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ヴェクサシオン  作者: 杜若表六
第六章

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 夢から覚めても、まだ夢は続いていた。感覚でそれはわかった。もしくは、感覚がそう思わせた。あるいは、目覚めるべき現実など予めなかった。

 Aの目の前には、広い、荒涼とした大地がある。途方もなく大きな薄灰色の石、棺のような形をした石が確かな「物」の質量を持って荒れ果てた大地に自生していた。並びそびえ立つそれらは、点々と荒野に生え薄青い明かり――それがはたして太陽の光と呼べるのかはわからない――を受けて影なして在った。Aが試みに手を叩くと、ひびきは木霊して重なり合った。世界は眠っている。石石の群れは夜のように音を跳ね返し、やがて吸い消していくのだ。足元の草草をAは見た。雑草――名のない草草、しかしそれはいずれにせよ自分の頭の中の話だ――は少ない光を食みながら痩せてみずみずしく香っていた。腹が空けば、これらを摘み、噛み締め、苦しみを誤魔化すこともできるだろう。しかし、いずれにせよこの草草を名付けることはしなかった。棺のような石石の如く、やはり草草も彼の生命を吸い取ることで萌え出た夢の産物であるように思えたから。夢に名を付けるのは危ないことである。彼はかつてそうしすぎたのだ。世界が反転して別の可能性として走り始めた。覚めない夢、つまり現実から目覚めてしまい、眠る現実、つまり夢へと落ち込んだ。石は棺のようで、丸みを帯びてもいたが、全て彼の見方次第だった。あるいは人の形をしていてもおかしくはない。だがAはそれを人とは思わなかった。人と考えようとしても、馬鹿馬鹿しく感じてしまう。それは彼の内部にはっきりとした求める像が既にあるからだ。彼の内奥の網のようなものに、像はからまり残っていた。眠った現実の記憶、一人の人間の、かりそめの名をもった影をまだ宿している。

「Bを探さねば」

 そう言うや否や、Aは恍惚とした一つのヴィジョンに襲われた――それは戦場だった。全てが全てに挑みかかり、血を流しあっていた。つまりそれこそが夢と現実の境目に他ならなかった。その二つは、永久に終わらない干渉を続けていた。あらゆる「物」が、意味が、異なる形状で息づいていた。それぞれがそれぞれのその異なりようを許さず、絶えず否定しようとしていた。だが同時に新たな物と意味の混ざりあいをその干渉は引き起こしていた。

 声がする。

「私は恐るべき真実を発見した。我々が認識している世界というものは何か幻のようなものに過ぎず、かといって本当の世界というものもまた存在しないのだ。私は第一の真実よりも第二のそれを恐れる」

 Aにはその声がある老作家のものに聞こえた。彼はAに忘れることのできない経験を残したが、その声は今、Aに向けられたものではなく、虚空に寂しく嘆いているように感じられた。

「考えてみれば、どうして幻と幻でないものが同じ世界に存在できよう? 幻があるとすれば、我々もまた幻なのだ」

 そして声は弱まり、

「全ては靄のようなもの。空しいし、また空しい」

 Aは消え入りそうな声に試みた。

「知性に見えるものも、細かく見ればまったく知的なものではない。なんにせよ細かく、細かく見ていけばあなたのように全てが空しく思えましょう」

 声は応えた。

「はじめ、私は世界を細かく見た。そして空しさを発見し、それに対抗するため世界を大きく見た。そしてやはり空しさを感じたのだ」

「急がないでください。空想はすぐに原型をとどめなくなるもの。あなたは知りすぎた、と錯覚しているだけです」

「若者よ。ありがとう。だが異なる知識の質があるのであって、量が質の代わりをすることはあり得ないことを私は知っている。知りすぎたのではない、知っていることの意味が変わったのだ。突然、理由なく、銀行に預けた金がみな異国の通貨に変わってしまったかのように」

