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紅いソファに腰かけながら、宮田はぼんやりと虚空を見つめていた。
応接室のような部屋で、薄暗い。
盥屋はどこにも座らず、部屋の隅から隅へと行ったり来たりしている。
「君はこれからどうする? 宮田」盥屋は訊ねた。
宮田は答えない。
「私はAを待つ」盥屋はかまわず語り始めた。「あの男はおそらく、ここにやってくるだろう。その時、なにがおこるのか私にはわからない。宮田、私の記憶は曖昧なんだ。まるで、だれかに半分持っていかれたように」と苦笑する。
「それでも、欠落しているということはわかる。不完全なんだ……私は。だから宮田、君が羨ましくもある。なにか思い出したんだろ?」
宮田は相変わらず、虚空を見つめている。
盥屋はあまり光の入ってこない窓から外を眺めた。目の前を雲がゆっくりと横切っていく。厚く垂れこめて、日の光を吸収しているのである。
「この塔の周りに雲が集まっているようだ」痩せた男は言った。「雷でも落ちるかな? 焼き尽くしてくれるといいが。このヴェクサシオンの世界を」
宮田はかつて、自分が死んだときのことを思い出していた。
あの後、彼は公園まで引き返し、ベンチに座っていた。手には盥屋からもらった革袋と、ここに来る途中で買った豆菓子の袋を持っていた。
この世でもっとも憎いもの
それはすべてを運ぶもの
それはすべてを包むもの
偽りの時よ、はじけ飛べ
ダイナマイトでお仕置きだ
散らかるお前の残骸を
鴉じゃなくて、ドバトが啄む
そう唄いながら、袋の中の豆菓子を無造作につかんでは投げる。たちまち無数のドバトが宮田の前に群がってきた。遠くのほう、遊具で遊んでいた子供たちも、その様子を見て近寄ってきた。
「わあ! すごい。ハトがたくさん集まってるよ」
「おじちゃん、もっとまいてよ」
宮田はやたらとにこにこ笑いながら、魔除けでもするように次々と豆をまいた。そのうち、ハトは異常なほど集まり、あたりには足の踏み場もないほどになった。子供たちは大はしゃぎでハトを追いかけまわしていた。
袋の豆をすべてすっかりまきおわると、宮田はゆっくりと立ち上がり、しっかりした足取りで公園の中心まで歩いていった。そこには新しい、立派なつくりの大きな時計塔があった。時計塔の裏側にまわった宮田は、土台部分にこう刻んであるのを見た。『秩序と調和の象徴、時計塔。この街へ愛を――A寄贈』
宮田はそこに唾を吐くと、表側にまわり頭上の時計を見た。時間は五時十分。そういえば、さきほど鐘が鳴ったばかりだ。そして彼は時計塔に背を向けた。
目の前には広場があって、夕方の涼しい空気を楽しむ人々がまばらに憩っていた。なんとなく、皆も宮田のほうを向いた。
宮田は不意に大声で語り始めた。なにやら一世一代の演説のような、宣言のような、とにかくそういったたぐいの口調とテンションで。
「諸君、諸君、聞いてくれたまえ! 俺は宮田望。ミヤタのノゾムと申すもの! 俺の話をする。俺には、俺がこの世に存在する限りでの、ごくわずかな範囲でのエゴイズムがある。これは誰にも理解されえないだろうし、また決して変わることのない、かけがえのないものである、と仮定する。するとどうだろう、俺の胃と腸はひっくり返り、急激な摩擦熱(まあこれは過度の知的欲求というものなのだがね!)によって脳髄は沸騰すると同時に、友情も愛情も義理人情も豹変して、焼き尽くされた他者への認識が、互いに互いを燻しあい、ついには鋼のような連帯感を生みだす。生きるよすがとしてむさぼるように眠気と闘いながら書物を読みつくし(そう、まったく苦々しいんだ、気付けの珈琲は!)ぷっくりと膨らんだ頭のこぶを懸命にいたわり、さする。それは俺にとっちゃ、本当に有意義だし、その答えが他の誰にも望めないということこそが、俺みたいなやつの至高性をぴくぴく反応させるんだ。もっとも、これらのことは一瞬にして人々の顔から血の気を引かせることだろう(かくいう俺もその一人さ!)、けして理由なき反抗を気取るというわけではないんだ、少し間の抜けた発言もしよう、黒々とした宣言もしよう、これらのことをくりかえしもしよう、しかしね、ただで終わるということは、とてもじゃあないけどできないし、踵を返してあの温かい部屋へ帰ってゆくこともできないんだ! とりあえずは、こうしてこの地点に立って、道を決めあぐねているそぶりをするだけさ、虫一匹殺せない俺の憐憫は、魂の執拗な野望への渇きと裏腹に、ぽっかり他者との共感を欠如させてしまいかねない。