少し考えてみる。矛盾とは、因果律に逆らっているということなのだから、本来存在しないはずのものだ。燃える氷は存在しない。しかし、燃える氷が現に在ったら、どうなるのか。それが存在するということは、やはりそれを規定し支える原理が存在するということなのだ。
矛盾を規定する原理とは何か。
私は、それが「視点」なのではないかと考えている。認識の角度、といってもいい。
視点だって? 小説における視点とは、まさにその小説世界の無矛盾性の担保なのではないか? とあなたはいうかもしれない。まあ、つづきを聞いてくれ。
我々があるものを矛盾とみなすのは、それがこちらの持っている前提認識と齟齬を生じるためだ。つまり、視点Aから見たら矛盾であるものでも、視点bから見れば矛盾でないということがあり得る。もちろん、その認識の表明が嘘ではないということが前提ではあるが……。
様々な「視点」、これこそが矛盾を支える原理、「矛盾原理」なのだ。
もう少し考えてみると、原理そのものとは、視点の前提にある認識そのものに他ならないことが浮かび上がってくる。あるものを矛盾とみなす認識そのものが矛盾を規定し、支えている。つまり「正しい」「可である」「善である」認識そのものが、矛盾を生み出していることになる。
読者の中には、もう答えが見えてきたと思っている方もいるのではないだろうか。つまり確固とした前提認識を持てば、それによって矛盾を創り出すことは容易である、と。
しかし、次のような問題がある。すなわち「完全な矛盾とは、全ての視点にとって矛盾であるとみなされるような矛盾である」。そのはずだ。ある視点から見てそれが矛盾でなかったら、それは完全な矛盾と言えるだろうか。
全てをあべこべに考える狂人を想定してみよう。彼は万人に矛盾であるとみなされるような命題――たとえば「在る者は存在しない」「無いものは存在する」というような命題を、無矛盾の、正しい論理であると考える。そしてお気づきのように、こうした狂人こそしばしば「天才」とみなされる類いの存在なのである!
容易な道は天才によって粉砕された。我々はもっと原点に立ち返る必要がある。
つまり、まさにいま為している行為の性質をよく考える必要がある。
私はいま、「書く」ことによって矛盾を追い求めている。書くという行為が方法である。
ここで、私は思い出した――存在に「在」と「非在」があるように、行為にも「為せる行為」「為せぬ行為」があるということを。
では問題なく為せる、為せてしまう行為と、決して為せぬ、為すことができぬ行為とを、逆転させてみることは、どうだろう。
為せる行為を為さず、為せぬ行為を為す。それは、完全な矛盾なのではないか。なぜなら行為を真に否定し粉砕することができるのは、ただ神のみだからである。この場合の神とは宗教的な存在ではなく、単に「世界の根拠となる、絶対的な存在」を指す。もしも神が私の行為を否定した場合、かえってその瞬間に神こそが完全な矛盾となる。なぜなら、神は世界の外に時空に影響されず存在せねばならず、私に干渉した瞬間に時空に干渉する=時空の干渉を受けることになるからである。
よって、私が矛盾した行為を為せば、それこそがどうしても完全な矛盾になるはずである。
ところで最前、私は書くという行為を通じて矛盾を追い求めていると言った。それはすなわち、私が完全な矛盾を創り出すための手段を意味する。
そこで私はついに答えと見える場所に到達した――書き得るものを書かず、書き得ぬものを書くことによって、ついに完全な矛盾に到達できるということを。そのためには、何が書き得ないか、何が書き得るかを明らかにするとともに、どうやってそれを書かず、それを書くかという方法を明らかにする必要が生じた。
第一の問いは、簡単な、あまりにも簡単な問題であった――完全な矛盾こそが決して書き得ぬものであり、それ以外の一切は全て書き得るものである。なぜなら完全な矛盾とは全ての視点から見て矛盾するところのものであるが、それはこの世界の無限の狂人と天才とによって粉砕されるべきものであるから。そしてそれ以外の全ては――たとえ「無」でさえも――世界の無限の視点によって――狂人と天才も含め――認識されるであろうものであり、認識されるであろうものは無限の時間と空間があれば容易に記述可能であるから。
第二の問いは私の問題である。もうお気づきいただけただろうか、この小説は終始この私、「HF」……もしくは「A」……またの名を「ヴェクサシオン」もしくは「ウタァタ」……の正体を探索する物語となっている。何によってこんな、身の上話を長々と書いてきたのだろうか。それはつまり私の存在を規定し、支える原理が必要だったわけである。
私という架空の、有限の、非・天才――わたしには完全な矛盾以外の全てを書く時間的・空間的な自由はなく、そのための認識――つまり狂気もない。狂人から見れば私も狂人であるが、また自分でそう思い込めば狂人になり得ようが、「私」そのものの本質がそれに代わるわけでもない。
こうして私は書き得るものを書かなかった。
では完全な矛盾とは、私が書かねばならない、全ての視点から見て妥当な矛盾とは何か。
いちばん簡単で、いちばん単純な答えだ――私を含めこの世の誰も書かなかった、完全な矛盾以外の全て――つまり存在しない、存在し得るということさえ暗示されない全てのもの――が、他ならぬこの存在する世界――『ヴェクサシオン』を含めた存在する、存在し得ることを暗示している世界全体を、完全な矛盾であると驚愕の眼差しで見つめている!
そろそろノックの音が聞こえるころだ。
『ヴェクサシオン』完