「それでも、相対的な価値は同じではありませんか」

「相対的な? 絶対も相対もない、意味の違いはほとんどない。どちらも在るなら、どちらもあり得ない」

 老作家の声は、石石の間を反響しつつ抜けていく木霊に過ぎない。叩いた手は左右どちらが鳴ったにせよ、Aに記憶との戯れを強いた。

「私たちは現に存在しています」

 Aは半分だけ嘘をついた。自分でも信じがたいことを言った。

「では、いまの戦場の幻は誰が見せた? 神か?」

「神が存在するのかはわかりませんが、恐らく超越的な何らかの要因で私が閃いたのだと思います」

「物と意味が固定されると、そこに低次の価値が生まれる。神はその最たるものだ。神を考えるとしたら、それは常に流動する力の元ではないかな」

「そうですね」

「では神は絶対にとらまえられず、同時に相対的な存在であることになる」

 はい、とAは言って、寒気を感じた。

「それは物と意味を越えて、価値すらないものだ。同じように、世界は幻であり、空しい。私は真実に気づいた」

「あなたこそ、物と意味を固定しています。神がとらまえられないのなら、世界も空しいというのは、固定された低次の考えです。それなら、世界は空しくはなく、それゆえ神はとらまえられない、という言い方もできましょう」

 声は笑った。

「君はそれを確かめに行くのだね、あの男に会う旅へ」

「そうです。私はBに会いに行く」

「よろしい。だが必ず、君はこういう結論に達する、すなわち『私は夢から覚めるべきだ』と」

「それは、私が死を試みるということでしょうか?」

 声はすでにやんでおり、あたりは静寂につつまれていた。Aはもう一度手を叩いたが、響きは空しく反響して、そびえ立つ石石や大地に繁る草草に吸われ消えていった。

「私は旅の終わりに、死を試みることになるのだろうか?」

 Aは心に問うてみた。心ははりつめた水面のように問いを反映し、幾重にも同心円上の波を立たせたが、やがてそれも遠く水平線上に消えていき、戻り来る答えはなかった。

 点々と並び立つ石石の表面に刻まれた文字や絵図に気づき、また草草が多く繁り道になっていることを発見し、Aは道すがらの石を眺めながらBに会いに行くことを決めた。


「私はなぜあんなことを言ってしまったのだろうか?」Aは歩きながら考えていた。「なぜ、しばしば何の意味もないことを考えてしまうのだろう?」

 だが、ほんの少し前まで自分がなにを考えていたのかすら、彼は思い出せないのだった。印象に残っているのは思考のざわざわとした感触、それは時に無上の栄光の感触と言い知れない不安の感触とを同時に内包していた。つまり彼は夢みるように考えていたのである。

「夢のように考えない人間が存在するのだろうか」彼にはそれが疑問だった。「現実的な・まっとうな意見を述べる人々は、夢と現実を区別している。夢と現実を区別するのは、当然の義務だという。そしてその根拠の一つに、夢と現実の記憶の強度をもちだすのだ。つまりよく覚えている方が現実で、よく思い出せないのが夢だと! なるほど確かに素朴な実感に即した、比較的反論の少なそうな意見だ。だがこうも考えられるだろう――我々は現実の記憶を忘れることと、夢の記憶を覚えておくこと、この二つを怠っているだけなのではないかと。だからこうもこういえまいか――実際には、そこに二種類以上の夢があるだけであり、現状として、人間はいまだ現実めいた厄介な夢の一つから目覚めていないだけなのではないかと。吸着力の強い夢、とでも呼ぼうか――観ている者を誑かし、そこから離さない一つの夢――そこに我々は寝起きしているというわけだ」

 どこからか、やさしげな歌が聞こえてきた。竪琴の調べにのった、澄んだ中性的な歌声だった。何らかの言語によって歌われているとみえたが、Aにはその詩の意味は解らなかった。

