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熾天使の背に乗ったAが地上を見下ろせば、そこにはかつて宮田を追ってたどり着いた不毛な砂漠や、マネージャーを追って迷い込んだ陰気な森があった。いま彼は、盥屋たちを追って塔へと向かっている。「誰かを追ってばかりだ!」とAは思う。「あるいは、追われていたか。いずれにせよ、せわしない冒険だったな」
熾天使がAを降ろしたのは、あの山の上の広大な乾いた窪地だった。月のクレーターのようなその場所には、いまや一本の枯れ木さえ見えず、ただ「それ」が――果てしない高さをもつ塔だけがそびえていた。塔の根元部分は、まるで大聖堂のようなつくりになっていた。いや、まさに大聖堂といっていい代物だろう――その大きさ、重々しさ、精密さと歪さが調和した超越的な構造からいっても。
正面の壮麗な放射状の模様が描かれた虹色の薔薇窓は、尖頭アーチに嵌め込まれた形で大聖堂の中心に存在し、巨大な飛梁は聖堂の側面を力強く支えている。いたるところ執拗に彫られた人や動物の彫刻は具象的で、かなり独立した形で立っている。細部まで精緻につくりあげられているにもかかわらず、全体としての印象はどこか歪なのは、それが神に祈るために造られたというよりも、神が自らを祈らせるために創ったかのようなその大きさ、重々しさだった。そしてその全体は、信じがたいことに、漆黒に染め上げられていた。光のない、いや光を喰らう禍々しい大聖堂がそこにはあったアーチすべてが神のために、ただ一なる神のために造られたのだ」と熾天使が呟いた。「かつて、都市々々の人々はこぞって天高くそびえる大聖堂を建てた。ただ一なる神のためだけに。そして無数の人々が一なる神に祈ったが、それによって無数の神々のイメージが生まれることとなった。なぜなら、人間は不完全で、その理性では至高の存在である一なる神をとらえることなど、決してできはしないのであるから。無数に残った大聖堂はそのなごり。しかし、これは本当の、唯一の建造物だ。なぜなら、神が創ったのだから」
「神が創った?」
「私にはそれ以上、答えられない。答える舌がないからだ。本当なら、私はここで死ぬべきであるような気がする。なんとなくね。しかし、あなたはそれを望まないだろう」
Aは思わず頷いた。
「ありがとう、私をこの物語に登場させてくれて。しかし同じ理由であなたを憎む。もう会うこともないだろう……チャオ!」
そう言うと熾天使は翼を広げ、Aの前から飛び去って行った。一度たりともこちらを振り向くことはなかった。
Aは入り口の前に立つ。飾り(アーキ)迫縁には無数の天使および人間が意匠され、タンパンの彫刻には、光輪などによってひときわ聖性を強調して描かれた人物を囲んで獣の顔をした人びとが集っている様子が描かれていた。大聖堂の大門はAが近づくと音もなく開いた。Aは内部を一通り歩いた。観察によると、穹窿は肋骨穹窿であって、代わりに壁面はほとんど窓に費やされており、存外に明るかった。後陣は二重の周歩廊をもっており、また九つの祭室を持っていた。周歩廊の外側に、放射状に祭室は置かれていた。そしてその形は半円形と方形が交互に並べられていたのである。
「この後陣部分は、師匠とずいぶん討論したのですよ」
声のほうを向くと、そこに奇妙な格好の男が立っていた。男は続ける、
「どれだけ清貧の思想に準拠しつつ、一方で超越的な神の御業を表わすことができるか……いわば、《然り》と《否》のあいだの弁証法的解決を求めたのですな。結果として、ほとんど建築とは呼べない代物になってしまいましたが。ある男が、『哲学的弁証法は、建築的な考えを、ほとんど建築的であることをやめさせるような点にまで追いやっている』と言っていましたが、あるいはそうとも言えるかもしれない。しかし、神を求める理性、というのは矛盾してはいないでしょう? 理性は絶対的な、統一的なものを求めずにはいられないのです。『狂人とは、理性のない人間ではなく、理性しかない人間のことだ』とかいうことを別の男が語っていましたが、いやはや、うまいことを言ったものです。理性万能主義者は、もうほとんど狂信者です。あと一歩、神に近づけるかどうかというところまで行った、紛れもない狂人なのです。そういう意味では、私も狂人でした。馬鹿馬鹿しい妄想を、紙切れにスケッチするだけで満足していたのです。だが、それも昔の話。《あの人》は私の妄想を、神の御業を表わす偉大な計画であると認めてくださったのです」
「あの人?」Aは話がよく呑み込めないままに訊ねた。
