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鳥川の画廊から事務所へ直行はせず、例のイタ飯屋『アルティジャーノ』へ向かう。けっこう歩いたから、腹が減ったんだな、これが。
ところが店へ足を踏み入れた途端に、俺はコトの異常さに気づく。荒らされた(といってもモノはほとんど置いてないから被害は少ない)店内、服をボッロボロにされ、本人もボッコボコにされた、給仕の痩せた若い男と、太ったシェフ(ここの店長)。あの透明な緑色の瓶は叩き割られ、床には水が飛び散っていた。
「どうした、大丈夫か。だれがこんな」
俺はあわてて二人のほうに駆け寄る。当然のごとくツルっと滑って濡れた床に尻もちをつく。うえっ、気持ち悪い!
「まあまあ、落ち着いてください。そんなにおたおたしては、せっかくの色男も台無しですよ……マア、水もしたたるいい男という言葉もあるにはありますが……」シェフが苦笑しながら言った。
「なんか違うような。でも、そんな軽口が叩けるようなら大事はないみたいだな」
「ええ、なんとか」
「じゃあ、なにから聞こうか。そうだな、まず、誰にやられた?」
店長、と給仕の若い男はなにか訴えるように呟いた。呼ばれた方はわかっているとばかりに小さくうなずき、語り始めた。
「黒服の男たちが店に突然やってきて、木安という男を知らないか、と詰問してきたんです。私は咄嗟に知らない、と嘘をつきました。いくら屈強な男の脅しのきいた詮索とはいえ、お得意様を危険にさらすわけには参りませんからね。するとやつらは私たちをタコ殴りにしたうえ、このとおり、店の中も滅茶滅茶に荒らしていったんです」
「なんだって? それは悪いことをした、俺の責任だ……。そいつらはなにか言っていなかったか?」
「ええ、俺たちは街はずれの館で待つ、と伝えろと言われました。ですが、これは明らかに罠です。そんな罠にはまるより、どこか遠くにお逃げなさい」と店長は心のこもった声で言った。
そうだな、これは罠だな。だが、俺の追っている事件の核心に迫る罠かもしれない。有力な手がかりがこれっぽっちもない今の状況を打開するには、危ない橋も渡らなくちゃいけないかもしれない。
とそこに、のこのこと新しい来客があらわれた。ぼんやりした目の、疲れ果てたような若者だ。服が所々汚れている。この店には、俺も含めて、まともなやつはこないのか?
「腹が減りました。なにか食べ物をください」そいつはか細い声で言った。
「あいにく、店が荒らされてしまいまして、どうにもならない状態なのです。またのご来店を……」
「あんた、どっかで見たことあるな。もしかして!」店長の言葉をさえぎって、俺は大声をあげた。
「僕ですか? 僕はしがないただのマネージャーですよ……泥の波に吸い込まれて、木の洞から戻ってきたんです。まあ、説明してもわからないでしょうが……」
「やっぱり、あんたAのマネージャーか? Aはどこにいる?」
驚くマネージャーに自己紹介と状況説明をして、彼からもいろいろと話をきく。なんだか信じられないような話ばかりだったが、俺は信じることにした。
「つまり、Aはその変な世界にまだいるってことだな?」
「ええ、おそらくは」
「なるほどな。じゃあ、俺と一緒にこい」
「え? 館にですか? 僕が、どうして」
「おそらくあそこに手がかりがあるはずだ。あんたがいても心強くはないが、なにかの役にたってくれそうだ」
またAに会えるかもしれないからと、しぶるマネージャーを説得して、店を出る。
「行ってらっしゃいませ」と店長と給仕が頭を下げて見送ってくれた。
「事務所に寄っていかないんですか?」
「絶対にもう手が回っているはずだ。同じ危険を冒すなら、館に行った方が手っ取り早い」
俺とマネは霧の深い中を苦労しながら歩いていった。相変わらず人影はまばらだが、心なしかピリピリとした空気が流れているように感じる。しばらく歩いていくと、とつぜん辺りの霧がぱっと晴れて、目の前に大きな館が姿を現した。
「木安さん、この場所を前から知っていたんですか?」
「親友の実家だ」
門扉が勝手に音もなく開く。薄気味悪い荒れた庭を過ぎて、館の前に立つ。不気味な洋館だ。前に来た時とはうって変わって、信じられないほど荒廃している。大扉が開いたので、中に入る。
「遅いじゃないか、木安!」
そこには俺が探していた一人、編集長がいた。
「なんで俺の名前を知っているんだ?」