食いつくされた倦怠と安定した余白について自分と対話し始めたら、そこでエクリチュールは終わったということだ、くっくっく! ああ笑けてしまう、中心を失った自我はあまりにも脆い、これこそ問題の本質であったということに、生まれて初めて、今更ながらに気づくとは! 聞いてくれ、今の俺には、自己の心の叫びより他者の疑念の雄たけびのほうが強く感じられてならないんだ、不思議なことに! さても恐ろしいことだと思わないかね? 新しい球技の掟を考えついたかのように、俺の心は沸き立って狂おしく切ない。とおり一遍の思惑なんぞは脇にのけて、真なるイデエの元へと向かう食欲にも似た感情がものの見事に咲き誇るんだ! 興奮しすぎてしまったようだ、とにかく、新言語だよ! 新言語を創り出し、我らの活動のために新たな発言をくりかえす、くりかえす、くりかえす。これこそ俺が勇気と尊敬と美徳を生贄にして生み出してしまった、まったくやくざな手腕なのさ。キュウスレバドンスというが、決して躓きの石となしてはなるまいよ! なあ、君ら。行動と連帯だよ、欲しいかね、自由と平等が。なさねばなるまい、残念ながら我々には毒にも薬にもならない胸のざわめきしか残されていない。俺が殺しつくしたんだ。そのまま待っていたまえ、いつか約束の日が到来して、究極の瞬間が訪れるまで。すべて俺が何とかするよ、待っていてくれ、それまでは食いっぱぐれないようにするんだね、働こう! 働くのだ、みんな。ついに安寧の時は来ることなく、鴉は我らの骸を食らいつくすであろう。魔術のたぐいが愚かな人々を誑かし、性急な科学はおもいきり耳をひっぱってくる(それはそうさ、おつむのきく奴は俺たちなんて見ちゃいないからな!)、まったく、うるさい限りだ、でも、それも仕方なかろうよ、人の性とはそういうものだ!……長くしゃべりすぎたな、俺の言いたいことの序章は、まあこんな具合さ、わかっていただけたかね?」
けれども、広場はまったくの沈黙でみたされていた。子供たちはふるえて、ある子は泣いてさえいる。
わるい男――宮田望はつづける。
「ああ、わかっている。わかっているよ、わかっているんだよ、俺のこんなタワゴトが理解されないということは! まったく、中身なんてこれっぽっちもありゃあしない、それどころか、はじめとおわりもアイマイな演説なんて、誰が聞くっていうんだろう? 俺の言いたいことはこうさ、おれは叫びたい、でも俺には叫ぶ内容がみつからない。だからって、俺に獣のように意味もない雄叫びをあげろっていうのかい? それは残酷が過ぎるってもんだろう。とにかく、俺は考えに考えた結果、こういう結論に達した。俺は時間が嫌いなんだ。時間が! 考えてみてくれ、このかっちりした時間というものがなければ、いつまでも俺は存在し続け、考えつづけられる。しかしそれとともに、それだからこそ、つまり時間があるせいで俺はこの演説の原稿の締め切りに追われることになったんだ! この、宮田望の最後の演説だ。だれも理解する者がいない(もちろん、それには俺も含まれる)、さびしい演説さ! さあ、問題はこの長閑な公園のど真ん中に鎮座まします、これなる大きな大きな時計塔だ。いったい、こんなもののどこが秩序と調和の象徴なのだろうか? いったい、秩序と調和とは時間の息子なのだろうか? いや、断じて、断じて違う! 時間は、いつでも新たな混沌の父に違いない。すべてを乱雑に、ごたまぜにする力、カオスの原動力、うごめくカオス、ひたすらむさぼり食う化け物、それがほかならない時間さね。だが、それはまあいい。許そう。そんなことはとっくにわかっているのだから。問題は、この時計塔のような極めて偽善的な、馬鹿馬鹿しいシロモノが時間の代表者のようになっていることだよ! あの悪と混沌を象徴する時間が、かように機械的な、そして大聖堂のような聖なる形態をしているだなんて、真理に対するこの上ない侮辱だ! そうは思わないか? いや、答えなくていい。俺はにはもう、聞く耳なんてないんだから……さらば、世界よ! しばしのわかれ。でも、これで終わりじゃない気もするぜ!」
『演説』を終えた宮田は、厳粛な面持ちで革袋からダイナマイトを取り出し、もはやまばらな人々に向かい掲げた。
「近づくんじゃないぞ! 誰かと心中はごめんだからな」
そして恐怖に逃げだす人々をよそに、懐から出したライターで導火線に火をつけた。
「おっと、面白いアイデアを思いついたぞ!……いつまでも進まない導火線、ゼノンの導火線ってのはどうだ……思いつくのが遅すぎたかな?」
しかし導火線はみるみる短くなってゆき、ついにあと数センチとなった。人々はみな逃げていた。
「最後に一言いわせてもらうが――」
宮田がその一言を言い終わらないうちに、大爆発が起こった。爆音と炎と煙によって、宮田望と時計塔の姿は永遠にかき消された。