「それにしても、今の私に残るのは、後悔だけだ」彼は歌にさして興味を示すこともなく考え続けた。「あの歌のように意味のない、意味も解らない小言をぶつぶつと呟いているだけだ! そこらに転がっている石、彼らの方が黙っているぶんだけたちが良い。少なくとも、その呟きは私には聞こえない。私は読書が好きだった。書物が好きだった。まだ自分が空っぽだったころ。書物はなにも語らず、私の耳にはなにも聞こえなかった。だが言葉ではないものが、私の中に生まれ活動した! 私はそんな静かな時間を愛した。もっとも幸福な時間だった。しかしそれも永くは続かなかった。私の内部に誰か滔々と語りだすものが生まれた。やせた批判者。言うまでもない、大人びた私の自我めいたものだ。なにかを読むたび、なにかを語りだす。それは書物ではなく、私だった。私に聞こえるようにそれは話す。それからは読書も苦痛になり、大嫌いになってしまった。やせた批判者! 忌々しい、縊り殺したいやつ。だがそうすることは今の私にはできない。そう、まさにこの語っている私こそがそいつだからだ。書物が、読書が私をつくったのか? それはわからない。だが私が生まれて、書物の声が聞こえるようになったとき――真実をいえばそれは私のおしゃべりに過ぎない――私はあの静かな時間を恐れるようになった。私自身が滔々と語りだすから」

 歌声は進む先の一つの石から聞こえてくるのだった。そしてそれは甘美な歌声だった。Aはそれに気づき、顔をしかめた。

「石すらもここでは歌うのか! 石が黙っているぶんだけ、現実の方がましかもしれない」だがすぐに考えた、「いや、そうではない。ここではすべてが静かだから、石の声も聞こえてくるのだ。そして、ここでいちばんうるさいのは間違いなく私だ」

 Aは先ほどまで考えていたことを思い出そうとした。「思い出すことだ。さっきまでの思考が夢と等価なら、それを思い出すことは夢と現実を(なら)して等価にすることにつながるのではないか?」彼はこの考えにいたり、試みることにした。しかしなにも思い出せなかった。確かになにか考えてはいた。かつて誰かと対話していたような気さえした。それも今や無に帰した。「なにがいけないのだろうか。思考の強度が足りないのだろうか? それともその質が? だがこの持続力のなさはいったい……?」

 ここで石から聞こえる歌声が彼の記憶をあやふやなものにせしめる魔術的な効果をもっていたならば、この挿話もさぞ物語としての豊かさを帯びよう。だがそういうったことはここでは起こっていなかった。その証拠に、なにかの拍子で歌声が消えても、彼は決して思考の綾をとりもどせず、かといって歌声がまた聞こえるようになっても、彼がますます忘れっぽくなるというようなことはなかったのである。Aが探し求めていたのは、決して彼の外にはなく、彼の内にあった。だから、彼は周りの風景にかつて得た感覚をあてはめようなどとは思わなかった。実際に、彼はこのような場所を夢見たことさえなかった。世界のすべてが息吹さえせず、静寂に包まれ、ある種の安らぎを得ていた。彼がよくよく歌声に耳を傾けると、それはまるで風のようなものだった。つまり存在してはいるものの、意味をもたず、ただとおりすぎていくものである。言語のようだと思っていた詩は、ただの複雑なざわめきに過ぎなかった。それは彼の内に鳴っていたかつての呟きの反映だった。

「やせた批判者! お前もいずれ憩うだろう、どこか山の頂で」とAは小さく叫んだ。

 彼はもはや歌わなくなった石の前に来た。そこには「夜の歌」という言葉が刻まれていた。

「そうか! 必要ないのだ、こんな試みは」彼は不意にひらめいた。「夢を思い出そうとするなら、現実を忘れることも同時にしなければならない。そうしなければ、夢と現実の位置が入れ替わるだけで、けっきょくは意味のない試みだ。そして、私の内なるやせた批判者すら、仮定されたかつての『白紙としての自我』の対立物にほかならないのだ。これらの対立は、試みにその調停を計ってもついには位相を逆転させるだけであって、この世界の実相、関係そのものを明らかにすることはできない点において、何らの違いは無いのだ。ということは、この石はもとから歌っていなかったということになる。そしてある意味では、つねに歌い続けているのだ」

 Aはいつの間にか小高い丘に立っていることに気づいた。あたりが一望できたが、注目すべきなにものも見当たらなかった。「ここが憩うべき場所なのだろうか? いや、そうではないのだろう。まだまだ歩ける……」彼は静かに呟いて、小さな丘を下りはじめた。

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