「奴から聞いたんだよ、俺を探している探偵がいるって」
「奴って誰だよ」
「そのうちわかる。ところで、おい、マネージャー! お前はどこをほっつき回っていたんだ!」
「すみません! 実は、先生とはぐれてしまいまして……必ず見つけ出します」とマネは必死に頭を下げた。
「これで役者がだいぶ揃いましたわ!」
俺の知らない、小柄な少女がそう言いながら大階段を降りてきた。
「はじめまして、木安さん。わたくしは智天使。あなたの味方ですわ」
俺はなんとか今の状況を理解し、整理しようとしたが、正直に言ってなにがなにだかわからなかった。よし、とにかく情報交換だ。俺は二人の話を聞き、またこれまでの俺たちの運命を話した。お互いの情報を繋ぎ合わせて、なんとか一つの像を造り上げようともした。だがその最中、一人の男が階段を下りてきて、俺たちの会話と類推は中断された。
「A、Aじゃないか?」俺は叫んだ。
「先生!」とマネ。
「違いますわ」と天使。
「人違いだ」と編集長。
俺はそいつをよく見た。男は確かにAそっくりだった。だがよく見ると、決してAではなかった。なんだか、俺はイヤな感じがした。イヤな感じというのでなければ、妙な感じがした。Aも変なやつだったが、まだ人間味があった。でも、こいつに人間味はない。少なくとも、今まであったことのない種類の人間だ。
「ごきげんよう。脇役諸君」そいつは丁寧に失礼な挨拶をした。「よく来てくれたね。私の館にようこそ!」
「私の館?」俺は眉をしかめた。「ここはAの実家、それに今はだれも住んでないはずだぞ」
「それならなおさら私の館だ」そいつは微笑した。「私はAの父だからね」
ん? 何を言ってるんだ、こいつは。まず、雰囲気がぜんぜん違うし、年恰好はAそっくりなんだから、肉親としても兄弟だろう。Aの父親に会ったことはないが、こんな人物じゃないはずだ。
「本当の話だぞ」編集長が耳打ちした。「話を聞けばわかる」
「信じることが大事ですわ、探偵さん」と天使も言う。
そういわれると、なんだかそんな気がしてきた。そうなのかな。
「そんなはずありません、あなたが先生の父親だなんて」とマネが叫んだ。
うるさいなあ。静かにしろよ。なんでもいいじゃないか。
「私に銃をくれたのは、あなたじゃなかった」
マネのその言葉を聞いて、不意に懐の拳銃の重さをずっしりと感じる。そういえば、この銃はマネの部屋で見つけたものだ。
「いまのご時世、顔かたちなんていくらでも変えられる。ひょっとすると、別人だったのかもしれない」
「あなたが先生の父親なのかもしませんが、僕はそれを信じたくない!」
「俺も信じたくない」
懐から銃を取り出し、そいつに銃口を向ける。そいつはまったく怖がる様子を見せない。
「信じたほうがいいぞ。信じるべきだ。本当のことなんだから」そこで天使と編集長に顔を向け、「君たちも言ってやりなさい。私の話を信じろと」
こりゃ、二人は洗脳されてるな。おそらく、簡単な催眠術だ。俺も危うくかかりかけたが……。
俺は銃口を向けたまま後ずさりして、出口を探る。もちろん扉は開かない。マネに視線で合図を送る。どうやらわかってくれたようだ。
そいつの足元に一発、発射。
ひるんだところを駆け抜けて館の奥に行こうとしたが、やつは微動だにしない。しかたなくマネと俺は一か八かでそいつに向かって駆ける。男はおれたち二人を横目の涼しい顔で見送る。それを不気味に思いつつ、急いで大階段を駆け上る。
「でも、二階に上がってどうするんですか? 余計に逃げられないんじゃ……」
「少しくらいの時間稼ぎならできる。ここに来る前に一応、警察に連絡しておいたのさ……まあ、あんまりアテにならないけどな」
適当な部屋に入ってみる。パイプ椅子が乱雑に置かれている。そして、話に聞いた牛男がそこにいた。
「こいつが噂の牛頭か。本当にそのままだな」
「ナンダ、オマエラ?」
かまわず眉間に一発。案の定、カンと音がして跳ね返る。だが化け物はそのまま気絶した。
「僕のいた世界にもこんな化け物はいませんでしたよ」
「くわばら、くわばら。さ、いこうぜ」
それから俺たちはあてなく館をさまよった。とっくにこの館の構造が普通のブツリホウソクに則っていないことには気づいていた。階段を見つけたら、とりあえず上ってみる。とにかく、上へ、上へ。上に何かがあるはずだと、根拠のない信念で自分を鼓舞しながら。
とうとう、俺たちは行き止まりの大広間にたどりついた。ここが終点だということはなんとなくわかった。