「そうです。私の口からその名を呼ぶのは憚られますが。あの人はその力によって、不可能を可能にした。ただの紙切れに書かれたスケッチを、こうして在らしめたのです」
「あなたの名前を知っている気がする」Aは静かに呟いた。「ヴィラール。そうではありませんか?」
「そうです」男はにこりと笑って頷いた。「ヴィラール。かつてはそう呼ばれていました。いまでは私の名を呼ぶものはいませんが。ここでの呼び名は、そう、《建築家》です」
ヴィラール、《建築家》と名乗った男――その姿はAの目には奇妙に映った。頭には四角い植木鉢のような被り物をして、片目だけ黒いレンズの入った銀色の眼鏡をかけており、ぴっちりした全身タイツの上に細かく編まれた鎖帷子を身に着けたそのまた上に、粗末な布の服を着ている。足にもやはりよく編みこまれた金属製の靴下を履いている。
「ところで、暑くありませんか」
「ああ、この格好ですか? 問題ありません。第一、この格好じたいが後世の想像にすぎませんし」
「後世の想像とは」
「私は相対的に言って、昔の人間なのです。もうずいぶんと時が経ちました。客人よ。この『ヴェクサシオンの世界』では、さまざまな不思議なことが起こりうるのです。見てください」
ヴィラールの指し示した祭壇の後ろの途方もなく大きなステンドグラスには、あらゆる色彩と技法によっていくつもの大聖堂が描かれていた。それは外部からの光を透して神々しい輝きを放っている。
「私の存在した時代、それぞれの都市はこぞって大聖堂を建てました。それ以前に造られていたのは主に修道院でした。つまり修行の場です。それが大聖堂に代わっていった。なぜだかわかりますか? そう、人々に説教をするためですよ。都市の人々をまとめ上げるにはなにか、宗教的な影響力が必要だった。それに教会も結託した。われわれはどんどん大聖堂を建立し、次々と新たな工夫を重ねていった。構想と技術はさらなる高みを目指し、徐々に理想的に調和のとれた、それでいて荒唐無稽な代物へと変貌していったのです。われわれの構想、いや妄想は、われわれの生きている時代ではまだ実現できなかった。おそらく、現代でも……ですから、ヴェクサシオンの世界は、私にとって、そういった意味で理想郷なのです。全ての可能性が花開く……まるで泥の中から萌え出た蓮の花のように」
「それを聞くと、私もなんだかうれしいです。関係はあまりないのかもしれないが。ところで、ここを二人組の男が通りませんでしたか?」Aはふいに要件を思い出して問うた。
するとヴィラールはとつぜん高笑いをはじめた。なんとか笑いやむと、
「いや、失礼。まさかあなたからまたそんな質問を聞こうとは。記憶を失うということは、ほんとうに恐ろしいことですね。あるいは、記憶自体が恐ろしいものなのかもしれないが」
にわかにAの脳裏に戦慄が走った。たしか、ここで、この男に、同じ質問をしたことがある。
「私は、何度も同じ質問をしているのですね?」Aは恐るおそる訊ねた。「そしてある一点でそれを忘れてしまう。そう、例えば、次にあなたが見せてくれるものによって」
「大窓をごらんになってください」
Aが再び中央のステンドグラスに目をやると、そこにはもはや大聖堂ではなく、微小な、しかし精緻な一連の図画が描かれていた。まず、粗末な部屋で二人の男が話し合っている。そして次に書斎のようなところでその二人ともう一人の男が言い争っている。そして次に……Aはこれが『ヴェクサシオン』の戯画であることに気が付いていたが、もう目をそらすことはできなかった。中にはAには理解できないことがらも描かれてはいたものの、Aはその絵を最初から最後まで見通した。いや、読み通した。しかしその最後の部分はAがステンドグラスを見つめる場面、つまりステンドグラスの向こうからもう一人のAがこちらを見返しているということ、それはつまり――
「これは鏡だ」
「ご名答! やっとおわかりになりましたか」ヴィラールは嬉々として叫び、「あのヒントがよかったのかもしれませんね。ちょっとした蘊蓄も。とにかく、客人よ、これであなたは次に進める」
「次の階にもこんな仕掛けがあるんですか?」
「次の階? 仕掛け? 違います。これはただの儀式、そしてこの塔に階などない」
ヴィラールは急に真面目な顔になって、ステンドグラスを透した光が集まるある一点を指し示した。
「お行きなさい。心配することはない、すべて鏡なのです」
「つまり、すべてが虚像?」
「いや、そう言うあなたもまた虚像です」
Aは光の中心に立った。自分が自分でなくなっていく、不快な感覚――しかし《建築家》の言葉の後では、その不安はほんの少し和らげられるような気がした……ほんの少しではあるが。




