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宮田望は公園のベンチにもたれかかり、ドバトが残飯を食らっているのをぼんやりと眺めていた。せっかくの良い天気にもかかわらず、あたりに人気はない。これは喜ばしいことだった。せっかくの良い天気を他人と分かち合いたくはない。そこらに植わっている名も知らない高い樹が優しく影をつくり、宮田のまわりにさわやかな風を吹かせていた。いい気分だった。人を待っていることをのぞけば、これほど快適な午後は久々のことだった。久々? あるいは初めてのことかもしれない。
懐の通信機が振動した。とりだして耳に当てる。
「誰だ」
「僕です」
「知らないな」
「新入りです」
「じゃあ切るぞ」
「お待ちを。アジトに来い、と伝えろと言われました」
宮田は切って、ゆっくりと立ち上がった。そして立ち上がったことを後悔するかのように、なごり惜しげにあたりを見回した。
入り口で『坊ちゃん』とすれ違った。
「どこへ行くんだ? そんなに急いで」宮田はなるたけ優しく訊ねた。
「どこでもいいじゃないですか」坊ちゃんはノートを小脇に抱えてじれったそうに言った。「お願いですから、そこを通してくれないですか」
宮田が身を引くと、青年は肩をいからせながら去っていった。
「天才はつらいねえ」宮田は坊ちゃんの耳に聞こえるほどの小声で呟いた。
……アジトは相変わらず陰気な場所だった。牛頭のマスクをかぶった人間が宮田を出迎えた。
「先ほどは失礼しました」
「誰だ?」
「僕です、新入りです。名前はまだないのです」
「そのふざけた格好はなんだ」
「まだら模様の、牛です」
「それはわかるが、それがどうした」
「組織の方針です」
「おれは聞いてない。かぶるなんてごめんだぞ」
「HFによれば、宮田さんは結構だそうです」
「で、牛の格好をしてどうする」
「たとえばですね、われわれアルチザンリバティーがヴェクサシオンの格好をしてなにか到底ゆるしがたいことをしたとします、するとですね、ヴェクサシオンという概念に世間一般的にはよろしくないイメージが付与されるわけです、しかしヴェクサシオンという概念ぜんたいについて考えますと、そのあらわす意味が膨らんだ、より豊かになったというわけです。もちろん、あるイメージだけがその概念を占拠してしまうような事態は、避けねばなりませんが。つまり、ヴェクサシオンというイメージに多様な意味をもたせようという試みです」
宮田は怒りと混乱で顔を赤らめた。「おい、組織の名前は簡単に出すな。仲間うちでもな。それと、お前の言っていることがイマイチわからん」
「HFの考えは僕にもよくわかりません。坊ちゃんのためですよ、きっと」
「お前は都合のいい人間だな。きっと与えられた規範の中で行動することに喜びを感じるタイプだろう」
「自分ではどうとも。盥屋さんには会われましたか?」
「おれはいまここに来たばっかりだぞ」
「あの人と話すのは面白いですね。あちらのほうは、僕のことなんて見ていませんが」
「あいつは誰に対してもそうだよ。死んだって変わらないだろう」
「死ぬっていうのは、そもそも変化じゃないですよ。終わりですから」
「どうかな」
宮田は新入りから離れ、盥屋を探して歩き回った。組員が数人一組でそこらに集まり、小声で語り合っている。宮田の方をちらと見て会釈する者もいれば、まるで彼が存在しないかのように、まったく見向きしない者もいた。
とつぜん、宮田は眠気に襲われた。それと同時に、奇妙な考えが頭をよぎった。これはいつかすでに見た光景で、もう一度それをなぞって体験している。つまり夢のようなものだ。ただ一つ夢にしては生々しいのは、自分という存在がまったくの他人のように感じられることだった。つまり自分ではない者の夢を見ている、だが浮かんでくる自分の名前は『宮田望』だった。
「宮田、どうしたんだね。そんなに顔色を悪くして」
長身の痩せた男が声をかけてきた。
「さんざんさがしたぞ、おれを盥回しにしやがって。いや、それが名前の由来だっけか?」宮田は愉快そうに言った。「盥屋……ひとつたのめるか」
盥屋は片方の眉をあげて、「もう仕事かい? 今月のノルマはとっくに果たしているだろう……」
「ああ、でもひと暴れしたい気分なんだ。いいか? 借りはかならず返す」
「かまわないよ」
「ところで、新入りに会ったか? ありゃ、なんだ」
「HFがどこからか捕まえて、教育しなおしたらしい。空っぽの男だが、そういう人間こそいざというとき役に立つ」
盥屋は口の端をゆがませた。