広間の真ん中にポツンと全身鏡が置かれている。細かい装飾がしてあるもので、かなり年季の入ったものだろう。
鏡を見る。そこには俺とマネが映っている。いや、もう一人。例の不気味なAのパパさんだ。後ろを向く。だが、そこには誰もいない。俺はなんとなく仕組みが分かった気がして、懐から再び銃を取り出し、銃口を鏡に向けた。狙うのは、パパ。じゃない、俺の心臓。
銃弾は鏡の表面に吸い込まれた。ぽちゃん、という音。間髪入れず、鏡面から男がぬっと出てきた。
「ずいぶん探したぞ」俺はあらわれた男に言う。
男は俺の顔を見て、少し驚いたようだったが、
「ああ、久しぶりだな」と言ってほほ笑んだ。
Aと木安ははっしと、強く、かたく抱き合った。
「また会えてうれしいよ」
「どれだけ探したことか!」木安は泣いていた。
すぐそばに来ていた編集長が言った。「で、マネージャーの野郎はどこだ?」
「それが……」と言ってAは首をふった。
「ちくしょう!」と言って禿頭はうつむいた。
Aの背後の鏡が音を立てて砕け散った。
「あぶない!」
三人は身を守ったが、だれにも怪我はなかった。
鏡の前には、二人の男がいた。
「おれは宮田望」
「私は盥屋」
二人は声をそろえて、
「われら悪魔の二人組!」と言った。
五人はお互い一時停戦とし、いったん話し合うことにした。
「実は、HFがすべての原因なんだ」
「HF?」
「HUGE・FATHER」
「なんだそりゃ」
「A、驚かず聞いてくれ。お前の父だ」
「知っている。私から説明する。みんな、しばし拝聴せよ。
HF……もともとの本名A……は、むかしむかし――太古の昔から――存在してきた、非・人間だ。私にもはっきりした正体はわからない。とにかく、彼の唯一の定義は、人間でないものだ。人間の定義が曖昧だがね……。彼はずっとこの世界に存在し続けてきた。どうやってか。答えは、自分で自分を生み出すことによってだ。矛盾……考えてみれば、Aが生み出したものは必ず非・Aのはずだ。しかしAにはそれができた。AはAをつくり、AがAをつくる。そうやって、Aは存在し続けてきた。存在の更新こそ存在の前提だ。だからAはAとして存在しつづけられた。
私はAの息子――正確には違うが――なのだ。つまりAのつくったAだ。だが私はAでいて、Aではなかった。Aを拒否したのだ。正確に言えば、私をつくったAがAであることを拒否したのだ。父であるAは「自分の尾をくわえた蛇」であり、私は「尾を吐き出した蛇」だった。私はAの代わりに「世界」をつくった。それが「ヴェクサシオンの世界」だ。恐ろしい事が起こった。私はAになり、Aだった父は名を失った。代わりにHFなどと名乗っているが、それは自分でそう言っているだけだ。Aは怒り、恐怖した。私をどうにか始末したいと思うようになった。HFは手駒をつかってヴェクサシオンの世界を破壊し、私はショックで記憶をなくした。存在をかけた原稿用紙五百枚と、パソコンのデータ数キロバイトが失われたのだ。私は記憶をなくし、編集長に拾われた。あとは諸君の知るところだ。この館はHFの住処、天使は私の創作の名残だ。そして、宮田、盥屋。君たちは作家になった私がつくってしまった「新しい世界」の存在だ。私は自分の能力を忘れたまま、潜在意識に浮かぶ過去の記憶をそのまま小説にしてしまった。どんなことが起こったかわかるだろうか。起きてはいけないことが起きた。矛盾だ」
「つまり、本物のわれわれのどちらかがまだ存在していたのに、われわれは新しく存在してしまった。それが矛盾ですね」盥屋が言った。「そしてそれは私だ」
「どうしてそんなことがわかるんだ。おれかもしれないじゃないか」宮田が悲しそうに言った。「おれが矛盾かも」
「宮田、本物の君は死んだ。ところが、本物の私は生きている」盥屋は微笑して、「それに、私には名前がない!」
一同、盥屋を見た。
「盥屋はあいかわらず生きていて、HFと結託している」Aが言った。「いや、もはや、同一人物と言ってもいいのかもしれない。彼らの差異は曖昧だ。二人の力は互角だ」
「まてよ、なんで本物の盥屋はそんなに力があるんだよ」
「覚えていないのか?」、「部屋を沈黙が支配したあと、盥屋は矛盾律にひきずられて君たちの世界まで来た。そして状況を理解すると、君たちを襲った。不意をつかれた君たちは砂時計を奪われて、力を失った」
「砂時計!」、「おれの砂時計!」
「あれは象徴だ、力の……」、「たんなる暴力ではない、破壊と創造の力……」
「奴の名前を知っているのですね」
「奴の名は、廻、カイというんだ」
「盥廻し、か!」、「ふざけやがって」
「しかし私も姓だけは死守した」、「奴の力も完全ではない」
「そうだ。それに宮田、君の存在は特異点になっている。君は完全にフィクションのキャラクターだ。だから、廻の範疇を超える行動を起こしえる」
「同時に、A、あなたもHFを出し抜ける可能性がある」
「ない」、「いまは」
全員、Aを見る。
「私にはマネージャーが必要だ」、「彼は私の記憶だ。私の失ったいちばん大切な記憶は、彼が私だということだ」
「どうしようもない」と編集長。「彼はもういない!」
「方法はある」、「私が彼をつくることだ」
Aは木安四郎に言った。
「木安葉子、私に私の話をしてくれ」
そう言われた中性的な美しい人物、私立探偵・木安四郎――本名木安葉子は、ただ一回だけうなずいた。
「話し方はこのままにさせてもらうぜ」
そう断ると、木安は大学時代のAとの交流を語り始めた。重複する部分もあるのでここでは触れない。
「俺の知っているのはこれくらいだ」と言って、木安は口を閉ざした。
「ありがとう」、「それと、私の恋文は受け取ってもらえたかな?」
「あれが恋文?」、「ちゃんちゃらおかしいぜ」
「おかげで少し芽が出そうだ」、「彼の種から」
「どこにそんなものがあるんだ?」、「わしには見えん」
「私の心に」
そのとき、そこにいた皆がなにものかの気配を感じた。しかし姿は見えない。
「ヴェクサシオンが近い」、「急がなければ」
「そりゃいったいなんなんだ」、「結局のところ!」
「簡単だ。ヴェクサシオンの世界において、AがAを生むことだ。ウタァタとはAのことだ。HFと廻は禁忌を犯そうとしている。非・AがAを生み出そうとしている」
「なるほど、奴らの目的は自己増殖か。でもそれに何の問題が?」
「わかりやすくいえば、ビックバンが起きる」、「これは笑いごとじゃない。非・Aが生んだAは私とも、いままでのAとも違う。重要なのは方法だ。考えてみたまえ。非・Aとは、A以外のすべてではないか。とすれば、それは必ずすべてがAを生み出す契機となる。Aとは、いってみれば分割できない・つまり無限に分割できる一個の複合体だ。すべての存在がAを生成したとしたら」
「宇宙が一瞬で満杯だな」、「盥屋、問題解決だ」
「たしかに寂寥感はなくなる」、「だが詩情もへったくれもない」
「そうだ。宇宙が、『何もかもがある・何もないA』になる。そんなものは狂気の沙汰だ。だから私は彼らを止める」
「奴らはすでにそれに気づいているのでは?」
「手はうってある」、「この物語がそれだ。冗長な展開、意味深な挿話、複数の象徴、すべて彼らを撒くためにある」
「ということは……」
「彼らはこの小説に気づき、はじめからこの小説を精読している。そして私たちの居所を突き止めようとしている」
「ここは館じゃないのか?」
「館の中だと思っていてくれ。本当は別の場所なのだが」
「いまは、どこまで読んでいるのだろうか?」
「おそらく、彼らにとって途中で躓く部分が少しはあるはずだ。そして前の部分を読み返したり、最新の部分を読んでみたりするだろう。だが、それでは見つからない」
「どれほどで気づく」
「四分の三」、「もしくは、それ以下」
「じゃあ、それまでに問題を解決しなけりゃならない、そういうわけか?」
「そうだ。この世界は、いま反転した。われわれが時間と空間を作り出して、どうにか道をつくっていかなければならない。ここに『ヴェクサシオン』の原本がある。これをつかって、彼らを出し抜く」
「そしてそのあとは?」、「彼らをどうやって無力化するのか」
「明言しない。読まれている可能性がある。沈黙と暗示によって倒す」
「じゃあ、戦闘開始だな」、「しばし共闘だ」
「それは勘違いだ」、「戦闘は最初から始まっている。それに、最初から私たちは一心同体だ」
「ところで」、「いまこの小説を書いているのは誰なんだい?」
「Aだ」
「どのAだ」
「書いているAだ。さっき言っただろう。Aは無限に分割可能なAだ。何者でもありうる。矛盾した原理そのものが、エンジンとなってこの小説を書いているんだ。書いているのが誰だろうと関係ない」
一同が漠然と感じていた気配が、一段と濃くなったような気がした。
「相手もこちらも、時間がない」、「さあ、はじめよう。はじめからはじまっていたのだが」