「組織の名前を軽々しく口にしていたぞ。それはまあいいとして、ヴェクサシオンがどうとか……たぶん、HFの考えだろ? HFはあの若造、『天才くん』にどこまで執心なんだ」
「天才くんか、いいえて妙だね。だって、執心するのも無理はない、息子のようなものじゃないか」
「息子じゃないだろう、どう考えても。ありゃまるで……」
「まあ私も信じられなかったさ。話を聞いたときはね。本当にそんなのがいるとは。でもその荒唐無稽さに惹かれて、われわれもここで活動しているんじゃないのかい?」
「違いない」宮田は小さく笑った。「おれはどこから、どうしてここに来たのか、忘れたよ。だけど、ここにいる理由はわかってる。暇つぶしにはなるからさ」
「少し待っていてくれ」
盥屋は奥の方へ歩いていき、しばらくして何かを手に持ち現れた。
「ほら」盥屋は宮田に革の袋を差し出した。「確認してくれ。汚い袋ですまない。やはり、桐の箱に入れて持ってくるべきだったかな?」冷たい笑み。
「仕事が早いな」宮田は冗談を流して、袋の中を見ながら言った。「本物なのか?」
「偽物を渡したことがあるかい? それが偽物だったとして、いちばん損をするのは私さ。花火を見られなくなるんだから」
「なんだか、あまりにもリアリティがないな。こんなにことがうまく運ぶとは」と宮田は呟いた。「もっとも、どこまで運ばれているかわからないが」
この世でもっとも憎いもの
それはすべてを運ぶもの
それはすべてを包むもの
偽りの時よ、はじけ飛べ
ダイナマイトでお仕置きだ
散らかるお前の残骸を
鴉じゃなくて、ドバトが啄む
「命は大切に使ってくれたまえ」
いつの、どこでだったか、HFが言っていた。
「わたしには君を生き返らせることはできない!」
「でも、あんたは何でもできるんじゃないのかい?」
「いや、いや! わたしにできることはわずかだ。わたしはもう、何者でもない……」と、ひとつ溜息。「そうだ、こんな話を聞いたことがあるかい?」
HFはおもむろに語り始めた。
「世は末世、繁栄を極めた人間は酒池肉林の限りを尽くした。
神々は愚かで信仰心なき人間たちに業を煮やし、ついに天上界から人間界へと攻め入った。
決着は早々についた。
地上は神のものとなった。
成人となった人間はみな神の従者となることを強いられた。
男どもはすべて神の地上での住居や食物をつくる奴隷となった。もっとも、美しい少年たちは別だったが。
女たちは二つの道を選ぶことを許された。すなわち神に祈りを捧げ続ける貞淑な聖職者の道と、神に快楽を提供し続ける淫蕩な娼婦の道とである。
つまり神は無限の信仰と快楽を求めた。人の創造者たる存在の本領発揮である。
そう、今や神には男しかいなかった。その中でも、愚かな神々しか。
女神はとっくの昔に神と人の争いに愛想をつかして外宇宙へ去ってしまった。賢明な神もまたどこかへ去った。
やがて男たちは物言わぬ人形と化すだろう。
やがて女たちは、何代もかけて、聖職者は精神の、娼婦は肉体の至高へと昇りつめ、それは神にも匹敵するだろう。そこから人間たちの復讐が静かに始まるだろう。」
「なんだ?……女は強いってことか? 聞いたことがあるかもな」
「人間たちのことはこの場合、どうでもいい。重要なのは、女神はみな愛想をつかして出て行ってしまったいうことだ、賢い神々も。ここには、愚かな神しか残っていない」
「あんたが愚かな神か」
「そうだ。私はひとり残された。いや、ここに残ることを選んだ。そして妻もいない身でひとり……あとは知っての通りだ」
「それももう終わろうとしているわけだな」
「だからわが子のために懸命にやっている」
「あいつがそれに答えなかったら?」
「宮田くん、それに盥屋くん、そして仲間たち……君たちはその時のために存在しているんだ。すべて私の考えたとおりにことは運ぶ」
《そうだ、HFの言っていたことってのは、こういうことだったのか! いま思い出した。いまわかった》
宮田はまだらに混濁した意識の中で、己の正体を知った気がした。しかしそれはどうしても知りえないことのはずだった。なぜ知りえたのか。謎はあるところでは謎であり、別のあるところでは謎ではない。謎で織られた文字の迷宮の生地は、コトバである。宮田は、あのいけ好かない若造……坊ちゃん……天才くんの顔を脳裏に浮かべた。あいつがまた、なにかやらかしたな。そしてそれはすぐに別の記憶と結びつき、宮田の頭はじょじょに明晰さをとりもどしていった。
「さて、さて、さて! やっとスッキリしたよ。謎が少しばかり解けたぞ。これから起こることもな。……なら、おれはどうする?」




